弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

キューバ

2025年8月24日

チェ・ゲバラ


(霧山昴)
著者 ジョン・リー・アンダーソン 、 出版 みすず書房

 チェ・ゲバラは1967年10月8日、ボリビア陸軍の大軍に追い詰められ、負傷して捕虜となった。翌日、CIAの立ち会いのもと射殺された。遺体は両手を切り落とされた。本物であることを証明するための指紋が保存され、ホルマリン漬けにして隠された。チェ・ゲバラと6人の同志たちは、滑走路の下に埋められた。1997年7月に遺体が発見され、10月にキューバに運ばれた。30年間、チェ・ゲバラの遺体は行方不明だったのです。キューバでは25万人もの人々がチェ・ゲバラの追悼式に参列したとのこと。
 チェ・ゲバラは、アルゼンチン人で、母はスペイン貴族の血をひき、その父親は法学教授、下院議員、大使だった。チェ・ゲバラの父は母の家族から結婚に反対され、駆け落ちを演出した。
 チェ・ゲバラは幼いときから、ぜん息の持病をもっていたが、それは母親譲りのものだ。ぜん息のため、9歳になるまで学校に通えず、母親が家庭教師のように読み書きを教えた。
 小学校時代は、手に負えない、目立ちたがり屋だった。学校での成績は全体として優良。ブエノスアイレス大学医学部に入学した。
 1950年元旦、22歳のチェ・ゲバラはオートバイで一人旅に出かけた。
 1952年7月、アルゼンチンで、エビータ・ペロンが死んだ。
 1953年7月、医師で筋金入りの放浪者であるチェ・ゲバラは再び旅に出た。ボリビアから中央アメリカ、グアテマラ、ニカラグア...。そして、グアテマラで後に妻となるイルダと出会った。さらに、メキシコに入った。
 1955年7月、チェ・ゲバラはフィデル・カストロと出会った。28歳のカストロは熟練の政治人間で、自信にみちあふれていた。
 チェ・ゲバラは、自己の血筋の自覚からくる社会的自信と特権感覚をもって育った。上流階級の異端ではあるが、その一員だった。フィデル・カストロと共通するところは、大家族で可愛がられ、ひどく甘やかされ、自分の容姿に無頓着で、性的に貪欲。ともに鉄の意思と、思い上がった目的意識をもっていた。二人とも、革命の遂行を望んでいた。
当初、多くのキューバ人の反感を買ったのは、チェ・ゲバラの独善性だった。
 1956年12月、キューバでカストロたちの反乱軍は蜂起したが、たちまち鎮圧された。82人のうち、再結集したのは、わずか15人で、残された武器は9丁のみ。
チェ・ゲバラは山中で恐れ知らずで向こう見ずでさえあるゲリラ兵として頭角を現していた。
 山脈にいる武装戦闘員と平原の都会にいる同志との間で亀裂が生じていた。
 「ニューヨーク・タイムズ」の記者によるフィデル・カストロの会見記事が爆発的な反響を招いた。フィデル・カストロについて、キューバの支配者バティスタが共産主義者だと主張しても、CIAも政策担当者も、それを信用していなかった。
1957年12月、フィデル・カストロは戦争をマエストラ山脈から下界に拡大した。
 チェ・ゲバラが最優先したのは、メディア作戦。機関紙を印刷し、ラジオ放送を始めた。
 世界のマスコミがフィデル・カストロの前に行列をなした。
 フィデル・カストロはチェ・ゲバラ以外のあらゆる部下の判断や意思決定を信用しなかった。チェ・ゲバラは主な相談相手であり、実質的な参謀長であった。
 山中の革命軍(反乱軍)のなかの矛盾をどう処理したのか、考えさせられる状況も紹介されています。チェ・ゲバラの半生をよく知ることの出来る本だと思いました。
(2024年10月刊。5600円+税)

1

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー