(霧山昴)
著者 太田素子 、 出版 藤原書店
江戸時代の百姓がどんな子育てをしていたのか興味があり、一日かけて読み通しました。著者は私と同じ団塊世代であり、この本は20年前の本の増補新版です。470頁もある大作なのです。
江戸時代は、基本的に皆婚社会。そして、子宝的子育てが強かった。
しかし、江戸時代は「間引き」していたんじゃないか…、という疑問がありますよね…。
当時は、「間引き」より、「子返し」「お返し」という言葉を多く使った。いったい、どんな違いがあるのでしょうか…。
「子宝」という言葉は山上憶良の「子を思う歌」…銀も金も玉も何せむに、まされる宝、子にしかめやも…に起源があります。
すでに喜寿を迎えた私にも、「子宝」というのは、まさしくそういう実感があります。子どもを育てて、孫が身近にいてくれたら、これこそお金なんかに代えがたい尊いものを感じます。
18世紀後半の日本では、余裕のある階層では子どもは3人から4人、民衆は1人か2人。いえ、たくさん産んでも、病気などからどうしても生き残るのは少なかったのです。それでも、子が生まれたとき、生かす、生かさないという判断はあったようです。
平均寿命は明治に入っても男42.8歳、女44.3歳と、「人生は40年」だった。戦後になって、「人生は50年」となった。これは、乳幼児の死亡率が高かったことによる。乳幼児期を無事に脱した人は50年以上の余命があった。
農村でも、長子相続ではなく、均等相続が一般的な村もあった。
9人の子が産まれても、3人が幼くして死亡し、2人は「子返し」され、残り4人が成人して結婚した。
江戸時代に恐れられていたのは、疱瘡(天然痘)だった。軽い疱瘡ですめば、免疫が出来て、あとはかからないことをみな知っていた。
百姓は、子どもが複数生まれなければ困るし、あまり多くても困難をかかえた。「留」「捨」の名前のついたあとは子どもは産まれていない。昭和になってからも、私も「トメ」「ステ」というお婆さんには何人かにお会いしました。
「子返し」の一般的な方法は「押す」ことだった。そして、「子返し」は死産、つまり死んで産まれたを偽って行われた。
自分の乳飲み子を置いて出る乳母奉公は、近世中期の戯作になると、「もっとも哀れな渡世」とみられていた。乳母は、我が子とともに奉公するものと思っていましたが、違うのでしょうか…。
産婆は、取り上げ婆ともいいました。
江戸時代の死因の第1位は疱瘡で、疱瘡の死者の7割が乳幼児。
子どもが大きくなって、8歳になると手習いを始め、10代後半に学問や武術の修行を始める。男子18〜20歳で、前髪剃り、改名(元服)とともに、そのその後に伊勢熊野へ参詣する。女子は15〜16歳の婚姻のあとに、日光や柳津詣でなど、長期にわたるグランドツアーに出かける。
日本人は昔から日記をよく書いていると欧米人から驚嘆されているそうです。読み書き算盤を寺子屋で学んだ日本人は、ともかく文字を書いたようです。そして、それを学者は、こうやって読み解いて、私たちに江戸時代の庶民の生活の実情を教えてくれるのです。ありがたいことです。
(2020年5月刊。4840円)


