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カテゴリー: 日本史(戦前)

昭和期の陸軍

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 筒井 清忠 、 出版 筑摩選書

 戦前の日本では、2・26事件を起こした青年将校たちにみられるように、軍人は自らエリート意識をぷんぷんさせる自信満々の野望家集団だと思い込んでいましたが、大正後期の軍縮時代には、軍人は抑圧されていて、劣等感と被差別意識を抱いていたというのです。これには驚きました。

大杉栄たちを虐殺した、かの悪名高い甘粕は、法廷で、「軍人は極めて殺風景で非常識なものと一般に世間から見られている」と述べるなど、当時の軍人の社会的地位の低さからくる劣等感を表明しているのです。

蔑視される軍人に対して、マスメディアで脚光を浴びている知識人とが対比されていました。

 後藤新平内務大臣は大杉栄のスポンサーのような関係にあった。大杉と一緒に殺された伊藤野枝は、頭山満(右翼の大物)の親類で、「お金に困ったら来るように」と言われていた。また、甘粕の妹(甘粕鍋子)は社会運動家だった。人間関係が、このように錯綜していることも初めて知りました。

大正7年ころ、陸軍将校生徒の志願者が著しく減少して、大きな問題となった。大正10年11月から、ワシントンで軍縮会議が開かれた。世論は軍縮を支持していた。そして、それは陸軍だけでなく、海軍にまで波及した。海軍兵学校の志願者が激減してしまった。犬養毅は、大正11年、軍学校の廃止も提案した。

新聞も軍縮の実行を政府に迫った。陸軍は、このころ「軍閥」として政撃され、激しい批判にさらされた。

ところが、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約に対して、軍人たちは激しく反発した。そして、翌昭和6年の満州事変勃発後は、今度は世論は雪崩(なだれ)を売って反対の方向につき進んでいく。風向きって、こんな風にころっと変わってしまうのですね。今の日本で、準与党ともいうべき参政党やら国民民主党(玉木雄一郎・党主)が目下、人気を集めているのは、結局、きっと一過性なんでしょうね。でも、その害悪は看過できません。

陸軍省と参謀本部こそ、陸軍を支える、もっとも重要な二つの柱。陸軍省は、陸軍大臣(次官)、軍務局長、軍事課長、軍事課高級課員というラインで、動いていた。ここがエリート軍人たちの究極的に目ざすポストだった。

参謀本部では、総長、次長、第一部長、作戦課長というラインがもっとも重要。

下級職ほど陸大成績の優等者が選ばれている。これに対して、上級職では成績にあまり関係なく、派閥的原理によって人事が進められていた可能性が高い。

準軍事的性格の強い参謀本部の作戦関係は成績に依拠する側面が強く、軍政にわたり政治的側面の強い陸軍省の軍務局関係はそれほど成績を配慮しなかった。なーるほど、です。

 乃木を批判するインテリは多かった。しかし、夏目漱石や森鴎外など、乃木支持インテリもいた。

昭和の初めころ、日本陸軍は軍事的に劣勢となっていて、軍事大国とは、とても言えない状況にあった。

 著者は私と同世代ですが、よく調べていて、大変勉強になりました。

(2025年7月刊。2090円)

人びとの社会戦争

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 益田 肇 、 出版 岩波書店

 戦前の日本が、なぜアメリカとの戦争という、今思えば明らかに無謀で、勝てるはずもない戦争に突入していったのか…。その鍵を解き明かそうとする大作(2段階、580頁)です。

つまり、いわゆる庶民、人々が戦争を欲しがったのです。

日中戦争がはじまって以来、国内の経済はきわめて好調だった。たとえば、大阪では、市民の総所得は1937年に3憶7753万円だったのが、1940年には9億6503万円と3年で2.5倍以上も上昇した。多くの人々が、その温かい懐具合でもって百貨店で買い物したり、レストランやカフェで食事したり、映画館に行ったり、また遊郭に行ったり、都会のさまざまな娯楽に興じていた。

大阪の私鉄、市電の乗客は1.2倍、運賃収入20%増、貨物収入30%増(1938年と1939年の比較)。料理屋は15%の売上増、カフェは20%増、大衆的居酒屋は32%増となっている。花街もにぎわい、客数は25%増、遊女や芸者への揚げ代も29%増となっている。

同じことは、農村部でもいえる。米価やまゆ相場、木材相場の値上がりのなかで、ずばぬけた好況にあった。

日本の輸出総額は台湾向けで3倍、朝鮮向けで4倍、満州向けで10倍となった(1929年と1940年の比較)。日本の総輸入の42%、総輸出の67%が対植民地貿易で占められた。

