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信長の大戦略

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  小林 正信 、 出版  里文出版
 いわゆる学者の書いた本ではありませんが、読んでいて、なるほどと納得できる内容でした。学会では、どのように評価されているのか、ぜひ知りたいと思います。
鎌倉時代より征夷大将軍を奉じていた関東の地には、東国における事実上の国家に君臨する王権としての地位があった。すなわち、征夷大将軍の地位は、関東に不可欠のものであり、その不在は武家の建前の上から正常ではないと考えられていた。
 将軍家を継承した京都の室町殿は、征夷大将軍を関東に返還し、天皇・朝廷を守護する武官である右近衛大将から大臣になり、功績によっては「右大将家」を世襲して、大政大臣になればよかった。
 武家社会では、律令官制と異なり、重盛や頼朝の先例によって、左大将よりは右大将が尊ばれた。
織田信長は平家を黙認し、清盛の子で右近衛大将に任じられた重盛の先例から、天正3年(1575年)に右近衛大将の地位に就いた。信長の次にこの地位に就いたのは、徳川秀忠である。
信長は戦国大名の嫡子として、武術や肉体の鍛錬に熱心であっただけでなく、小鼓の名人であり、武人として屈指の能筆家でもあった。茶道にも大変精通している。
 信長の師匠は、「信長公記」によって、兵法の平田三位、弓術の市川大介、鉄砲の橋本一巴(いっぱ)であることが判明している。信長は、師匠たちを域に招いて、個人的に指導を受けていた。
織田信秀、そして信長の重要な政治的・経済的基盤は、熱田や津島の商業者だった。
信長が若いころ、異形異類の様相(風体)をしていたことは有名です。なぜ、こう言う格好を信長はしたのか・・・。著者は、信長の身分では決して出入りしてはいけない場所、つまり、「散所」に通うためだったとします。
 「散所」は、被差別民のいるところ、武具に欠かせない必需品の生産・集積地だった。そして、軍事情報の宝庫として重視させるところでもあった。
 秀吉の出目は百姓(農民)ではなく、非人だった。連雀商人と関連あるものだった。このような秀吉の出目では、天皇の権限で公家として関白にはなれても、武家階級の代表者である征夷大将軍には、初めからなれないことは明らかだった。
 秀吉は、信長や家康が任じられた近衛大将にもなっていない。信長と同年代の小姓たちと秀吉は「幼なともだち」だった。
 信長は大人になっても、秀吉を「猿」と呼んでいた。信長44歳、秀吉42歳のときも、「猿、かえり候て」とある。二人の関係が大人になってから始まったものだとこのような呼び方はしない。むしろ、少年期からのつきあいだったからこそではないのか・・・。
 秀吉の木下藤吉郎にしても、「木から下る」という意味で、「猿」を意味していた可能性がある。要するに、秀吉は信長にとっても幼ともだちだったのではないか、という指摘です。なるほど、それはありえますよね・・・。
 秀吉は、読み書きが出来た。秀吉が清洲域を普請したとき、知恵だけでなく、それが出来るほどの財力をもっていたからではないのか・・・。
 桶狭間の戦いのとき、信長に直属する旗本と言える2千が今川義元を急襲したのも、織田の本隊が今川勢の敗走を追撃してすべて出払い、十分な予備兵力が手元になったから、と考えるべき。
 これは、通説とは、まったく異なる戦いの状況についての主張です。
 信長は今川義元の大軍を包囲殲滅させようとしたのであって、わずか2千の兵のみで奇襲をかけたというのは誤解にすぎない。今川勢の総崩れは、義元の討死から始まったのではない。今川勢の総崩れによって義元は孤立した。そこを旗本に襲われて討ち死にしたのだ。
桶狭間の戦いについては、最近、いろいろ研究が進んでいて、まわり道をして突撃したのではなく、正面から突撃していったとされていますが、まだまだ尽きない論点があるんですね。これだから、歴史の本はやめられません。ゾクゾクしてきます。
(2013年8月刊。1800円+税)

