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虚像の政商(上・下)

カテゴリー:社会

著者  高杉 良 、 出版  新潮文庫
 いつものことながら読ませます。この著者の筆力には、進むたびに驚嘆するばかりです。ぐいぐいと修羅場に引きずり込まれ、ついつい憤慨してしまったりするのです。
 今回の舞台は、政商です。いつの世にも、政治をビジネスチャンスとしか見えない守銭奴のような人間がいます。でも、まあ、それが軍需産業でないだけ、まだ平和な社会なのかもしれません。といっても、安倍首相は、武器輸出三原則を緩和してしまいましたから、おいしい軍需産業が大型公共事業にとって代わるのかもしれません。いやですね、というより怖いことです・・・。
 解説文を紹介します。
 ある銀行のトップが、こう言った。
 「池井戸潤も許せないが、高杉良はもっと許せない」
 高杉良は銀行にとってのタブーに挑戦している。池井戸は銀行を取りまく「闇」にはアタックしていない。闇に踏み込むには、作者にも危険を恐れない覚悟がいる。高杉良は、見ていてハラハラするほど、それを当然のものとして小説を書いてきた。
 百田尚樹は、出光佐三を偶像視しているのに、高杉良は、労働組合のない、社員にとって息苦しい会社をつくった男として出光佐三を描いている。
 この小説のモデルは、オリックス会長の宮内義彦。高杉良の『週刊新潮』の連載が終わったとき、宮内義彦は、「ホッとした」ともらした・・・。
 宮内義彦は、まさしく政商の典型です。規制緩和のかけ声に乗って、自らビジネスチャンスをつくり出して、大もうけしていったのでした。本当に許せません。まさに、宮内義彦は「利権を食うひと」でした。
 公職につく者が、その地位により誰より早く得られる情報を活用して事業を推進すれば、それがどんなに崇高な精神で行われたとしても、うさん臭いものに墜落してしまう。ましてや、崇高な精神なんて、全くなかったとしたら・・・。
 「改革」とは名ばかり、大きな虚業を生み出して、日本経済をむしばんでいった・・・。
 宮内義彦が組んでいた竹中平蔵については、次のように断罪されています。まったく同感です。
 「デフレ不況のさなかに無用なまでに厳しい資産査定を断行し、日本経済の屋台骨を支える多くの中小企業の息の根を止めた男だ。自らの失敗を恥じるどころか、円安による輸出企業の好調で、マクロ経済が底を打ったことを、銀行の不良債権処理による功績とすり替えた、稀代の詐欺師と評する向きもある」
 こんなロマンのない男たちを書きながら、その部下を主人公としてロマンを感じさせつつ、一気に展開し、さらにリース業界の専門用語まで駆使するのは、さすが、さすがと言うほかありません。
(2014年4月刊。750円+税)

日露戦争史(2)

カテゴリー:日本史(明治)

