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ポルトガル限界集落日記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)

著者 浅井 晶子 、 出版 集英社

 ドイツ文学翻訳者の日本人女性がドイツ人の夫と2人して、ポルトガルの山深い限界集落に移住した体験記です。とても面白く、一気に読みふけりました。

ポルトガル人は怠け者とコメントされることも多いけれど、実際には働き者なんだそうです。労働時間は短くないし、時間外労働もいとわない。

 ところが、予定通りに仕事が進まないのはよくあること。そんなとき、ポルトガル人は、あっさり明るく謝罪する。ときには、ビールをおごってくれたりもする。頼まれた仕事をすべて断らずに受けてしまって、対応しきれなくなったから仕事が進まないだけなのだ。

 ポルトガルの田舎では、ある世代より上の女性は、夫を亡くすと黒い服しか着ない。

ポルトガルの田舎では、ワインはほとんど水と同じ。日常生活の一部として、欠かせない存在。どの家にも「アデガ」と呼ばれるワイン蔵がある。

ポルトガル人にとって、昼食は聖なる時間。昼休みに入る時間は正確で、たいてい2時間ほど、ゆっくりたっぷり食べる。ワインは欠かせないお供だ。午後から仕事があっても、車を運転していても、かまわない。自家製ワインに防腐剤など一切入っていないので、悪酔いしない。店でワインを飲んでも料金はとられない。このマカ不思議だ。

ところが、多くの女性がワインを飲まない。ワインによる死亡事故、DVなどがあるため・・・。ワインには、人の愛も憎しみも恨みもこもっている。

うむむ、これは、なんということでしょう・・・。

ポルトガルで山火事は人災。育つのが早く、薪(たきぎ)や製紙の原料とするユーカリは、非常に燃えやすく、地下水を吸い上げ、土壌を乾燥させる。

ポルトガル料理は日本人の口によくあう。なんといっても魚介類が豊富だ。

塩タラは、ポルトガルでは特別な存在。バカリャウと呼ばれる。そしてポルトガル人は、よく米を食べる。豆や菜の花、そして、ニンジンの炊き込みご飯は、とても美味しい。

ポルトガル人はスープ好き。メインの食事の前に、必ずスープを飲む。スープは、日本人にとっての味噌汁のような、欠くことのできない食事の一部だ。

田舎生活は健康的だというのは必ずしも真実ではない。田舎には、都会にない多くの危険が潜んでいる。

ポルトガルで「移民」というと、国を出ていったポルトガル人同胞をさす。ポルトガル語は、2億人のブラジル人が話すものが世界標準になっている。

ポルトガル人の生活に欠かせないのがオリーブオイル。自家製オリーブオイルを何にでもかけて食べる。オリーブオイルは傷にも火傷(やけど)にも、肌の手入れにも使う、万能薬。ランプの明かりもオリーブオイルだった。

最後に、外国暮らしのために、もっとも大切なのは、滞在許可証とお金だとのこと。

ポルトガル人の収入は、ヨーロッパ平均より、ずっと低い。そして、物価は高い。ところが、みんな生活を楽しんでいる。現金収入の額だけでは貧富では測れない。ポルトガルの山奥での暮らしは、お金では買えない価値がある。

一緒にワインを飲んで笑いあう、なにげない「いま」を大切にしたい・・・。よく分かります。

でも、山奥の暮らしは、私には無理です。本に囲まれていないと私はダメなんです。

(2026年1月刊。1870円)

日本の馬

カテゴリー:生物

(霧山昴)

著者 近藤 誠司(編) 、 出版 東京大学出版会

 馬って、日本列島に昔からずっといたかと思っていました、違うようです。そして、馬というのも外来語であって、固有語はないそうです。

 日本にいる馬について、過去・現在・未来を語っている本です。

 3世紀の「魏志倭人(ぎしわじん)伝」では、邪馬台国に馬はいないとされていて、古墳時代中期以降に馬が登場する。4世紀以降のこと。

 鎌倉時代から戦国時代にかけての武将が乗った馬は、体高148センチから135センチと、非常に大きな馬格をもっていた。戦場に使う軍馬は大きかった。

 農村地帯の馬は四尺(120センチ)ほどの小型が好まれた。飼料が少なくてすみ、荷を積みやすいから…。

 日清・日露戦争のころ、日本の軍馬について、諸外国の軍人から「日本の馬は馬ではない。馬の皮をかぶった野獣だ」と酷評された。それほど、かみつき、けとばし、扱いにくかった。それで、日本政府は、在来馬をすべて去勢し、西洋馬におき換えることにした。

