法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

せき越えぬ

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 西條 奈加 、 出版  新潮社
東海道は箱根の関をめぐる人情話です。ころは文政の時期。シーボルトが時代背景として登場してきます。そうです、蘭学に目を向ける人々もいた時代です。
私は、この本を読みながら山田洋次監督による時代劇『たそがれ清兵衛』に出てくる下級武士のつつましい暮らしぶりの情景を思い出しました。
主人公は武士といっても、わずか四人扶持でしかない武藤家の跡取りです。勉学よりも行動力で世の中をまっすぐ渡ろうという正義感があります。
主人公が少年時代に通った道場では、出自や家柄はまったく斟酌(しんしゃく)されず、平等に扱われた。この道場には町人の子も参加していたことになっています。果たして本当にそんな「平等」優先の道場が江戸時代にあったのでしょうか…・。
また、主人公の親友は、蘭学を教えてくれる塾に通っていたということになっています。そして、それが周囲の圧力から閉鎖されたというのです。
これまた、本当にあった話なのだろうか、と疑問を感じました。
恐らく、どちらも本当のことなのでしょう。身分制度が固定していたと言われている江戸時代でも、お金をもつ町人が大金を出して武士になれていたようです。やはり、お金の力は偉大なのですね…。
関所の役割、関所破りの実態、そもそも江戸時代の旅行というのは、どんなものだったのか…。関所破りは、どれほどあっていたのか、失敗して処刑されたという人はどれほどいたのか…、いろいろ知りたくなります。
それにしても、じっくり読ませるストーリーでした。いろんな伏線がどんどんつながっていくのには、小気味の良さも感じられます。江戸情緒たっぷりの良質の時代劇映画をみている気分で、最後まで一気に読みすすめることができました。
(2019年11月刊。1500円+税)

奇妙な瓦版の世界

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版 青幻舎
瓦版(かわらばん)とは、江戸時代に大変な人気を博していたマスメディア。明治に入ってからも20年以上は存続していた。ただし、もっとも勢いのあったのは、江戸時代の中期から末期にかけてのこと。
和紙に記事と絵が摺(す)られていた木版画で、簡易な新聞のようなもの。
江戸時代には瓦版とは呼ばれず、読売(よみうり)、一枚摺(いちまいずり)、絵草子などと呼ばれていた。
瓦版は基本的に違法出版物であり、幕府は瓦版によって庶民に情報が流通することに危機感をもち、早くも1684年(貞享元年)には瓦版の禁令を出している。それでも、瓦版は庶民のなかでしぶとく生き続けた。
瓦版は店舗販売ではなく、町中で読売という売子が売っていた。売子は深い編笠で顔を隠して売っていた。瓦版は墨摺1枚4文、100円ほどで、多色摺だと倍以上した。
瓦版は商売のため、もうかるためのもので、作成者に社会的使命はなかった。
黒船に関する瓦版の絵は大変迫力がありますが、これは長崎版画のオランダ船図を模倣したものという解説に、なるほどそうだろうなと納得しました。単なる遠くからの目撃で、これほど細密に黒船を描けるとは、とうてい思われません。
九隻の黒船について、八隻が瓦版で紹介されていますが、船や乗組員の名前に正解に近いものが多い。例えば、船名のレキスンタンはレシントン、ホウハワタンはポーハタン。通訳のホツテメンは、ポートマン、五番船の大将「フカナン」はブキャナンなど…。
ペリー一行に対して日本の高級料亭として名高い「百川」(ももがわ)の料理を提供した。その費用は1500両(今の1億5千万円)。ただ、魚介類中心の料理だったので、ペリーたちの評価はあまり高くなかった。瓦版は、その食事風景を描いています。当時の庶民の好奇心を満たしたことでしょう。
幕末には写真が登場しますが、その前には絵しかなかったわけですので、瓦版の絵とそれを紹介する文章は大変貴重なものだと思います。楽しく眺めることのできる瓦版の世界でした。
(2019年12月刊。2500円+税)

隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 山岸 昭 、 出版  人文書院
日本での布教に生涯を捧げたポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・デ・アルメイダは、実は隠れユダヤ教徒「マラーノ」の家系に属していた。知りませんでした…。
アルメイダは1525年にリスボンに生まれたユダヤ人、しかも1496年にユダヤ人追放令が公布されたあと、祖国ポルトガルに生き続けることを選んだ改宗ユダヤ人「マラーノ」の家系に属している。
アルメイダは23歳のときに祖国ポルトガルを脱出し、インドのゴアに渡った。しかしゴアも、ユダヤ人には厳しい都市だった。青年医師アルメイダは日本に来て、大分で大友宗麟の協力を得て、乳児院を建て、乳児の養育をはじめた。アルメイダは助手に日本人をつかい、医師養成に力を入れたことから、内科医療にたけたパウロやミゲルという日本人医師が生まれた。
アルメイダは日本の習慣をよくわきまえており、日本の人々と談話し、その心をつかむことに成功していた。ルイス・フロイスは、「アルメイダは、天草に布教し、成功した」と報告した。これが島原・天草一揆につながっていく。
14世紀のスペインで、突如として6千人以上のユダヤ人が血祭りにあげられた。犠牲者は7万人以上で、迫害を避けるため、ユダヤ人の多くは父祖の信仰をすてざるをえなかった。そして改宗キリスト教徒となった。このような改宗者は、「マラーノ」(豚)と呼ばれた。
フランシスコ・ザビエルのころ、異端審問所の広場で17人が生きたまま火あぶりに処せられた。このとき、ザビエルも同地にいた。
クリストヴァン・フェレイラは、禅宗に帰依し、日本人女性を妻とし、忠二郎のほか女の子までもうけていた。フェレイラは、1614年の禁教令から20年間ほど過酷な潜伏生活をしていた。1633年の穴吊りから始まる17年間も、厳しい棄教者としての生活を余儀なくされた。そして、フェレイラ(沢野忠庵)は、日本に南蛮医学をもたらした。
長崎の隠れキリシタン発見の手がかりは、「サンタ・マリア」像だった。5万人いると推定された。五島では、復活信者が3万人いて、潜伏を持続させた信者が1万人いた。
永井隆医師の妻は原爆によって亡くなったが、浦上三番崩れのときに牢死した吉蔵の曾孫にあたる。
隠れキリシタンを導いたイエズス会宣教師のなかに隠れユダヤ教徒(マラーノ)がいたというのは、私にとって新鮮な驚きでした。
(20年10月刊。2900円+税)

