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二〇三高地

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 長南 政義 、 出版 角川新書
 日露戦争が始まったのは1904年(明治37年)2月。同年6月から翌年1月まで190日間も続いた旅順をめぐる戦闘で、日本軍はのべ16万人の将兵を投入し、6万人もの死傷者を出した。まことにむごい戦闘です。大勢の日本人青年が機関銃に向かって突撃させられ、死んでいったのでした。私も現地に行って、戦争のむごさを体感しました。
第三軍の司令官であった乃木希典について、長く名将とされてきたが、他方で、突撃を繰り返す人海戦術による大量の戦死者を出したことから愚将とする見方も有力となっている。この本は結論として、愚将説をとっていません。むしろ、この本では陸軍の指導部の認識不足と情報不足をまずもって問題としています。
 旅順要塞の構造を強固な野戦築城程度としか認識せず、その攻略を安易に考えていた。つまり、旅順要塞の強度判断に誤りがあった。そして、旅順のロシア軍兵力を1万5千人とみていて、実際にいた4万2千人よりかなり低く見積もっていた。
 当時55歳の乃木希典が第三軍の司令官に就任したのは順当で常識的な人事であり、落閥人事とか無理な人事というものではなかった。
著者は、むしろ軍参謀長の伊地知(いぢち)幸介に問題があったとしています。ぜん息もちの伊地知は、前線の巡視、偵察活動をあまりしなかった。伊地知は優柔不断な性格。「決心の遅鈍」な伊地知は、自分の意見をはっきり表明しなかった。
 日本軍は当初、砲弾数が少なく、継続した砲撃は不可能だった。それで、将兵の突撃攻撃を命じざるをえなかった。また、砲種も砲弾も強力な効果をあげる能力がなかった。前述したとおり私は二〇三高地の現地に立ったことがあります。さすがに感慨深いものがありました。
日本軍の死傷者の75%が銃創、主として機関銃によって突撃が阻止された。
 さすがの日本軍も、「要塞に対しては強襲的な企画はほとんど成功の望みがない」という教訓を得た。そこで、大本営は8月下旬、28サンチ榴弾砲を要塞攻撃に投入することにした。この28サンチ榴弾砲は、砲身だけで11トンもの重量があり、大口径重砲を山上まで運び上げる必要がある。結局、人力で運び上げた。速度は1時間あたり、700~800メートルだった。そして、10月1日から、二十八サンチ榴弾砲を据え付け、試し撃ちをしたところ、予期した以上の命中精度があり、破壊力が高いことが判明した。命中率は55%。
 この二十八サンチ榴弾砲は6門から18門に増強された。ただ、この二十八サンチ榴弾砲には不発弾が多いという欠点もあった。
 第3回の旅順総攻撃のときは、突撃した歩兵たちは1時間に平均して1キロしか進めなかった。
 この日本軍による旅順総攻撃に際して、乃木希典の子ども二人も戦死しています。
 日本軍の手投弾は、ロシア軍のそれより著しく劣っていた。
乃木と児玉の関係は…。西南戦争のとき、乃木は軍旗を西郷軍に奪われ、その責任をとるため切腹しようとした。それを児玉が止めた。このことから、二人には深い信頼関係があった。
 日本軍とロシア軍は結果として消耗戦を戦った。攻囲下にあって兵力の補充のできないロシア軍は消耗戦で敗れた。こういう見方が出来るのですね…。
 第三回総攻撃による日本軍の死傷者は1万7千人。二〇三高地攻略戦で主役をつとめた第七師団の損害は大きく、減耗率は56%に達した。ロシア軍の手榴弾が猛威を振るった。
乃木には戦術的な判断ミスはたしかにあったが、決断力はすぐれていた。
 第一回の総攻撃で全軍の3割もの死傷者を出して失敗したあとも、乃木司令官に対して不満の声が上がらなかった。それほどの統率力が乃木にはあった。第一線を絶えず巡視して将兵をねぎらっていた効果だろう。そして、戦死傷者を多く出したこと、自己の失敗に対する旺盛な責任感があった。
 乃木は軍司令官として名称と評されて然るべきだというのが著者の結論です。新しい資料も紹介していて興味深い記述が満載でした。
(2024年8月刊。1056円)

