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カテゴリー: 日本史(江戸)

幻日

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  市川 森一    、 出版   講談社   
 島原の乱について、またまた読ませる小説の登場です。先に紹介しました『出星前夜』(小学館)も読ませましたが、今回もなかなかの力作でした。さすがは天下に名高い脚本家だけあります。
 島原と天草は、旧領主の有馬晴信と小西行長がキリシタン大名だった影響もあって、キリシタン信徒の多い地域だった。そこで公布された禁教の触れは、逆にキリシタン信徒の結束をうながした。為政者が改宗させるために試みる残忍な拷問の数々も、かえって邪宗の門徒を増やしていくという不思議な現象を生んだ。
 キリシタンにとって、信仰のための死はパライソ(天国)の狭き門をくぐる免罪符にほかならない。一揆軍の指揮者たちは、戦闘を指揮する評定衆と、信仰生活の指導にあたる談合衆に分かれている。
 高来郡の口之津からキリシタンの布教活動を開始したイエズス会は、ポルトガル語で「コンフラリア」という信徒組織を導入した。その仕組みは、村々のキリシタン信徒が男50人に女子どもを加えた単位を一つの小組として、その小組が10組で大組となる集団をつくり、その大組の長を組親と称し、ほとんどは看坊が組親を兼ねた。
 看坊(かんぼう)は、信徒の懺悔(ざんげ)の聞き役とし、「水方」(みずかた)は洗礼を授ける役。教え方はキリシタンの教理を伝授する役を務めた。
 コンフラリアは、浄土真宗の「講」の仕組みと共通するところも多く、日本人信徒に無理なく受け入れられた。
 幕府・支配層はキリシタン摘発に躍起となったが、その先頭にたつ庄屋層がキリシタンの元締めの看坊であり、コンフラリアの組親だったから、これでは盗賊に夜警を命じるようなものだった。
 庄屋たちは、代官所には「わが村には、もはや一人のキリシタンもおりません」と何年も偽りの報告をしていた。そして、島原半島のキリシタン組織は、強靭な団結の根を芋づるのように地底に張りめぐらしていた。
 島原一揆勢も天草一揆勢も、背後に、有馬勢には有馬家の遺臣団が、天草勢には小西家の遺臣団が、それぞれ参謀格でついていた。
 ローマのイエズス会本部は、慶長2年(1597年)4月、ヴァリニャーノ宛に在日イエズス会宣教師たちの日本での軍事介入を厳禁する指令を公布していた。
 交易商人とポルトガル船長はポルトガル対日本の全面戦争を目論んでいた。ローマから帰国した4人の遣欧使節のうち、3人は司祭に叙任され、千々岩ミゲルだけが棄教して俗界に戻った。このドン・ミゲルこと千々岩清左衛門こそ、天草四郎の実父である。四郎の母親は、イザベルといって、ポルトガルのリスボアから流れてきた、船乗り相手の娼婦だった。天草四郎は、慈悲屋(枚貧施設)の施設で育てられた。つまり、背教者ミゲルが異国の娼婦に生ませた罪の子を、天命をかけた大反乱の棟梁に担ぎあげているというわけだ。
 4人の遣欧使節のうち、伊東マンショは、長崎の教会で司祭に叙任された直後に病死した。39歳だった。
 原マルチノは、慶長19年のキリシタン大追放令で、マカオに追放され、その地で60歳の生涯を閉じた。
 千々岩ミゲルは棄却したあと、ひっそりと63歳のときに長崎の貧民窟で息絶えた。
 ローマに渡った少年たちのなかで、中浦ジュリアンだけが64歳まで生きのびて、殉教した。
原城の籠城者は122万7千人ほど。およそ1万人が決戦前後に原城を脱出した。
 一揆鎮圧の戦費は、40万両、ざっと600億円、1日に7億5千万円も消耗した。
 その結果として、松倉藩は改易され、松倉勝家は斬首の末路をたどった。寺沢賢高は発狂して悶死し、この両家は断絶した。
 原城跡にもう一度行ってみたくなりました。
(2011年6月刊。1700円+税)

