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更生に資する弁護

カテゴリー:司法

著者  奈良弁護士会 、 出版  現代人文社
私は面識ありませんが、刑事弁護で有名な故高野嘉雄弁護士の追悼集です。読んで大変勉強になりました。情状弁護に力を注いだ弁護士です。
無実の人を無罪にするのは当たり前で、情状弁護に刑事弁護の真髄がある。
 被告人が刑務所から出所するとき、高野弁護士は作業服と小遣いもって迎えに行った。すぐ働けるところ、社員寮もあるところを探して用意して。ところが、その人は一日で逃げてしまった。そのとき高野弁護士は、こう言った。
 「これでもええねん。おれに済まんことをしたなと思うだけでも、こいつええねん」
 これは、なかなか言えないセリフですよね。刑務所に13年間入って出所してきた人を迎えに行ったこともあるもあるそうです。私にはとても考えられません。
 100人に1人でもうまく更生してくれたらいいんだ。期待はし過ぎない。自分はやりたくてやっているんだから、それでがっかりもしない。
 結局、弁護士は自分の感性しか拠るべきものはない。建前の議論ではなくて、人間としてのコアに忠実に従わないと、弁護士として納得できる事件処理というのはできない。
 人間は多面的な存在だから、自分でも気づいていない多面性の一角を照らしてあげることによってかわっていくことができるという信念をもっている。
 弁護人は最後の情状証人だというのが持論である。
捜査弁護においては、被告人が自分の嫌疑を晴らそうと焦ってしまって、不利益な証拠についてウソだと分かるような供述をする、あるいは結果的に誤った供述をするのをいかに防止するかが大切だ。
 摂食障害を基礎疾患としているクレプトマニア(窃盗癖患者)は、20代、30代の女性が圧倒的に多く、摂食障害患者の44%が万引している。
 高野弁護士は万引をして捕まった女性を1年間も入院させて治療し、その結果、3度目の執行猶予を得たというのです。信じられない話でした。
 そして、高野弁護士とその被告人との間に往復した手紙が、弁号証として、裁判に有利な情状証拠として提出されました。そのとき、高野弁護士も手紙のなかで自分のことを赤裸々に語っていて、読ませます。心をうつ内容になっています。
 人間が反社会的行動に走るのは、その人が自分にとってかけがえのない存在というものを有していないからだ。自分にとってかけがえのない人々を有しているとき、その人を苦しませ、泣かせ、また絶望のどん底に陥らせ、あるいは経済的、社会的な苦境に陥らせるようなことは絶対にしない。
 これは、1970年代の厳しい社会状況の下で学生運動や党派活動のはざまの中で体験させられたり、あるいは20年間の弁護士生活の中で、いわゆる過激派の事件や一般の刑事事件を多数経験するなかで実感した結論である。
 弱い社会的立場にいるということが犯罪を犯した人々の劣等感、あるいは心情的歪み(社会に対する敵意等)をもたらしているというのが現実である。被告人らが有しているその劣等感、歪みを克服しなければ更生への意欲を形成できない。そういった立場の中で苦しみ、人間らしく生きてきた人々の生の声を聞くなかで、初めてこのような劣等感は消え、人間としての誇りを取り戻し、あるいは父母たちに対する否定的感情を克服できる。
 したがって、在日朝鮮人や被差別部落の出身者に対しては、そのようななかで苦しんできた父母の生きざま、苦しみ、嘆き、そして、そのなかで誕生した我が子に対する思いというものを法廷のなかでさらけ出せ、あるいは手紙等という形でさらけ出す必要がある。
 とても鋭い指摘だと感嘆しました。奈良弁護士会の皆さん、ありがとうございました。
(2012年10月刊。2700円+税)

