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カテゴリー: 日本史(江戸)

性からよむ江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 沢山 美果子 、 出版 岩波新書
この本のなかで私の目を引いたのは、生まれた子どもは夫の子か、それとも不義の子なのかをめぐって、米沢藩の裁定を求めたという一件資料が解説されていることです。
子どもの親たちは大名でも武家の名門でもなんでもありません。山深い寒村の川内戸村(山形県置賜軍飯豊町)の養子・善次郎(20歳)と、岩倉村(同町)の娘きや(21歳)のあいだの子かどうかという紛争です。
文化3年(1806年)の川内戸村は戸数7戸、人数37人で、岩倉村は37戸、200人。そんな小さな村で、それぞれの村役人と2つの村にまたがる大肝煎(おおきもいり)が藩の役人に対して書面(口書。くちがき)を出しているのです。
夫・善次郎と妻・きやは文化元年から不仲となっていたところ、きやが妊娠し、女の子を出産したのでした。ちなみに著者は最近、現地に行って、この両家が歩いて5分くらいに位置していて、善次郎家は今も現地にそのまま残っているとのこと。これには驚きました。200年以上たっても、「善次郎さんの家は、あそこ」と地元の人から教えてもらったとのことです。いやはや…。
藩役人の屋代権兵衛が双方に質問(御尋)した答え(御答)が書面で残っている。夫・善次郎は、「昨年1年間、夫婦の交わりをしていないので、自分の子ではありえない。妻の不義の相手が誰か今は申し上げるべきではない。そのため、生まれた子を引き受ける理由はない」と答えた。
妻・きやは「5月までは夫婦の交わりはあったので、夫の子どもに間違いない」と答えた。
また、きやは「ほまち子」、つまり不義の子だと自分が言ったというのは否定した。
さらに、藩役人はそれぞれの父親に対しても質問し、その答えが同じ趣旨で記載されている。要するに、両者の言い分は真っ向から対立しているのです。
藩の役人の裁定文書も残っていて、それによると、子どもは夫の実子と認められ、夫は藩の許しがあるまで再婚は許されない、「叱り」を受け、身を慎むように申し付けられましたが、それだけです。妻のきやは正式に離婚が認められ、道具類は全部とり戻せました。それ以上のことは書かれていないようですから、お金は動いていないようです。養育費の支払いというのも、なかったのでしょうね…。
そして、著者は、この当時、寛政の改革による米沢藩の人口増加政策を紹介しています。つまり、このころは、生まれた赤子を殺す、つまり間引きを禁じて、妊娠・出産を管理し、出産を奨励していたのです。さらには、そのための新婚夫婦には家をつくるための建築材料や休耕地の所有権を与えたり、3年間の年貢免除の特権まで与えています。
さらに、貧困な者には、申し出によって、おむつ料として最高で金1両の手当てまで与えたのでした。この結果、女子の間引きはされなくなり、男女の性比は、女子100に対して男子104となった。これは現在とまったく同じ。
学者って、ここまで調べるのですね。さすが…です。大変興味深い話が盛りだくさんでした。
(2020年8月刊。820円+税)

江戸の夢びらき

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松井 今朝子 、 出版 文芸春秋
歌舞伎役者として高名な初代の市川團(だん)十郎の一生を描いた小説です。
ときは元禄のころ。将軍綱吉の生類(しょうるい)憐(あわ)れみの令が出されて、江戸市中がてんやわんやになります。
また、大きな地震があり、火災が起き、また富士山が噴火するのでした。
そんな世相のなかで、人々は新しい歌舞伎役者の登場を熱狂に迎えるのです。
芸に魅せられるのは、ハッと息を呑む一瞬があるから。人が平気であんな危ない真似をできるのか、人にはあんなきれいな声が出るのか、あんな美しい動きができるのか…。
この世に、これほどの哀しみがあるのかと、まず驚くことが芸の醍醐味ではないか…。
同じ筋立て、同じセリフ、同じ動きのなかに、そのつど何かしら新たな工夫を取り入れ、ハッとさせられる。同じセリフでも、いい方ひとつで解釈はがらっと変わる。自らの心がおもむくままに変えられた芸は毎日でも見飽きることがない。芸とは、本来、そうした新鮮な驚きに支えられたものではないか…。
江戸時代の歌舞伎役者の世界にどっぷり浸ることのできる本格小説でした。
(2020年4月刊。1900円+税)