柿のへた

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   梶 よう子 、 出版   集英社
 うむむ、読ませます。よく出来た青春時代小説です。オビには次のように書かれていますが、そのとおりです。
「楽しく、愛しくて、もっと読みたい」
 綽名(あだな)は、水草どの。水上草介はのんびりや。小石川御薬園につとめる同心の水上草介が主人公です。
 小石川御薬園は、薬草栽培と、御城でまかなう生薬の精製をし、サツマイモ(甘藷)や御種人参の試作なども行ってきた幕府の施設だ。ヘチマ水を大奥へ献上もしている。4万5千坪の御薬園に450種類もの草木が植えられている。
水上家は、代々、薬園勤め。草介も、幼いころから本草学(ほんぞうがく)をみっちり学んできた。本草は主として薬効のある動植鉱物を採取し、研究する学問だが、博物学的な要素も強い。
 草介には、御薬園の仕事が一番、性に合っている。植物は草介をせかすこともなく、手をかけてやれば、きちんと応えてくれる。まさに、水を得た水草のごとく、日々お役に励んでいる。まる一日、植物の葉を眺めていてもまったく飽きがこない。
 小石川養生所は百名ほどの入所者を抱えている。そして、そこに17歳の干歳が登場する。若衆髷を結い、袴姿で剣術道場に通うお転婆だ。
 豊富な漢方薬の知識をもとに話が展開していきます。私も庭でいくつか草花を育てていますので、このような舞台設定には心が惹かれます。ずんずん話のなかに引きずりこまれ、胸のうちがほわっと、ほんわかするなかで、いつの間にか読了してしまい、残念な思いのうちに頁を閉じました。
(2011年10月刊。1600円+税)

「蛮社の獄」のすべて

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   田中 弘之 、 出版   吉川弘文館
 天保10年(1839年)5月に起きた「蛮社の獄」はシーボルト事件とともに、いわゆる蘭学者弾圧事件として名高い。前年に起きたモリソン号来航事件をきっかけとして、江戸の蘭学者である高野長英は永牢の判決を受け、のちに脱獄中に死亡した。渡辺崋山は自決した。このほか、僧侶と町人たち4人が取調中に拷問を受けて死亡した。この「蛮社の獄」は事件当時は話題となったものの、その後はしばらく忘れられていて、45年後の明治17年に自由民権運動の論客によって本が書かれたあと話題となった。
 オランダ通詞の本木庄左衛門は、鎖国という排外的閉鎖政策を批判した。
 松平定信が百姓一揆とともに警戒した「おそるべき蛮夷」そして「外国、遠く候ても油断いたすまじきこと」という戒めは、天保の老中・水野忠邦、目付の鳥居耀蔵にも共通していたようだ。「蛮夷」に対する恐れと、「国民」に対する警戒が「蛮社の獄」で崋山が町民たちを「国外脱出」「異国人との応接」という無実の罪を着せてまで断罪するに至った。
 鳥居耀蔵は林家の三男であったところ旗本の名家である鳥居家に養子となって入り、目覚ましい出世を遂げた。目付に登用され、町奉行、勘定奉行という幕府の要職を歴任した。由緒ある旗本の鳥居家の当主としての誇りと使命感が、徳川幕府への異常なまでの忠誠心となって彼の行動を律したと考えられる。
 「蛮社の獄」の首謀者といわれる目付の鳥居耀蔵は天保の改革でも庶民の恨みを買ったため、当時からその悪人ぶりを語るエピソードは枚挙にいとまがないほどだった。鳥居耀蔵は「蛮社の獄」の6年後(1845年)、家禄を没収されたうえ、終身禁固として讃岐の丸亀藩に預けられ、幽因23年に及んだ。73歳で明治を迎えたあと、ようやく釈放された。
 渡辺崋山は鎖国の撤廃を求める開国論者であった。それを知らない江川太郎左衛門は親交を結んだ。この二人は同床異夢の関係にあった。
 崋山は、鎖国海防を批判し、強力な西洋艦隊の前では、わが国の海防強化は無意味だとほのめかしていた。「蛮社の獄」の「蛮社」とは「尚歯会」を指すが、この「尚歯会」それ自体は「蛮社の獄」で追及・弾圧はされていない。
 渡辺崋山について、鳥居耀蔵は、すでに前からスパイをつかって身辺を探っていた。
 北町奉行の大草安房守は、崋山を標的とした鳥居耀蔵の奸計を退けた。
 天保のころの江戸幕府のなか決して一枚岩というものではなかったことを知りました。
 そして、「蛮社の獄」というより「無人島の獄」と呼ぶべきだろうと著者は提唱しています。なるほどと思いました。
(2011年7月刊。3800円+税)

