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カテゴリー: 社会

ラーメン・うどん・そば店の教科書

カテゴリー:社会

著者   藤井 薫 、 出版   秀和システム
 不況でも繁盛する麺類の店の秘訣が図解されている楽しい本です。
 著者は私と同世代。もともとは飛行機などの設計をしていた人です。それが、讃岐うどんの本場を地元としていたため麺の機械づくりに従事するようになり、そのうちに麺の販売さらには麺類の店を展開し、学校まで開設するに至りました。
 麺ビジネスに一生懸命やれるか、熱い情熱をかけられるか、それがカギだ。
 なるほど、情熱が一番なのですね。
短期間でプロになり、その後もずっと進化し続けて、プロであり続けることが重要だ。プロであり続けることは、日々進化し続ける努力が必要なことを覚悟しなければならない。
 なーるほど、私も若手弁護士に対して、口を酸っぱくしてプロを目ざせ、中途半端な仕事をするなと言い続けています。
 うどんとラーメンとでは、小麦粉に求められる品質が異なる。うどんは、たんぱく質含有量が8~9%の中力粉が適している。ラーメン用の小麦粉に比べると硬さは低く、でんぷんの粘り強い小麦粉が必要だ。国内産で粘り強いもの、オーストラリアのASWという品種の小麦粉がお勧め。北米でとれる小麦粉はうどん用には適さない。
 ラーメン用は、うどん用よりたんぱく質含有量の高い小麦粉を使う。麺線が細いほど、たんぱく質含有率の高い(13~14%)準強力粉か強力粉を使う。11~12%の準強力粉を勧める。ただ、ラーメンも太い麺になるほど、うどんに近い、たんぱく質含有率8~9%の粘り強い小麦粉が必要になる。
 ふむふむ、こんな違いがあるのですね。知りませんでした。
毎年、1日10店が開業し、同じく10店が閉店する。閉店する店の多くは、開業して1年未満の新店である。
 たしかに、私の知る国道沿いのうどん店もオープンして1年あまりで閉店してしまい、ついに私は店に立ち寄る機会がないままでした。
 繁盛している店ほど、食べ物を売っていない。夜に繁盛している店のほとんどは、昼も大変繁盛している。繁盛している店ほど、メニュー数は少ない。
お店にとって、同じようなライフスタイルをもった人たちが同じ店の中にいるほうが、よほど心地よい。
外食の飲食店は、「非日常空間」が演出できることが重要だ。いくらきれいでも、普通の民家のような造りになってしまってはいけない。
手造り感を出すのも一つの方法だ。きれいで整っている店より、下手な大工が作ったような手造り感のある店の方が、味があって評価されやすい。
 夜の営業では、店の外壁の照明が明るいことも重要だ。店の外壁が暗いと、営業していないように見えてしまう。
最近の客は相席を嫌がる人が多いので、ラーメン店ではカウンター9席、うどん・そば店ではカウンター席18席がもっとも効率良い。
カウンター9席しかないラーメン店が厨房内の2人で1時間に5回転、10時間営業で450人の客をさばいている。
 とても実践的な本です。もちろん、麺類の店にはお客として行くだけの私ですが、とても分かりやすく、プロ志向の弁護士である私にも勉強になりました。
(2011年12月刊。1400円+税)