敗戦と戦後のあいだで

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  五十嵐 恵邦 、 出版  筑摩選書
大変教えられることの多い本でした。たとえば、私は40年前の大学生時代、毎日が暴力に向き合う日々でした。私自身も、ヘルメットをかぶり、角材を持ったこともあります。幸い、殴られたことはなく(飛んできた石が頭にあたってケガしたことはあります)、誰かを殴ったこともありません。でも、もみあいの現場にいたことは何回もあります。そして、その騒乱の1年が過ぎると、すっかり忘れてしまったかのように、誰もそのことを話さなくなりました。まるで、そんなことはなかったかのように話題にすらのぼらなくなりました。
 それを話題にしたら、そのとき、どちら側にいたのか、敵か味方か、そして、それは何を目ざしていたのかをはっきりさせなければならなくなります。でも、それは意外にも難しいことなのです。幸いにして、学内でのリンチ事件というのはほんの少ししかありませんでしたし、学生が殺されることもありませんでした(病死とか、精神的におかしくなってしまった学生はいました)。
 この本は、戦争というもっとも極限状態に置かれた元兵士の人々が、なぜ過去をそのまま語ることはないない理由を明らかにしています。
大多数の日本人は、戦後日本の債権のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人としてのイメージを修復する機会をもった。しかし、シベリア帰りのように遅れて還ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。彼らが帰ってきたときには、既に、戦争全般だけではなく、復員、引揚げの体験についての国民的な物語がすでにできあがっていた。その結果、遅れて還ってきた者たちは、怖れ、好奇あるいは哀れみの目で見られ、その異質な戦後体験はメディアによって封じこめられてしまった。
 大日本帝国が崩壊したとき、688万人の日本人が外地に取り残されていた。内地の人口7200万人の9.6%にあたる。そして、そのうち367万人は帝国陸軍の将兵であった。
 引揚者は、劣った日本人として日本社会の周縁的な位置を与えられた。引揚者との対比で、本土を離れることのなかった日本人は、自らより恵まれた境遇を言祝(ことほ)ぎ、より純正な日本人として優越感をもつことができた。
 帰還者たちは、日本人の負の遺産を背負った周縁的な存在として差別されながらも、より純正な日本を照らし出す鏡として必要な存在となった。彼らは日本社会に受け入れられながらも、つねに懐疑の目で見られる両義的(アンビバレント)な存在であった。
 五味川純平は『人間の条件』全6巻を書くことで、過去を生き直した。何百万という同時代の読者も五味川の作品をとおして過去を再体験した。この再体験は、戦後という現在と戦時という過去との距離を確認するためのものとなった。
五味川は東京商科大学に入学したあと1年で退学し、東京外国語学校に入学し直した。唯物論研究会に参加していたため、西神田警察に1ヵ月拘留されたこともある。中国満州にある製鉄所で働いていたが、兵隊にとられ、日ソ会戦のあと、全滅に近い部隊で生き残った5人の一人となった。シベリアに送られる途中で脱走し、日本人による民主化運動に参加して、1947年暮れに日本へ帰国することができた。
 主人公梶のようなスーパーマンでさえ戦時下にあって効果的な異議申立ができないのであれば、誰にも歴史の流れを変えることはできないのであり、ただ生き延びて戦後にたどり着くことが最良の選択であったというのが妥当な結論となるだろう。
梶は、「俺が日本人だってことは俺の罪じゃない。しかも、俺の罪の一番深いのは、俺が日本人だってことなんだ」と嘆く。
 シベリアに抑留された日本人は80万人ほど。広大なシベリアに散在する2000ヶ所以上の収容所で長期に抑留された。そして、そこで10万人以上の日本人が亡くなった。この抑留体験は忌まわしい記憶であり、戦後日本の反ソ感情の核となった。
 1949年、ソ連の「民主化教育」によって熱心な共産主義者となった抑留者が日本各地でさまざまな騒ぎを起こした。多くのものは、日本に帰り着いてしばらくもしないうちに、その教育の成果を見捨ててしまった。メディアは帰還してきた「赤い」抑留者たちの攻撃的な行動を、あくまでも好奇の目で見た。
 抑留者たちの帰郷は、シベリアの収容所で思い描いたような、バラ色のものではなかった。さまざまな理由からその抑留体験は思い沈黙につつまれ、元抑留者たちの個人的な体験記も多くの読者を得ることはほとんどなかった。
日本語でよく使われるノルマが、シベリアでの元抑留者たちが日本に持ち帰ったロシア語だというのを初めて知りました。
 捕虜にとって、収容所で生きのびることの代償はあまりに高かったし、多くの者はシベリアでの非人間的な条件を生き抜くため、自らのそして仲間たちの苦しみに目を閉ざさねばならなかった。
苦境のなか、捕虜たちは二度打ち砕かれた。最初は肉体的に、そしてそのような状況をおとなしく受け入れなければならなかった屈辱のために。多くの抑留者にとって、戦後日本は居心地のよい場所ではなかった。抑留者の帰還が国をあげて祝われることもなかった。
 1972年1月、グアム島で発見された横井庄一の28年にわたるジャングルでの潜伏生活は理解をこえるものだった。
 1974年3月、フィリピンのルバング島からの元陸軍少尉、小野田寛郎が生還した。
 この二人が日本社会にどのように受け入れられたか。また、彼らがその後、日本でどんな生活をしたのか、大変興味深い論述がなされています。そして、なぜ彼らは30年近くジャングルに潜んでいたのか、本当に終戦を知らなかったのかという重たい問いかけがなされています。
 320頁の本ですが、読み終わったとき、戦後日本の負の重みが両肩にどっしりかぶさってきた気がしました。アメリカの大学で教える50代前半の日本人学者の本だと知って、その点でも驚きました。日本は、よそから眺めたほうがかえって、よく見えてくるのでしょうね。
(2012年9月刊。1700円+税)

