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明智光秀の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  小林 正信 、 出版  里文出版
 明智光秀とは何ものだったのか?
この本は、明智光秀の正体を執拗に追跡し、明らかにしています。その立証過程は実に詳細であり、こまかすぎで辟易するほどです。
 でも、それがいかにも研究者による真面目な学術的研究なので、最後まで、何とかおつきあいさせていただきました。推理小説ではありませんので、ネタバラシしてもいいでしょう。
 著者の結論を紹介します。
 ①明智光秀とは、室町幕府の奉公衆であった進士源十郎藤延である。その父は、進士(しんし)美作守(みまさかのかみ)晴舎(はるいえ)である。
 ②室町幕府の将軍・足利義輝の側室の小侍従は、明智光秀の妹のツマキである。
 ③ツマキの子・明智光慶は、足利義輝の遺児・小池義辰である。
著者は、「本能寺の変」と呼ぶのは誤りだと主張します。明智光秀が動員した軍勢1万3千という規模、織田政権の転覆を意図したことから、これは大規模な軍事的反乱であった。つまり「乱」であって、小規模な兵力による襲撃を指す「変」とは言えない。なーるほど、ですね。
 織田信長は、足利義昭を追放しておらず、室町幕府を滅ぼしたわけでもはない。
 室町幕府の統治機構を実際に統治していたのは明智光秀である。
 明智光秀は、天正10年(1582年)6月2日に信長、信忠親子の殺害に成功はしたものの、徳川家康とその重臣たちを取り逃してしまった。これが光秀の破滅をもたらした。
 この乱の直接的な要因は、信長の政権構想をめぐる家康の処遇をめぐっての信長と光秀のきわめて深刻な対立にある。
 光秀は、室町幕府の官僚機構の中心的存在であった「奉公衆」の出身者であったからこそ、「奉公衆、奉行衆」などを統括する存在として、織田政権においても重きをなしていた。
 織田政権における光秀の役割とは、事務方全体をまとめる官房副長官として幕府の官僚機構全体を取りまとめ、信長の幾内統治を円滑に担うことにあった。信長の要請・命令に応じて幾内の軍事力として室町幕府の幕臣たちを動員することが、織田政権内における光秀の高い地位を規定していた。
 明智光秀は、奉公衆・奉行衆など将軍直臣としての信条、武家社会における名門としてのエリート意識、そして歴史的に形成された伝統・慣習にもとづく室町幕府のカルチャーを代表する存在だった。
 明智光秀の乱を主導した勢力は、京都を中心として信長の強大なカリスマ的支配を支えてきた基盤であるとともに、その実態は室町幕府機構そのものであった。光秀は、このような既存の奉公衆・奉行衆などによる伝統的かつ官僚的支配層の利益を代表することにより将軍・足利義昭の出奔後も織田政権を支えていた。
 幕府の周辺勢力を動員して兵力にも転用しうる、即戦力として、あるいは潜在的にその能力が十分にあったからこそ、光秀は信長から格別の地位を与えられていた。
 織田政権の全期間にわたって室町幕府は存在していた。足利義昭は、信長の死後もなお、天正16年(1588年)正月まで将軍であり続けた。
 明智光秀は、その前半生、そして父母兄弟も妻も不明である。
 この本を読んで驚いたことの一つとして、昔の武将が、何度も姓名を変えていることです。これでは、うわすべりに歴史の本を読んでいても、同一人物が名前を変えているだけかもしれないというわけですから、歴史の迷路にさまよいかねません。
 私のご先祖様だと勝手に思っている上杉謙信は、虎千代、平三、長尾(平氏)、上杉(藤原)、上杉政虎、輝虎、謙信と変遷しています。大変です。
 信長は、これを利用して、家臣に九州の名族を名乗らせ、九州の国々にちなんだ官を受領させた。東国の者がそれを聞けば、信長は既に九州の土地を併合しているかのように錯覚させることを目論んだ。それで畏服させようというのだ。
 同じく、光秀も改姓によるものでは・・・。
 信長の側近には「秀」の字が目につく。秀吉も、その一人だ。
 光秀の享年は不明である。54歳、いや67歳と、いろいろあって定まってはいない。
 進士(しんし)氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家の故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。進士氏は、「御前奉行」としても知られ、武家儀礼において特に重要な将軍が重臣や守護大名の邸宅を訪問する「御成」の際の手順、その料理に関する総合プロデューサーという役割を代々になってきた式法の家である。
 幕府官僚機構を統括していた光秀が信長の「御成」を認めることは、信長を足利将軍に代わる武家の棟梁として認知することになり、それは足利(室町)幕府体制の否定を意味するものだった。
 大変刺激的であると同時に、説得力のある本でした。400頁のずっしりした本に、ついつい読みふけってしまったことでした。
(2014年7月刊。2500円+税)