著者  半藤 一利 、 出版  平凡社
 この本を読んで、もっとも驚いたのは203高地をめぐる死闘が、実のところ、あまり意味がなかったということです。
 203高地の前に、日本軍がロシア軍を攻略して確保した海鼠(なまこ)山の望楼から旅順港を見おろすことができた。これによって、日本軍の重砲隊による砲撃が確実なものとなった。旅順港内にいたロシア軍の旅順艦隊の戦艦は次々に炎上させられ、修理不可能な大損傷を受けた。戦艦に積載されていた大砲はすべて陸揚げされ、そのための将兵も全員が陸上にあがった。旅順艦隊は、すでに「浮かべる鉄屑」となってしまっていた。
 そして、造船所、石炭庫、火薬庫も日本軍の砲撃の目標とされ、艦艇の修理は不可能になっていた。では、その後の旅順要塞攻略作戦とは、いったい何だったのか・・・。何のためにあれほどの日本軍将兵が死傷しなければならなかったのか・・・。
本当に、むなしいというか、悲しくなってきます。乃木将軍の指揮する日本軍は、世界最強の堅固なロシア軍要塞の前でバンザイ突撃を強いられ、無残にも全滅させられていったのです。ちょうど、その状況を日経新聞に連載中の小説が描写しています。
日本での民草の動きは、乃木将軍の指揮する第三軍が旅順要塞をなんとしても陥落させなければならない方向へとねじ曲げていった。それまで海軍が強く要望していた旅順港内のロシア旅順艦隊の撃滅という当初の目的は、すでに達成されていることもあって、どこかに飛んでしまっていた。
 これは、本当にひどい話だと思います。ところが、旅順要塞を攻略した乃木将軍は、今なお、日本では依然として偉大な英雄です。
 著者は次のように書いています。
乃木や児玉のどこが、そんなに偉いのか、よく分からない。乃木は近代要塞というものを知らなかった。過去にドイツ留学して戦法を学んだがために、人間の肉体をベトン(要塞)にぶつけるという正攻法を与えられた作戦命令にしたがって、誠実に実行した。そして、惨状を繰り返した。無能な軍司令部の命令によって突撃・攻撃を続行しなければならなかった将兵こそ、悲惨である。203高地は、無際限の犠牲をはらって無理矢理攻め落とす必要はなかった。それでは死傷した将兵たちに申し訳ないので、事実を隠蔽して、「神話」をつくりあげた。死闘に死闘を重ねて、203高地を陥落させ、それによって旅順艦隊を絶滅させたという「神話」である。
 乃木将軍の第3軍が突入した兵力は6万4千人。死傷者は1万7千人。戦死者は5千人をこえる。鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)という言葉しかない・・・。
 それにしても、怒りがこみ上げてくることがあります。これだけ前線で死傷者を出していながら、第3軍の司令部は、乃木将軍も参謀も、誰も最前線の山上に立つことがなかったというのです。これはひどいです・・・。最高司令官は前線忌避症にかかっていた。
 旅順に来て、第一に幸福なのは負傷者である。次は、病者。その次は、戦死者。生き残ったものほど馬鹿げたものはない。どうせ死ぬものと決まっている。生きて苦しむのは大損だ。
日露戦争の終わったあと、高級指揮官の多くが、日本兵は戦争において、実は、あまり
精神力が強くない特性をもっていると語っていた。
 日経新聞の小説にも、日本軍兵士の自傷行為の多さが戦場で問題になっていることを紹介しています。それはそうですよね。誰だって、死にたくなんかありませんよ・・・。
だけど、日本兵の精神力が弱いことを戦史に残すのは弊害がある。そこで、真実は書かず、きれいごとだけを書いた。その結果、リアリズムを失い、夢想し、必要以上に精神力をたたえ、強要することになったのだ。
 なーるほど、そういうことだったんですね・・・。死を恐れない、精強な日本兵って、どこにいるのかと思っていましたが、ようやく謎が解けた気がします。そうなると、現代ヤクザと同じ世界のような気がします。その一部には、世話になった親分のためには「鉄砲玉」になるのも辞せずと言いう無謀な若者がいるのでしょう。しかし、たいていは、私と同じように死にたくないし、痛い目にもあいたくない。できるだけ楽をしていたいという気持ちをもっていると思います。
 ロシア軍はクリミア戦争のときセヴァストポリ要塞戦の体験を踏まえて、旅順要塞を、その足もとにも及ばないほど堅牢なものにしていた。これに対して、攻める日本軍は、要塞攻略という近代科学戦への認識が欠けていた。陸軍中央部の「要塞」についての無知に、すべての責任があった。
 著者の博識・強覧には、まったく脱帽せざるを得ません。400頁をこえる2巻目の大著ですが、一気に読み通しました。第三巻が楽しみです。
(2013年2月刊。1600円+税)
 今年もホタルが飛びかう季節となりました。日曜日の夜、早めに夕食をすませて、薄暗くなってから、歩いて、近くにある「ホタルの里」に出かけました。たくさんのホタルが飛んでいました。草むらのホタルをそっと手のひらに乗せて、じっくり観察しました。
 少しこぶりのホタルです。ゲンジボタルのようです。集団で一斉に明滅するのが、幻影のようです。