フランス組曲

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  イレーヌ・ネミロフスキー 、 出版  白水社
アウシュヴィッツで殺されたフランス人の女流作家の原稿が戦後60年たって出版され、アメリカで100万部ものベストセラーになった小説です。
 著者はカトリックに改宗したユダヤ人でした。父親はロシアで裕福な銀行家であり、その一人娘として何の不自由もなく暮らしていました。しかし、ユダヤ人の両親はロシア革命によってフランスに亡命します。そして、イレーヌは、同じくユダヤ人銀行員の息子ミシェルとパリで知りあい結婚し、2人の娘をもうけるのでした。
 イレーヌは、『ダウィッド・ゴンデル』を書いて有名になり、その本は映画化されています。日本でも、1931年に翻訳・紹介されたそうです。
 イレーヌは、母から十分な愛情を注いでもらえませんでした。イレーヌの作品にもそれがあらわれているとのことです。
 それは富裕階級の一見華やかな暮らしの裏側にひそむ空虚、その精神的負担の摘出であり、親子とりわけ母と娘のあいだの憎しみと葛藤の描写である。そこには、少女時代の不幸の清算という側面も感じられるとはいえ、作品は個人的な感情に溺れるものではなく、人間の心理と行動に対する透徹した視線によって際立っている。卓越した人物造形に加え、同時代のヨーロッパ社会の抱える矛盾や歪みを大胆にとらえる強靱な批評的精神も認められる。印象的な場面の積み重ねによってスピーディーに物語を展開していく手腕も発揮されている。
 イレーヌたちは、パリを逃れて、ブルゴーニュ地方の小さな村にひっそり暮らしていた。そこへ、フランス人憲兵がやってきた。1942年7月13日のこと。当時12歳と5歳の娘たちへ、「何日か旅行に出かけるけれど、いい子にしていてね」と声をかけてイレーヌは家をあとにした。
 さらに、同年10月9日、夫のミッシェルも憲兵たちに連れ去られた。その別れ際、父は長女に小型のトランクを託した。
 「決して手放してはいけないよ。この中にはお母さんのノートが入っているのだから」
二人ともアウシュビッツ収容所で絶命したことを娘たちが知ったのは、終戦後しばらくしてからのこと。
子どもにとってはかなり重いトランクを懸命に運び続けた。そして、読む勇気もなく長年月がたっていった。娘は、母のプライベートな日記のようなものだと考えていた。
 ところが、これは、イレーヌが不吉な予感にとらわれながらも、それを振り払うようにして書き続けた最後の長編小説だった。ついに2004年、1冊の本として出版された。
 舞台は1940年初夏のパリ。ドイツ軍がパリへやって来る。太微とはパリを出そうとしている。そして、ドイツ軍はパリから地方都市へとやってきた。
 ドイツ軍占領下の田舎町の人々の生活がつづられています。
 正月休みに一人、事務所にこもって読みました。重たい本でした。近く映画になるということです。才能ある人を無惨に殺し、子どもたちから親を奪った戦争を私も憎みます。
 強制収容所で非業の死を遂げた24歳のユダヤ人女子学生、エレーヌ・ベールの日記を前に紹介したと思います(岩波書店)。こちらも、60年たって2008年に一冊の本になったのでした。
 さらに、同じようにベトナム戦争でアメリカ軍によって戦死したベトナム人の女医「トゥイーの日記」(経済界)があります。これは泣けて泣けて仕方のない本でした。いずれも忘れることのできない本です。
(2012年12月刊。3600円+税)