大名倒産(上)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 浅田 次郎 、 出版 文芸春秋
ときは文久2年(1862年)8月のこと。
越後丹生山(にぶやま)三万石の松平和泉守(いずみのかみ)信房(のぶふさ)21歳は、老中に呼び出された。
献上品の目録はあるが、現物が届いていない。いったい、いかなることか…。
「目録不渡」であった。これは一大事…。どうしてこんなことが起きたのか。
借金総額25万両。年間の支払利息1割2分は3万両。ところが、歳入はわずかに1万両。いったい、どうやって支払うのか…。
藩主は前藩主の父に問うた。
「父上にお訊ねいたします。当家には金がないのですか」
隠居の身である父は気魂を込めて返した。
「金はない。だからどうだというのだ」
質素倹約、武芸振興、年貢増徴。これしかない。
次に考えついたのが、計画倒産と隠し金。いったい、どうやって…。
25万両の借金に対して1万両の歳入しかない藩財政。この財政を再建する手立てなど、あろうはずもない。
ところが、ひょっとして…。
さすがに手だれの著者です。ぐいぐいと窮乏一途の藩政のただなかに引きずり込まれてしまいます。さあ、下巻はどんな展開になるのでしょうか…。
(2019年12月刊。1600円+税)

日本史、自由自在

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 河出新書
東大の史料編纂所の教授である著者は、小学生のころから日本史が大好きだったとのこと。
私も、そう言えば日本史というか歴史物は大好きでした。小学生のころは偉人伝をよく読んでいましたし、中学生のときは山岡壮八の「徳川家康」を読みふけりました。高校に入ると、日本史の教師が、いかにも歴史を愛しているという風情で熱心に教えてくれましたので、その感化を受け、私も歴史が大好きになり、いつも満点に近い成績をとり、これだけは自慢でした(数学がパッとしませんので、理系志望を3年にあがる寸前に文系に切り替えました。理系クラスにはとどまりましたが…)。
著者は友人から「日本史がよく出来るって、どういうことなわけ?」と尋ねられたといいます。はてさて、どういうことなんでしょうか…。
史料をもとにして「考える」からこそ、日本史という学問は楽しい。
そうなんですよね。日本史を深く知ると、考える材料がたくさん手にすることができるというわけなんです。
著者は、「令和」という年号について、「これは良くない」と批判して、大炎上したとのこと。その理由は何だったのでしょうか…。
645年の「大化」が一番初めの年号。ところが、その後、年号のない空白の期間もある。うひゃあ、知りませんでした。701年の大宝からはさすがに継ぎ目なく定められている。つまり701年ころが日本という国の大きな画期になっている。
奈良・平安の貴族は、修めるべき教養として、4つの道があった。律令のことを勉強する明法道(みょうほうどう)、算数を勉強する算道。文章道と明経(みょうきょう)道の二つは、中国の文献を学ぶもの。貴族にとって、歴史とは、日本史ではなく、中国史を指していた。
戦国大名の師匠は中国史を学んでいるお坊さん。織田信長もそうだった。
岐阜城という「阜」とは小高い山、丘という意味なので、岐阜は岐山と言える。この岐山は、周王朝の始祖、武王の父親(文王)の本拠地。つまり、信長はこれから新しい王朝を起こすぞという姿勢を示すため、岐阜城と名づけた。信長は、中国の歴史をこのようによく勉強していた。
水戸光圀は、南朝、後醍醐天皇の皇統こそが正統だ、北朝系に正統性はないと考えていた。勤王家といっても、現在の朝廷は偽であり、まさに将軍が治める世の中なのだ。これが水戸学の本当の姿だった。ええっ、これって本当なんですか…。
水戸光圀だけでなく、新井白石も同じように考えていた。すると、水戸は勤王派というより、徳川将軍中心派ということになります。ところが、後期水戸学は、光圀とはちがい、将軍より近い存在が天皇だと考える国体論です。明治維新を実現した「志士」たちは、みな、この国体論で動いていた。
そして、幸徳秋水は、「明治天皇を殺して何が悪い。あれは偽物ではないか」と主張した。これを聞いて山県有朋たち明治政府の首脳部はあわてた。それで、南朝と北朝の矛盾をなんとか解消するよう命じられたのは、東大の史料編纂所だった。なーるほど、そんな経緯があったのですか…。
日本人が昔、肉を食べなかった理由は、調味料が塩しかなかったから。肉を食べるにしても、焼くか炒めるかだけど、食用油がなく、醤油がなく、味噌もないと大変。茹でても塩だけだと、物足りない。
昔の中国では、魚の王様は鯉(こい)。今は、海の魚のほうが人気があるとのこと。そして、江戸時代の日本人にとっての一番は鯛(たい)、次に鯉(こい)。
平安時代の「芋粥(いもがゆ)」は、サツマイモではなく、自生するつるみたいなものから甘味をとっていた。つまり、柿で甘味をとっていた。なので、虫歯は少なかった。女性のお歯黒も虫歯予防のため。
豚を食べないので、ビタミンB1をとれないから脚気になってしまう。昔の貴族は酒をがぶがぶ飲むので、糖尿病になる。肺病、糖尿病そして脚気が多かった。日本人が肉が美味いというのを知ったのは明治になってからのこと。なーるほど、やはり調味料は大切なのですね…。
朝鮮では一貫して「文」が上だったのに対して、日本では「武」が優先されてきた。そして、日本に軍師はいない。文官にして軍事にあたる軍師なるものは、日本には大江広元のほか、いない。
黒田官兵衛も竹中半兵衛も、みな本質的に武士なので、軍師ではない。
石田三成は「ミツナリ」ではなく、「カズシゲ」と読むべきだというのを初めて聞きました。一も二も三も、みな「カズ」と読むのだそうです。
知らないことだらけの日本史の話、オンパレードでした。
(2019年12月刊。810円+税)