植物の謎

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 日本植物生理学会 、 出版 講談社ブルーバックス新書
 ショ糖の甘みを100とすると、ブドウ糖は70、果糖は80~150。果糖の甘みに幅があるのは、甘みが温度の影響を受けるから。果糖には2種類(αとβ)があり、β型の果糖は温度が低くなると、α型より3倍も甘く感じられる。ところが、これに対して、ショ糖やブドウ糖の甘さには、温度で変わる性質がない。
 マンゴーには果糖が糖の34%を占めているため、低温にすると甘みが増す。パイナップルとバナナには果糖の比率が低いので、低温にしても甘みは増やさない。
 イチゴの甘みは、含まれるショ糖の濃度に依存する。イチゴを栽培するとき、温度が高いと、甘みを主体とする美味しさの成分をじっくり蓄積できないまま、大きさだけどんどん成長してしまう。温度が低いと、美味しさの成分が十分に蓄積されるので、甘みの強いイチゴになる。
 ダイコンは、すりおろされて初めてイソチオシアネートを発生し、強い辛(から)みを感じる。そして、ダイコンの尻をすりおろしたときのほうが辛みを強く感じる。それは、維管束の密度が高いから。
 リンゴやジャガイモを切ってそのままにしておくと、酸化反応が起きて、タンパク質やアミノ酸などと結合し、赤や茶色に変わる。リンゴの切り口を塩水につけると、塩化物イオンがポリフェノール酸化酵素のはたらきを阻害するため。
 生き物のからだの形は、必ずしも必然性からそうなっているとは限らず、とくに良くも悪くもないので、とりあえずそんな形をしているという事例が多々あると一般に考えられている。
葉緑体の機能が低下して葉の老化がはじまると、植物は葉を落とすため、葉柄の付け根に「離層」という細胞層をつくる。
 植物は「積極的に」老化している。スイカは細胞の数は増えないまま、細胞の一つひとつが大きくなっている。
 バナナは「木」ではなく、多年生の「草(草木。そうほん)」。そして、一生に一度だけ果実をつける。果実ができると地上部は枯れるが、地下部は生きている。
 ニホンタンポポは、自家不和合性なので、雌しべの柱頭は、別の個体の花粉を受粉することが必要。
 「経験によって行動(反応)が永続的に変化する」というのを学習の定義だとすると、植物には学習する能力があると言える。
 オジギゾウにも人間と同じように体内時計があり、およそ24時間周期のリズムをもっている。植物の謎をたくさん解明することができました。
(2024年3月20日刊。1100円)

アウシュヴィッツの小さな厩番

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 ヘンリー・オースター、デクスター・フォード 、 出版 新潮社
 ナチス・ドイツ軍の電撃作戦は有名です。ところが、実は、この作戦を支えていたのは汽車でもトラックでもなく、馬だったのです。すると、ドイツは大量の馬を確保する必要があります。そこで、アウシュヴィッツ収容所でも馬を生産・育成していました。その厩番(うまやばん)にユダヤ人の男の子が使役されていたのです。まったく知りませんでした。
 ドイツ軍は戦車やトラック、戦闘機に使うガソリンを少しでも多く必要としていた。そのうえ、ロシアの鉄道は広軌なので、ドイツの列車をそのまま乗り入れることはできなかった。そのため、ドイツ軍は、すべての占領地で兵士や武器、食料を運搬する馬車を引く馬を大量に必要としていた。
 ドイツ軍は囚人より馬のほうをずっと貴重だと考えていた。なので、馬そして仔馬に何かあったら厩番の生命はないものと考えるほかはない。
 メスの馬2頭とオスの種馬の世話をさせられた。著者は馬の餌として与えられたクローバーも食べた。貴重な栄養源だった。クローバーって、生のままでも食べられるんですね…。
 たんぽぽも花が咲く前に摘みとったら食べられる。花が咲いたら驚くほど苦くなって、食べられない。
 馬の交配にも立ち会い、介助していたとのこと。大変危険な作業だった。オス馬は気が荒く、けったり、かみついたりしてくるので、怪我だらけになった。
 馬の尻尾も危険。馬の毛はヤスリのように固く、ざらついている。
 囚人が収容所から逃亡すると、ドイツ兵は、その報復として脱走者1人あたり10人を無差別に殺した。著者も危うく銃殺されそうになりました。
 薬のないときの銃創の治療法は、傷口に尿をかけるもの。もし、ばい菌が入ったら、鼻水で傷を覆ってしまえばいい。
ドイツが敗戦し、アメリカ軍が収容所に入ってきて、解放した。ブーヘンヴァルト強制収容所にいて解放された2万1000人もの人々を保護して食べさせた。少しずつ、少しずつ、食べていった。一度にたくさん食べてしまうと、身体不調となって死に至る危険性は強かった。だから、収容所に入れられていた人々が、「もっと」「もっと」と求められても、少しずつしかもらえなかった。
 当時16歳だった著者は、体重35キロ、身長は13歳の少年並みだった。ナチス・ドイツが大量の馬を必要としていて、その馬を養成していたユダヤ人の少年がいるのは、とても珍しいことだと思います。
(2024年8月刊。2100円+税)

