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カテゴリー: 日本史(戦前)

死の工場

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 シェルダン・H・ハリス 、 出版 柏書房
 戦前の日本軍の犯した悪悪・最凶の戦争犯罪の一つが、七三一部隊による人体実験そして大量虐殺だと私は思います。
死刑囚を人体実験して殺したというのではありません(もちろん、それも許されないことです)。日本軍に反抗した、あるいは反抗しそうな人を、勝手に、何の法的手続をとることもなく、七三一部隊に送って、「マルタ(丸太)」と称して、あたかも人格をもたない物体かのように扱って、殺りくしていったのです。こんな極悪非道なことが許されるはずはありません。ところが、その凶悪犯罪をした医学者たちはまったく刑事訴追されることなく、それどころか戦後の日本の医学界そして製薬業界に君臨していたというのです。
 そして、この凶悪犯罪は、当時の軍部当局だけでなく、皇族も知悉していました。皇族たちは七三一部隊の施設の現地を何度も訪問し、部隊長の石井四郎の講演をありがたく拝聴しています。だから、七三一部隊の犯した戦争犯罪が天皇の責任に直結しないはずがなかったのです。
 それを止めたのが、なんとアメリカ軍トップでした。アメリカ軍は七三一部隊にいた石井四郎はじめとする幹部連中と取引したのです。つまり、戦争犯罪を免責してやるからといって、人体実験のデータを要求して手に入れたのでした。
 それと同時に、七三一部隊の人体実験被害者のなかに、中国人やロシア人だけでなくアメリカ人もいたという告発を握りつぶしてしまいました。もしも、七三一部隊によって殺された被害者のなかに連合軍捕虜としてアメリカ人がいたとしたら、それをアメリカ国内に知られたら、七三一部隊幹部との闇(ヤミ)取引なんか、すぐに吹き飛んでしまったはずです。
 有力な皇族であった東久邇(ひがしくに)は、七三一部隊の本拠地(平房の施設)を訪問しているし、天皇の弟の秩父宮は石井四郎の講演を聞いていて、もう一人の弟の三笠宮も平房を訪問している。また、竹田宮恒徳は主計官として、平房に頻繁に訪れている。
 昭和天皇自身も石井四郎と少なくとも公式に2回は会っている。
 日本軍による連合軍の捕虜収容所は満州の奉天にあったのです。この捕虜収容所は11942年11月から1945年8月までありました。
 日本軍がフィリピンを占領して、「バターン、死の行進」で有名な捕虜の一部を奉天に送ったのです。この収容所に2000人以上を収容し、全部で19の兵舎がありました。悪い食糧事情、不潔な宿舎そして厳しい寒さのなかで、次々に収容者は死んでいきました。直接の死因は栄養不足、ビタミン不足による死亡のようです。
 この本では、結局、アメリカとイギリス、オランダの将兵あわせて1671人が生き残ったのに、誰も日本の細菌戦の被害にあったと訴えなかったとしています。
 日本軍と石井四郎たちが、アメリカ人、イギリス人、オランダ人だけは決して手をつけなかったというのは今の私にはとても信じがたいのですが…。「厳密に統制された高度の国家機密である」とFBIがコメントしていたというのですから、やはり疑わしいこと限りありません。アメリカの公文書館のどこかに、隠された文書が埋もれたままになっているのではないでしょうか…。
(1999年7月刊。3800円+税)

