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子どもの危機をどう見るか

カテゴリー:社会

著者   尾木 直樹 、 出版   岩波新書
 2000年8月が初版ですので、10年以上たっていますが、ここに書かれている内容は今もそのまま通用するのではないでしょうか。
 学級崩壊現象が1997年以来、一気に全国の小学校に広がりを見せ、現在もなお、教師たちを疲弊させている。
 全国の7~8%の学級で、学級崩壊現象が発生している。引き金となる子どもが主因ではなく、同調圧力(ビア・プレッシャー)を受けて、同じ行動に走るその他の子どもたちの行動こそが問題なのである。学級崩壊の発生プロセスには、
  ①引き金っ子の存在、 ②他の子どもの同調圧力の強さ、 ③崩壊期間の長さという三つの要素がある。
 子どもたちは、反抗したり、無視したり、みんなで担任をいじめることによって、自己の存在を確認している。
 学級崩壊は小学校に限定したほうがよい。それは、その最大の本質が、一人担任制による「学級王国」体制の揺らぎにあるということだから。
 学級崩壊とは、小学校での学級カプセルという名の密室での教育実践が限界に達している現象。
学級崩壊とは、個々の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがある。要するに、小学校低学年における今日の学級崩壊は、幼児教育から小学校の集団的生活化へのソフトランディングが上手にできず、つまづかせている現象である。精神主義的な服従に強い、日常的に圧力を加えているのが、今日の学校の姿だ。
外界の価値観が大きく変化している時代だけに、ここから生じる生徒たちへの内圧が異常に高まったとしても、不思議ではない。暴力行為やパニックを子どもたちが引き起こしたり不登校に陥るのも理解できる。
産業社会への「人材育成」装置としての学校の役割は終わったと考えたほうがよい。工場で労働者がベルトコンベアーの前に5分前に集合し、自分を押し殺して一致「団結」し、整然と作業に従事できる人材を養成するために、学校があるのではない。
いじめによる被害者は、40人学級として、小学校では一学級につき2人、中学校では1人は必ずいじめで苦しんでいる子どもがいるということになる。
 いじめられた子の半数の親しか、わが子のいじめの被害とその苦悩を知らなかった。いじめっ子といじめられっ子が交叉したり、逆転するケースも珍しくない。
いじめの克服に必要なことは、クラスの友人の動向にある。いじめ問題の解決のカギは大多数の傍観者が握っている。いじめられている子どもたちの願いは、この傍観者たちが機敏に動いてくれることにある。
いま(1999年)、不登校の子どもは、小・中あわせて13万人近い。1980年代に不登校の子どもが増えたのは、明らかに学校の抑圧度が強まったことに関係している。
学校は、暴力と管理で生徒を押さえ込んだ。学校での管理が強化されていくなかで、生徒は思春期に抱く葛藤を教師にぶつけたり、友達同士が慰めあう場面がつくりにくくなり、学校自分にとって居心地が悪く、安心できない場所となっていった。
今日の管理主義は、かつての強面(こわおもて)の管理方法とは様相を異にして、比喩的に言えば、優しくほほえみながら進行し、強化されている。
日本でいま急速に進んでいるのは、「子ども期」の喪失状況。これまでの「子ども期」が成り立たなくなったまま、かといって新たな関係性の模索もなされていないという、子どもにとって厳しい状況がある。
 思春期の中・高生は、発達段階の特徴として自立を求めるからこそ、親や大人のコントロールから脱しようと欲する。ただ、そうすればするほど、反対に一人になる不安感は増大していく。皮肉にも、誰かに依存したいという心理が大きくふくらむ。だから、友だちと同じものを持ったり、身につけて安心する。このような友だちへの同調圧力というものがある。
「子ども期」とは、独立した人格の主体である子どもが、本来の主催者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障と解すべきである。
とてもいい本だと思いました。
(2011年9月刊。800円+税)