大阪に居住する朝鮮人は41万人(1941年)。日本内地の朝鮮人の3分の1が大阪にいた。

農村地帯に住む多くの農民にとって、兵役に召集されて出征することは、必ずしも絶望と苦肉を意味しなかった。それどころか、軍隊に入ることは、近代的な生活を手に入れるための現実的な機会を意味していた。目が回るほど、忙しく、苦しい農作業からの解放を約束するものだった。「毎日の入浴」、「仲々良い」食事、「立派な革靴」などが支給され、それなりの給料をもらえ、家族に送金できることを誇りに感じていた。農村に生まれ、若いうちに学校をやめて働きはじめた者にとって、軍隊は一種の教育の場であり、自らの才覚次第によっては、社会的に上昇していくことを可能にする場でもあった。召集令状を受け取ったとき、「シメタと叫ぶほどうれしかった」という青年がいた。

国防婦人会は、大阪の主婦(44歳)が40人ほどで、1932年に始めたもの。それが1年間に10万人、10年間で1000万人の会員を擁する、国家戦争の遂行に協力する、もっとも影響力のある愛国団の一つになった。

多くの人々は、ひかえ目と言っても、かなり肯定的、もっと端的に言えば、かなり熱狂的に日本の戦争を指示し、主体的にそれに参加していた。

満州事変直後に盛り上がった好戦的愛国主義とでも呼べるような戦争熱は、日露戦争で勝ち得た満蒙権益がなし崩しにされつつあるという論理が背景にあった。

満州で起きた万宝山事件のあと、東京帝大生の意識調査では、88%が満蒙のための武力行使を正当だと答えた。

1931年9月、朝日新聞社が満州事変の拡大に慎重の論説を書くと、大規模な不買運動が起きた。すると、新聞の売れ行きが、3万部減、5万部減と急激に減っていった。朝日新聞は役員会議を開いて、社論の転換と軍部を支持する方針が定められた。官憲の弾圧というより、社会的圧力に圧したということ。

渋谷駅に今もある忠犬ハチ公の銅像は、1935年にハチが死んだあと、全国から寄せられた香典18万円(今の9億円)による。犬ですら自らの本文を尽くし、役割を果たし続けた。なので、人間がそれを果たさなくてどうするという問いかけが社会的に大々的になされたということ。

南京大虐殺事件を引き起こした日本軍は、統計20万人もいながら、ほとんど食糧等の補給なしに、現地調達でやってきていた。食糧の略奪、捕虜の虐殺、不軍紀の横行は必然的結果だった。

1941年夏ころには、即時開戦論を唱えるような熱気があり、日米戦争を回避するための糸口を操っていた政治家や軍人、政府高官たちを圧倒していった。

「背後から来る、暗いうねり」に、もうどうにもならなくなった。この強烈な時代の傾向は、「無言の力」「時代の圧力」「世論的なもの」といえる。

当時、多くの人々は、二つの戦争、それまで延々と続いていた、それぞれなりの社会戦争と、新たに拡大した国家間戦争を同時に戦っていたことになる。

いやぁ、実に勉強になる本でした。ご一読をおすすめします。

(2025年9月刊。4730円+税)

沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 斎藤達志 、 出版 中央公論新社

 いま、安保法制法と安保三文書の具体化として、沖縄本島と南西諸島の軍事基地化が急ピッチで進められています。

「台湾有事は日本有事」をいい、日本が存立危機自体になったとして集団的自衛権を行使する。つまり中国と戦争しようというのです。とんでもない高市首相の発言ですが、少なくない日本人が、マスコミの誘導(操作)によって、中国の「過剰反応」が問題だと思わされています。

「台湾有事」で南西諸島の島民と観光客の12万人は6日間で九州・山口に避難するという計画があります。とても出来るはずもない机上のプランです。ところが、沖縄本島に住む人々は避難計画はありません。自衛隊の司令部は地下シェルターに入って「戦う」というのですが、住民は「自己責任」として国からは放置されています。戦争中の沖縄が、まさにそうでした。島民の一部だけは九州に疎開しようとしますが、たくさんの学童をのせた対馬丸は米軍の潜水艦によって撃沈されて、大半が亡くなってしまいました。同じようなことが再び沖縄で起きようとしています。

いえ、沖縄だけの問題ではありません。本当に戦争になってしまえば、日本全国にある原発の一つでも攻撃されてしまえば、日本はもう終わりです。3.11の福島原発のような自然災害でも対処できないのです。ミサイルを撃ち込まれたら、対処できるはずがありません。どうして、みんな真剣に戦争が起きないよう努力しないのか、不思議です。軍事力に対して軍備増強をいくらしても平和と安全を守ることは出来ません。