新・ローマ帝国衰亡史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  南川高志 、 出版  岩波新書
 ローマ帝国とは何か、改めて認識することが出来ました。
 ローマの征服軍が要塞の周辺には、軍に関係する民間人の定住地ができた。これをカナバエという。カナバエは発展して村落となり、軍が移動したあとの要塞敷地も含みこんで拡大した。
 境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式にもうけていた妻子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発展した町で暮らし、その有力者となる者も出てきた。
 軍隊は新しく「ローマ人」を生み出すうえで大きな役割を果たした。「ローマ人」とは、ローマ市民権をもつ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。国家が拡大してからは、新市民はローマ市の郊外地区に登録され、政治的な意味はなくなる。それでも、「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提だった。
 皇帝政府は、ローマ市民権をもたないため正規軍団に入れない部族の男性を補助軍として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統と訓練は、ローマ式になされる。そして無事に兵役をつとめあげるとローマ市民権が与えられ、その子はローマ市民として正規軍団に入隊して、ローマ社会の階悌を上がっていくことができた。
 こうやって、ローマ帝国は辺境において、兵員を確保するだけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成していた。
 ローマ社会は、人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などによって奴隷の境遇から解放されて解放奴隷となり、その子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらには実力と幸運に恵まれて騎士身分に状況し、元老院議員にまでのぼりつめる可能性があったし、実際にもそうした上昇例は多かった。
 属州に生まれてローマ市民でなかった者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれたら、社会の最上層にまで到達できたのだ。
 ローマ帝国は、国家として硬直した存在ではなかった。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法にもとづく国家の制度をもち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、きわめて柔軟な存在であって、排他的な生活を有していなかった。
 ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。
 次に、「ローマ人」としての生き方である。ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践すること。
 広大なローマ帝国を統治するうえで中央行政を担当していたのは、わずか300人ほどの「官僚」だった。
 ローマ異国を実質化する第三の要素は、外部世界の有力者たちの共犯関係にあった。
 今日では、ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は適切ではないと考えられている。
 「ゲルマン人」と呼ばれる集団は、今日、固定的で完成された集団とは考えられていない。非常に流動性の高い集団で、そのときどきの政治的な利害によって離合集散を繰り返し、その構成員や集団のアイデンティティが形づくられていったと理解されている。
 古代ローマ帝国が柔構造をもつ社会だったことを初めて知りました。
(2014年5月刊。760円+税)