原発震災

カテゴリー:社会

著者  石橋 克彦  、 出版   七つ森書館
 昨年12月16日に野田首相が福島第一原発について「冷温停止状態になった」として「事故収束宣言」をしました。
 これで、マスコミの流れがまったく沈静化してしまいました。いまでは、メルトダウンの脅威は過ぎ去ったかのような扱いになっています。果たして、そうでしょうか?
 著者は、まったく早計だと断言しています。私もそう思います。炉心が溶融してメルトダウンしたまま、応急的な循還注水でしのいでいるのにすぎません。福島第一原発が、いつまた重大なトラブルや大規模の放射能放出を起こさないか、今もって予断を許さないのです。
とりわけ四号炉は心配ですよね。地震で建屋が倒壊して使用済み核燃料が露出してしまったら、東京をふくむ東日本全体が深刻な放射能汚染に見舞われてしまいます。一刻も早く手を打ってほしいと思います。細野原発相が4号炉の現地視察をしましたが、コンクリートの支えだけで、本当に大丈夫なのでしょうか?
そして、著者は「除染」の効果についても次のように疑問を投げかけています。
 除染事業が政府と自治体によって大々的に進められているが、基本的には、線量の高いところ、再汚染によって効果が疑わしいところは、避難したほうがいい。原発は安全だと国民をだまし続け、今では放射能汚染は除染すれば大丈夫だと偽って、多くの国民の「生」をズタズタにしている。
政府と御用学者は、かつて、日本は米英なんかに絶対に負けないと国民を汚染し、敗色濃厚になったらバケツリレーやら竹槍戦術でも勝てると欺いていたときと何ら変わらない。「ただの発電所」であるべき原子力発電所という施設が、一旦人間の制御から外れると、いかに凶暴に人間を蹂躙するものであるか、白日のものにさらした。
 原発の危機は、一般に短い周期の揺れに弱い。そういう性質をもつ強い揺れが、想定した倍以上の130秒くらい、とくに激しい部分も想定の倍以上の60秒間、原発を襲った。長時間の強い揺れは、くり返し荷重として構造物に厳しく作用し、疲労破壊を引き起こした。
地震研究者として、日本のような地震列島における原発は、技術と経営の両面からみて、実用的などんな対策を施しても、誰一人として安全を保証することなどできないと考えている。
 福島第一原発事故の大きな教訓の一つは、「起こる可能性のあることは、すぐにも起こる」と思うべきだということ。そもそも、大津波は災害を想定しなければならない場所で原発を運転するなどとは、暴風雪が予想されている冬山にツアー登山するようなもので、正気の沙汰ではない。
 これって、けだし名言というべきではないでしょうか。
 日本中のどの原発も、想定外の大地震に襲われる可能性がある。その場合には、多くの機器・配管系が同時に損傷する恐れが強く、多重の安全装置がすべて故障する状況が考えられる。
 原発が地震で大事故を起こす恐れは30年以上も前から指摘されていた。著者は1997年に「原発震災」という概念を提唱した。それは、地震によって、原発の大事故と大量の放射能放出が生じて、通常の震災と放射能災害が複合・増幅しあう人類未体験の破局的災害である。
 日本が多くの原発を建設した1960年代から30年間は、幸か不幸か日本列島の地震活動静穏期であり、地震の洗礼を受けることなく、原発が増殖した。ところが、1995年の阪神・淡路大震災のころから全国的に大地震活動期に入った。大地震の発生を普遍的法則によって一律に予知するのは、当分のあいだ不可能である。
 高名な地震学者による警世の書です。ぜひ手に取ってお読みください。
(2012年2月刊。2800円+税)