 沖縄戦の経過をたどると、日本政府も軍も、そこに住んでいる県民の安全と生活をまったく考えていないことがあまりにも明らかです。そして、東京の安全な皇居にいた天皇は、アメリカ軍の攻勢・上陸してからの進撃の速さに驚き、沖縄現地の守備軍は、なぜ反撃攻勢に出ないのかと𠮟るばかりでした。日本軍が反撃する力をもっていなかったことが知らされていなかったようです。

昭和19年末の沖縄県の人口は59万人。うち49万人が沖縄本島に居住。そこに6万人の軍隊が駐留し、全島が戦場となった。

 沖縄戦においては、住民に対する配慮が欠ける点が、多々生じた。住民の戦死者のうち14歳未満が1万1千人をこえた。小児・幼児の被害が多かったのは国内戦の悲惨な実情を示している。昭和19年7月の段階では、沖縄県民10万人を本土(8万人)と台湾(2万人)へ疎開させる計画が立てられた。そして、昭和20年3月までに、本土へ6万人、台湾へ2万人が疎開した。沖縄に駐留した日本軍(第32軍)は、兵力増強のため、2万5千人を防衛召集した。召集された者は、軍人となる。そして、学徒動員を実施した。男子学徒隊は鉄血勤皇隊と命名された。女子学徒には防衛召集は適用されないので、国民徴用令と女子挺身勤労令によって動員された。

 男子学徒の死亡率は43.4、女子学徒の死亡率は45.9で男子よりも高い。それだけ過酷な環境で活動していた。第32軍の司令官が県民に対して、玉砕を示唆する悲壮な調子で話したことから、県民のあいだに必勝不敗の信念を動揺させるものとなった。

 また、軍当局は兵隊専用の慰安婦を設置するよう県に要求し、県知事は拒否した。しかし、軍は警察に圧力をかけて県内各地に慰安所を設置した。

兵隊の乱暴狼藉そして風紀紊乱は目に余るものがあり、県知事は「皇軍としての誇りはどこにあるのか」と日記に書いたほどだった。

昭和19年10月10日のアメリカ軍の「10・10空襲」によって、那覇市は一瞬にして焦土と化した。沖縄県民は友軍の無力さを見せつけられ、戦争の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。戦いはこれから、というのに住民が受けた衝撃はあまりにも大きかった。

 日本軍の将兵たちが辻遊郭で日夜飲み騒ぐのを見せつけられた住民は、沖縄がまるで外地同様の植民地であり、外国軍隊が駐留しているのではないかとさえ思うようになった。

沖縄県民の住民感情を大きくマイナスにした三つの事例がある。学童疎開船「対馬丸」の遭難、10・10空襲、第9師団の台湾への転出。

 沖縄戦は、戦争が始まる前に、すでに住民の現地日本軍に対する不満が充満していて軍隊の軍紀・風紀は乱れに乱れていた。昭和20年2月、沖縄にある食料は3ケ月を支えるのが精一杯だった。昭和20年4月1日、アメリカ軍第10軍が沖縄本島に上陸した。

 沖縄戦が本土決戦をひきのばすための捨て石として戦われたことは明らかです。その状況が再び繰り返されるかもしれないなんで、本当にひどい話です。政治家の役目は戦争にならないようにすることであって、戦争にそなえることではありません。勘違いしないでほしいです。

(2025年5月刊。3960円)

側近が見た昭和天皇

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 北野 隆一 、 出版 幻冬舎新書

 昭和天皇は戦争責任を追及され、退位を迫られることが何より心配だったし、嫌だったようです。

1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されたあと、昭和天皇はメッセージに「反省」という文句を入れたかった。しかし、それは自分だけが悪かったのではなく、「軍も政府も国民も皆わるい」として、広くみなに反省を促したいということだった。昭和天皇は、「私のした悪いことは、国務大臣の輔弼(ほひつ)が悪かったということにならなければならんと思う」と語った。つまり、天皇の戦争責任ばかりが問われるのに納得できないということ。

「責任転嫁の戦争観」だと評されていますが、私もまったく同感です。

開戦は昭和天皇の本意ではなかった周囲、とくに軍部から押し切られたのだ。終戦は昭和天皇の本意から決断された。だから昭和天皇は平和主義者であって戦争責任はないと、今も真面目にそう考えている人がいるようですが、とんでもない間違いです。

この本でも、昭和天皇がだんだん開戦論に傾いている状況が側近の記録から明らかにされています。

二・二六事件(1936年)が起きたときは、昭和天皇のもっとも信頼していた老臣が殺傷されたことから、昭和天皇は事件を起こした将校らを「凶暴」と強く非難し、自ら近衛師団を率いて鎮定(鎮圧)にあたるとまで言っていた。そりゃあそうでしょうね。この事件で宮中勢力はすっかり威信を損なってしまったのですから…。

