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抗日霧社事件をめぐる人々

カテゴリー:日本史

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版
1894年の日清戦争で清国は日本に敗れ、翌1895年(明治25年)、台湾は日本に割譲され、台湾は日本帝国主義の植民地になった。
台湾統治の初期、日本人は自信満々で、すごく高ぶっており、横暴な征服者の態度で台湾に君臨し、台湾人や原住民を奴隷か牛や馬のようにみていた。
 1930年、モーナ・ルーダオが人々を率いて「霧社事件」をおこし、日本植民地政府の強権政治に反抗した。モーナ・ルーダオの地位は、暴動を起こして日本人を殺害した事件の首謀者というものから、歴史に名をとどめる「抗日烈士」へと変わった。
 ところが、同じ「霧社事件」で集団自殺をとげた花岡一郎、花岡二郎とその家族の歴史的な地位は、いまだ正視されず、評価もされていない。
 モーナ・ルーダオたちは1911年(明治44年)、日本内地観光に送り出され、4ヶ月にわたって、日本の政治経済そして文化教育の施設を見学した。見学させられたのですね。
 霧社事件のとき、抗日志士たちは、自分たちが学んでいたころの校長や教師を殺しただけでなく、日ごろ慈愛の心で治療してくれた公医の志柿源治郎医師の生命まで奪った。このことは、日本人に対して、抗日の人々がいかに深い恨みをいだいていたかをはっきりと表している。
 セクダッカ人は、祖先は白石山のポソコフニという神木から発祥したと固く信じており、大木で首吊り自殺をすれば、その霊は祖霊の住むところへ帰ることができると信じていた。
 また、死んだときに顔が天を向いていると美霊になれないとも信じていた。だから、花岡二郎以外の20の死体は、みな「蕃布」でおおわれていた。これは二郎が最後に首を吊ったことも示している。
 さらに、花岡一郎夫妻は、和服を着て切腹自殺をしていた。
 この霧社事件のとき、司法の裁きを受けて処罰された「反抗蕃」は一人もいない。みな警察官個人の手で極刑に処せられた。しかも、その死体は、ひそかに埋められてしまった。これらは、いずれも日本人の恥である。本当に、そうですよね。ちっとも知りませんでした。これほどの日本人の悪業を・・・。
 日本人警察官の小嶋源治は霧社事件で次男を失ったが、同時に「反抗蕃」の子ども、中山清を助けた。
 小島は強権統治者の化身であり、冷酷心と残忍な手段をつかう「人殺し」であった。そして、「保護蕃収容所」の襲撃を命じた。同時に、小島に助けられた中山清は勉強に励んで医師となり、ついには台湾省議会の議員にも当選している。そして、この中山清は高永清となり、戦後日本の1979年に小島源治と宮城県で再会した。この小島源治は、1983年(昭和58年)に、宮城県で亡くなった。このとき98歳だった。
 霧社事件では、抗日6部落のセイダッカは、1236人いたのが、最終的にはわずか259人となった。8割もの人々が戦死、自死、逮捕監禁されて亡くなった。そして、強制移住されたあと、210人になってしまった。
 日本の台湾統治における悲劇を調べあげた画期的な3部作が、この本で完結したのです。ぜひ、関心のある人はお読みください。
(2001年11月刊。1714円+税)

ウェブ社会のゆくえ

カテゴリー:社会

著者  鈴木 謙介 、 出版  NHKブックス
彼女(彼)とのデート中に、別の人物とのネットに夢中になるという話が出ています。
 二人で食事をしているときに、テーブルのうえに携帯電話を置くことすらマナー違反だ。二人でいるのに、他の人とも「つながりうる」状態が維持され、それが自分の前に提示されていることが不愉快なのだ。もちろん、そうですよね・・・。
 私の若いころにはありえなかった話です。学生のころ、下宿先の電話はかかってきたら大家さんが呼んでくれるのです。つまり、一家に一台しか電話はなく、間借り人は大家さんから呼ばれて初めて電話に出て会話が出来るのです。ともかく、会って話すことが何より欠かせませんでした。
 ところが今では、人との対面接触はテクノロジーを介したつながりに取って代わられ、生身の人間に対する興味が失われつつあります。
 現実の多孔化(たこうか)。現実空間に情報の出入りする穴がいくつも開いている状態のこと。生理的な距離の近さと親しさの関係が不明瞭になると、ある空間に生きる人々が、ある「社会」の中に生きているという感覚もまた、確かさを欠くものになるのではないか・・・。
 「セカイカメラ」は、画面にうつし出された場所に関する情報(エアタグ)をふわふわと中に浮いているかのように表示するアプリだ。
 テレビ、新聞、雑誌、そしてラジオという、いわゆる「四大媒体」の広告費は、軒並み右肩下がりである。これに対して、インターネット広告費だけが右肩上がりの成長を続け、今では新聞を抜き去る勢いである。
 我々は、ソーシャルメディアを利用させてもらう代わりに、個人情報を売り渡している。
 我々が直面しているのは、我々自身に関する「データ」が監視される社会である。
高級料理店で食事をとるとき、食べる前に写真をとって、それを自分のブログにのせることが流行している。でも、これもマナー違反として、高級料理店では禁止されている。
 ええっ、ちっとも知りませんでした。私の知人で、それをして好評なブログがあるのですが・・・。
 生身の人間同士のぶつかりあいの体験に乏しいと、現実の日本社会において生きていくのはとても難しいことです。それが分からないまま(実感できないまま)、実社会に出ている若者が増えている気がします。恐ろしいことです。
(2013年8月刊。1000円+税)