「おこぼれ経済」という神話

カテゴリー:社会

著者  石川 康宏 、 出版  新日本出版社
 私の身のまわりは、本当に不況が深刻です。宅配業に従事している人は、この夏のお中元は激減しましたと言います。お菓子屋さんに勤める人も、同じくお中元商品はさっぱりですと言いました。中長距離トラックの運転手の人たちも、物流に勢いがないと断言します。
 アベノミクスの恩恵を蒙っているのは、超大企業とごく一部の人々ではないでしょうか。多くの庶民は、賃金や年金が減る一方で、消費税が上がって食費と出費を切り詰めて、生活防衛に走っています。だから、外食産業もアップアップしているのです。
 この本は、アベノミクスにだまされてはいけない、そのカラクリを見抜くことをおすすめしています。いま、たくさんの人に読んでほしい一冊です。
 アベノミクスは、国民生活の改善につながるものとはなっていない。それは経済政策が古い「おこぼれ経済」という発想の枠にしがみついているからだ。
 「おこぼれ経済」というのは、「大企業がうるおえば、そのうち国民もうるおってくるだろう」式の神話にすぎない。そうではなくて、国民がうるおってこそ、大企業も中小企業もうるおいということに経済の根本をおく必要がある。
 日本では、国内消費の最大勢力である個人消費を拡大させることによって、日本経済の生産力と消費力の均衡を回復していくべきだ。
 バブルの崩壊のあと、日本経済は長く停滞の時代に入っている。1991年から2011年までの20年間の年平均成長率は、わずか0.9%。この不活性さが20年以上も続いている。
 労働者の給与総額(ボーナスをふくむ)は、1997年をピークとして、減少している。1997年に月額37万円をこえた平均給与は、2012年には31万円ちょっととなり。この15年間で月5万余、年間で70万円近くも減ってしまった。その直接の原因は、非正規雇用の増大。
 日本経済の輸出依存度は14%で、世界185ヶ国のうち148位。高くはない。
 日本経済の成長を支えてきたのは、日本国民の個人消費だった。
 日本は、G7のなかで賃金が減少している唯一の国である。
日本の保険業界は、アメリカの大企業に乗っとられつつある。郵政民営化によって、結局、ゆうちょはアフラックに支配されつつありますよね。
 日本経団連会長を出している東レは、典型的な多国籍企業である。その海外生産比率は、センイで59%、フィルムで77%。グループ全体でも海外比率は45%を占めている。
 これでは、日本経団連が日本の一般庶民を大切にしようと思うはずもありませんね。
 政党助成金が始まったのは、財界からの政治献金を禁止するとの引きかえだった。ところが、日本経団連は自民党への政治献金を再開すると宣言した。これでは、国民をペテンにかけたも同然です。税金のムダづかいではありませんか。政党助成金は直ちに廃止すべきです。
そして、国政選挙に民意を反映するように、あまりに民意にかけ離れた国会議席構成をつくりだしている小選挙区制度なんか、すぐにやめて比例代表制を基本とする選挙制度へ大転換してほしいと思います。
(2014年6月刊。1100円+税)

