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登校拒否を生きる

カテゴリー:社会

著者  高垣 忠一郎 、 出版  新日本出版社
 現代日本社会のありようを改めて考えさせる本です。
 いま周囲を見まわしてみると、世の中、なんだかギスギスとして、みんながやたら早足に、せっかちに歩いているように見えて落ち着かない。本当に、そのとおりですよね。
多くの子どもが親の前で「元気で明るい子」を演じている。一生けん命に自分の感情を操作し、コントロールして、親向け、教師向け、あるいは友だち向けの「自分」を演じている。
 悪夢でうなされている子どもを、揺り動かして悪夢から目覚めさせてやる。これが本当の援助だ。
 登校拒否している子どもは、登校拒否という形で、自分と社会や時代とのかかわりを表現しながら、自分の人生と向きあっている。
 「よい子」でないと見捨てられるという不安をかかえて育った子どもや若者は、「自由」に生きられない。不安と恐怖に強いられて、「ねばらない」で行動するため、自分のやったことが失敗し、自分に不都合なことが起こると、一生けん命「よい子」をやってきたのに、裏切られたと思ってしまう。この裏切られた怒りを裏切った親や社会にぶつけるようになる。
 「よい子」でがんばっている人は、「よい子」でない「あるがままの自分」を受け入れることが出来ない。「よい子」でない自分を演じている自己欺瞞をどこかで感じ、深層では、そんな自分が好きになれないでいる。
子どもを「まるごと受け容れる」とは、子どものすべてを肯定的に評価するということではない。弱点やダメなところをたくさん抱えながら生きている、その子の存在をまるごと承認し、肯定するということ。
 カウンセラーは、答えを教えるのが仕事ではない。その人が問題とまともに向きあって、自分なりの答えを見つけ出すのを手伝うのがカウンセラーの仕事だ。そうして本人が見つけ出した答えだけが、その人を変える。
 人間は、まずこの世に存在する。そのあとで自分の本質を創り上げていく存在である。一刻一刻の自分の行為によって、自分で選択する自由な「投企」によって、自分というものを証明し、創り上げていく存在なのである。うむむ、そういうことなんですか・・・。
 個性というものは、「あるがまま」の自分に素直な人にしか訪れない。
 思春期は、第二の誕生のとき。そこにあるのは、「私は誰か?」という問いかけである。
 今日の進学競争は、敗者復活戦のない「勝ち抜き競争」「生き残り競争」の観を呈している。そこでの失敗には、後(あと)がない。進学競争に負ければ自分の人生はないと思い込めば、そこでの失敗は取り返しのつかないものとなり、取り返しのつかない後悔につながる。
そのことにどこかで違和感を感じる自己がたしかに存在していた。その違和感が蓄積し、飽和状態に達したとき、そんな学校生活への拒否症状が生まれ、登校拒否に陥る。
親は学校社会から脱落した孤立感や疎外感を感じ、自分を「ダメな親」にしてしまった「ダメな子」を受け容れることができない。そして、親に受け容れられない子どもは、自分を否定し、自分を責め続けて、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感もふくらまず、なかなか元気になれない。
競争社会は、眼に見えないコストがかかる。共同性や社会性の喪失。利己主義の蔓延。その結果として生じる、不安、敵意、嫉妬、強迫観念などのもたらすマイナスの想念、メンタルヘルスの低下・・・。
 勝利することによるワクワクする高揚感、勝利感は長続きしない。勝利感、高揚感に支えられた自己愛的な誇りは、競争に勝ち続けることによってしか維持できない。競争に勝ち続けることは不可能で、いつか敗北が訪れる。栄光のときを過ぎた自分、花の盛りを過ぎた自分は、みじめなもの。他人をうち負かしても、自尊心、自己肯定感を高めることには役立たない。もっと他人をうち負かし続けなければならないという強迫感を強めるだけ。
 「勝ち組」思考の人は、自分が現実をありのままに認められず、否定しているのではないかと自分を疑ってみることが必要なのでは・・・。
さすがに長年、心理臨床家を続けてきた人の話は説得力があります。私は、この本の光ったところに赤エンピツをたくさん引いて、本が真っ赤になってしまいました。子どもの教育に関心のある人には、強く一読をおすすめします。
(2014年8月刊。1600円+税)