日本の在来馬は、すべてモンゴル在来馬に由来する。

 宮崎県の都井(とい)岬にいる御崎馬は、半野生の馬。江戸時代、高鍋藩には5000~8000頭の馬がいた。ここでは、周年自由放牧している。現在は111頭(2020年末)がいる。春にはオス1頭、メス2~3頭のハレム群が形成され、毎年15~20頭の子馬が生まれる。

 ビジターセンターがあり、観光客がガイド付き御崎馬を観察できる。

 大牟田市にあった三池炭鉱では、坑内運搬のため対州馬を使役していたことがある。一度坑内に下げられた馬は、死ぬまで坑外に出されることはなく、平均2年10ヶ月しか生きることができなかった。それだけ過酷な労働(衛生)環境だったわけです。

野生馬の寿命は長くて32歳で、30歳ほど。

 日本の在来馬は側対歩(そくたいほ)をする。側対歩とは、2拍子のリズムを刻む対称歩法。同側の前後肢がほぼ同期して動くところが速歩と異なる。側対歩は重心を左右に移動する必要があるため、キリンやラクダなど重心が高い位置にある四肢の長い動物で見られる歩法。

 側対歩するモンゴル馬はそれをしない馬の2倍の高値がつく。それは、長時間馬にのって移動するとき、騎乗者は、上下動の小さな側対歩をする馬に乗るほうが疲れが少ないから。

 在来馬はタフであり、粗食にもよく耐えることを学問的に裏付けています。さすが学者ですね。馬のことをいろいろ知ることが出来ました。引退したサラブレッド馬に観光牧場で乗ったことがありますが、意外に高いので、怖いくらいでした。

(2021年10月刊。4950円)

「平和国家」日本の軍事を考える

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 佐道 明広 、 出版 吉川弘文館

 アメリカのトランプ大統領がいきなり始めたイラン攻撃は、まさしく国際法にも国連憲章にも明らかに反します。そのアメリカに対して批判することもしない(できない)高市首相は情けないとしか言いようがありません。スペインの首相はいち早くトランプを批判しましたし、極右と言われているイタリアの首相までトランプを批判しました。

 高市首相がアメリカに行って、手を差しのべて握手しようとするトランプに抱きついている映像はみっともない限りです。アメリカの航空母艦の上で、トランプの横に立った高市首相はとんだりはねたりという醜態をみせました。日本の首相がこんな低レベルの人間だというのを世界に見せて、同じ日本人として恥ずかしいとしか言いようがありません。

 本書は、戦後日本の軍事との関わりをたどっていますが、最後にトランプ下のアメリカとの関わりで次のように厳しく指摘しています。

 トランプ大統領の言動は、自由や民主主義という価値観を重視せず、パワーによって諸国を動かす、場合によっては服従させようとしているようにも見える。そのため、ヨーロッパではNATOによる安全保障体制に頼るのではなく、独自の安全保障体制を構築しようとする試みが生まれている。アジアの多くの国々でも米国への不信は増大し、米中のどちらにも組しない在り方が模索されている。

 トランプ大統領は、在日米軍基地駐留経費の負担や、冷戦終了後に国際法共財的役割を担ってきたはずの日米同盟について、基本的な理解が足りないのではないかと思える。

 財政的には、現在の日本は余裕がなく、しかも現在進められている日米の一体化は、最悪の場合、日本の国土が戦闘に巻き込まれることになる。多くの国民は、沖縄が戦場になる危険は認識していても、自らの居住地がそうなる可能性は考えていないだろう。

 トランプ政権の登場によって生じた事態は、日本も含めた多くの国の予想を超えているのではないだろうか。トランプ大統領は、国際秩序の意義を認めようとせず、破壊に導くような政策を展開している。国際社会はパワーが第一となり、まるで19世紀に戻ったかのような様相を呈しつつある。

 日米安保体制に依存する日本の安全保障政策についても、徹底的に議論すべきであると考える所以(ゆえん)である。

もっとも重要なことは、在日米軍基地は日本の防衛を直接の役割としていないことである。米軍は世界全体を視野に入れて戦略を作成しており、日本という一つの戦域だけで判断できることには限界がある。

トランプ政権は、高関税政策で自由主義貿易体制を混乱させ、米国内政治でも自由主義や民主主義、法の支配とは相いわないと思える施策を行っている。日米同盟は、自由主義という精神的基礎を失いつつあるのだろうか。