死の都の風景

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  オトー・ドフ・クルカ 、 出版  白水社
 10歳のユダヤ人少年がアウシュビッツ強制収容所に両親ともども入れられます。なぜか、ずっと家族一緒のままです。アウシュビッツ収容所では、入り口で選別され、男と女は別、家族はバラバラ、そして老人子どもは、直ちに「選別」と称する「死」の行進へ連れ出されていったはずなんですが・・・。
 ともかく、主人公の少年は奇跡的に助かります。そして、戦後、イスラエルに渡り、歴史学者になるのでした。1978年、ポーランドで国際学術会議が開かれ、参加した後アウシュビッツに「見学」に出かけます。
 そして静寂があった。圧倒的な静寂だった。そこでは、鳥の声すら聞こえなかった。そこは音のない、空虚な場所だった。驚くことに、あれだけぎっしりと人々が詰め込まれ、まるで蟻のように、おびただしい奴隷の群れが歩を進めていた風景が静けさに包まれていた。見捨てられていた。しかし、すべては、そこにあったのだ。
著者がアウシュビッツに到着したのは、1943年だった。父親は1942年からアウシュビッツにいた。そして、家族収容区に入れられ、家族みんなで生活できた。なぜか?
 子どもたちへの教育があった。劇が上演され、コンサートが開かれた。子どもたち全員でオペラを演じた。歴史の授業があった。第一次、第二次ペルシア戦争、サラミスの海戦、テルモピェライの戦い、栄光の知らせを携えたマラトンの走者・・・。この出会いがあとで著者を歴史学へ導いた。
収容区には有刺鉄線があった。その通電柵には、本当に電気が流れているのか。子どもたちは知りたかった。誰もが有刺鉄線に触れて生きのびられるか、競いあった。
 山積みにされた遺体は日常的な光景だった。それは骨と皮しかなかった。黄ばんだ皮膚のみに覆われた骸骨だった。
 子ども棟のバラックには、合唱団の指揮者がいた。巨人のような大男で、名前をイムレと言った。ベートーヴェンの「歓喜の歌」をみんなで歌った。なぜ、この歌だったのか?
収容所から脱走しようとしたロシア兵捕虜の公開処刑を目撃させられた。
 絞首台に追い立てられた捕虜の最後の叫びは、「スターリン万歳、故郷万歳」だった。
 収容所のなかで、著者は20歳くらいの若い囚人から教わった。ドストエフスキーの『罪と罰』の本を著者に貸し、ベートーヴェンやゲーテ、シェイクスピアについて解説し、ヨーロッパの人道主義について教えてくれた。
 20歳前後の若い女性がガス室に入れられる前に紙束をカポに渡した。
 三つの詩が紹介されています、いずれも、心に深々と突き刺さる詩です。
野ざらしにされた絶望のドクロが鉄条網の上で震え、わたしたちの灰は四方へ散り無数の骨壺に収まる。わたしたちは大地をめぐる鎖を作り、風で舞い散る種を生む。わたしたちは月日を数える。わたしたちは待つ。時は、わたしたちを急がさない。
 そして、ここにわたしたちは殖えゆく。わたしたちは日に日に膨らんで大きくなる。あなたたちの野原はもうわたしたちで溢れんばかりで、ある日、あなたたちの土地は弾け飛ぶ。
そしてそのとき、おぞましい群をなして、わたしたちは姿を現す。わたしたちの頭骨と脚骨の上に、ドクロをひとつ乗せて。
 そして、あらゆる人々の前でわたしたちは咆哮をあげる。
 わたしたち、死者は、告発する!
 すごい、迫力のある詩です。詩と言うより、心の底からの叫びです。
 神は、どこにいるのですか?
 ユダヤのラビであり、カポであり、教師であり、権威であり、人々の心の拠りどころとなった男は、こう答えた。
 「そうした質問をするのは禁じられています。そのような質問は、永遠に禁じられているのです」
 最後に、アウシュビッツになぜ、このような家族収容区が存在したのかという理由が明らかにされています。
 それは、ジュネーブの億歳赤十字本部から代表団が視察に来たとき、ユダヤ人虐殺なんて嘘だという「生きた見本」として存在したのでした。ですから、赤十字団が訪問したあと、家族収容所はたちまち一掃されてしまったのです。それでも、運が良いことに著者のように生きのびることが出来た人がいたというわけです。
 10歳から12歳を絶滅収容所のなかで過ごした少年が大人になってから、自分の体験を振り返った貴重な本です。
(2014年5月刊。2200円+税)

