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カテゴリー: 日本史(江戸)

武士の町、大坂

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  藪田 貫、    出版  中公新書
 
 オーストリアのお城で大坂図屏風が最近(2006年)になって発見されたというのも不思議な話です。この本でも、どうしてオーストリアまで渡ったのか不明だとされています。不思議な話ではありますが、なにはともあれ、1600年の関ヶ原合戦の前の大坂城の様子が描かれていますから大きな価値があります。
 大坂には、町人が35万人から40万人いて、武士は800人、人口の2%しかいなかった。
 下宿(したやど)とは、公事・訴訟のために、町人や村人が町奉行所などに出向くときの待機所のこと。公事・訴訟は、近世における民事・刑事双方の裁判訴訟をさす。公事(くじ)のうち、金銭の貸借にかかわるものは金(かね)公事として、それを専門に扱う「御金日」が設けられていた。
 文政13年(1830年)の10ヶ月の訴訟総数は7222口、うち「糾し」が358件(5%)、公事総数4592口、うち「糾し」が202件(4%)だった。
 大量の訴訟事件を2名の町奉行と、わずかの吟味与力の手で処理するのは不可能だった。そこで、訴訟は遅延し、内済(ないさい。和解)がまん延した。奉行は定期か不定期を問わず与力や同心への褒美を欠かさない。優れた与力や同心がいるかどうかは、町奉行の実務に直結し、ひいては功績に結びつく。
 久須美祐明は、73歳にして町奉行になった。わずか300俵の大坂町奉行も珍しければ、70歳をこえた奉行も空前絶後。もって生まれた身体強健・先祖以来の質実剛健の美質、それに加えて天保改革の追い風が73歳の久須美を大坂西町奉行にした。そして、この久須美は、75歳にして一子をもうけた。
 いやはや、すごい老人ですね。そして、この老人は、三度三度の食事を刻明に記録していたのです。当時の日本の日常的な食生活がよく分かる貴重な記録となっています。
 与力だった大塩平八郎についても、かなり詳しく紹介されています。大塩平八郎は、かなりの能吏であったようです。だからこそ、不正を許さず、庶民を助けようと義をもって決起したのでしょうね。
 商人の町・大坂とは違った角度から江戸時代の大坂を知ることができました。
 ちなみに今の、大阪はかつて大坂と書いていました。ですから誤記ではありません。
(2010年10月刊。780円+税)

絵が語る知らなかった江戸のくらし

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  本田 豊、  出版 遊子館
農山漁民の巻です。たくさんの絵があって丁寧に解説されていますので、江戸時代の農村、山村そして漁民の暮らしぶりが実によく分かります。
江戸時代は離婚率の高い社会だった。女性も男性も、結婚と離婚は何度か繰り返した、というのが本当の姿だった。
農薬が普及する前、稲作農家にとっての大敵はイナゴだった。鯨油を田んぼに流して幼虫のうちにイナゴを駆除する。また油を燃やして駆除する方法もあった。
農村では、意外に麦が作られていた。麦からは味噌が作れたし、麦は栄養価が高い。アワやヒエなどの穀物と一緒に食べると、かなり栄養価があった。
牛は農家の重要な労働力だったが、食肉でもあり、牛肉の美味は庶民も知っていた。江戸時代には、馬は5軒の農家で1頭は飼っていた。しかし、農民が馬に乗って走りまわることはなく、馬は大切に扱われていた。
全国の被差別部落のうち、皮革に関係していたところはごく少なく、圧倒的多数は農業を営んでいた。動物の解体をしていたのは、穢多や皮多といわれていた人たちだけではなく、農民もやっていた。農民と長吏や皮多は、お互いの権利を侵害しないように住み分けていた。
冬にはワラ布団に家族全員が入って寝ていた。
農家は野良仕事の合間にしっかり食べていた。そうしないと体力が持たないからだ。
江戸時代には、風呂というと行水のことだった。
上野国(群馬県)がカカア天下だというのは、養蚕が女性の仕事だったから。現金収入があり、女性は権利意識が強くなって、発言力も強かった。
ゴボウは漢方薬として日本に渡来した。ゴボウは便通を良くし、腸内でビタミンを生産する。ところが、ゴボウを食品として利用しているのは、世界でも日本くらいのようだ。
土人というのは地元の人という意で、明治になって差別的な考え方がついたが、江戸時代には差別語ではなかった。
旗本としての吉良家の財政は三河国で良質の塩田をもっていたことから、豊かだった。ところが、後発の赤穂藩で塩田経営に乗り出して成功したため、三河の吉良家の塩が売れなくなった。こうして浅野家と吉良家は対立を深めていった。吉良家では、浅野家の塩が売れないように妨害した。その恨みが、江戸城で刃傷沙汰になった。
 うひゃあ、忠臣蔵は塩の販売競争が原因だったんですか・・・。とても面白い本でした。
 
(2009年5月刊。1800円+税)

花ならば花咲かん

カテゴリー:日本史(江戸)

