(霧山昴)
著者 濵 道生(編著) 、 出版 部落問題研究所
八鹿(ようか)高校事件といっても、50年以上前のことですから今では知っている人はどれほどいるでしょうか……。
八鹿高校事件が起きたのは1974(昭和49)年11月22日。私が弁護士になったのは、この年の4月です。横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)に登録したばかりでしたが、同期の弁護士たちが峯田勝次弁護士など何人も八鹿の現地に決死の覚悟で出向いて、その凄惨な状況を語るのを聞きました。その意味で、私にとっても忘れることが出来ません。
部落解放同盟(解同)浅田・丸尾派の数百名が八鹿高校の教職員70人を白昼襲撃し、体育館などで13時間に及ぶ激しい集団リンチを加えたのです。まったく、信じがたい凶暴な集団テロです。28人が即日入院し、主要ターゲットとなった片山教諭は意識不明の重体となって、4か月もの長期入院を余儀なくされました。
問題は3つあります。一つは、解同浅田・丸尾派の常軌を逸した、数百人による集団リンチがなされたこと。それに付和雷同した人々が多数いたということ。
その二は、警察が目の前で暴行・傷害事件が起きているのに、何ら制止することがなく、手をこまねていたことです。これは、あとで、被害者は共産党だから放っておけ、解同と共産党が共倒れになったらもうけものだという政治判断を警察庁のトップがしていたことによることが判明しています。
その三は、マスコミがほとんど事件を報道しなかったことです。解同タブーがマスコミを縛っていたのです。新聞もテレビも、あとになって世論の風向きが変わり、警察が主犯の丸尾たちを逮捕するようになってから、恐る恐る報道しはじめたのです。当時、この八鹿高校事件を連日報道していたのは共産党の機関紙(しんぶん赤旗)だけでした。
この本は、事件当時、八鹿高校に在籍していた高校生たちの手によって事件が再現されています。読み進めると、そのあまりにもむごい集団リンチが高校で、大勢の高校生の見ている前でも白昼堂々となされていたことに背筋の凍る思いがします。
現地八鹿に駆け付けた安武ひろ子参議院議員(共産党)の体験談は実にすさまじいものです。負傷した教員が入院している病院に行くと、そこにも解同の青年行動隊員がたくさんいて、安武議員を捕まえようと迫ってきた。そこでそこにいた機動隊の列に飛び込む。ところが機動隊員は解同を排除することなく、安武議員を助けようともしない。そこで、安武議員は裸足で氷雨の道を再び走って逃げた。足は泥まみれで血がにじんでいた。誰かが自分のソックスを脱いではかせてくれ、赤いスニーカーを差し入れてくれて歩けるようになった。安武議員はスポーツマンの父のDNAを受け継いで足が速かったことに感謝した。このように語っています。恐るべき状況です。
八鹿警察署では署長と次長が交代で雲隠れして、解同の暴力を取り締まることは一切しなかった。警察が八鹿高校事件の渦中でまったく動かなかった事情は、「八鹿高校事件の全体像に迫る」(部落問題研究所)で詳しく解明されています(45.46頁)。この本については、前にこのコーナーで紹介しています。必読文献です。
解同は、片山教諭など2.3人をやっつけたら八鹿高校はつぶせるとみていた。ところが、全員の教師が集団になって抵抗する。教師をやっつけたと思ったら、今度は生徒が集団で立ち上がった。解同の予想や理解をはるかにこえた出来事が起きた。そうなんです。教師集団から一人の脱落者も出なかったとのこと。すごいことです。
なぜ、生徒たちが集団で解同の暴力に体を張って立ち向かったかというと、そこには八鹿高校の伝統的な、自由で伸びのびした教育があったからなんです。その点が実にすばらしい。このことが、本書では当事者だった高校生の体験記であますところなく明らかにされています。読んでいて、つい涙がこぼれてしまうほど感動的です。
八鹿高校には生徒会ではなく生徒自治会がある。役員はきちんとした選挙で選ばれる。私も高校2年生のとき、生徒会長(総代と呼んでいました)に立候補し、休み時間にタスキをかけて応援弁士と一緒に全クラスを訴えてまわったことを思い出しました。幸い当選しましたし、当時の生徒会担当の教諭とは今も交流があります。
八鹿高校の職員室は先生たちが大声で笑いあっているし、先生とダベっている女子生徒がいて、自治会の役員は先生と交渉したりしている。教師と生徒とは対等で自由な人間関係があった。若い教師が威張っていて、生徒が教師より威張っている。信じられません。
八鹿高校の民主主義のバロメーターは、職員室のマンガの数。マンガを持ってきたら普通の学校なら没収されるけど、八鹿高校では教師たちがマンガクラスと称して、きそって読んでいる。
大変貴重な記録です。500頁近い本なので、準備書面を書くあいまに1週間かけて読了しました。
(2026年1月刊。3850円)


