(霧山昴)
著者 ブルース・クック、 出版 世界文化社
映画を見逃してしまったのは残念でした。東京では満員で入れず、福岡では上映時間が1回のみで、時間が合わず入れなかったのです。
素晴らしいヒーローがいる。大きな障害と戦い、強力な敵の迫害にあったヒーローが。それに、すべて本当に起こったこと。おまけにハッピーエンドの実話だなんて、めったにお目にかかれない。
アメリカ映画の有名な脚本家は、アカというレッテルを貼られて映画界から追放された。しかし、才能ある彼は友人の名前を借りて発表し続けた。生活のためだ。そして「ローマの休日」など、誰でも知っている映画の脚本を書いて大当たりをとった。
「オレはハリウッド一の脚本家ではないかもしれない。でも、仕事の早さにかけては並ぶものなしだ」
トランボは、小説「ジョニーは戦場へいった」の著者でもある。
トランボは、急速な社会変革を求める急進主義者だった。
戦争が始まったとき、限られた選択肢のなかから、共産党員になる道を選んだ。
トランボはスイミングプール・コミュ二ストと呼ばれ、裕福だった。
ハリウッドでは、才能ある人は、ドルをたくさんもらえた。そして、あとでブラックリストに載せられたとき、仲間を密告するより、そのプールを進んで手放した。
トランボは、刑務所から出てすぐから、すさまじい不屈の精神と攻撃性で仕事を勝ちとり、苦難を乗り切った。
トランボは、苦境にあっても抜け目なく、前向きな男だった。
トランボは仕事を頼まれて、断ったことがほとんどない。いつも限界以上の仕事を引き受けた。貧しかった少年・青年時代を忘れていなかったからだろう。
トランボは、衝動的でありながら、粘り強く、その集中力は、ほとんど執念にひとしいものだった。
トランボは、アイデアノートをもっていた。使いきれないほどのアイデアが書き込まれていた。将来必要になったときのために、アイデアを書きためていた。それをもとに脚本を書き、売れたら、アイデアノートから、その項目を消してしまう。
1943年12月トランボはアメリカ共産党に入った。1944年5月アメリカ共産党の党員は8万人だった。ニューヨーク市で1945年に2人の市議会議員が当選した
「入党を後悔したことはない。いや、入党しなければ後悔していただろう。それは、生きることそのもので、歴史上の重要な時期、今世紀で、もっとも重要な時期、もっとも壊滅的な時期の一部になることだった」
1935年から45年のあいだに、共産党にかかわった人は100万人に近い。
トランボは、ハリウッドのなかで、表だって共産党員として激しくたたかった。協調路線はとらなかった。
トランボは現実主義者だったから、刑務所行きになることが分かっていた。それで、しっかりと目を見開き、志を高くもって、苦難の道を歩きはじめた。
トランボに励ましや称賛の電報が殺到した。しかし、トランボには汚点がついた。
トランボは1948年に共産党を離党した。
トランボが刑務所に入ると、そこには、トランポを刑務所送りにした元国会議員のバーネル・ノーマスと出会うことになった。給与の水増し請求をして、実刑をくらったのだった。せこい国会議員は、アメリカにも日本にもいるのですよね・・・。
刑務所には入れられたけれど、トランボは自分のしたことに自ら罪の意識はなかった。HUACへの協力を拒否したことは誇らしい行為だったと確信していた。
トランボは模範囚として2ヵ月の減刑があり、10ヶ月間で刑務所から出てきた。
トランボは、1975年に正式にオスカー賞が与えられた。そして、翌76年9月に亡くなった。
アメリカにも、すごい映画人がいたのですね。マッカーシー旋風、そして今なお激しいアカへの偏見が根づいているアメリカで果敢にたたかった、その勇気と才能には驚嘆するばかりです。
(2016年7月刊。2000円+税)
トランボ