 米中対立が本格化した場合には、日本を戦火に巻き込む可能性も生じるものとなっている。トランプ大統領の、一方的に高関税や防衛費増額の要求をしてくる姿勢に、同盟国としての信頼性も揺らいでいる。

今後の日米関係に不安を感じるものが多くなり、米安保体制の見直しや自主性が改めて唱えられるようになっているのも不思議ではない。

幸いにして一度も戦線に出ることがなかった自衛隊は、本当の戦場を知らない「甲隊」でもある。実際に死傷者が出る戦闘に耐えられるのかという問題もある。

 本書の刊行は昨年(2025年)12月20日です。今年はじまったアメリカとイスラエルによるイランへの先制攻撃、しかも交渉途中であり、宣戦布告もない突然の攻撃でした。戦前の日本の真珠湾攻撃について多くのアメリカ人は卑怯だと怒ったわけですが、それでも数時間遅れではあっても宣戦布告はしたのです。アメリカは卑怯すぎませんか………。

 戦後日本の「専守防衛」対策の破棄をふくめて、基礎的な軍事知識も得て、大変勉強になりました。

(2025年12月刊。2750円)

鳥羽伏見の戦い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 野口 武彦 、 出版 中公新書

 幕末の状況を調べています。徳川幕府の失墜が誰の目にも明らかとなったのが、この鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍に完敗したことでした。

 慶応4(1868)年1月3日から6日までの4日間、薩摩藩を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激突した。両軍あわせて2万人の兵士が激しく戦った。戦死者は薩長側100人、幕府側290人。

前年の慶応3(1867)年10月に、将軍慶喜は朝廷(孝明天皇)に対して、大政奉還を建白した。しかし、慶喜は将軍職を辞めて引退するつもりではなかった。むしろ、朝廷を形ばかりのものとして引き続き政権を担当する(実権を握る)つもりでいた。

 薩摩の西郷隆盛はそれを見破り、幕府を武力で打倒するつもりだった。それが鳥羽伏見の戦いで現実化した。

それには仕掛けが必要だと西郷隆盛らは考えた。それが江戸市中を不安にかきたてることだった。諸国の浪人を募集して、500人の浪士隊を組織して前年11月から、挑発行動を開始する。押込み・掠奪・強請(ゆすり)が頻発し、御用金強盗が続発した。12月23日、江戸城二の丸が炎上した。庄内藩の警備屯所に銃弾が撃ち込まれた。

 12月25日、薩摩藩焼打ちの命令が下され、千余人が包囲。猛烈な市街戦となって、薩摩藩側は49人が戦死した。首謀者は薩摩藩の軍艦に逃げ込んだ。これによって、大坂城内にいた幕府側の将兵は大いに沸き立ち、慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩に宣戦布告した。

 ところが、慶喜は明治になってから、知らぬ顔を決め込むようになった。敗戦した戦いの責任を回避しようとしたのだ。

 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗したのは新式銃がなかったので、新式銃をもつ薩長軍に完敗したという説は間違い。幕府軍側も元込銃である新式のシャスポー銃を装備していた。このフランス産シャスポー銃は射程600メートルで1分間に6回は発射できた。

 幕府軍は、シャスポー銃を備えた伝習歩兵が活躍した。ところが、薩長側は、それを上回る大砲と水銃を備えていた。薩摩軍の砲弾は1門から5月ずつ正確に発射された。敵の大砲に命中したのも、セオリー通りのこと。

 鳥羽街道では幕府軍は開戦準備の出来ていないところを撃ち込まれて大敗北。伏見では、長州藩の兵士は前に市街戦の経験もあった(禁門の変で敗退)ので、場馴れしていて奮戦した。そのうち、慶喜討伐の詔勅が出て、薩長側は勇気百倍。慶喜はついに公的に「朝敵」とされた。

幕府軍は指揮命令系統がなく、統制がとれずに、各隊はやがて勝手に引き揚げ始めた。戦場に錦旗が出現すると、慶喜はたちまち悲嘆し、朝廷に逆らう意思はなかったと言い出した。

戦局の大勢を決したのは大砲。フランス式の旋条山砲、四斤山砲を両軍とも使用した。4ポンド(1814グラム)の円錐弾を発射した。

 薩長軍が勝利して進軍すると、住民が歓呼して迎えた。それは戦争を終わらせたことを歓迎してのこと。そして、慶喜は1月5日に大坂城大広間で、大演説をぶったあと、1月6日の夜9時ころ、ひそかに大坂城を脱出し、軍艦に乗って江戸に向かった。部下を見捨てるなんて、まことに無責任な将軍です。

