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職業史としての弁護士・弁護団体の歴史

カテゴリー:司法

著者  大野 正男 、 出版  日本評論社
ありきたりの、弁護士について簡単に歴史的経過をたどった本かな、などと予断をもって期待することもなく読みはじめたのでした。すると、案に相違して、とても面白く、知らないことも書かれていたりして、一気に読み終えました。1970年に書かれた本の復刻本です。150頁ほどのハンディな一冊にまとまっていて、読みごたえがあります。
 明治5年に司法職務定制が定められた。訴訟代理制度が始まったわけであるが、そのとき専門的職業に不可欠の資格要件が定められていなかった。
 これは二つの点で重大な効果をもたらした。一つは、人的に旧来の公事師がそのまま営業を続けることができた。二つは、代言人や代書人は裁判所において何らの職業的特権も権威ももっていなかった。
 公事師は、明治以降の弁護士制度の発展に重要な影響を与えた。公事師については、二つの説がある。公事師は、もぐりでしかなかったというのと、公認された公事師がいたというもの。
 代言人制度の初期において、評判の悪い公事師から人的な継受があったことは、代言人一般の社会的地位を低からしめた。しかし、本当に、このように公事師を全否定すべきものなのでしょうか・・・。
 明治9年、司法省は代言人規制を制定し、代言人を免許制にした。ただし、代言人の職務には重大な制約が課せられていた。それは、代言人は立法趣旨とその当否を論じることができないこと、また、裁判官によって処分されること。
 代言人が、刑事裁判の法廷で無罪弁論をしたとき、立会検事が官吏侮辱であるとして代言人を起訴し、禁錮1月罰金5円さらに、代言人の停業3ヶ月を併科された。
 うひゃあ、こ、これはないでしょう・・・。
 明治初期から、中期にかけての代言人の司法における地位は、はなはだ低かった。
 ところが、明治20年ころからの自由民権運動の進展とともに、有為の人物が次々に代言人として登録し、代言人の社会的地位を高めた。
 明治26年に弁護士法が制定された。このとき、弁護士は判検事の資格試験とは別の試験に合格することが要件とされた。そして、登録手数料が低額化された。これによって弁護士の出身階級の多様化がもたらされた。さらに、このとき弁護士会への強制加入制がとられた。ただし、検事正の監督を受けた。
 弁護士にとって、国家機関からの監督が桎梏であると自覚されるのは、明治29年に日本弁護士協会が設立されてからのことである。
 弁護士の法廷における言論の自由を確保することは、明治期の弁護士の大きな課題であった。明治30年以降、刑事裁判について、当時の弁護士は強い不満をもち批判していた。
 弁護士会内部の対立抗争が激化して、大正12年5月、第一東京弁護士会が設立され、大正15年3月に第二東京弁護士会が発足した。全国的な任意の弁護士団体も、大正14年5月、帝国弁護士会が設立されて二分した。
 弁護士階層の分化が進んだ。弁護士数の激増による。大正8年に3000人いなかったのが、大正12年に5000人をこえ、4年間で2300人も増えた。これは青年弁護士を激増させた。このころ、民主主義や普通選挙の要求が激しい時代だった。
 昭和8年に弁護士法が改正された(昭和11年4月施行)。このとき、女性弁護士が誕生した。そして、弁護士会を監督するのは、検事正から司法大臣となった。
大正の終わりから昭和の初頭にかけて、日本社会をおそった経済的不況は弁護士の経済的基盤に大きな影響をもたらした。しかも、不況に反比例してこの時期、弁護士は急増していた。
 大正12年に5266人だった弁護士が、昭和4年には6409人に達した。大正9年の3000人からすると、倍増したことになる。このころ、毎年300名ほど増えていた。昭和4年ころ、東京には非弁護士が2万人いたという。現代の日本でも似たような議論があるものだとつくづく思いました。
 それにしても、この本では公事師が低く評価されているのが気になりました。
 『世事見聞録』にみられるように、江戸時代には今の私たちが想像する以上に裁判は多かったのです。そして、そのとき公事師の働きは不可欠だったはずです。さらに、明治初めには、とても裁判件数が多かったことをふまえた論述が欠落しています。
 これらの重大な欠点は、今後、必ず克服されるべきものだと確信しています。
(2013年3月刊。800円+税)