ソウルダスト

カテゴリー:人間

著者  ニコラス・ハンフリー  、 出版   紀伊國屋書店
 人間と同じように、わざわざ楽しみを求める動物種は多くある。
 彼らは、おおいに楽しみたがっている。モモイロインコは旋風を探し求める。イルカは船首が立てる波に乗るために船を追いかける。チンパンジーはくすぐってくれるように懇願する。散歩に連れていってもらうためなら、犬はどんな苦労も惜しまない。
 まんまと連れ出してもらえたときのうれしそうな様子。逆に、願いがかなわないのを悟ったときのしょげた顔は、犬を飼った経験のある人なら誰もが知っている。車に乗せられて外出し、広いところで駆けまわると思っていたのに、ペット・ホテルに預けられ、自分の存在が「保留」状態になるのに気付いたときの犬の姿ほど哀れを誘うものは、そうそういない。
死とは、意識のない状態。もう生きていないこと。何も感じないこと。命の匂いを嗅げないこと。意識のない状態を恐れるのは一種の論理的誤りだ。感覚のない状態は合理的に恐れられない。なぜなら、それは存在の一状態ではないからだ。存在しない人間は悲哀を感じない。死んだら、私たちが恐れるものなど、何が残っているというのか。
 意識のない状態は想像できない。心は、心のない状態をシュミレーションできない。
 人間以外の動物は死を恐れるだろうか?
 恐れない、いや恐れることはできないというのが従来の一般的な見方だ。
 それには、三つの理由がある。第一に、まだ自分の身に起こったことがない出来事を思い描けるとはとうてい思えない。死とは、もちろん生まれてからまだ一度も経験したことのない、仮想の出来事にほかならない。
 第二に、人間は死の証拠の積み重ねにさらされているが、人間以外の動物はそういうことはまったくないからだ。人間は自分が死なねばならないことを知っている唯一の種だ。そして、人間は経験を通してのみ、それを知っている。
 第三に、人間以外の動物は、死が最終的なものであることを理解する概念的手段がない。肉体の死が自己の死をもたらすことを、どうして動物が理解しうるだろうか。
 目の前で仲間の一頭が生きていることを永遠にやめたときに、何が起こったのかチンパンジーたちは理解するのに苦しんでいるから、これが自分を受け入れている運命だと想像できるはずがない。そして、想像できないものを恐れるはずはない。なーるほど、そうなんですか・・・・。
 ソウルダスト、すなわち魂の無数のまばゆいかけらを周りじゅうのものに振りまく。現象的特性を外部のものに投影するのは、あなたの心だ。この世界がどのように感じられるかを決めているのは、あなた自身なのだ。
 100年以上前に、オスカー・ワイルドは、次のように書いた。
 「脳の中ですべては起こる。ケシの花が赤いのも、リンゴが芳しいのも、ヒバリが鳴くのも、脳のなかだ」
自分であることの輝かしさに気がついた子どもは、すぐに他の人間の自己についても、大胆な推測をするようになる。もし、自分にしか分からないこの驚くべき現象が自分の存在の中心にあるのなら、他の人々にも同じことが当てはまるのではないか、いやきっとそうだ。
 子どもたちは、社会的相互作用や探究、実験を通して、ゆっくりと習得する。他者も現象的意識をもっていると考えていいことを、子どもは少しずつためらいがちでさえあるかのように理解する。だが、いったんそれを悟ると、人生や宇宙やあらゆるものに対する見方を急激に修正しなくてはならなくなる。というのは、重要度という点では、自分自身が意識をもっているという真実に次ぐ二番目の真実に行きあたったからで、それは意識をもっているのは自分だけではないという真実だ。自分以外の人間も、誰もが自立した意識の中心なのだ。人間が気がつくのは、自分たちが実は自己の集合体としての社会の一部だということにほかならない。
生物にとっての意識というものを考えさせてくれる本でした。
 私って何でしょう。死んだら、その意識はどこに行くのでしょうか。霊魂不滅とは、輪廻転生とは・・・・?
 この世の中は複雑怪奇、そして、すべては泡のように消えていくのでしょうか・・・・。
(2012年5月刊。2400円+税)