カラスの教科書

カテゴリー:生物

著者  松原 始 、 出版  雷島社
可愛い気のない鳥、ゴミをつつく邪魔ものの鳥、そんなカラスのすべてを知ることのできる本です。
 日本語の「からす」は、「から」プラス「す」で、「から」は鳴き声、「す」は鳥を示す古語。
ハシブトカラスは「カア、カア」と鳴き、ハシボソガラスは「ガー、ゴアー」と、しゃがれ小声で鳴く。ハシボソガラスが「カア」と鳴くことはない。
 地上に降りたとき、ピョンピョン跳びはねるが、「よいしょ、よいしょ」と大儀そうに歩くのはハシブトガラス。脚を伸ばしてスタスタ歩き、急ぐときは早足になるのがハシボソガラス。
 飛んでいるときに尾羽が長くて丸いのがハシブトガラスで、角尾に近いのがハシボソガラス。ハシブトガラスは青っぽく見える。ハシブトガラスは森林と都市部に分布している。ハシボソガラスは農耕地や河川敷など、開けて見通しのいい場所に住んでいる。ハシブトガラスほど鳴かないのは、遠く目で見通せる所に住んでいるからだろう。
両者の雑種ができることはない。これには私は大変おどろきました。そんなに両者は違いのある生きもの(鳥)なんですね・・・。
 カラスは一夫一妻の配偶システムをもち、縄張りをつくる。カラスの離婚率は低い。
 3月から4月にかけて産卵し、1ヵ月ほどでヒナは巣立つ。ところが、カラスが独りだちするのには2ヵ月から半年かかる。鳥としては異例ほど、親子で過ごす時間が長い。
 巣立ちするのは、2羽くらい。カラスが一世代に72個の卵を産むとしても、そのうち2個しか生きのびない。
飼育下のハシブトガラス集団には非常に明確な順位がある。オスが優位で,攻撃性の高い個体が強い。
 カラスの平均寿命は20年。カラスは何でも食べる。極端な雑食性だ。
 カラスはマヨネーズが大好き。フライドポテトとフライドチキンは大好物。
 カラスは、よく遊ぶ。公園の滑り台にしゃがみ込んで滑ったりもする。鉄道線路の置き石もカラスの仕業のことが多い。
 カラスは、しばしば人間の言葉をまねる。九官鳥やオウムほどではなくても、なかなか上手にしゃべる。
 「カラス避け」グッズは、あまり効果がない。はじめは用心するが、すぐに慣れてしまう。カラス相手に特効薬はない。
 カラスは視覚で餌を探す。カラスをふくめて鳥類は嗅覚がとても鈍い。カラスが人間に敵対的な態度をとるのは、ヒナを守るときだけ。まず、音声によって威嚇する。繰り返しの早い連続した鳴き方、カアカアカアカア!と一声ずつも大きい。しゃがれた声でガララララ・・・・と言い出したら、かなり怒っている。鳴いても効果がないときは、とまった枝をくちばしで叩きはじめる。それでも、ダメなら、威嚇をはじめる。そのときは、必ずうしろから、それも最初はちょっと間合いをとって飛ぶ。うしろから頭を狙って飛びかかる。
 カラスのことがよく分かる本でした。
(2013年1月刊。1600円+税)

