弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮

2025年8月 6日

日本人拉致


(霧山昴)
著者 蓮池 薫 、 出版 岩波新書

 なぜ北朝鮮が日本人を拉致(らち)したのか?
 なぜ、北朝鮮は、日本人を拉致したことを認めたのか?
 この2つの問いに、拉致された当事者が明らかにしています。とても説得的です。
 若い日本人女性を長期にわたる「教育」のすえに北朝鮮のために活動する工作員にする目的だった。しかし、拉致された日本人に対する「思想改造」は思うような成果をあげなかった。この思想改造には、「よど号」グループ(日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮にわたった、田宮高麿らのグループ)を含めて「教育」したが、うまくいかなかった。
 2002年9月、平壌で日朝首脳会談が開かれたとき、金正日総書記は、小泉首相に対して、「拉致」だった。「特殊機関内の一部の人間たちが英雄主義に陥って、つい...。率直に謝罪します」と表明した。なぜか。
 北朝鮮は、当時、極度の経済困難事態にあり、日本からの賠償金を手に入れるためには拉致を認めるしかないと判断した。
 北朝鮮から日本に密入国するだけなら、工作船によって「99%安全」に可能だった。
 「拉致」については、まずは「拉致」し、その後のことは、そのあと考えて決めるという傾向があった。つまり、計画的ではあったけれど、考え抜かれていたわけではなかったのです。
 日本人と同じように拉致されたレバノン人が4人いたそうです。ところが、そのうち2人が「従順」なふりをしているうちに脱出に成功しました。そこで、外国人は「従順」なふりをしていても信用ならないと北朝鮮は考えたのでした。だったら、国内で工作員を養成しようと方針転換したということです。
 そもそも、思想的に北朝鮮はおろか、社会主義にも同情的な傾向のない日本人を拉致してきて、自分の祖国を裏切らせて、北朝鮮のために働く工作員として活動させるというのは、どだい乱暴な発想だし、無理がある。まったくもって、私もそう思います。
戦前のスパイとして有名なゾルゲには高度の使命感があったと思いますが、戦後の日本社会に育った日本人を心底から金正成思想を信じ込ませるなんて、およそありえないことだと私も思います。ご冗談でしょう...という気がします。
 金賢姫は、「革命的信念が強い」と思われていたのに、なぜ、あっさり「変節」したのか。
 北朝鮮は、敵のありのままを教えなかったことにあると考えた。韓国は、「非常に立ち遅れた貧しい国」だと思い込んでいたのに、現実は商品があふれて、華やかな生活をしている現実を目の当たりにして衝撃を受け、心が折れてしまったという。そこで、韓国の真実も可能なかぎりに工作員には伝えるように転換した。なーるほど、ですね。
 著者は日本で中央大学法学部のとき拉致され、北朝鮮で24年間生活しました。
 日本人を拉致した北朝鮮の組織は二つ。党の対外情報調査部と対外連絡部。そして、著者は2002年10月25日に日本に帰国しました。それから既に23年になります。
 当初は子どものいる北朝鮮に戻るつもりだったのです。でも、「党」の意思に逆らったのでした。北朝鮮での長きにわたるマインドコントロールから抜け出し、本来の自分を取り戻すための第一歩を踏み出したのです。帰国して9日目、10月24日でした。
 月刊誌『世界』に連載したものを著者が加筆・修正しています。北朝鮮に対する「日本人拉致」とは何だったのかが、よく分かる新書です。一読をおすすめします。
(2025年6月刊。940円+税)

2025年3月21日

加耶/任那


(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 中公新書

 古代の朝鮮半島に大和朝廷の出張拠点として「任那(みまな)日本府」があったという近年までの通説は現在、明確に否定されている。私もここまでは認識していました。
 この本によると、「日本府」の「府」というのは「臣」だそうです。つまり、「日本府」は「倭臣」なのです。大宰府というと、大宰府政庁があって、九州における大和朝廷の出先官庁でしたが、それとはまったく異なるものです。
 そして、「倭臣」といっても、大和王権(朝廷)とは独立した存在であって、臣従関係にはありませんでした。
5世紀後半の雄略天皇以降、加耶(かや)諸国には倭系加耶人が多く居住していたが、ヤマト王権とは独立した存在として、加耶諸国の独立を維持する活動をしていた。つまり、新羅(しらぎ)と百済(くだら)の侵攻を排除し、加耶諸国の独立を維持しようとしていた。
 朝鮮語では、カヤ(加耶)とカラ(加羅)の発音は通用する。狗邪(くや)韓国も同じ。
高句麗の広開土王の功績を記念して建設された広開土王碑が今の中国吉林省集安市に残っている。高さ6.4メートルの方柱碑。四面に1775字が刻まれている。
この碑文については、日本の軍人が石灰を塗布して文面を一部改ざんしたという説もあったが、現在では改ざんは否定されている。ただし、広開土王の業績を誇るため、「倭」の脅威が誇張されていると考えられている。つまり、広開土王碑の碑文から、大和朝廷が任那を支配していたとすることはできない。
 朝鮮半島の西端には前方後円墳が存在する。これは、5世紀後半から6世紀前半にかけて筑紫(つくし)出身の倭系の人々がつくったものと考えられるが、ヤマト王権の任那支配とは関係ない。
古代朝鮮に大和(ヤマト)朝廷(王権)の支配する拠点はなかったとしています。それでも朝鮮半島の南部に北部九州の倭人が進出していて、交流していただろうともしています。
 筑紫の君・磐井(いわい)の反乱もあったわけですから、大和朝廷が日本を統一したうえで、朝鮮半島の一部まで支配していたかのような考えが明確に否定されています。大変勉強になりました。
(2024年12月刊。990円)

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