日ソ戦争

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 麻田 雅文 、 出版 中公新書
 ソ連が日本敗戦の直前に突如として満州に侵攻してきたことを卑怯だという日本人が今なお少なくありません。でも、それはアメリカが願っていたことであり、アメリカはソ連の日本侵攻のために莫大な物資(トラックや兵器、ガソリンなど)を無償で提供していたのです。ソ連のスターリンは何度もアメリカの軍需援助を求め、アメリカはそれに応じていました。なぜか…。アメリカ兵の死傷者を少しでも減らしたかったからです。アメリカ軍は日本本土に侵攻したら、100万人のアメリカ兵が死傷すると予測していました。実際には、「捨て石」にされた沖縄の犠牲の下、本土決戦はなかったので、「100万人」どころか本土では死者が「ゼロ」だったわけです。(「ゼロ」というのは、本土決戦によるものとしては、というだけです)。
 この本を読んで驚いたのは、スターリンは、日本が無条件降伏しても、すぐにドイツのように軍事強国として日本はよみがえるだろうと予測していたというところです。一般のソ連国民にとって、ナチス・ドイツからは大勢の近親者を殺されたことから発奮したが、4年も中立を守った日本が相手では切迫感がなく、日ソ戦争はソ連国民が奮り立つ戦争ではなかった。ソ連国民は厭戦(えんせん)気分にあった。そこで、スターリンはソ連国民の士気を鼓舞するため日露戦争で敗れた復讐に見せるよう演出した。
スターリンは日本の復讐を恐れて4つの手を打った。第1は、日本の民主化の推進、第2は対日同盟網の構築、第3に南樺太(カラフト)と千島列島の併合、第4に元日本兵のシベリア抑留。
スターリンは北海道を占領しようとしたのをアメリカに阻止されたことからシベリア抑留を始めたという説がありますが、それはないと私は考えています。ソ連は独ソ戦で2700万人もの国民を失って、労働力が不足していたのです。荒れ果てた国土の復興にドイツ兵捕虜を使いはじめ、それに味をしめて日本兵も使いはじめたというのが、もっともありうるところだと私は思います。
 ただ、そのとき、ポーランドの将校3万人をスターリンのソ連軍が虐殺した「カチンの森事件」のように、元日本兵の将校たちも抹殺される危険があったのです。スターリンがその気にならなかったのは幸いでした。まあ、それほど、復興のニーズが差し迫っていたのでしょう。
 スターリンは満州にあった工場の機械やあらゆる機材をソ連領に運び去りました。そして、この本では、武器は中国共産党に渡したとされていますが、実はスターリンは中国共産党を信用しておらず、むしろ蔣介石の国民党を信頼して、武器もこちらに渡そうとしていたのです。ところが、腐敗した国民党軍がやる気もなくモタモタしているうちに、ハツラツとした中国共産党軍(「八路」、パーロ)が先に「満州」を占領してしまったことから、日本軍の武器の大半は八路軍(パーロ)に渡ったということです。
 大変興味深い内容で一杯の新書でした。
(2024年5月刊。980円+税)

治安維持法小史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 奥平 康弘 、 出版 岩波現代文庫
 治安維持法は1925(大正14)年に制定された。そして1928(昭和3)年に、緊急勅令で大きく改正された。このとき、「死刑または無期」とされ、「目的遂行罪」が導入された。
警察犯処罰例の浮浪罪(徘徊罪)、そして行政執行法の予防検束が治安維持法と一体として運用された。
 容疑者を逮捕するけれど、起訴して裁判にかけるという正式手続きには進めず、身柄を拘束し続けるといいうのが圧倒的に多かった。したがって、治安維持法は刑事法というより、検察や警察にとっての行政運営法とでもいうべきものだった。
ということは、治安維持法によって、何人が起訴されたかというのは氷山の一角にすぎないことになって、その数字で状況が分かったつもりになってはいけないということです。
 さらに、特高・内務官僚という伝統的な権力者とならんで、思想検察という新しい名を冠した司法官僚が登場し、決定的に重要な担い手になった。
 1941年に全面改訂された新しい治安維持法は、第一審判決に控訴を認めず、上告しかできないとした。三審制ではなく、二審制としたということ。
 さらに、予防拘禁制度が導入された。非転向者が出所してきたときの「再犯」の可能性を当局は心配した。そこで、非転向者については、刑期満了しても「再犯」の可能性ありとして拘禁し続けられるようにした。
 企画院事件は、治安維持法というのは、権力者が政治目的をもって利用しようと思えば、いかようにでも利用できる、便利な法律だった。
 治安維持法の怖さをひしひしと感じることができました。
(2017年6月刊。1360円+税)