キャパの十字架

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  沢木 耕太郎 、 出版  文芸春秋
戦勝写真家として名高いキャパの写真「崩れ落ちる兵士」の真相を追求した本です。とても説得力があり、すっかり感嘆しました。
 推理小説ではありませんので、ここで結論をバラしてしまいます。あの写真はキャパが撮ったのではなく、パートナーの女性が撮ったものであり、兵士は撃たれて崩れ落ちたのではなく、足元の悪い斜面で足をとられてあおむけに崩れ落ちたのだということです。この点について著者は現地に何回も行って、見事に論証しています。たいしたものです。
問題の写真の舞台は、スペイン戦争です。共和国政府に対して、ナチス・ドイツなどが後押しするファシスト派が叛乱を起こし、結局、共和国政府は打倒されてしまいます。そのスペインの叛乱の渦中に起きた「出来事」(兵士の死の瞬間)が迫力ある写真として世界に紹介されました。
 そして、この兵士の氏名まで判明したのです。ところが、実は、この兵士は撃たれて死んだのではなく、キャパたちの求めに応じて演じていたのでした。
 キャパの本名はエンドレ・エルネー・フリードマン。両親はユダヤ系のハンガリー人。夫婦で婦人服の仕立て屋を営んでいた。そして、ナチス・ドイツが台頭してきて、フランスはパリに逃れた。そこで、同じユダヤ人女性、ゲルタ・タローにめぐり会った。このタローという名前は、岡本太郎にもらったものだそうです。当時、彼女はモンパルナスで同じ芸術仲間だったといいます。
 キャパの相棒だった、このゲルダ・タローは、1937年7月に共和国軍の戦車が暴走して事故死してしまいます。まだ27歳という若さでした。
 「崩れ落ちる兵士」は銃弾によって倒れたのではない。しかし、ポーズをとったわけではなく、偶然の出来事によって倒れたもの。そして、その場には2台のカメラがあり、カメラマンが二人いた。このあたりは、たしかにそうだろうと思えました。というのも、あの有名な写真のほかに、連続してとられた多数の写真があり、状況を再現することが可能だったからです。
 キャパは、ついにベトナムの戦場で地雷を踏んで死んでしまいました。アメリカのベトナム戦争の被害者になってしまったわけです。
 でも、その前、第二次大戦中のノルマンディー上陸作戦にも参加して、死にかけたのでした。戦場カメラマンというのは本当に危険な職業ですね。今の日本にもいますし、そのおかげで居ながらにして戦争の悲惨な状況を写真で知ることができるわけです。それにしても、キャパの写真をここまで執念深く追求したというのは偉い。つくづくそう思いました。
(2013年2月刊。1500円+税)

南極観測隊

カテゴリー:社会

著者  日本極地研究振興会 、 出版  技報堂出版
南極の昭和基地をめぐる50年の歴史が思い出として語られています。貴重な本だと思いながら一気に読了しました。
 タローとジローの話は、私の小学生のころの話です。1年後に生きていたなんて、すごいことだと今も鮮明な記憶として残っています。
 犬ソリを使うために北海道にいたカラフト犬を調べた。道に1000頭近くのカラフト犬がいた。南極でつかうソリ犬に適した50頭近くが稚内で訓練された。しかし、集められたカラフト犬は極地で外の雪の中で寝るのが普通ではない、町中で育った犬たちだった。だから、それぞれ思いのままに走っていく。ソリ犬の訓練はカラフトから引きあげてきたギリヤークの男性が教師になった。タローとジローは、仔犬だったため、ソリ犬としての訓練は受けなかった。
 昭和基地から往復270日間の犬ソリの旅に出た。小柄なテツ(6歳)は、疲れてサボっていた。仕方なく、ソリから放した。ところが、テツは動かない。それどころか、元きた方向に戻っていく。テツをバカにしたため、テツは怒ったのだろう。自尊心を傷つけられ、これでは死ぬしかないと思ったのだろう。
 そんなエピソードも紹介されています。タロとジロは、生後3ヶ月で宗谷に乗せられてきたため、昭和基地を故郷と信じ、そこに踏みとどまったのだろう。そして、アザラシの糞を主食として生きのびてきたのではなかったか・・・。それにしても、成犬たちが皆、餓死するなどしたなかで、よくぞ生き残っていたものです。
 越冬隊員は、この25年間に平均年齢が5歳もあがった。今では、50代の隊員も数人いる。そして、女性隊員も越冬した。
 マイナス60度の野外で排便するのは大変だということです。沸騰した鍋の蓋を取ったようで体温と外気温の差が100度近くもあることを実感させられる。
 たくさんの隕石を南極では収集できるようです。2万6千個以上のうち、日本が相当数を集め、世界一となりました。なかには火星からの隕石も発見しているとのことです。
 それにしても、極地の狭い人間社会で大変なこともあったようです。死亡事故も起きましたし、手術も必要となりました。そして、自分の感情をコントロールできないような人がいたときには、周囲は大変だったようです。時として、無知無謀は罪悪だと思う。そんな指摘もあります。
マイナス60度、70度という極寒の世界で観測、研究してきた人々の労苦に率直に感謝したいと思いました。
(2006年11月刊。1800円+税)