やっぱり九条が戦争を止めていた

カテゴリー:司法

著者  伊藤 真 、 出版  毎日新聞社
 伊藤真弁護士の本は、どれを読んでも本当に勉強になります。とても大切な話が繰り返し強調されるだけでなく、毎回ちがった角度から問題の本質に光をあてて、目を開かされます。まさしく、貴重な憲法の伝道師です。
近代憲法の存在理由である立憲主義こそ、憲法のなかで何より知らなければいけない最重要のキーワードである。
 多数意思は常に正しいのか? 多数決でも変えてはならない価値を、前もって憲法のなかに書き込み、民主的正当性をもった国家権力をも制限するのが、立憲主義という法思想である。
 行政権は、国家権力の中枢に位置する「権力中の権力」とも言えるもの。それは、人権を侵害する危険や、国民主権に背く危険性がもっとも高く、憲法でコントロールする必要がもっとも高い権力である。その権力の長(内閣の長、すなわち首相)が、自分の考えで憲法解釈を変えようというのは、まさしく立憲主義の否定である。
立憲主義が縛ろうとしている「国」とは、人為的に作った権力主体としての国の権力であり、具体的には国会や内閣、裁判所などの権力である。
 この立憲主義の考え方は、決して現代社会において古臭くなってしまった、昔の考え方というものではない。
 立憲主義の究極の目的は、人権を保障することにある。では、日本国憲法が真っ先に人権保障規定をもってこず、なぜ天皇と戦争放棄をその前に置いたのか・・・。
 それは、天皇の権威と軍事力に対して憲法が歯止めをかけないと、人権保障ができなくなるからだ。この歯止めがあってこそ、人権保障は実質化する。
明治憲法も、天皇の権限を憲法で拘束するという立憲主義が全体として貫かれていた。しかし、明治憲法には、大きな欠点があった。それが統帥権(とうすいけん)の行使である。この統帥権についてだけは、議会の関与も、国務大臣の輔弼(ほひつ。アドバイス・助言)も必要なかった。これは、軍部だけの判断で戦争が始められ、国会は戦争を止めることができないことを意味した。
 軍部が天皇の名のもとに政治に介入し、独断で戦争を始め、日本国民を否応なしに引きずり込んでいった。
 「現実に即して、九条を改正せよ」
 こう言う人がいる。しかし、現実に日本が70年間、平和であり続けることに比べると、そのような主張は、仮定や憶測にもとづくものでしかない。
「積極的平和主義」というのは、構造暴力を除去して「積極的平和」を追及するという考えのもの。そこらでは、あらゆる暴力から解放された状態が目ざされる。
 これに反して、安倍首相の言う「積極的平和主義」というのは、まったく似て非なるもの。世界秩序を維持するために、積極的な役割を担う。その際には、武力行使も辞さないというもの。
戦争は人殺し。日本人の税金で生活している在日米軍兵士がアフガニスタンやイラクなどへ出かけていき、日本で殺人訓練を受けて、戦場でそれを活かしている。このようにして日本人は、間接的に戦争に加担している。
古今東西、そもそも軍隊は、住民や国民を守るものではない。日本軍がアメリカ軍と行動を共にすることによって、アメリカの敵は日本の敵になり、日本は今まで以上に攻撃されやすくなる。
 軍隊はテロ攻撃を防ぐことも出来ない。
 集団的自衛権の行使を容認し、そのための法制化をすすめようとする安倍政権は、一刻も早く退陣してもらう必要があります。日本の平和な社会、女性も若者も、すべての人々が安心して毎日を生活できるようにするためです。軍事(兵器と兵士)で平和を守るなんて、まったくの幻想です。
(2014年8月刊。1200円+税)

紙つなげ!