源氏物語を楽しむための王朝貴族入門

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 繁田 信一 、 出版 吉川弘文館
 女御(にょうご)と更衣(こうい)とでは、女御のほうが更衣よりも、はっきり格上。
 女御は、女性を敬意を込めて呼ぶもの。今の「ご婦人」に近い。更衣は、着換えを意味し、天皇の着替えを手伝う存在。今も「更衣室」というコトバがありますよね。
 ところが更衣であっても、天皇の「お手付き」となると、妃(きさき)のような扱いを受ける。
 しかし、更衣を母親とする皇子は誰ひとりとして天皇にはなっていない。天皇になったのは、皇后(中宮)か女御かを母親とする皇子だけ。ふむふむ、そうなんですか…。
 桐壺(きりつぼ)更衣に対しては全ての妃たちが一丸となって嫌がらせをしかけた。それは更衣の身でありながら、一つの殿舎を専用の寝所として与えられていたから。これは女御のように扱われたことを意味し、後宮の秩序を乱すものだった。なーるほど、ですね。
 天皇自身は天皇としての人生を幸福なものとは感じなかった。太上天皇は、一日も早い退位こそ熱望していた。退位したあと上皇となることのなかった天皇は、上皇としての余生のあった天皇に比べて、明らかに短命だった。39歳と45歳と、6年も平均寿命が短い。
 王朝時代の天皇は、朝、早起きする。午前5時から7時のあいだに起きた(起こされた)。毎朝、目をさますと、何よりまず風呂に入る。天皇は着衣のまま入浴する。そして自分で身体を洗うこともしない。それは女房の仕事。天皇は、毎朝、日課として伊勢神宮を遥拝する。これは、わが国の日々の安寧を確保するための行為。
 天皇は朝9時ころ、給仕係の女房の前で朝食をとる。家族である妃や皇子・皇女と一緒に食卓につくことはない。天皇の朝食は、毎朝、いつも同じものを食べる。当時の日本には、まだ醤油はない。
朝食のあと、天皇は読書した。つまり、漢文の書物を読んだ。
紫式部と同じ時代を生きた皇子は17人を上回っている。その前は30人もいただろう。
 更衣を母親とする皇子たちは、かなり大きくなるまで父帝と面会することはなかった。
皇子たちの平均寿命は、41歳ほど。上級貴族の男性の平均寿命は62歳ほど。
 天皇の結婚相手として、異母兄妹、異母姉弟も容認された。
 皇子たちが短命なのは、近親婚の歴史によってもたらされたもの。ときに精神面に障害を持つ皇子や知的障害を持つ皇子の誕生は、このような近親婚の「遺産」。
 皇子は、皇子とあるだけで、給料を朝廷から支給された。そして、本来なら無品(むほん)の皇子には品封(ほんふう)が支給されないはずなのに、200万の品封が支給された。五位の貴族に対して朝廷から支給される給料は米にして400石ほど。
 太上天皇とは、天皇を退位したあとの「名前」。「上皇」は、これを短縮したもの。上皇は、皇后や皇太子よりは上で、天皇よりは下位の存在。
 皇女たちは、ほとんど結婚していない。王朝時代、皇后の地位は藤原摂関家の女性によって独占された。同時に、天皇の結婚は、藤原摂関家によって管理されていた。
 皇女たちは、臣下との婚姻は許されなかった。平安時代には、女帝の即位はない。
 王朝時代の中級貴族の男性は、「殿上人(てんじょうびと)」と「地下(じげ)」の人と大きく2つに分かれる。地下たちは、殿上人を敬意と憧憬(しょうけい)を込めて「雲上人(うんじょうびと)」「雲客(うんかく)」とも呼んだ。
 四位・五位の中級貴族の人数は1000人ほど。このうち1割は女性。紫式部や清少納言も、自ら王位の位階をもっていたと考えられている。
王朝貴族のことを少しばかり知ることができる本でした。
(2023年11月刊。1700円+税)