史上最大の決断

カテゴリー:アメリカ

著者  野中 郁次郎・荻野 進介 、 出版  ダイヤモンド社
 ノルマンディー上陸作戦を描いた映画をみたのは、私が高校生のころだったでしょうか。
 1944年6月6日、Dデイの当日、ノルマンディー上陸作戦に参加した将兵は300万人。計画から実行まで2年2ヵ月。機甲12個と空挺3個をふくむ39個師団が参加した。13万3000人の将兵と、1万4000台の各種車両、1万4500トンもの補給資機材が、戦艦6隻、戦闘戦艦1070隻に護衛された6000隻もの艦船舟艇によって、波高き海峡を渡って、ノルマンディーの海岸に運び上げられた。さらに、2万機におよぶ戦闘機、爆撃機、輸送機が飛んだ。
 この当時、チャーチル65歳、スターリン61歳、ルーズベルト58歳、ヒトラー51歳。そして、アイゼンハワーは53歳。アイゼンハワーは、陸軍参謀総長だったクラス・マッカーサーのスタッフとして、9年間も仕えたことがある。
 ノルマンディー上陸作戦について、ドイツを欺くための作戦「ボディーガード計画」が大々的にすすめられた(フォーティチュード作戦)。
 6月のノルマンディー上陸作戦は、本番である7月のパ・ド・カレー上陸作戦のための牽制作戦にすぎないとドイツ軍を信じ込ませる作戦が実行された。そのため、架空のイギリス「第4軍」がスコットランドにつくり出され、その司令官として有名なパットン将軍が選ばれた。
 ノルマンディー上陸作戦にあたって、イギリスにアメリカ軍が集結した(ボレロ作戦)が、なんと152万人にも達した。これだけのアメリカ兵がいて、ドイツ側にノルマンディー上陸作戦がよく洩れなかったものです。
 アイゼンハワーは最高司令官として、将兵たちに直接接触した。26の師団と24の飛行場、5隻の軍艦、そして基地、工場、病院などを訪問した。
 アイゼンハワーは、兵士は作戦を指揮する人物に会うのが好きだし、彼らの士気もそれによって高揚する。その士気がなければ、戦場において勝利をおさめることは出来ない、と考えていた。
「総司令官は、重大な作戦用務もさることながら、前線の部隊の『感情』に絶えず触れなくてはならない。総司令官たるものは、作戦の責任を代表し、部下の権限が侵されることのないように努力すべきであるとともに、部下と感情的に溶けあっていなければならない。そうでなければ、広範かつ重大な作戦で必ずや失敗する。この部下との接触のため、絶えず前線を視察する必要がある」
 ノルマンディー上陸作戦の決行の前、ド・ゴール将軍には詳しい計画は伝えられていなかった。ド・ゴールは独裁者になる危険があるとして信頼されていなかったことと、使われていた暗号があまりにお粗末だったため、ドイツ軍に筒抜けになることを心配したからだった。
 Dデイは、当初は5月1日だった。月齢と潮の干満、そして日の出という3つの条件によって決められた。
 連合軍の気象予報組織はドイツ軍に比べて格段に優秀だった。アメリカの陸軍がグリーンランドに設置していた高層気象観測所が役に立った。
ドイツ軍が海中に機雷、そして海岸に地雷付きの障害物を山ほど設置していることが分かっているため、それが海面上に露わになる引き潮のほうが都合よい。引き潮のあと、推進力のある満ち潮に乗って、できるだけ速やかに上陸することだった。時間帯は、夜明けが選ばれた。敵を油断させるためだ。
 6月5日午前3時半、台風のような天候の下で、会議が開かれた。悪天候に切れ目ができ今日の午後1時から、今まで予期されていなかった好天が36時間続く可能性があると気象班の責任者が告げた。それを聞いて、アイゼンハワーが決行を決めた。5日の午前4時15分だった。
兵士はアイゼンハワーに「実は恐いです」と正直に答えた。それを聞いて、アイクは言った。
「そうとも、恐くない奴は大馬鹿野郎だ。ただし、コツがある。もし足をとめたら、その瞬間にスキができる。そうなると、やられる。肝心なのは、常に動き続けることだ」
 6月6日、Dデイ当日、午前1時半すぎ、真っ先にノルマンディー地区に降下したのは、アメリカ陸軍第101空挺師団だった。6600人のうち、予定された集結地点に集まったのは1100人だけだった。それでも夕方までに2500人となった。
5つの海岸のうち、もっとも激しい戦闘になったのは、オマハ海岸だった。高台から海を一望でき、守りやすく、攻めにくい場所だった。ここに、昼12時半までに1万8千人が上陸した。オマハ海岸で上陸しようとした3万4千人のうち2千人が死傷した。ドイツ側は1200人の死傷だった。
フランスにあるドイツ軍最高司令部はまもなく大陸への侵攻作戦が始まろうとしていることは把握していた。しかし、天候は6月10日まで悪化するばかりという予報だった。ロンメル将軍は、この悪天候を利用して、ドイツに帰国していた。
 アイゼンハワーは、Dデイ翌日、6月7日に、駆遂艦に乗って、オバマ海岸から上陸し、ノルマンディーで、司令官と会い、その日のうちにイギリスに戻り、今後の作戦計画を修正した。
 ヒトラーは、パ・ド・カレー上陸を信じていたため、ドイツ軍の対応が遅れた。
 ノルマンディー上陸作戦を総合的に検討した本として、大変興味深く読み通しました。「
(2014年6月刊。2200円+税)