銀座ハイカラ女性史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 野口 孝一 、 出版 平凡社
 亡父は1927(昭和2)年に17歳のとき上京し、逓信省で働きながら法政大学(夜間)に学び、やがて昼の法文学部法律学科に入って、1933(昭和8)年に高文司法科試験を受けました(不合格)。NHK朝ドラ「虎に翼」の寅子が合格したのは5年後(1938年)です。
 亡父の7年あまりの東京での生活がどんなものだったのかを調べ、文章化しているところなので、銀座で女性がどんな仕事をし、服装をしていたのかを知りたくて、本書を読みすすめました。
 まずは服装です。昭和の初めは、洋装よりも和服姿のほうが多かったのでした。1929(昭和4)年7月の銀座を歩いている女性は和服の女性10人に対して洋装が5人でした。すると、これは髪型にもつながります。女性が断髪するというのには、当時、大変な勇気が必要でした。1929(昭和4)年ころは過渡期です。路上で「亡国の髪」だとして水をかけられたり、髪を勝手にほぐされたりしました。とんでもない状況ですよね…。
 1927(昭和2)年、銀座に「ハリウッド美容室」がオープンし、1930(昭和5)年には、「吉行あぐり美容室」が開設されました。1928(昭和3)年3月号の雑誌「女性」は「断髪物語」として断髪している各界の女性の経験談を特集した。
 銀座といえば「銀ブラ」にはカフェーが欠かせません。銀座のカフェーの全盛期は1930(昭和5)年ころ。インテリや文士向けの「サロン春」は1929(昭和4)年11月に文士の社交場である交詢社ビルの1階に開店。この「サロン春」には1932年5月に起きた五・一五事件で危く青年将校たちに襲われかねなかったチャーリー・チャップリンが大相撲を見物したあと、夜にやって来ています。そして、1930年から1931年にかけて、関西系の大衆的カフェーが銀座に相次いでオープンしたのです。美人座、ゴンドラ、日輪、そして赤玉などです。
カフェーにつとめる女給は主としてチップを収入源としていて、業界一の稼ぎ頭(サイセリヤの大川京子)は、なんと月に580円を稼いだとのこと。すべてチップ収入。平均200円が相場だったので、破格の稼ぎです。
銀座の一角には花柳街(花街)があった。私は、その場所がどこかは分かりません。
 政府高官は新橋芸妓を妻としたり、妾としていた。
 伊藤博文と梅子、山県有朋と貞子、陸奥宗光とおりゅう、原敬と朝子、板垣退助と子清(しせい)、西園寺公望と房子、桂太郎とお鯉です。
 銀座に生きる女性たちの生きざまを少しばかり知ることができました。
(2024年3月刊。3600円+税)

裁判官・三淵嘉子の生涯

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 伊多波 碧 、 出版 潮文庫
 NHKの朝ドラ「虎に翼」が、目下、大変な話題になっています。といっても、私はテレビはみませんし、このドラマをみるつもりもありません。
 でも、このドラマの背景となっている昭和の初めの日本と東京には、大いに関心があります。私にとって、NHKの朝ドラは、なんといっても、「おはなはん」。樫山文枝の演じる「おはなはん」のほっこりとした笑顔には高校生のころ、本当に心が癒されていました。
 そして、この朝ドラの主人公の寅子(ともこと呼ぶんですね。とらこ、とばかり思っていました)が高文司法科試験に合格したのは1938(昭和13)年のこと。私の父は、その5年前、法政大学の学生でしたが、同じく司法科試験を受けたのです(あえなく不合格。1回でやめました)。父は弱冠17歳のとき、1927(昭和2)年に大川市から上京して東京で7年間ほど生活しました。そのころの社会状況を調べはじめたところに、この4月からほとんど同じ時期に焦点をあてた朝ドラが始まったのですから、注目しないわけにはいきませんでした。
 当時の司法科試験がどんなものだったか調べようとして苦労していたところ、後輩の弁護士(杉垣朋子弁護士)がインターネットで探しあててくれました。私の時代にあった『受験新報』の戦前版の『國家試験』という雑誌です。今では、居ながらにして国立国会図書館のコピーサービスを利用することができます。それによって、父が受験した司法科試験のスケジュール、そして試験問題がおよそ判明しました。
 父は一次のペーパーテストで合格できませんでしたので口述試験を受験していませんが、口述試験の詳細な体験談も、この『國家試験』には再現されています。
この本に「全豹一般(ぜんぴょういっぱん)」という見慣れない用語が登場します。物事のごく一部を見て、全体を批評すること、だそうです。なるほど、私もしばしば陥る間違いです・・・。
 1938年に寅子は司法科試験に合格しましたが、そのころ女性には参政権がなかったことを忘れてはいけません。女性は裁判官になれないという前に、参政権がなかったのです。つまり、女性は政治を語るほどの能力はないとされていたわけです。とんでもないことです。ところが、今は、どうですか・・・。男も女も投票所に足を運ぶのはせいぜい有権者の半分もいません。先日、沖縄の県会議員選挙で、デニー知事を支える「オール沖縄」が議席を減らしましたが、このときだって投票率は5割に達していません。裁判所が下から上まで、政府にタテついても勝たせてあげないよという判決を出し続けているなかで、あきらめ、絶望感が広く、深く浸透しています。それでも、めげずに、ひどいことはひどいと声をあげるしかありません。何千万円の裏金をふところにしておいて、税金が課されないなんて、おかしいでしょう。法改正といいつつも、領収書が公開されるのは10年後だというのです。10年後に、今の議員が生きていますか。維新はないでしょうし、自民党も公明党も10年後に果たしてあるでしょうか。
 この本はテレビのストーリーも下敷きにして書かれた小説(フィクション)です。まったく商魂たくましいですね。感服します。3ヶ月で5刷りというのもすごいです。
(2024年6月刊。880円+税)

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