戦友会狂騒曲

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 遠藤 美幸 、 出版 地平社
 著者はビルマ戦を研究している学者であり、二児の母親でもある。元兵士の遺族でもないのに、ひょんなことから戦友会の「お世話係」となって月1回の戦友会に顔を出すようになった。2005年のこと。しかし、年月がたって、元兵士たちが次々に亡くなっていき、この戦友会は2007年12月に解散した。そのあと有志が集まるようになったのにも関わる。
現在、もはや元兵士が主導する戦友会は日本には存在しない。当然ですよね。戦後80年になろうとしているのですから、終戦時に20歳の人は100歳なのです。著者が関わった戦友会は「第二師団勇(いさむ)会」。第二師団の通称号は「勇」。第二師団は福島、新潟、宮城三県から編成された部隊。第二師団はガダルカナル、中国雲南省、ビルマ方面の激戦地で戦った。
戦友会は多様な形態があり、明確に定義が出来ないのが特徴。
 戦友会は、あくまで任意の民間団体。戦友による会費と寄付が財源。1965年から1969年までが戦友会設立のピークで、その最盛期は短かった。1980年代には3分の1に減少した。
 戦友会の「勇会」は1980年代の最盛期には130~150人の参加があったが、2003年にはわずか15人にまで激減した。
 この戦友会に、著者たちが接近してきて加入した。「自虐史観」を排し、大東亜戦争は聖戦だった、東南アジアの虐げられた貧しい民衆を解放してやったと主張する集団。日本軍が強制連行してつくった慰安所の存在を否定する。しかし、元兵士たちには自ら慰安所を設立したという体験があるので、話がかみあわない。
ガダルカナル島戦に従事した第二師団は1万人余。そのうち8千人近くが戦死した(戦死率76%)。ビルマ戦線の総兵力は1万8千人で戦死者は1万3千人(戦死率68%)。この戦死率の異常な高さに思わず息を呑みます。これって、戦病傷者を考えたら全滅というレベルですよね。
 ビルマ戦線の日本軍総兵力は33万人でうち19万人が戦死した。まさに「地獄のビルマ戦」です。そんな苛酷な戦場体験をもって生還した水足中尉は、もし今、戦争が起きたらどうするか…と自問して答える。
 「私は戦争になったら逃げます。戦争に行って最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなければいけません。勝ってもダメです。自衛隊もいけません」
 金泉軍曹の口癖は…。
 「私は軍隊が大嫌い。二度と戦争してはいけない。最初から相手が憎いわけではないのに殺しあう。相手にも親兄弟がいて、死んだら悲しむでしょう。戦争ほど愚かなことはない。勝っても負けても意味がない。しょせん、国同士の関係だからね」
 磯部憲兵軍曹は、即答する。
 「戦争に行けと言われたら、私は一目散に山にでも逃げますね。米袋をかついで逃げますよ」
 ところが、戦場体験のない人は、その「負い目」から勇ましい言葉を発することがある。
 戦友会では階級がモノをいう。元兵士たちは、かつての上官の前では本音を言わない。言えないのだ。
 激戦のなか、どのようにして生き残ることが出来たのかと問われ、金泉軍曹はこう答えた。
 「自分だけ生き残ろうとずるいことをした人は、みな死んでしまった。他人(ひと)のことを助けて初めて他人に助けてもらえる」
 偕行社は自然消滅の危機にあったが、陸上自衛隊OBとつながって、「陸修偕行社」として存続している。
 実は私も「偕行社」を利用させてもらったことがあります。亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵中将)の軍歴を知りたかったのです。すぐ調べていろいろ親切に教えてもらいました。ありがたかったです。
(2024年7月刊。1800円+税)

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