著者    中村 彰彦 、 出版   PHP研究者
 
 福島はフクシマとして世界的に有名になってしまいました。全部うれしいことではありませんが、この本を読むと会津藩の人々ってたいしたものだと感嘆させられます。
今は原発事故でまき散らされた放射能の被害で大変なわけですが、いずれフェニックス(不死鳥)のように、よみがえってくれることを大いに期待しています。それにしても、東京電力と原子力安全・保安院の杜撰さは絶対に許せません。「絶対安全」だなんて大嘘をよくもついていたものです。日本社会を目茶苦茶にしたのですから、取締役以上の責任者は懲戒解雇にすべきでしょう。退職金なんて支給したら許しませんよ。
会津清酒、会津人参、会津漆器、本郷焼といった地場産業の改良と振興が、すべて田中三郎兵衛という会津藩大老の発想から生まれたというのは珍しい例である。江戸時代中期、天明の大飢饉などに苦しみながらも会津藩を立て直し復興させていった、奉行、家老そして大老となる田中三郎兵衛玄宰(はるなか)の一生を見事に描き切った小説です。さすがは作家です。私は2日間、ずっとずっとこの本にかかりっきりで読みふけってしまいました。おかげで頭の中は、すっかり江戸模様、それも会津藩仕様になっていました。
会津藩家老、大老職にあること26年、寛政の改革を指導し、最大57万両に達していた借入金のうち50万両以上の返済に成功し、あまたの地場産業を興し、藩士の子孫教育のための日新館を軌道に乗せた。そして田中玄宰に対しては明治以降も各界で顕彰していった。うひゃあーっ、これってすごいことですよね。
明治31年、全国漆器・漆生産府県連合進会は賞状を授与した。
明治41年、東京帝国大学の山川健次郎総長はエッセイのなかで次のように書いた。
「玄宰は大胆で果断に富み、勇気あふれて、しかも一方にはきわめて細心、かつ用意周到であった。私は偉大な人物と言うをはばからない。会津の今日あるもまったくこの人のためで、もしこの人がなかったならば、会津はどうなっていたか分からない」
 大正4年、大正天皇は即位の大典のとき、玄宰を征五従に叙した。
 会津の酒造業者は、会津清酒のうちの最高品質の大吟醸酒を「玄宰」と命名した。そして、いま、会津若松市では「NPO法人はるなか」が活発に活動している。
 そのような人物を、その出生から死に至るまで、実に生き生きと描き出す作家の筆力に感嘆しながら、至福のひとときを過ごすことができました。私と同世代の著者ですが、これまでも『天保暴れ奉行』、『名君の碑』、『知恵伊豆に聞け』、『われに千里の思いあり』などを読み、感嘆・驚嘆してきましたが、また、ここに一つ増えました。
(2011年3月刊。1900円+税)