(2025年7月刊。946円)

徳政令

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)

著者 早島 大祐 、 出版 講談社現代新書

 徳政令が発令されると、土地を売り払った人々が売った土地の返還を要求する事案が頻発した。そこで、土地を買った側は、買いとった額の1割から2割を追加で支払うことによって、売買を確定させていた。それを示すのが、徳政落居状。

 徳政令によって債務が破棄されることを人々は初めのうちは歓迎していた。しかし、16世紀の終わりころには、忌避すべき悪玉的存在になっていた。

 中世の社会では、借りたお金は返さなければいけないという法とともに、利子を元本相当分支払っていたら、借りたお金は返さなくてもよいという法も、条件つきながら存在していた。

 中世の金融業者は、12~13世紀の借上(かしあげ)、そして13世紀からの土倉(どそう)がいた。中世の利子率は、一般に日5%。年にすると60~65%。

 祠堂銭(しどうせん)金融というのもあった。祠堂銭とは、永代供養などを目的に寺社へ寄進された資金を安定して運用するための金融のこと。元本保障と引きかえに、月2%という低利で貸し付けがなされていた。

 遣明船は、うまくいったら、200億円という巨大な利益が得られた。ほぼ毎年のように派遣されていた。室町幕府は、これによって、朝廷や寺社を圧倒していた。足利義満は、これでもっていた。ところが、次の足利義持は日明貿易を中心にしたので、この貿易利潤を失ってしまった。

 人々の不満を馬借(ばしゃく)たちが結びつけることによって大規模な蜂起へと結実した。残された手段は実力での債務破棄しかなかった。これが求めていた徳のある政治だった。

 蜂起した一揆は債務破棄という大きな成果を手にした。ところが、債務破棄を徳政だと主張した人々の思惑を超えて、徳政がひとり歩きを始めた。

 室町幕府四代将軍・足利義持の時代、応仁32(1425)年に幕府は民事訴訟制度を整備して、利用を呼びかけた。その対象には地下人(じげにん)と呼ばれる一般の人々も含まれている。幕府の法廷に一元化され、幕府法が寺社法の上位に定置された。

 分一(ぶいち)徳政令が発布した。幕府は、徳政を認めるかわりに、帳消しにした額の10分の1を幕府に納めさせた。「分一」とは、「〇〇分の一」というのに由来する。借金を帳消しにするかわりに、幕府に負債額の1割をよこせという法令。その背景には、室町幕府の財政難があった。

 ところが、分一徳政令によって1割を収納するはずの幕府には、担当者が1人しかいなかったことから、きちんと取り立てることが出来なかった。担当者は、1人から20人に増やされた。

借用ではなく、「誘取(さそいとり)売券」という売買の体裁をとって貸付がなされるようになった。徳政令の対象とならないように、借用書ではなく、売券をつかってお金を貸した。土地を担保にして「貸した」のではなく、担保地を「買った」という体裁とした。

 やがて、徳政令は戦争と一体化し、徳政には戦のにおいがつきまといはじめた。徳政に対する嫌悪感が強まった。徳政一揆そして徳政令の内実が軍隊による略奪を追認するものへ変化したため、徳政令は人々に忌み嫌われるようになった。徳政は、経済慣行だけでなく、中世社会の絆までも破壊しはじめていた。

徳政指置(さしおき)状は、土地売買を徳政から保障する文書。そして、徳政落居状という独自の方法による土地売買契約の保障が行われた。徳政によって、地域社会の疲弊は極限にまで達していた。

日本中世の貨幣経済は中国からの輸入銭に依存していた。その輸入が15世紀末ころに不調となった。江戸時代の石高(こくだか)制は輸入銭の不足も原因となっていた。

 借銭を帳消しにすることを庶民が求めたあと、実は、それがむしろ嫌われるようになっていったことがよく分かる本でした。

(2018年8月刊。880円+税)

 チューリップが咲きはじめました。3月15日(日)には初めて2本の花を見つけましたが、午後には6本の花が開いていました。

 22日(日)には、もう数え切れないほど花が咲いています。

 朝、雨戸を開けると、チューリップの色とりどりの花が出迎えてくれます。春が来たことを実感させてくれます。

 赤、真紅、黄色、白そしてまだら模様の茶色など、本当にカラフルで、見ているだけで心がなごみます。

 花粉症さえなければ、春は最高なんですが・・・。

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