歩く江戸の旅人たち

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 谷釜 尋徳 、 出版 晃洋書房
江戸の人々は旅を楽しんでいたようです。
誰が旅をしていたのか…。
平均年齢は30歳代ですが、最年長は50歳代後半でした。
5歳まで生きのびるのは、出生者全体の3分の2、40歳時点での生存者は当初の半分、晴れて60歳の還暦を迎えるのは3分の1。70歳に達するのは当初の2割。
ということは、旅に出た50歳代の男性は、連日の長距離歩行に耐えうる健康体を維持していた人々だった。
では、江戸の人は1日にどれくらい歩いていたのか…。男性で1日に35キロ、女性は28キロ超。1日に70キロ歩くのも不可能ではなく、最大50キロが普通だった。
朝の4時から7時ころに出発し、宿泊地には午後4時から6時ころに到着する。1日に少なくとも7時間、長いときには15時間にも及び、平均して10時間ほど。
江戸時代の庶民は寺社への参詣(さんけい)を旅の目的として藩の了解を得ておいて、真の目的は道中の異文化に触れて遊ぶことにあった。
近世庶民は、信仰を後ろ盾にして日本周遊旅行を存分に楽しんでいた。
伊勢参宮が最大だったのは文政13年(1830年)で、3月から6月までに427万人に達した。日本人の庶民の6人に1人が行った計算になる。
江戸の人々の歩き方は、現代日本人とは違っているようです。爪先歩行、前傾姿勢、小股・内股、歩行が奇妙であること。
日本人は歩行のとき足を引きずる。また、音を立てて歩く。こんなことに外国人が驚いています。
いまはコロナの関係で、それこそ自粛させざるをえませんが、日本人の旅行好きは昔からだということもよく分かる本です。
旅行ガイドブックがたくさん売られていました。それだけ需要があったわけです。
この本は江戸の旅人たちの様子をいろんな角度から紹介していて、大変勉強になりました。
ところで、旅の安全性はどうだったんでしょうか。女性の一人旅も少なくなかったと聞きましたが、本当でしょうか。ケガしたり、病気したときには、どうなる(なった)のでしょうか…。次々に疑問が湧いてきます。
せっかくここまで明らかにしていただいのですから、続編も大いに期待します。どうぞよろしくお願いします。
(2020年3月刊。1900円+税)

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