秀吉の朝鮮侵略と民衆

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  北島万次 、 出版  岩波新書
 秀吉の朝鮮侵略は、1592年(天正20年)から、1598年(慶長3年)まで、前後7年にわたった。秀吉政権は、家臣や諸大名の目を海外征服にまで向けさせる果てしなき戦争体制によってのみ維持・強化しえた。
 その海外制覇の野望は1587年(天正15年)の九州平定直後に具体化される。
 加藤清正が豆満江を渡ってオランカイ地域に進入した目的は、オランカイから明へ入るルートを探ることにあった。しかし、オランカイは広く、のち清朝を興す女真部族が割拠し、耕地は雑穀遅滞であって、兵糧が取られる見込みはないとみて、清正は断念した。
 1593年、平壌の戦いと幸州の戦いにおける日本軍の敗北、碧蹄館の戦いにおける明軍の敗北、これによって日本と明の双方から和議の気運がもちあがった。
 1593年5月、石田三成・小西行長らに付き添われて名護屋に着岸した謝用梓と除一貫は明の皇帝から任命されてもいない偽使節だった。彼らは、諜報機関の一員(スパイ)だった。
 そして、小西行長は朝鮮にもどって、明軍の沈惟敬とはかって行長の家臣である内藤如安を秀吉の降伏使節に仕立て、明皇帝のもとに派遣することにした。1594年12月、内藤如安は北京に到り、明皇帝の朝見を受けた。そして、明皇帝は秀吉を日本国王に冊封するとした。
 1596年、小西行長は秀吉に対して、加藤清正が和議を妨害したと讒訴した。
 1596年9月、秀吉は大坂城で明皇帝の使者と対面した。そのとき、明使は秀吉に拝跪を求めたが、秀吉は膝間に瘡ありと称して拝跪しなかった。そのうえで、明使は日本軍の朝鮮完全撤退を求めたので、秀吉は激怒し、これで日明講和交渉は破綻した。
 第一次朝鮮侵略は明征服を目指したが、その野望は挫折した。しかし、動員した諸大名には恩賞を与えねばならない。そこで、秀吉は朝鮮南四道奪取を目指した。
 1597年12月の蔚山倭城を明軍が攻撃するにあたって、呂余文という名前の降倭を偵察としてつかった。呂余文は剃髪し、日本兵に変装し、蔚山に潜入した。
  さらに、清正の家臣であった降倭の岡本越後守(沙也可)と宇喜多秀家の家臣であった降倭の田原七左衛門が明軍の勧告状を手にして加藤清正と面談した。
 日本の将兵が明と朝鮮軍の捕虜となったばかりか、積極的に抗日の戦いに加わっていたとは、いささか驚きでした。
 降倭とは、秀吉の朝鮮侵略のとき、日本の陣営から朝鮮あるいは明側に投降した将卒や雑役夫などの日本人をいう。1593年には、降倭を疑いの目で見ることが多かった。1594年から降倭のうち悪賢く制しがたいもの以外は殺さず、降倭それぞれが習得している軍事技術を伝習させる方向に重点が置かれるようになった。そして、給料を与えて射撃や刀槍の術などを伝習させた。また、剣銃の鋳造などにもあたらせた。さらに、降倭を間諜として利用することもあった。
 要叱其(よしち)という降倭は軍官(将校)となり、日本軍に復帰する意思は毛頭なかった。降倭は、日本軍との戦闘のみならず、女真族との対決にも動員された。
 降倭になった者の動機には、日本軍の大将の性格が悪く、課せられた役儀が重く厳しいからというものがある。兵卒に課せられた際限なき築城と普譜、その反対に大将は茶の湯や連歌・けまり。これが兵卒を降倭に走らせる引き金となった。
 特定の従順な降倭をとり立て、その降倭に降倭全体を束ねさせた。しかし、降倭内の対立があり、結束したわけではなかった。それでも、配下を率いて投降し、定住する降倭の部将もいた。沙也可は金忠善となった。さらに、金向義という武将もいる。本拠をつくって定住し、妻子をもち、耕地を保有する降倭もいた。
 降倭の実態を詳しく知ることのできる本でもありました。
                (2012年10月刊。760円+税)
 日曜日に仏検(準一級)の口頭試問を受けました。すごく緊張してのぞみましたが、美容整形手術に賛成か反対かという問いでしたので、何とか答えることができました。実は、もう一つの問いは難しい単語があって意味が分からなかったのです。3分前に問題を渡され選んだ問いについて、3分間のプレゼンをするのです。これがいつも大変です。今回は、たまたまフランス語のできる娘が自宅にいましたので、試験官になってもらって、特訓を受けました。これが良かったように思います。話し慣れていないので、いつも大変なのです。

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