天網恢々

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  林 望    、 出版   光文社
 リンボー先生の小説を読むのは、『薩摩スチューデント、西へ』に次いで、これが2冊目です。もちろん、エッセイ集はいくつも読んでいます。私とほとんど同世代のわけですが、エッセイだけでなく、こうやって小説まで立派に書きあげるとは、まことにうらやましい限りです。
 ときは江戸。主人公は江戸町奉行という重職にある根岸肥前守鎮衛(やすもり)。江戸市中に起きる、さまざまな出来事、そして風説を書きつけていったことで史上有名な人物です。
 そして、この鎮衛、150俵扶持(ぶち)の三男から、とんとん拍子に出世していきます。佐渡奉行からついには江戸の南町奉行にまで昇進した。当代きっての出頭人(しゅっとうにん)である。諸国の珍説綺談を話す人々が寄り集まってきて、それを楽しく聞いて記録した。大耳の持ち主から、耳の九郎左衛門、つづめて耳九郎(みみくろう)の旦那と呼ばれて親しまれていた。
 不義密通から主人を毒殺しようとする番頭。中間奉公の身で100両を手にしたときふと魔がさして持ち逃げを考えたが思いとどまったところ、その100両がすりとられてしまった話・・・・。
 落語の世界、人情話を聞かされている気分になって、ついつい作中のワールドに引きずりこまれてしまいました。うん、うまい。リンボー先生に座布団5枚。
(2011年8月刊。1600円+税)

雨森芳洲

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   上田 政昭 、 出版   ミネルヴァ書房
 日本人に、こんな偉大な人がいるのを知ると、うれしくなります。福岡にも雨森芳洲の子孫がおられます。消費者センターで活躍しているということで、一度ご挨拶したことがあります。
 文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)について、芳洲は次のように厳しく批判しました。
 秀吉は大義名分のない戦争(無名之師)を起し、両国の無数の人民を殺害した。このような暴悪は許されない。そんな批判です。さすがですね。
 そして、朝鮮の人々と「誠信の交(まじわり)」をするべきだと提唱しました。互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることをすすめたのです。
 朝鮮外交の心がまえを書いた『交隣堤醒』を芳洲が書きあげたのは享保13年(1726年)のことでした。
 芳洲について、新井白石はライバル視していたそうです。
豊臣秀吉の朝鮮侵略を雨森芳洲より先に批判した儒学者に見原益軒がいる。驕(きょう)兵・貪(どん)兵・忿(ふん)兵という表現をつかって批判した。
また、津軽藩の重臣(乳井貢)も、太閣は異国に押し入り、人の妻子家僕を暴殺して、わがものとした。大小は異なっても実は盗賊の業(わざ)なり、と言い切っている。
1607年に始まる朝鮮通信使の来日を日本への朝貢使ととらえるのは、まったくの間違い。朝鮮通信使の来日は、壬辰・丁酉の倭乱の戦後処理として始まった。現実に通信使は日本に連行されていた人々1390人もの人々を本国(朝鮮)に連れ帰った。
 第二に、江戸時代といえば「鎖国」と思われているが、これも史実に反する。実際にはオランダや中国(清)とは交易があり、朝鮮や琉球との間では、通商ばかりでなく、外交関係もくり広げられていた。
江戸時代というと「鎖国」というイメージが強すぎますよね。かなり外国に開放されていて、交易していたのですね。偉大な人物の存在を知ることのできる本です。
(2011年4月刊。2500円+税)

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