いま開国の時、ニッポンの教育

カテゴリー:社会

著者  尾木 直樹 ・ リヒテルズ直子、 出版  ほんの木
 2008年11月の対談が本になっています。オランダの教育の日本は学ぶところが大きいと感じました。
 日本の教育で一番問題なのは、政治がダイレクトに教育に口を出してくること。まことにそのとおりです。石原慎太郎にはじまり、今では橋下徹。どちらも、大量得票をバックとして偉そうなことを言って教育統制に乗り出しています。
 7・5・3現象といわれるものがある。小学生は7割しか学校の勉強についていけない。中学生は5割、高校生になると3割しか習う内容を理解していない。
 国はビジョンだけで示せばよくて、あとの実践は現場の創意工夫に任せるべきだ。
日本社会の全体が子どもの成長や発達について考えられないばかりか、若者を排除する社会的な虐待をしている。子どもは黙ってついてこい、従えという考え方がある。
 日本社会全体に、大人もふくめて他の人を「肯定」しようという態度が薄い。他者を肯定するつもりがなくて、自己肯定なんてありえない。幸福感が低いうえ、自立心も育てられないので、自分の感情を言葉で表現できない子どもが多い。
 今のヨーロッパの教育は、人間性の総合的な発達、多面的な能力のバランスのとれた発達を重視する方向に動いている。オランダでは、学校は、子どもたちが「学ぶことを学ぶ」ところだと考えられている。
 学力一本で測るのではなく、個の中の多様性をいかに引き出し伸ばすのかが重要。
 日本では学校の役割が、学力だけでラベリングし、格差をより差別化するための「選別工場」の役割を果たしている。
 今の日本では、校長の権限をいかに強化するかという管理強化だけに意識が向いている。命令に素直に従うように長年にわたって徐々に教育委員会が「仕立て上げた人材」である。民主主義を教えるはずの学校が、この自由主義社会において、今や完全に全体主義に陥ってしまっている。
 日本をダメにした、教育を破壊したのは日教組だと、見事に世論を操作してきた。叩くべき敵をつくって、一気に全体主義的な教育支配を貫徹しようとしてきた。
 今や教師は、がんじがらめ。生きのびさえすればと、教師は卑屈になっている。評価される項目ばかりに目が向き、子どもの方に目が向かない。あまりに締めつけているから、優秀な人材が教員になりたがらなくなっている。
 日本の教育をオランダとの比較で考え直してみる格好の材料となる本です。
(2009年5月刊。1600円+税)

みんな悩んで、教師になる!

カテゴリー:社会

著者   佐藤 博・山崎 隆夫 、 出版   かもがわ出版
 教育という仕事の喜びややりがいを奪うものが、今日の社会と学校にあふれ、教師たちを追いつめているのではないか。教師を生きることの困難は、若い教師たちだけの問題ではない。
 公立学校教師の病気休職者は、2009年度に8500人、その6割の5400人が精神性疾患による休職。この神経疾患による休職者は、1993年ころから2.5倍へと急増している。そして病気休職者全体の増加分のほとんどが、「精神性疾患による」休職者となっている。
ベテラン教師であっても生きづらい日々を重ねながら命を削るようにして毎日を送っている。私のよく知る同世代の教師も定年前に退職してしまいました。教師には喜びもあるけれど、無用かつ大変なストレスがかかっているのです。
 初任者研修が、助けあうものではなくなっている。お互いに足をひっぱりあい、批判しあうものになっている。自分の学級がいかにうまくいっているのかアピールする人がいて、自分が指導主事や教育委員会にいかに目立つことができるかを誇示する場になっている。
 管理職や指導教官による「不当な圧力」ともいえる「指導」があり、「対応のしかた」がある。これが新任教師を苦しめ、教師という仕事から夢を奪い、教師を続けることをためらわせている。そして、保護者からの「クレーム」の問題もある。
もっとも強く若い教師を苦しめているのは、失敗や試行錯誤を含めた一人ひとりの教師の、瑞々(みずみず)しい個性的な実践を暖かく見つめる視点がないこと、それらが支えられていないこと。あるいは、不十分ではあっても、さまざまな困難に打ち勝ちながら、子どもと友に成長していく教師への「しなやか」で「ゆるやか」で「人間的な」まなざしが、教育の現場や社会に欠けていること。
人間的完成を呼び覚まし励ましてくれるような会話の流れる関係や言葉が、職員室の中心にあったら、どれだけ若い教師を大きく励ましてくれることだろうか。
教師と子どもを競争で追い立て、支配し、学校を人間が育ち生きる場にしていない今日の状況を変えることがいま切実に求められている。
 いま、国家が全力をあげて教師を蔑んでいる。国が蔑んでいるものを国民が信用するはずがない。だから、うまくいくものもうまくいかない。そして、それをどんどん責め立てて追いつめていく。だから、誰がやってもうまくいかないようなシステムにされてしまっている。この構造そのものが、教師の直面する困難の基本にある。教師はいま、上・下・横・内から責め立てられている、上は教育委員会、校長、副校、主幹。下は肝心の子ども自身からの反抗で、なかなか言うことを聞いてもらえず、さまざまな問題行動が起こり、秩序が乱れて収まらない。そのため、今度は横から、つまり保護者から、いろいろな批判や苦情を言われる。信頼されない。連絡ノートにびっしり要求を書いてくる。「先生、辞めたら」とまで言われる。ついには職員室の内側まで競争にさらされ、同僚からも指導力を問われたり、非難されたり、陰口を言われたりする。
 教師を大いに励まし、横の連携を強めてもらってこそ、子どもたちは安心して教師と一緒に生活できるし、学びあいができます。今の日本の教育は、本当に心配な状況にありますよね。
(2012年3月刊。1500円+税)

