(霧山昴)
著者 宮下 遼 、 出版 講談社現代新書
オスマン帝国が滅亡したのは第一次世界大戦後の1922年。それまで、戦争や内乱は何度もありましたが、それでもオスマン世界は緩やかな結びつきを保ちながら470年にわたって、全体としてみれば平和な統治を享受し、人々は安全かつ豊かな生活をたのしんだ。
オスマン帝国の統治者たちは、強力な軍事力によって征服した土地から、 ただ財と人を収奪するのではなく、むしろ末永く支配すべく優秀かつ信頼のおける人材の獲得とその養成という不断の努力を重ねた。
常備歩兵軍団イェニチェリは史上空前の規模を誇り、「御門の奴隷」と称された、文武両用の選良集団の精緻な育成制度を生み出した。
オスマン帝国の統治者たちは、治安が保たれ、滞りなく納税されているのであれば、臣民たちの日常生活や信仰には立ち入ろうとしなかった。
オスマン帝国の支配は放任的で、むしろ寛容と評された。
ここでは、さまざまな言語が交わされ、モスクや教会やシナゴーグが軒を並べた。
このオスマン帝国が623年にも及ぶ長命を保ったのは、広大かつ多様でありながら、緩やかなまとまりを有していたから。
オスマン帝国の大宰相は292代、218人いて、その少なくない者が、結局、処刑されたり追放されている。
オスマン帝国においては、帝国の政局が、ときに帝王の大御心(おおみこころ)一つで変転した。帝王個人の裁量に依存していた。
イスラーム法の運用を担当する法務官僚(ウラマー官僚)が文官職の大半を占め、彼らの多くはオスマン宮廷を生きのびた。
イェニチェリ軍団は、1609年には1万3千人から4万7千人にまで大増員された。とくに17世紀になると、イスラーム教徒出身者が世襲し、軍功によって出世していった。16世紀末以降、オスマン宮廷で急速に力をつけたのは、ハレムの守謀を預かる黒人宦官(かんがん)たち。オスマン家の家宰として振るまった。イェニチェリ軍団は1826年に解体された。
オスマン帝国では皇子のうちの1人が帝王になると、他の兄弟たちは全員が絞殺された。内乱が起きるのを未然に防止するためです。それは、他の兄弟に野心があるかどうかで決められるのではなく、全員一律でした。メフメト3世が即位したときには、なんと19人もの皇子を絞殺したというのです。
オスマン帝国は、1918年、最後の帝王メフメト6世のもとで戦った最後の聖戦に200万人もの死傷者を出して敗北した。そして1923年10月、ムスタファ・ケマルが初代のトルコ共和国大統領に選出された。
オスマン語は、トルコ共和国の必修科目となっている。
オスマン帝国全史をざっと眺めることができました。
(2025年3月刊。1650円)