軍服を着た救済者たち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヴォルフラム・ヴェッテ 、 出版  白水社
 「ドイツ国防軍とユダヤ人救出工作」というサブタイトルのついた本です。
 ユダヤ人の絶滅を図ったナチス・ドイツですが、ドイツ国防軍とは一定の緊張関係があったようです。その典型が、ヒトラー暗殺を計画して未遂に終わった7月20日事件(ワルキューレ作戦)でした。
 この本に登場してくるドイツ国防軍の兵士は、そんなトップ将官ではなく、一般兵士たちのなかで、ユダヤ人救出を図った人たちがいることを掘り起こしています。
 順応した人たち、臆病から、あるいは喜んで勇んで「共犯者」となった人がいた一方、いずれかの時点で、不安や恐怖にうちかつ勇気、積極的な抵抗姿勢をとる勇気を示した人たちがいた。
 アントーン・シュミット軍曹は、リトリアのヴェルナで敗走兵集合所の主任だった。そして、ユダヤ人抵抗組織と接触をもち、武器と数十名の抵抗運動の兵士を他のゲットーに送り込んだ。
 アントーン・シュミットは1942年1月に逮捕され、軍事法廷で死刑が宣告された。このとき、シュミットは、自分はユダヤ人を死から救助するために移送したと確信をもって陳述した。そして、1942年4月13日、銃殺された。
 刑場に向かう直前に書いた妻と娘への遺書には、次のように書かれている。
 「愛する妻たちよ、気を落とさないでくれ。私はそれと折りあいをつけたし、運命もそう望んだのだ。われらが愛する神によって天上から決定されたのだ、そのことは変更のしようがない。今日、私の心は平静で、自分自身がそれを信じられないくらいだ。
 ここでは絶えず、2~3000人のユダヤ人が銃殺された。
 敗走兵集合所には140人のユダヤ人が働いていて、彼らは、私にここから連れて逃げてほしいと要請した。そして、私は説得に負けた。どうか、どうか私を許してほしい。私は人間として行動したまでで、実際、誰にも苦痛を与えたくはなかったのだ」
 映画「戦場のピアニスト」で有名になったシュピルマンを救ったヴィルム・ホーゼンフェルト大尉の場合は、同僚が「ドイツ人であることを恥ずかしく思う」と語る状況にいた。そして、言う。
 「なぜ、人々は沈黙して抗議しないのだろうか。われわれは、皆、臆病で怠情であり、あまりにも不実で堕落している。そのため、われわれも全員、奈落に落ちなければならない」
 1942年、20歳のラインホルト・ロフィ少佐は、上官からユダヤ人の老人を銃殺せよという命令を受けたとき、これを拒絶し、「自分はキリスト教徒であり、それは出来ない」と答えた。
 ヴィリ・シュルツ大尉は、1943年3月、ドイツ国防軍の貨物自動車に25人の若いユダヤ人(13人の女性と12人の男性)を乗せて逃亡することに成功した。
 ナチス・ドイツの体制のなかで上官の命令は絶対的で、それに抵抗することは不可能だったという定説を打ち破る本でもあります。でも、それは口で言うほど簡単なことではありませんよね。文字どおり、命がけの行為なのですから・・・。
(2014年6月刊。2400円+税)

あの男の正体(ハラワタ)