カテゴリー:社会

著者  佐々 涼子 、 出版  早川書房
 この5月に石巻に行ってきました。そのとき日和山にのぼって、海岸線のほうを見渡すと、広大な草原が広がっていました。かつて住宅街があったところです。そして、そのすぐ下に日本製紙石巻工場があり、操業しているのを見ました。大きな工場です。
 この本は、あの3.11のとき、この石巻工場が壊滅的打撃を受けながらも、そのとき工場内にいた人が全員助かったこと、そして、半年で製紙工場としてよみがえった過程を生き生きと紹介しています。
 なにより驚いたのは、この石巻工場で日本の本の多くがつくり出されているということです。
 そして、工場に働く人たちは、本を手にしたとき、その手ざわりから、自分たちの工場の製品かどうか分かるというのです。製紙についても、いろいろ教えてくれる貴重な本でもありました。
 印刷用紙の原料には、ユーカリなどの広葉樹チップ(木片)とラジアータパイン(松の一種)などの針葉樹チップが使われる。
 広葉樹は針葉樹と比べて繊維が短く、柔らかいのが特徴だ。広葉樹の柔らかさは、この紙の手触りの良さをうみ出している。
石巻工場の震災前の生産量は年に100トン。世界屈指の規模を誇る。
工場に押し寄せた津波は高さ4メートルに達した。工場の敷地内で41名の遺体が発見された。8号マシンは、おもに徴塗工紙や中質紙を生産している。マシンの全長は111メートル。
8号マシンが止まれば、日本の出版は倒れる。
日本の出版用紙の4割が日本製紙で生産されるが、石巻工場はその基幹工場である。
津波のあと、においがすごかった。日和山には1万人ほど避難していた。
 工場が燃えなかったのは、奇跡みたいなものだった。工場の一階部分はすべてが泥水に埋まり、そのうえに周辺地域から流入してきた瓦礫が2メートルは積もっていた。
 石巻工場で働いていた1306人の全員が無事だった。
最近の読者から好まれているのは、紙が厚くて、しかも柔らかく、高級感のあるもの。読者は、めくったときの快楽を無意識のうちに求めている。
 紙を抄くためには、豊かで良質な水が必要。石巻には、豊かな水量を誇る北上川が流れている。そして、良質な森林資源がパルプの原料となった。さらに、首都圏への製品輸送ルートが確立している。
 最新鋭のN6抄紙機ラインは、抄造スピードが毎分1800メートル。1日の生産量が1000トンをこえる世界最大級の超大型設備。日本製紙は630億円を投入した。ちなみに、東京スカイツリーの総工費は650億円。すごいマシーンですね、これって・・・。
徴塗工紙とは、紙の表面に女性のファンデーションのように薄づきの化粧を施し、ナチュラルな風合いを出したもの。
 文庫は、出版社によって紙の色が異なる。講談社は若干黄色、角川は赤くて、新潮社はめっちゃ赤。
 かつての文庫用紙は酸性だった。だから、退色しやすかった。中性紙は、ずっと色もちしやすい。
子ども用のコミック本は、手にとってうれしくなるように、ゴージャスにぶわっと厚くつくって、運ぶのに重くないようになっている。
半年後、石巻工場は息を吹き返した。半年復興を言った工場長すら、内心では3%の可能性しかないと踏んでいた。誰もが想像し得なかった半年復興だった。
 いい本でした。ただ、今後の津波対策はどうなっているのかなと、ちょっぴり不安も感じました。
 日和山にのぼったあと、庄司捷彦弁護士(石巻市)から大川小学校の跡地にまで案内してもらいました。川から少し離れた小学校が廃墟になっていました。黙って手をあわせたあと、仮設住宅を遠くに眺めながら石巻市内に戻りました。仮設住宅はとても狭くてプライバシーの点からも十分でないと不安にかられました。
 「誇るに足る日本」によるというのなら、安倍首相はこの状態の解消こそ最優先にすべきだと思います。原発再稼働を優先させるなんて、とんでもない首相です。
(2014年8月刊。1500円+税)

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