天草島原一揆後を治めた代官、鈴木重成

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 田中 孝雄 、 出版  弦書房
天草島原一揆のあと無人状態になった村々へ周辺から人々が移住させられました。そして、統治困難な天草の地を江戸幕府の代官として見事に治めた鈴木重成の生涯をたどった本です。地元民から今に至るまで慕われている代官がいただなんて、ちっとも知りませんでした。
鈴木重成は大坂で代官職・奉行職をつとめているころ、島原・天草でキリシタンを主力とする大がかりな一揆が起きたことから鉄砲奉行として征討軍に加わった。
そして、天草・島原一揆の鎮圧後、幕府代官として戦後復興にあたった。移民の誘致、年貢の大幅減免、社寺の再興につとめた。一揆で亡くなったキリシタンを仏式で弔うこともした。
鈴木重成が亡くなると、地元の人々は、供養碑を建立し、社を築いて「すずきさま」と呼び、敬慕の念を今に至るまで抱いている。
島原の乱は1637年(寛永14年)に発生した。
征討軍として幕府は板倉重昌と石谷定清を派遣し、重ねて、老中・松平信綱と戸田氏鉄の派遣を決めた。このときには、まだ板倉たちは現地に到着さえしていなかった。
板倉と石谷が現地・有島に着陣したのは12月6日のこと。その前の11月27日に、幕府は重ねての上使として松平信綱と戸田氏鉄の派遣を決定した。
松平・戸田が島原に到着したのが1月3日で、1月1日に原城総攻撃で板倉は戦死した。
「総大将板倉が戦死したので、幕府はあわてて老中松平信綱を差向けた」
という俗説は間違い。
比較的早い段階で松平と戸田を重ねて追討使としたのは、一揆を鎮圧したあとの始末が目的だった。鈴木重成は老中松平とともに鉄砲奉行として大坂城内の大砲数門と多くの玉薬を持って、板倉の戦死の3日後に有馬に到着した。
キリシタン一揆鎮圧後の仕置きという老中松平の負った本来の使命は具体的には鈴木重成の手に委ねられた。こうして、天領天草の初代代官となった鈴木重成は天草の復興を一身に負うことになった。
重成のかかえた課題は二つ。領民のくらしをどう向上させるか。宗教間対立が生んだ悲劇をどう克服するか。全体の年貢率は平均で田が23%、畑が18%に抑えられた。
重成は、貢租は二義的とし、復興を第一と決断した。
天草の庄屋の文書によって、重成時代の年貢率は15%から25%で推移していたことが判明している。
そして、重成は島原の代官まで兼務したのです。重成は天草の復興のためには神仏信仰への回帰が重要課題だと考えた。寺々が焼かれ、仏像をなくした村の無残な現実を見ていた。そこで、一般に新寺の建立を幕府が禁止していたなかで、重成は天草で社寺を復興させた。そして、一揆終結から10年間に再興した寺々で、亡くなったキリシタンについても亡魂供養を行った。 
歴史的事実をいろいろ発掘している貴重な本だと思いました。
(2019年6月刊。2200円+税)

大江戸史話

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 大石 慎三郎 、 出版  中公文庫
日本史上、間接税を最初に導入したのは田沼意次である。
田沼意次は、小姓組番頭格をふりだしに、小姓組番頭、側衆御用申次、側用人、さらに老中に準ぜられたあと、老中となった。しかも、側用人の役も兼帯した。老中は幕府正規の役職の最高位、側用人は正規ではなかったが、将軍の信任を得れば老中をうわまれる、いわば裏の最高権力者である。この両ポストを握った最初の人物が田沼意次だった。いわば、意次は幕府はじまって以来の権力者なのである。
郡上踊り(ぐじょうおどり)は、一夏を通して行なわれる特異な祭り。これは1754年(宝暦4年)から足かけ5年という長さでたたかわれた郡上一揆でずたずたになった領民を融和するために始められたもの。
九代将軍・家重の時代(1745~1760年)は、「全藩一揆の時代」として知られている。江戸時代でもっとも大がかりな全藩あげての一揆が多発した時代。
郡上一揆は内部に徹底抗戦派の百姓(立百姓)と妥協派(寝百姓)とに分かれての内部抗争もあって、長引いた。結局、幕府の最高機関である評定所にもちこまれ、農民側も多数の犠牲者を出したが、領主(金森頼錦)は改易(かいえき)、幕府のなかでも老中・若年寄・勘定奉行などが、私的に藩を支援したとして改易などの厳罰に処せられるという前代未聞の措置がとられて終結した。
この幕閣処分で、幕府内の直税増徴(年貢増徴)派は幕府の中心部から一掃された。
そして、変わって田沼意次たちの一派が登場して間接税の導入をすすめた。「敵」に一番打撃を与えたという意味では、領主を改易させたうえ、それを支援した幕府権力中枢にも多大の打撃を与えた群上一揆が最右翼である。
20年以上の本ですが、内容的に紹介したい話のオンパレードでした。
(1992年3月刊。460円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.