著者 沖縄タイムス編集部 、 出版 沖縄タイムス社
沖縄にある米軍基地は、かつてアメリカのベトナム侵略戦争の前線基地でした。また、米軍基地には、かつての731部隊のような化学兵器を扱う部隊だけでなく、核攻撃の部隊も常駐していました。
この本は、そんな米軍基地で働いていた日本人従業員に取材し、その実態を暴いています。大変な労作だと思いました。
沖縄の米軍基地で働く従業員数のピークは6万7800人(1952年)。
明らかな人種差別があった。上からアメリカ人、フィリピン人、ジャパニーズ。一番下が琉球人。トイレも、琉球人だけが別だった。
アメリカ軍の高等弁務官6人のなかで、キャラウェーは強烈だった。ありとあらゆる面で琉球政府に口出しした。
1969年、ベトナム戦争が泥沼化していたとき,米軍は沖縄の大型クダボートをベトナムに派遣しようとした。全軍労(全沖縄軍労働組合)は、戦地への派遣反対闘争に取り組んだ。しかし、24人の日本人労働者をこっそりベトナムへ連れていった。3ヵ月後、全員が無事に日本へ帰ってきた。良かったですね・・・。
アメリカ軍は,北部訓練場内にベトナムの現地集落を再現し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)兵の制圧を想定した訓練をした。そのとき、日本人住民が現地人役として訓練に呼ばれ、中学生まで参加した。ベトナム人の代役をすると、大人は1日1ドルの日当がもらえた。
知花弾薬庫には、267化学中隊という部隊があった。69年に毒ガスが漏れる事故が起きた。ベトナム戦のまっただ中、弾薬庫は24時間フル稼働した。倉庫に弾が入りきらず、道の両脇に弾薬箱をずらっと並べて、ほろをかけた。あれだけの弾をつかっても、アメリカはベトナムに負けた。
ベトナム戦争が始まったころは、アメリカ兵は「正義の戦争だ」と自信満々、意気揚々としていた。しかし、1970年ころには、兵隊の目が暗かった。ベトナムでは、子どもさえ信用できない、怖い、と兵隊が言っていた。
基地で働く人々は、沖縄戦を生きのびたのに、またまた人殺しの手伝いをしていていいのかという意識にさいなまれるようになった。
復帰直前まで、沖縄の基地には核兵器が大量に貯蔵されていた。1960年代後半には、千数百発にのぼった。1967年1月、核地雷の操作訓練中に放射性物質がもれ、アメリカ兵1人が被爆した。
アメリカ兵がPXで万引きするのは、捕まって刑務所に入れば、ベトナムに行かずにすむから・・・。アメリカ兵にとって安心なのは、沖縄と海の上だけだった。アメリカ兵はベトナム戦争に行く前は紳士的だけど、帰ってくると、人が変わったように乱暴な言葉づかいになった。
人を殺しているから、普通の精神状態ではなかったのだろう。ベトナム戦争へ出撃が決まったパイロットの壮行会は、明日は死ぬ身だから浴びるほど飲んでめちゃくちゃになる。
その多くが二度と戻って来なかった。翌日は死出の旅路だから、ホンモノの送別会だった・・・。
ベトナム戦争と結びつきの深かった沖縄の米軍基地の実際を、改めて知ることのできる貴重な本です。
(2013年11月刊。1905円+税)
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