カテゴリー:司法

著者  牛島 信 、 出版  日経BP社
 著者は私と同じく団塊世代です。検察官から弁護士になり、今では企業法務の第一人者として活躍中です。
 これまでにも、たくさんの小説を書いています。「株主総会」「株主代表訴訟」「社外取締役」などです。私も、そのいくつかを読み、このブログでも紹介していますが、いつもストーリー展開の見事さと相まって大変勉強になっています。さすがはM&Aやコーポレート・ガバナンスで定評のあるベテラン弁護士だと感嘆してきました。
 この本は、これまでの本とは、いささか趣向を変えています。
 主人公は、私なのか。あの男なのか。よく分からないようにして、話が始まります。
 従業員2000人、売上高2000億円、40億円の利益を上げている会社の社長の椅子が問題となります。
 弁護士をしていると、いろんなことに出くわすものだ。なんといっても、腹の立つことが圧倒的に多い。ありていに言えば、他人が困るから、弁護士が飯(メシ)のタネにありつくということでもあるのだ。
 弁護士という職業への人々の信頼を思い、弁護士という制度が社会で果たしている役割の重さを思った。もう30年以上、弁護士をやってはいても、人の、ビジネスの、重大な秘密を打ち明けられるときに、いつも感じないではいられない感慨だ。
 海外から、知り合いを通じて紹介があっただけのVIPが、初めて会ったばかりなのに、会議室に座るや、「実は」と、驚天動地のような秘密を切り出す。それを微笑みながら聞き、淡々と助言を繰り出して議論する。
 身の破綻を招くほどの秘密を打ち明けての依頼であれば、いつものことながら、なんとか依頼者の信頼にこたえたいという情熱が、ふつふつと我が胸のうちに湧きあがってくる。
 30年もすれば、人生と仕事とは切り離すことは出来ない。それどころか、職業生活が人生そのものである人も多い。そうなんですよね。私も弁護士生活が40年となり、私の人生そのものです。
 「あなたが自分からやめないなら、取締役会をすぐに招集する。あなたを副社長から外して非常勤にすることを決議する。必要があれば、社長はいつでも取締役会を開ける。開催する必要があるかどうかは、社長が決める。取締役会では、過半数でものごとが決まる」
 「副社長でなくなるだけではない。非常勤になった取締役の報酬も、社長に一任される。退職金も社長一任となる。次の株主総会では、取締役候補のリストにも載らないだろう」
 「もちろん、あなたには裁判を起こす自由がある。憲法に書いてある。だけど、裁判はすぐに結論が出るわけではない。それまで、カスミでも食べるのかな・・・。あなたの社会的な立場は、あなたの家族はどうなる・・・」
 このように、行き詰まった展開もあり、途中もダレることなくストーリーは展開していきます。
社長が現役のまま死んだ場合には、香典の金額も多い。社葬であっても、香典はすべて喪主にわたる。全部で、何千万円、いや億をこえることもある。会社の費用で葬儀しても、香典をもらった遺族には税金はかからない。
知りませんでした。といっても、私には無縁のビッグ・ビジネスの世界の話ではあります。
 ビジネスの世界を小説にするにも、男と女の話は欠かすことが出来ないことを想起させる企業でもありました。私も、目下、久しぶりに本格的な小説に挑戦中です。テーマは、40年前の司法修習所における苦闘の日々です。
(2014年9月刊。1700円+税)

犬たちの明治維新

カテゴリー:生物

著者  仁科 邦男 、 出版  草思社
 犬にまつわる面白い話が満載の本です。犬好きの私にはたまらない内容になっています。
 私がいちばん驚いたのは、江戸時代まで、日本人は個人としての飼犬をもっていなかったということです。犬は村でたくさん飼われていましたが、それは村人が全体として飼っていた「村犬」(むらいぬ)、「里犬」(さといぬ)だったのです。ですから、犬には金銭的な交換価値はありませんでした。ただ、狆(ちん)だけは違います。この狆は、将軍家など、高級の家庭で大切に飼われていました。ただし、病気などに弱いため、献上品は、ほとんど洋行途上で死んでしまっています。
かつて日本の犬には値段がなかった。犬を飼うような人は、どこにもいなかった。「犬は無価値だ」と民族学者の柳田国男は述べている。これは、財産としての価値はないということ。村の犬はいても、個人的な飼主はいなかった。
町犬は、野良犬とは違う。町犬は、顔見知りの町人から餌をもらい、不審者が来れば吠え、共同体の一員として、暗黙のうちにその存在は認められていた。
 徳川綱吉の「生類憐みの令」によって犬小屋がつくられ、犬を収容していた。犬小屋に収容されたのは野良犬ではなく、人に慣れた町犬だった。
明治に入って「畜犬規則」によって、飼い主の住所、氏名を書いた名札を付けない時には、すべて野犬として撲殺することになった。明治時代は、洋犬至上主義の時代だった。
 「犬も歩けば棒に当たる」
 今や、犬も歩いたら偶然にもいいことがあるという意味で使う人が増えている。しかし、本当の意味は、「犬も出歩けば、棒で殴られる。無駄なことをしいないで、じっとしているほうがいい」というストーリーだ。犬が棒で殴られない時代になると、ことわざの意味も分からなくなってくる。
 江戸時代の里犬たちには、集団としてのテリトリーがあった。
 江戸の町には、犬がはびこっている。みじめで汚らしい野良犬ではない。長崎・出島にあったオランダ商館員だったフィセルは、次のように日本の犬猫事情を書いた。
 犬と猫は日本に非常に多い。犬は街犬(まちいぬ)と呼ばれている。実際には、誰も飼い主はいない。村犬や街犬の最大の仕事は吠えること。もう一つの大きな仕事は、子どもと遊ぶこと。
 横浜の外国人は、護身用、愛玩用として犬を購入した。
 西郷隆盛は、西南の役を起こしたころ、自分たちの行動について日本政府と戦争しているとは考えていなかった。薩軍が出兵したのは、「戦争」のためではなく、あくまで西郷暗殺計画についての「政府への尋問」のためだった。西郷は精鋭の薩摩武士とともに大道を行けば、各地の士族は呼応して大群となり、天下は自然と我にたなびいてくると考えた。つまり、西郷の認識はあまりにも甘かったということです。だから、西郷は猟犬を連れて山の中で狩りを楽しんでいたのでした。そこには切迫感などありません。
 明治9年の犬の名前は、トラ、クマ、ムクが多かった。そして、ポチという名前の犬がいた。
 明治9年に文部省のつくった国語の許可書にポチが登場する。なぜポチなのか・・・。
 著者は、その由来をあげ、ふち→パッチ→ポチと定着していったと考えている。
 洋犬を、明治初めの日本人が「カメ」と呼んでいたのは、「カムヒア」と聞いたからだろうとしています。とても面白くて、ひきずり込まれました。
(2014年7月刊。1600円+税)