警察崩壊

カテゴリー:警察

著者  原田 宏二 、 出版  旬報社
北海道警察の幹部だった著者が長年にわたった警察の裏金づくりを内部に告発したのは今から9年前の2004年2月のことでした。この9年間に、警察の体質は改善されたと言えるでしょうか・・・。
 改善されたどころか、警察官の不祥事はこのところ目立っていますよね。どうなっているのかと思うほどです。現職警察官による殺人事件も最近起きています。
警察庁長官という警察トップが内閣官房副長官に就任するコースがあるのですね。いわば、警察官僚が権力中枢に位置するわけです。そして、「自民党に刑事事件が波及しない」なんていう見直しを記者に示したというのです。とんでもない元長官です。警察のおごりを示す発言ですよね。
 公安委員会が中央に県にもありますが、有名無実化しています。著者は、せめて警察から独立した事務局をもてと提言していますが、当然です。
 県の公安委員会には人事権がなく、同意権のみというのも改めるべきだ。まったくそのとおりです。あまりにも中央県権化しすぎています。
 今や警察官の供給源は大学生。女性職員も10%となっている。
 正義感の強い若者が警察にはいって実態を知ると、実際との落差に絶望することになる。裏金づりは本当になくなったのでしょうか・・・。
 若い警察官のなりたくないのは、筆頭が留置場勤務で、その次が交通事故係だ。
最近、私は足しげく警察署に通っています。何ヶ月も行かないこともあるのですが、今はなぜか3人も留置場にいる人の弁護人になっています。留置場に若い警察官がいて、そうか、希望して配属されたのではないのかと、ついつい同情してしまいます。
 警察の最近の実態を知ることのできる本です。
(2013年4月刊。1700円+税)

月の名前

カテゴリー:宇宙

著者  高橋 順子 、 出版  デコ
満月を眺めるのは、いつだって心地よいものです。屋根の上にポッカリ浮かぶ大きな満月は頭上にあるより親しみを覚えます。
 夏の夜の楽しみは、ベランダに出て天体望遠鏡で月の素顔をじっと観察することです。まるで隣町のように、くっきり表面のでこぼこを観察することができます。下界の俗事を忘れさせてくれる貴重なひとときになります。
 9月の中秋の名月を祝うのは、このころの月が美しいからというだけではない。気温は快適だし、月の高度もよろしい。しかも、もっと説得的な理由は、芋名月、栗名月、豆名月という名称からも察せられるように、このころが秋の農作物の収穫の時期だということ。
 お月見は、農作物の豊穣を月の神に感謝し、来年の豊作を祈願する秋祭の一つだ。
 この本は、月にちなむさまざまな呼び名を、写真とともに紹介しています。知らない呼び名がたくさんありました。
 十七屋。江戸時代の飛脚便のこと。たちまち着きの語呂あわせから。
 今宵は中秋の名月
 初恋を偲ぶ夜
 われらは万障くりあはせ
 よしの屋で独り酒をのむ
「われら」と言いながら、「独り酒、をのむ」というのも奇妙ですが、フンイキが出ています。
 月には、中国古代の伝説では、仙女、桂男(かつらおとこ)、ヒキガエル、兎などがすんでいた。兎は、不老長生。仙薬を臼でつく。この兎は韓国や日本では餅をつく。桂男とは、月の中に住むという仙人。転じて、美男子をいう。月の桂を折るとは、むかし文章生(もんじょうせい)が官吏登用試験に及策することをいった。
 菜の花や月は東に日は西に
与謝蕪村がこの句をつくったのは、1774年(安永3年)のこと。58歳の蕪村は、当時、京都に住んでいた。
名月をとってくれろとなく子哉
これは一茶の句です。いいですね・・・。
(2012年10月刊。2500円+税)

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