憲法の招待

カテゴリー:司法

著者  渋谷 秀樹 、 出版  岩波新書
 日本国憲法は、人類普遍の原理を調和的に組み込んだすぐれた内容をもっている。それは、世界各国の現行憲法の水準からみても、いまなお最先端かつ最高の内容をもち、世界に誇るべき究極モデルである。
 いま、憲法を取り巻く状況は風雲急を告げている。風通しの悪い、息苦しい、生きていくのが大変な日本にならないように、私たちは政治の動きをしっかり監視していかなければ、ならない。
 私も、まったく同感です。選挙のときに棄権するなんて、とんでもないことです。いま、投票率は全体で6割未満、若者にいたっては3~4割という悲惨な状況です。これでは日本の政治が良くなるはずがありません。主権者たる自覚をもって投票所に出かけましょう。
 憲法の「憲」という字は、上半分が勝手な動きをおさえることを意味し、その下に目と心があるので、全体として、人間の勝手な心の動きや見方を上からおさえるという意味の言葉だ。これって、初めて知りました。
 権利の保障と権力の分立が備わった憲法こそ、真の意味の憲法なのである。
 聖徳太子の17条憲法は、いま一般的に使われている憲法と同じもの、つまり立憲主義的憲法、真の意味での憲法であるとは言えない。
 納税の義務(憲法30条)は、政府が課税するときには、必ず法律をつくって内容や取り立て方法を定めることを義務づけた点にこそ意味がある。
 憲法は誰を支配し、誰が守らなくてはならないものか?
 それは、統治活動を担当する政府であり、それを担う人なのである。憲法に、一般市民に対して憲法を守れと命じた条項がないのは、「法の支配」からして、当然の論理的な帰結である。
 憲法上の「国民」とは、国籍を保有するものに加えて、日本政府の統治権の及ぶ空間内に生活の本拠を有する者(定住者や特別永住者など)であると解すべき。
 特定秘密保護法は、明治憲法下の戦争遂行時の情報管制の時代に時計を戻そうとしている。
 第一に、いまどき本当に国家機密というべきものが存在するのか。国民主権の原理からして、国民誰もが、本来、それを知る権利をもっている。ところが、この法律によると、最長60年間も隠せるし、さらには永久に隠すことも可能としている。
 第二に、特定秘密の内容があいまいで、恣意的に指定される危険がある。時の政権や官僚機構にとって不都合な情報が指定される可能性は大変大きい。
 第三に、報道機関の取材活動を委縮させて、国民の知る権利を狭めてしまう。
靖国神社は、敵味方を区別なく弔うという収容的伝統からかけ離れた存在である。「朝敵」を排除し、民間人の戦争犠牲者も対象としていない。そのうえで、A級戦犯14人を合祀している。
靖国神社は、一宗教団体が運営する宗教施設である。そこに神道の礼法にのっとって参拝するのは、まぎれもない宗教的活動である。政府首脳が参拝するのは、この神社を特別扱いしている印象を国民に与えるもので、憲法で定められた政教分離原則に反し、違憲である。
 まことに明快です。本当にそのとおりだと思います。だからこそ、昭和天皇(A級戦犯が合祀されたあと)も、今の天皇も、靖国神社には参拝していないのです。
 「国政」を「国の政治」と理解するのは誤りで、「統治活動」の意味である。
自衛隊を取り巻く現実をみたとき、日本で発生した大規模・特殊災害への対処こそ、自衛隊の本来的任務の一つに揚げられるべき。
 日本国憲法のもつ意義を、最新の社会状況にあわせて、とても分かりやすく、明快に解説している新書です。難しいことを分かりやすく伝えることが、今ほど求められているときはありません。ぜひ、ご一読ください。
(2014年2月刊。800円+税)