昭和天皇がGHQのマッカーサー司令官11回も会見したというのに驚きました。すっかりマッカーサーの言いなりになったようです。たとえば、沖縄については、50年間、アメリカ軍の占領下におくことを昭和天皇が提案しただなんて、信じられません。仮に、それが良いと思っていたとしても、言ってはいけないことの典型ではないでしょうか…。

そして、昭和天皇は大の「共産党嫌い」でした。学生が学業よりも政治に興味をもつことについて、「どうも困る」「若いものが政治に興味をもちだすのは、困ったことだ」と言っていたようです。

靖国神社への参拝は、A級戦犯まで合祀(ごうし)されたのを嫌い、それ以来は昭和天皇は参拝していない。

戦後も、憲法上、象徴天皇になったことを昭和天皇はまったく理解せず、政治的発言をして、政治に介入しようとしたという実情がリアルで紹介されています。

昭和天皇の肉声が聞こえてくる気配のする貴重な新書です。日本の敗戦前後の状況に関心ある方には、強く一読をおすすめします。

(2025年7月刊。940円+税)

南京事件(新版)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)

著者 笠原十九司 、 出版 岩波新書

 日本人、日本軍って、どうして、こんなに残酷なことが出来た(出来る)のか、たまりませんし、本当に残念でなりません。

 南京大虐殺について、今でも「ウソだ」と叫ぶ人がいて、それを信じている人が少なくないのも本当に残念です。つい先日、弁護士会の文書を作成中に、南京事件の被害者数(20数万人)に触れたところ。「一説によれば」と書き加えるような指摘を受け、唖然としました。

 たとえば、当時、南京には20万人しかいなかったから、虐殺された人が20万人とか30万人というのはウソだという「批判」があります。しかし、20万人というのは、南京城内の安全区の人口であって、周辺から避難してきた人を含めると200万人ほどに膨れあがったのです。また、日本軍(皇軍)は、昔も今も規律正しい軍隊だから、そんな非道なことをするはずがないと信じている人がいます。たしかに、日本にいるとき、また日本に帰国してからは善良な夫であり、父であったかもしれませんが、中国の殺し殺されという過酷な戦場をくぐり抜けた日本人将兵は、疲労困憊(こんぱい)して、食料も現地調達というなかで、中国兵を人間とみないで、ただひたすら鬼となって中国の人々の殺戮を繰り返したのです。

 南京政略は、当初の大本営の方針ではなかった。現地の軍トップたちが功名を競いあうなかで突っ走ったもの。なので、兵站(へいたん。食料の確保)も十分な手当てはなされなかった。そして、南京を陥落させたら、中国軍は降伏して戦争は終わると日本軍トップは考えていた。しかし、蒋介石は、さらに奥地の重慶で軍を再編して徹底抗戦の構えを崩さなかった。中国軍を甘く見ていたわけです。

 昭和天皇は結局、南京が陥落したことで、人々が熱狂するのを受けて、南京政略を偉大な成果だと賞賛した。この天皇の賞賛が陸軍上層部の尻を叩いたのです。これは決定的に間違っていました。

重慶に対する無差別爆撃がありましたが、同じような無差別爆撃を南京にもしていたのです。

日本全土を火の海に沈めてしまったのは、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ将軍でしたが、戦後になってこのカーチス・ルメイに対して最高クラスの勲章(勲一等)を日本政府は贈呈したのです。信じられない暴挙です。

上海派遣軍司令官に任命された松井石根大将に与えられた任務に、南京政略は含まれていなかった。 松井は当時59歳で、同期ではもっとも昇進が遅かった。そこで、功名心を立てようとしたと考えられる。

この上海派遣軍は必要な兵站機関をもっていなかったし、法務部も在しなかった

 南京政略に従事していた日本軍は、士気の低下、軍紀の弛緩(しかん)、不法行為の激発が深刻な問題となっていた。

南京でまだ戦闘が続いているのに、12月11日、誤報から南京城政略として、成功を喜ぶ国内の状況に接して、南京の日本軍は怪げんな思いだった。日本国内は戦勝ムードに沸きかえった。

日本軍は自らも食料が乏しいので、捕虜をかかえることは不可能だった。そこで、方針として捕まえた中国兵の全員殺害を実施していった。

 日本軍占領下の南京は、「陸の孤島」となり、「密室犯罪」が出来る状況だった。そんななかで、日本軍兵士による強姦が横行したのです。

著者は結論として、被害にあった兵士と民間人あわせて20万人前後であるとしています。中国側のいう「30万人」という数字も、あながち誇張とは考えられないのです。

 南京事件を否定するかのような教科書(令和書籍)が文科省の検査に合格するなんて、いったい日本政府はどうなっているのか、と思います。 改めて広く読まれるべき新書だとつくづく思いました。

(2025年9月刊 1120円+税)

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