核兵器と日米関係

カテゴリー:社会

著者   黒崎 輝 、 出版   有志舎
 日本の「非核」政策なるものの実質を追及した本です。主として1960年から1976年までの日米関係が対象となっています。
 非核三原則が「国是」として広く国民から支持され、日本の核武装を論じることは長くタブー視されてきた。ところが、このところそのタブーも過去のものとなった感がある。核武装すべきだと公言する国会議員が出てきたのです。そして、マスコミがそのままたれ流しします。
 北朝鮮の核兵器とミサイルの脅威に対抗するためには、日本も核兵器を持つべきだという声もかまびすしい。しかし、日本が核武装するかどうかを決めるとき、アメリカの意向は無視できないという認識が広く存在する。
 日本政府が「非核三原則」を掲げる一方、日米安全保障条約を日本の安全保障・防衛政策基軸と位置づけ、核の脅威に対してはアメリカが提供する核抑止力、いわゆる「核の傘」に日本の安全を依存してきたという厳然たる事実(認識?)がある。
 日本は1970年2月にNPTに署名し、1976年6月に同条約を批准した。これによって、日本は非核兵器政策を一方的に宣言するだけでなく、核兵器を製造・保有しない義務を国際社会に対して負うことになった。中国は1964年10月に最初の原爆実験を成功させた。これは日本の宇宙開発関係者にとって大きな衝撃だった。
1961年10月の国連総会において日本は西側諸国として唯一、核兵器使用禁止決議に賛成した。これは唯一の事例である。この決議は核兵器の使用は、国連憲章に反し、人類に対する犯罪であると宣言している。
1966年2月、日本政府は統一見解を発表した。
 「現在の国際情勢のもとにおいて米国の持っている核報復力が全面戦争の発生を抑止する極めて大きい要素をなしている。日本も、このような一般的な意味における核のカサの下にあることを否定することはできない」
 米国の核抑止力への依存政策は、日米安保条約により日本の安全を確保するという政府見解によって覆い隠され続けてきた。
 佐藤栄作首相が非核三原則を表明したのは1967年末のこと。
佐藤栄作首相は、当初、国会で非核の三原則を表明するつもりはなかった。当初の演説原稿には、「持ち込みも許さない」という言葉は入っていなかった。ところが、非核三原則の表明は、予想以上に大反響を呼び、やがて事態は佐藤の思いもよらない展開となった。
 1971年に起きた二度のニクソン・ショックは、日本の指導者たちを驚かし、米国に対して不信感を増強する原因となった。日本政府内では、米国離れの自立志向まで芽生えていた。
日本政府の「非核三原則」なるものが、いかに内実のないインチキのものであったかが明らかにされています。ところが、日本国民がそれを圧倒的に支持している以上、そこから日本政府は大きくはずれることも出来なかったのです。世の中の弁証法的帰結ということでしょうか。
250頁に歴史の内実がぎっしり詰まっていて、理解するのは容易ではありませんでした。
(2006年3月刊。4800円+税)

