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虚構のナチズム

著者:池田浩士、出版社:人文書院
 1930年当時のドイツの人口は6300万人。そのうち、ユダヤ人は56万人ほど。つまり、全人口の1%にもみたなかった。いったい1%しかいないユダヤ人がどうして全ドイツの脅威として感じられたのか。また、ドイツにいたユダヤ人が56万人というのなら、アウシュヴィッツなどで殺された600万人ものユダヤ人はどこから来た(連行されて来た)のか。これをドイツの若者たちに考えさせたという教育実践が紹介されています。なるほど、と思いました。
 1936年にオリンピックがドイツで開催された。このときヒトラーは、ニュルンベルク法の精神に反する超法規的な譲歩を行ってまて、オリンピックを実現した。オリンピック期間中は、ドイツの町々から反ユダヤ人キャンペーンのポスターその他をすべて撤去した。外国の選手団にユダヤ人がふくまれていても妨害しないし、ドイツ代表団に2人のユダヤ人選手を加えることも決めた。うひょー、そ、そうだったのですか・・・。
 オリンピックの終わった3週間後にニュルンベルクで開会されたナチ党の第8回大会は、「名誉の党大会」という名称を掲げた。
 1937年7月、ミュンヘンでヒトラー頽廃芸術展と題する美術展を開いた。その4ヶ月半のあいだに200万人ものドイツ人が観賞した。終了後、オークションで売却され、国家は莫大な利益を得た。
 ナチズム体制とともに、ドイツ市民の映画をみる回数が増えていった。それはドイツにとって戦況が不利になっていった1943年になっても変わらなかった。
 窮屈な暮らしのなかで人々が映画に娯楽を求め、時代が悪くなればなるほど映画が遺されたわずかな楽しみとなっていた。
 1934年6月、ヒトラーはSA隊長のエルンスト・レームなど幹部たちを急襲し、裁判抜きで処刑した。当時の公式発表では死者77人とされていたが、実は1000人をこえることが大戦後わかった。
 SA隊員には「第二革命」を唱えるものが少なくなかった。ヒトラーの首相就任は「国民革命」の第一段階にすぎず、このあと、民族民衆自身が真に国家社会の主人公となるための「第二革命」が闘われるはずだというもの。これはヒトラーにとって容認しがたい過激主義だった。ヒトラーは、この事件のあと以後、千年間、ドイツにはもはや革命は起きないと宣言した。
 ナチス・ドイツの社会の実情を多面的に追跡した労作です。たくさんの知らないことが書かれていましたが、大半を省略してしまいました。
(2004年3月刊。3900円+税)

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