潜伏キリシタン

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  大橋 幸泰 、 出版  講談社選書メチエ
 宗教とは何か?
 「宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとってもっとも基本的な営みである」(阿満利磨)
 江戸時代のキリシタンについて「隠れキリシタン」と呼ぶことが直ちに誤りだとは言えない。しかし、江戸時代はむしろ潜伏状態にあったとするのが実情にあっている。
 豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月18日に「覚」11ヶ条を、翌19日に「定」5ヶ条を発令してキリシタンを制限した。ただし、秀吉はキリシタンを制限しようとはしたが、明快に禁止までは踏み込まなかった。南蛮貿易の収益が宣教活動の資金源になっていた構造からして、キリシタンを禁止すれば南蛮貿易もあきらめるしかなかったからだ。
 徳川幕府になってから、慶長17年(1612年)に岡本大八事件が起きて、キリシタンがはっきり禁じられた。しかし、これで全国一律にキリシタン排除が進んだのではない。幕府は、具体的なキリシタン禁制の方法を示さなかった、というより、示さなかった。
 なぜなら、近世期キリシタンをあぶり出すための制度として有効に機能した寺請を一律に実施するための条件が、この17世紀前期では、まだ整っていなかったから。村社会の寺院の成立と百姓の家の自立という二つの条件が整うのは、7世紀中後期のことである。
 キリシタンについて、伴天連門徒と表記されていたのが、「切支丹」とされたのは1640年代から。それは、1637年(寛永14年)の島原天草一揆を契機としている。
 島原天草一揆は、近年は宗教戦争とみる方が有力である。
 一揆勢は、混成集団だった。キリシタンの神戚のもとに、混成集団としての一揆勢は、正当性を帯びた集団となって幕藩権力に抵抗した。一揆指導者は混成集団であること自体を否定し、最後までキリシタンとして命運を決することを表明した。
 近世人にとって、一揆とは、島原天草一揆のことをイメージした。
 寛政期(1800年ころ)は、潜伏キリシタン集団として存在するなかではないかと疑われる事件が起こり始める時期でもある。
 島原天草一揆の強烈な記憶によって、「切支丹」とは世俗秩序を乱す邪教であり、一揆とは、そのような邪悪な集団を引きおこす武力蜂起であるとするイメージが定着していた。
 このとき、幕府軍にも多数の犠牲者が出た。佐賀藩では、50年ごとに藩をあげての法要をしてきた。明治になってからも、250年忌法要が行われた(明治20年、1887年)。このとき、戦死者の子孫は藩主に拝謁を許されたあと、料理と酒をふるまわれた。
 こうして、「切支丹」は、常に島原天草一揆とセットでイメージされた。
 「切支丹」は、18世紀以降、そのイメージの貧困化にともない、怪しげなものを批判するときの呼称として使われるようになった。潜伏キリシタンも村請制のもとに組織された生活共同体としての村社会の一員だった。
 一村丸ごと信徒であったというのではなく、信徒と非信徒とが混在していた。彼らは信徒としてコンフラリアという信仰共同体の一員であるとともに、村請制のもとに運営される近世村落という生活共同体の一員でもあった。
潜伏キリシタンが特別に極貧であったとは言えない。村の機能の停止は、キリシタンはもちろん非キリシタンにとっても死活問題であったから、村社会という枠組みと維持するためにも、キリシタンは放っておかれたのが実際だろう。
村社会において、キリシタンが存在することは明白のことであったが、世俗秩序を維持するためにキリシタンの存在は許容されていた。
江戸時代の潜伏キリシタンは、実のところ、模範的な百姓として許容されていたから、明治まで生き延びることができた。
 それにしても、よく調べてあり、とても納得させられる本でした。明治時代の「カクレキリシタン」とあわせて、ご一読ください。日本人の心を知ることができます。
(2014年5月刊。1650円+税)

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