後水尾天皇

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  熊倉  功夫     、 出版  中公文庫   
 
 徳川家康に立てつきながら長生きした天皇(上皇)についての本です。ゴミズノオテンノウとゴミノオテンノウの二通りの読み方があります。この本は、宮内庁にならって、ゴミズノオとよびます。
 生まれたのは、秀吉時代。千利休の切腹は、「下克上の精神」を凍結するための冷酷な宣言だった。秀吉が利休に切腹を命じたのは秀吉の心に利休がつくった茶の湯を否定しようとする気持ちがあったから。秀吉にとって、利休の茶の湯は魅力と危険をふくんだ数寄(すき)であった。利休は、茶の湯において下克上の精神をつらぬこうとする。その自由なふるまいは、「天下人」として秀吉の立場からすると許容しがたいものであった。
 徳川家康は、公家と武家を分離し、武家の官位は朝廷とは別に幕府において定めることを禁裏へ申し入れた。当時、権力の座から離れた天皇への権限といっても、もはや実質的な意味をもつものではなかった。権威の象徴としての官名、位階、称号授与の権限と年号制定権が主たるものだった。
 1615年(元和元年)7月、徳川家康は、大阪夏の陣の直後、対朝廷政策の仕上げとして禁中ならびに公家中諸法度を発した。これは禁裏に対して法制を発布した画期的なものだった。公家方は政治介入を禁じられ、幕府の公家支配を明文化した。そして、そのなかで天皇のつとめは芸能であるとされた。そのなかでも、学問を第一とせよ、とされていた。
 和歌の道こそ、天皇のもっともたしなむべき道である。天皇のつとめとしての芸能とは、現在の芸能とかいうのとは根本的に違っていると言えた。芸能とは、教養として心得ておくべき知識の総体をさす言葉である。天皇が文化面での最高権威であり、文化そのものの体現者である。そして、後水尾天皇こそ、歴代の天皇のなかで、この禁中ならびに公家中諸法度の規定をもっともよく体現した天皇であった。
 徳川家康の願いは、武家の娘が皇后となり、その皇子が天皇となって外戚の地位につくというものだった。徳川氏の女を入内(じゅだい)させるのは家康の悲願だった。
後水尾天皇の二条城行幸は記念すべきものだった。将軍私邸への行幸は、このあと江戸時代を通じて、ついに行われることがなかった。次に天皇が禁中を出たのは江戸幕府が崩壊したときだった。中世以来、幕府が天皇の権威を行幸というかたちで受けとめ、支配のテコとするパターンは、この後水尾天皇の行幸をもって終わった。それ以後、幕府は天皇の権威を必要としないほどの強大な権力をつくりあげていく。
行幸は、天皇の権威を広めるよりも、幕府への権力を誇示するところに目的があった。目を驚かす玉座など諸々の装束の金銀のデザインは、文字どおり黄金の世の現出を象徴するものだった。天皇の膳具はすべて黄金で彩られた。
 この寛永行幸をとおして、人々は、新しい時代の見事さ、そして、その頂点にある幕府の重さを思い知ったのだ。
 天皇は、鍼や灸のような身体を傷つける治療を受けることは古来できないことになっていた。後水尾天皇に腫れ物があっても、在位中は治療を受けられない。だから灸治を施すためには譲位させざるをえない。しかし、実は、まれに天皇に灸治が許される先例はあった。そこで、譲位やむないというのが公家衆の大勢だった。ただ、女帝への譲位は幕府は歓迎しなかった。当然のことながら、女帝は一代でその血統が絶える。徳川氏の血が皇統に入らない。
家光の乳母である江戸の局(つぼね、お福)を天皇に面会をさせようとした。このため天皇は不快だった。朝儀復興という天皇の念願が無位無官の女性の参内によって破られることになるからだ。結局、面会できたこの女性は、後に春日の局と称した。
 江戸時代の中期以降、朝廷から諸方面への貸付金は巨額にのぼり、その利子収入は朝廷の重要な収入源となっていた。
後水尾天皇は譲位したあと歌の道に精進した。2千首の歌が伝わっている。83歳で亡くなるまで、後水尾院は37人にのぼる子どもの父親となった。
学問と花を愛した天皇(上皇)の様子がうかがえる本です。ただ、冒頭に石田三成が家康の邸へ逃げ込んだと記述されていますが、これは現在では否定されていると思います。それというのも、この本は1982年に刊行されたものの復刊ですので、仕方ないことでしょう。江戸時代初期の天皇の実態が分かる本として紹介します。
(2010年10月刊。933円+税)

江戸のエロスは血の香り

カテゴリー:日本史(江戸)

著者: 氏家 幹人、  出版: 朝日新聞出版 
 
巻末に主な参考文献・引用史料がたくさん紹介されています。これを見ると、江戸時代について書かれた本を相当よんだつもりになっている私ですが、学者に比べると赤子のようなものです。ちっとも読んでいません。だいいち、原典にあたっていないところが致命的な相違点です。
江戸時代、長崎に滞在していたある中国人は、日本人について、礼儀正しいが貞操を守らないと評した(『甲子夜話』)。江戸時代から今日に至るまで、日本人は老若男女の別なくかなりエッチなのである。
 江戸時代、武士の妻が貞節だったというのは幻想でしかない。文政7年(1824年)、吉原遊郭が炎上し、仮宅での営業が許された。すると、この仮宅を訪れた見物人の8割は女性で、しかも武家屋敷の女性が多かった。
 江戸時代の性の倫理は、過酷な刑が定められた一方で、思いのほか緩やかだった。泰平の世が続くにつれ、その傾向はさらに顕著になった。妻の不倫が発覚しても、処刑や流血沙汰に至るケースは稀になり、通常は間男(不倫相手)から寝取られた亭主に「首代」(くびだい)と呼ばれるお金が支払われて示談が成立した。「首代」は7両2分とされたが、大阪では5両。間男が貧しければ、さらに小さい額で示談が成立し、なかには夫が妻の髪を切るだけで事済みになった例もある。
 不義密通は武士の世界でも庶民の世界でも、日常茶飯化していた。皇族の男女だって駆け落ちしたくらいなので、大名や旗本の妻女駆け落ちも稀ではなかった。
 幕府や藩の役人は心中事件の処理に手心を加えていた。幕府自身が心中未遂で死にそこなった男女の扱いについて、幕府の定めた法を曲げるように勧めていた。心中未遂で晒し者となり非人の配下になっても、親族が非人頭にお金を払って身柄を引き取って、なんのことはない、二人はめでたく結ばれることがあった。そんな魂胆から、狂言心中を企む男女も少なくはなかった。うひゃあ、ここまでくると、驚きですね・・・。
 「茶呑男」という言葉を初めて知りました。正式な夫は持たないが、熟年の性欲を適度に満たしてくれる男友だちのこと。お一人様の老後を、「茶呑男」をこしらえて乗り切ろうという小金もちの女隠居がいた。
 江戸時代の本を読むと、現代の性風俗かと思うばかりです。日本人って、本当に変わらないのですね・・・・。
 
(2010年11月刊。1500円+税)

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