カヤネズミの本

カテゴリー:社会

著者  畠 佐代子 、 出版  世界思想社
 かわいいネズミの話です。いえ、家の中をうろちょろするイエネズミではなく、水辺に棲息する小さなネズミです。
 カヤネズミは小さくて軽いので、バッタのように草の葉の上に乗れる。胴体の長さは6センチ。尾の長さは7センチ。尾が長いのが特徴で、体重は7~8グラム。
 寿命は半年から1年ほど。人間が飼育すると、最長3年。でも、素人が飼うのは難しい。
 雑食性で、イネ科の種子や昆虫を食べる。天敵は、ヘビやカラス、モズ、イタチやネコなど、たくさんいる。
 カヤネズミの骨の重さは、体重の5%で、鳥と同じくらいに軽い。カヤネズミは、草の上で子育てをする。
 カヤネズミの巣は、草の上につくる。カヤネズミは、葉を植物から切り離さずに編む。巣は草だけで作られる。球形に近く、巣穴は小さい。これに対して、鳥の巣は、別の場所から巣材を運んできて、草に架ける。「編む」と「架ける」とは違う。
カヤネズミは夜行性で、夕方から明け方にかけて活発に活動する。日中は巣のなかで休息している。
カヤネズミの子育ては、巣作りから子のケアまで、すべてメスのみで行われる。
子どもは生まれて17日から19日目に、育った巣を離れて巣立ちする。カヤネズミは危険を感じると、その場にじっとして動かない(フリーズ)習性がある。この習性は、空から襲う敵、モズやカラスなどの鳥類から身を守るのに役立つ。それでも危ないと思ったら、草の上から飛びおりる。
 カヤネズミは、イネに付くバッタやイナゴを好んで食べる。だから、カヤネズミはイネにとって、多少は良い働きをしている。
 土手をコンクリートで固めてしまう護岸工事がされると、カヤネズミは生活できない。絶滅危惧種になりつつあるカヤネズミの生存できる環境を守るのは、人間にとっても大切なこと。
 それにしても、カヤネズミの顔って、可愛らしいですね。これからも、ヘビに注意して観察を続けてくださいね。
(2014年2月刊。2200円+税)

立身いたしたく候

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  梶 よう子 、 出版  講談社
 江戸時代も終わりのころ、武士の世界も大変でした。
 上司によるいじめ(パワハラ)、うつ(ひきこもり)、猛烈な就活競争など、まるで現代日本と似たような状況もありました。
 そして、商家の五男が武家(御家人です)に養子に入ったのです。
 江戸時代というと、士農工商で厳しい身分序列があり、町民はひどく差別されていたというイメージがあります。でも、本当のところは、農民や商売人が武士になる可能性は大いにあったようです。もちろん、お金の力です。
 幕末期の新選組の隊士たちにも農民出身者がたくさんいます。彼らは手柄を立てて武士階級に入り込むつもりだったのです。そのため剣道修行に励んでいました。
 この本の主人公は、商家の五男では将来展望が暗いので、御家人への養子になることで立身出世に賭けてみたのです。
 旗本は、上様に会えるお目見(おめみえ)以上で、御家人(ごけにん)はたいていがお目見以下。小普請(こぶしん)では、お目見以上は小普請支配、お目見以下は小普請組と呼ばれる。
そもそも小普請は、お役を退いた老年のものや家督を継いだばかりの者、若年の者、あるいはしくじりを犯して役を解かれた者、長患(ながわずらい)のものなど、禄高(ろくだか)3千席未満の旗本、御家人が所属する無役無勤の集団だ。
 家督を継いだばかりの主人公は当然、小普請入り。小普請は、勤めがない代わりに、家禄によって定められた小普請金と呼ばれるものを納める。これを幕府施設の修理・修繕につかう。小普請金の徴収やらを管理・監督しているのが小普請支配である。その下に、組頭がいる。支配と組頭には、逢対(あいたい)という大切な役割があった。
 江戸時代の「就活」(シューカツ)は、現代と同じです。いろんな伝手(つて)を頼って、ともかくあたって砕けろ式で飛び込み、訪問を続けていきます。
 さらっと読める、ユーモアたっぷりの時代小説でした。
(2014年2月刊。1600円+税)