アリの巣をめぐる冒険

カテゴリー:生物

著者  丸山 宗利 、 出版  東海大学出版会
アリそのものというより、アリと共生している昆虫の話です。アリを食べたり、アリの死骸を食べたり、いろんな昆虫がアリとともに生きているのですね。でも、昆虫ですからとても小さいのです。解剖するといっても、手先が器用じゃないとやれないでしょうね。
 米粒より小さい虫から交尾器を抜き出すのが解剖の作業になる。米粒に字を書くよりもずっと細かい作業である。
 しかし、そのミクロな世界を拡大すると、この世の生きものとはとても思えない奇妙奇天烈な姿と顔をした昆虫のオンパレードなのです。
 マンマルコガネは、カブトムシに似た形をしています。ツノゼミは奇妙な形です。奇想天外としか言いようがありません。
 オサムシの変てこりんな姿は、さすが我らが手塚治虫先生を思い出させるに値します。アリと共生するというより、アリを食べるアリもいるのですね。ヒメサスライアリです。アリを専門に食べるアリなのです。毒針を使って、自分よりはるかに大きなアリを仕留めます。
 この本の最後にある次の言葉が私の心に残りました。ああ、本当に好きでやっているんだな、いいね・・・と思いました。
 私は、これからもアリの巣を求めてあちこちをめぐりめぐるだろう。そして、新しい発見をするたびに、その感動を人に伝えたいと思っている。ああ、なんて楽しみなことだろうか。
 著者が引き続き元気に研究を続けられること、そしてその成果を広く伝えていただくことを期待しています。
(2013年1月刊。2000円+税)

支倉常長・遣欧使節

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  太田 尚樹 、 出版  山川出版社
スペインに日本(ハポン)姓の人が800人ほどもいて、それは400年前の仙台藩の支倉常長たちの遣欧使節のヨーロッパ残留組の子孫だという話です。
スペインはセビリア郊外の川岸の町に日本人の子孫が800人ほど住んでいる。それは残留日本人5人の子孫たちだ。400年前、支倉常長一行がここを通過したとき、日本に戻るのを希望しなかった日本人がいた。
 ハポンとは日本のこと。名前にハポンというのをつけているのは、日本との関わりを残すためのもの。本当の名前は別にあったはず。
 「わが家には、ビョウブ、カタナ、ハシ、ワラジという言葉が先祖代々伝わっていた」
 ハポンの人々の多くは、赤ん坊のころ、お尻に蒙古斑が出る。
 ハポン性の人には富豪はいない。無難で、地道な生き方をしていた。漁業や農業、そして最近では公務員、教員、銀行員、医師を輩出している。
 支倉常長が会ったスペイン国王はフェリペ3世(37歳)。6歳のとき、同じ日本(ジパング)から4人の少年たちがスペインの宮殿にあらわれたときにも、立ち会った。
 支倉常長はキリスト教の洗礼を受けた。ただし、主人の伊達政宗は、キリストには関心はなく、ヨーロッパとの通商を考えていた。しかしながら、キリスト教の禁令は厳しさを増していた。
石巻を出発した船には、スペインの船員40人と日本人140人が乗っていた。日本人の多くは交易商人だった。4年後に仙台に帰り着いたのは26人のうち13人。少なくとも8人は日本に帰ってこなかった。
 支倉常長に対する評価は、当時のスペイン側の記録によると、ベタ誉めで、はったりのない、実直な人柄が評価された。
 支倉はスペイン国王やローマ法王の前でも、日本語で堂々と挨拶した。
出発したとき、42歳で、堂々たる腹のすわった人物だったようです。
すごいですね、400年たって、日本人の子孫がスペインにかたまって生活しているとは・・・。
(2013年8月刊。1600円+税)

四万十川の盆の送り火

カテゴリー:司法

著者  河西 龍太郎 、 出版  河西法律事務所
佐賀の河西弁護士が、なんと詩集を発刊した。あまりの驚きに、腰が抜けて歩けなくなってしまった。というのはウソです・・・。
 まあ、ホントにビックリはしたのです。河西さんは、私の学生セツルメント活動(川崎セツル)の先輩になります。この本にもセツルメントのことが書かれています。
 大学で労働者階級という存在を知った。お互いに引きずり落とすことで自分を守るのではなく、団結することで自分を護る労働者階級のたくましさに引かれ、将来、労働弁護士になることを決意した。
 そして、学生時代には労働者と生活の場で接したいと考えて川崎セツルメントの子ども会に入った。とくに子どもが好きだったわけでもないのに、川崎市の労働者のボーダーライン層の居住する川崎市桜本町に下宿した。大学に行かず、専ら桜本町で生活した。
 私も同じ川崎セツルメントに入りましたが、私は青年部で若者サークルで活動しました。そして、幸区の古市場に下宿しました。町工場がそこかしこにある下町の住宅街です。授業にあまりでなかったのは河西さんと同じです。
平日の昼間に一体何をしていたのか思い出せませんが、毎日毎日、忙しいハリのある生活でした。といっても、大学2年生の夏(正確には6月)から学園闘争が勃発し、そもそも授業がなくなりました。
 大学生活のうち3年あまりをセツルメント活動に没頭して過ごしました。人生で学ぶべきことは、みなセツルメントで学んだという感じです。
 そして、河西さんは、佐賀で開業してまもなくから、じん肺裁判で打ち込むのです。
 じん肺裁判の始まりから登場する原告、支援者、そして弁護団仲間の紹介が秀逸です。
 70歳になった河西さんは早々と弁護士稼業からの引退宣言をしてしまいました。ちょっと早すぎるのではありませんか・・・。
 カットまで河西さんが描いたというのもオドロキでした。
(2013年6月刊。非売品)

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