楽園のカンヴァス

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  原田 ハマ  、 出版   新潮社
 著者には大変申し訳ありませんが、まったく期待せずに読みはじめた本でした。私の娘がキュレーターを目ざしているので、親として少しは知識を得ようと思って、いわば義務の心から読みはじめたのです。
 ところがところが、なんとなんと、とてつもなく面白いのです。あとで、表紙の赤いオビに山本周五郎賞受賞作と大書されていることに気がつき、なるほどなるほど合点がいきました。江戸情緒こそ本書にはありませんが、パリのセーヌ川(らしき)の情緒はたっぷりなのです。 
推理小説では決してありませんが、その仕立てだと思いますので、粗筋も紹介しないでおきます。博物館や美術館にいるキュレーターの仕事の大変さが、ひしひしと伝わってくる本ではあります。
画家を知るためには、その作品を見ること。何十時間も、何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいない。
キュレーター、研究者、評論家、誰もコレクターの足もとには及ばない。
待って。コレクター以上にもっと名画に向き合い続ける人間がいる。誰か? 
美術館の監視員(セキュリティ・スタッフ)だ。監視員の仕事は、あくまでも鑑賞者が静かな環境で正しく鑑賞するかどうかを見守ることにある。監視員は、鑑賞者のために存在するのではなく、あくまで作品と展示環境を守るために存在している。
この本は、アンリ・ルソーの『夢』そして『夢を見た』という絵画がテーマになっています。どちらかが真作ではなく、偽作だという疑いがかかっています。それを7日間のうちに見抜かなければいけないし、それに勝てばたちまち億万長者になるというのです。
1908年、第一次世界大戦が始まる(1914年)前のフランス・パリを舞台とする描写があります。アンリ・ルソーはピカソとも親交があったようです。そして、『夢』が描かれる経緯が紹介されます。
果たして、この絵は本物なのか、偽作なのか。偽作だとしても誰が描いたのか・・・・。謎はますます深まっていくのでした。
なかなかに味わい深い絵画ミステリー小説でした。
一つの絵の解説本としても面白く読めます。巻末に参考文献も紹介されていますが、これをちょっと読んだくらいで書ける本ではないと思いました。底が深いのです。一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1600円+税)

帝の毒薬

カテゴリー:日本史

著者   永瀬 隼介 、 出版   朝日新聞出版
 戦後まもなくの日本の東京で、銀行員12人が一挙に毒殺されるという前代未聞の殺人事件が発生しました。いわゆる帝銀事件です。死者12人、重体4人という大惨事が白昼に都心で起きたのですから、日本全土を震撼させたのは間違いありません。
 つかわれた毒は青酸カリ化合物。遅効性のものです。16人全員にゆっくり飲ませて、まもなくバタバタと死んでいったのでした。即効性の青酸カリではそんなことはありえません。だから、毒性を扱い慣れていなければ、素人でできる犯罪ではありません。なにしろ、犯人自身も実演しているのです。もちろん、自分の分は安全なようにトリックを使ったのでしょう。結局つかまったのは平沢真通という画家でした。
画家にそんな芸当ができるはずもないのに、いったんは自白させて、有罪・死刑が確定したのです。死刑執行にはならず、いわば天寿をまっとうしました。もちろん、刑務所のなかで、です。
 では、いったい誰が犯人だったのか。この本は、七三一部隊関係者しかあり得ないというのを前提としています。
 七三一部隊は、中国東北部、当時の満州で中国人などを拉致してきて人体実験していました。マルタと呼び、医学レポートでは「猿」とも書いたのでした。日本人のエリート医学者たちです。東大や京大の医学部出身で、そのトップは軍医中将にまでなりました。石井部隊とも呼ばれました。戦後日本では医学部教授にカムバックし、ミドリ十字などを設立して、その中枢におさまったのでした。
 みんな墓場まで秘密を持っていけ、と石井軍医中将は戦後、命令しました。
 帝銀事件の「真相」を小説のかたちで明らかにした本として読みすすめました。
 松川事件と同じく、アメリカ占領軍の関わりのなかで、秘密文書が掘り起こされないと、本当の真相は明らかにはならないのだろうなと思いながら読了しました。気分の重くなる470ページという大作でした。
(2012年3月刊。2300円+税)

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