サムライ・評伝・三船敏郎

カテゴリー:社会

著者  松田 美智子 、 出版  文芸春秋
 「世界のミフネ」の実像に迫った本として面白く読みとおしました。
三船敏郎は大正9年に中国は山東省青島に生まれた。父親は秋田県出身で、漢方医の息子だったが、親と不仲になって、満州で一旗揚げようと思って中国大陸に渡った。それで、 三船は少年時代の大半を大連で過ごした。
 昭和15年で、19歳で軍隊に召集され、終戦まで6年間の軍隊生活を過ごした。軍隊では徹底的に殴られ、シゴかれた。三船は万年上等兵だった。九州は熊本の特攻基地で教育係として、特攻隊として飛び立つ少年航空兵を見送った。
 戦後、世田谷にあった東宝撮影所で撮影の仕事に応募した。しかし、ちょうど空がなかったので、俳優のニューフェイスの方に応募した。
 そのとき、怒れるものなら怒ってみろと言われ、三船はバカヤロウと怒鳴って、たまりにたまっていたうっ憤を発散した。
 「ああいう風変わりなのが一人くらいいてもいいだろう」
 という言葉で、応募者4000人のなかで、補欠合格となった。
三船は、俳優の声がかかったとき、「僕は俳優にはなりません。男のくせにツラで飯を食うというのは、あまりに好きじゃないんです」と言って断った。
 すごい言い草ですよね、これって・・・。
 三船は、除隊するときにもらった毛布を自分で裁断して縫ってコートに仕立て上げた。
 三船は掃除が好きで、自宅内の清掃も自分でしていた。
三船は自宅では着物を一切着なかった。いつも洋装で、身につけるものは、自分なりのこだわりをもって選んだ。靴をふくめて、欧米ブランド品を好んだ。
 三船敏郎は、生涯150本の映画に出演した。そのうち、黒澤明監督と組んでつくった映画は16作。最初の『酔いどれ天使』のときに三船は28歳で、最後の『赤ひげ』のとき45歳だった。この17年間で、「黒澤天皇」となり、「世界の三船」と呼ばれた。
『無法松の一生』をとるとき、三船は毎朝7時に撮影所に入り、大太鼓を叩いた。蛙打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ内野4種類をマスターした。本番は一発で決まった。
三船が黒澤監督と組んでつくった16本の映画で、もっとも多く競演した女優は香川京子で、次が司葉子だった。
 三船は台本をもたずに撮影所に入った。セリフをすべて覚えてから撮影にのぞむ。スタートの合図が出たときには、すでに役になりきっていた。
 撮影所に入る時間は、他のキャストより1時間早く、持参した椅子に座って待っているのが常だった。三船は、スターと呼ばれる存在になってからも、一番乗りで撮影所に入り、衣装に着替えて待機するという姿勢を守った。手抜きを嫌い、なにより現場で他人(ひと)に迷惑をかけることを嫌う性格だった。
 三船は乗馬と車が好きだった。三船の乗馬術は誰しも認めていた。
 三船の殺陣(たて)の特徴は、迫力とあの眼光。異様なほどの目の鋭さ。立ち回りでは、刀でバシャバシャと生身の身体に当ててくる。身体にあてて、その反動で次の相手を切る。だから、着られ役は、撮影の後、全身にミミズバレが何本も入っていた。三船は飲酒すると豹変した。酔った三船が暴れるのは日常茶飯事だった。
 三船は、常人には計り知れない怒りのマグマを腹の底にすえており、飲酒によって噴出したようだ。それでも朝はきちんと出社し、二日酔いで現場に来たことはなかった。
 極端なまでの潔癖、生真面目、律義、几帳面さ。
 三船は、他者が黒澤監督の悪口を言うことは許さなかった。愛情があって不満を言うのと、ただ現場で見聞きした人間が黒澤監督への不満を話すのは、三船にとって、まったく異なった次元の話だった。
 晩年の三船は認知症にかかっていた。そして、平成9年12月24日、77歳で亡くなった。
 三船敏郎の出演する映画の多くを、残念なことに、見ていないことが分かりました。ぜひ、時間をつくってみたいものです。
(2014年2月刊。1500円+税)

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