子どもの危機をどう見るか

カテゴリー:社会

著者   尾木 直樹 、 出版   岩波新書
 2000年8月が初版ですので、10年以上たっていますが、ここに書かれている内容は今もそのまま通用するのではないでしょうか。
 学級崩壊現象が1997年以来、一気に全国の小学校に広がりを見せ、現在もなお、教師たちを疲弊させている。
 全国の7~8%の学級で、学級崩壊現象が発生している。引き金となる子どもが主因ではなく、同調圧力(ビア・プレッシャー)を受けて、同じ行動に走るその他の子どもたちの行動こそが問題なのである。学級崩壊の発生プロセスには、
  ①引き金っ子の存在、 ②他の子どもの同調圧力の強さ、 ③崩壊期間の長さという三つの要素がある。
 子どもたちは、反抗したり、無視したり、みんなで担任をいじめることによって、自己の存在を確認している。
 学級崩壊は小学校に限定したほうがよい。それは、その最大の本質が、一人担任制による「学級王国」体制の揺らぎにあるということだから。
 学級崩壊とは、小学校での学級カプセルという名の密室での教育実践が限界に達している現象。
学級崩壊とは、個々の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがある。要するに、小学校低学年における今日の学級崩壊は、幼児教育から小学校の集団的生活化へのソフトランディングが上手にできず、つまづかせている現象である。精神主義的な服従に強い、日常的に圧力を加えているのが、今日の学校の姿だ。
外界の価値観が大きく変化している時代だけに、ここから生じる生徒たちへの内圧が異常に高まったとしても、不思議ではない。暴力行為やパニックを子どもたちが引き起こしたり不登校に陥るのも理解できる。
産業社会への「人材育成」装置としての学校の役割は終わったと考えたほうがよい。工場で労働者がベルトコンベアーの前に5分前に集合し、自分を押し殺して一致「団結」し、整然と作業に従事できる人材を養成するために、学校があるのではない。
いじめによる被害者は、40人学級として、小学校では一学級につき2人、中学校では1人は必ずいじめで苦しんでいる子どもがいるということになる。
 いじめられた子の半数の親しか、わが子のいじめの被害とその苦悩を知らなかった。いじめっ子といじめられっ子が交叉したり、逆転するケースも珍しくない。
いじめの克服に必要なことは、クラスの友人の動向にある。いじめ問題の解決のカギは大多数の傍観者が握っている。いじめられている子どもたちの願いは、この傍観者たちが機敏に動いてくれることにある。
いま(1999年)、不登校の子どもは、小・中あわせて13万人近い。1980年代に不登校の子どもが増えたのは、明らかに学校の抑圧度が強まったことに関係している。
学校は、暴力と管理で生徒を押さえ込んだ。学校での管理が強化されていくなかで、生徒は思春期に抱く葛藤を教師にぶつけたり、友達同士が慰めあう場面がつくりにくくなり、学校自分にとって居心地が悪く、安心できない場所となっていった。
今日の管理主義は、かつての強面(こわおもて)の管理方法とは様相を異にして、比喩的に言えば、優しくほほえみながら進行し、強化されている。
日本でいま急速に進んでいるのは、「子ども期」の喪失状況。これまでの「子ども期」が成り立たなくなったまま、かといって新たな関係性の模索もなされていないという、子どもにとって厳しい状況がある。
 思春期の中・高生は、発達段階の特徴として自立を求めるからこそ、親や大人のコントロールから脱しようと欲する。ただ、そうすればするほど、反対に一人になる不安感は増大していく。皮肉にも、誰かに依存したいという心理が大きくふくらむ。だから、友だちと同じものを持ったり、身につけて安心する。このような友だちへの同調圧力というものがある。
「子ども期」とは、独立した人格の主体である子どもが、本来の主催者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障と解すべきである。
とてもいい本だと思いました。
(2011年9月刊。800円+税)

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