象にささやく男

カテゴリー:生物

著者  ローレンス・アンソニー 、 出版  築地書館
 アフリカで野生のゾウの保護のために奮闘した男性の話です。
 残念なことに、1950年生まれの著者は、2012年に心臓発作のために亡くなっています。
 そのとき、ゾウたちが長い道のりを後進して、「弔問」にやって来たそうです。ゾウは超能力をもっているのです。
アフリカ象は40万頭から65万頭ほど。ところが、2011年だけで2万5000頭が殺された。象牙のために密漁団が暗躍している。日本も印鑑のために、その象牙の密輸入国です。
 オスのゾウはメスよりも人間に近づかれても平気だ。その理由は簡単。大きなオスは、自分を守る能力に大変自信をもっているから、人間が近づいても、その分、大丈夫なのだ。ゾウが小さくなればなるほど、自信がなくなるので、より大きな空間を要求する。ゾウは、自分のことを皇帝のように偉い存在だと思っている。
 野生のゾウとつきあいたいのなら、こちらから近づいていってはならない。ゾウのほうから近づいて来るのを待つべきだ。ゾウが近づいてこないのなら、あきらめるしかない。
 ゾウにとっての不変の原則は、すべての生き物は、自分たちに譲るべきだということ。
 アフリカの野生の生き物は、最初はぐらつくにしても、生後すぐに歩き始める。地面に赤ん坊が横たわっているのでは、どうぞ召し上がってくださいとお願いしているようなもの。捕食動物の格好のおやつになってしまう。身体の大きいゾウにしても、生まれたら、出来るだけ早くその場をあとにする。胎盤の臭いで、肉食動物が集まってくるから。
 ゾウの仲間(家族)が死ぬと、ゾウたちが周囲をぐるりと取り囲む。そして、遺骨になってしまったあとも、近くを通りかかると歩みを止め、臭いをかぎながらその骨を突っつきまわし、おもちゃのようにして戯れる。それは、ゾウの亡き者を偲ぶ一つに儀式だった。
ゾウは、地球上で唯一、飛び跳ねることのできない動物である。だから、飛びおりることもできない。
 ゾウは人間の可聴周波数帯よりはるかに低いゴロゴロという音を胃のあたりで発し、数キロ離れた先からもそれを聞きとることができる。
 ゾウは金属の肌触りが好きらしく、放っておくと、何時間も自動車の車体に触り続けている。エンジンの発する熱も大好きで、とくに寒いときがそうだが、鼻をボンネットの上に長いことくっつけたままにしている。
 ゾウは、人間のゆっくりした落ち着いた動きを好む。人間が近づくときには、わざとらしく草を手で折ったり、止まって木の様を調べたりして、時間をかせぎながら、ゆっくり近づいていく。すると、鼻が伸びてきて、人間の身体に優しく触れる。
 ゾウと心を通わせるまでの苦労、そして、ゾウたちの集団との関わりが、てらいなく紹介されています。仔ゾウに、一度は触ってみたいものだと思いました。
ゾウの賢さを改めて認識させられる本でもあります。
(2014年2月刊。2600円+税)

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