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自衛隊と防衛産業

カテゴリー:社会

著者  桜林 美佐 、 出版  並木書房
 自衛隊と防衛産業を積極的に評価した本です。
 10式戦車は「ひとまる」戦車。90式の50トンと比べて44トンと大幅に軽量化された。90式戦車は重すぎて北海道でしか使えなかった。
 10式戦車は、完全国産。2000メートル先の目標に対して畳一枚の大きさの制度で撃ち込むことができる。そして、車体がどんなにブレても、照準点が変わらないように制御できる高度な技術がある。ジグザグにスラローム走行しながら射撃し、命中させる能力は世界初。追尾を90式の熱源方式から、映像方式に替えたことで実現した。そして、眼鏡式だった標準あわせが、10式ではタッチパネル式に変わっている。
 現在、戦車をエンジンまですべて国産にできる国は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イスラエルそして日本だけ。戦車を製造しているのは、相僕原市にある三菱重工業の汎用機・特車事業本部。最盛期には年に72両の戦車を製造していたが、いまは8両ほど。かつての1200両が今では3分1まで減らされている。
 ヘリ搭載型護衛艦というのは、ヘリ空母のこと。「ひゅうが」「いせ」に続いて「いずも」が就航した。2万トン、ヘリコプター9機を同時に運用できる。F35も搭載可能だ。
 「いずも」の建造費は1200億円。潜水艦を製造しているのは、川﨑重工業と三菱重工業の二社のみ。大気に依存しないスターリングエンジンAIP発電システムによって、水中航続性能が大幅に向上した。
 日本の自衛隊を装備面から政府広報のように紹介した本です。
(2014年8月刊。1500円+税)

人生は楽しんだもの勝ちだ

カテゴリー:人間

著者  米沢 富美子 、 出版  日本経済新聞出版社
 著者は数学と物理が大好きな少女だったようです。
 なにしろ、5歳のとき、同じように数学の好きな母親から「三角形の内角の和は二直角」というのを教わって、たちまち理解したというのです。恐るべき天才少女です。信じられません。いくつ言葉を並べても、そのときに受けた衝撃を余すところなく記述することは出来ない。
 「こんなに面白いものが世の中にあるのか」
 ええーっ・・・、だって、まだ5歳の幼稚園児なんですよ。強烈なショックを受けました。
 幾何の証明を理解する我が娘の姿に、母の体にも電気が走った。
 「これで、跡取りができた」
 母は、そう考えて、心が震えた。
 この著者の三人の娘さんたちも、やはり理系女子(リケジョ)になったようです。すごい遺伝子ですよね・・・。
 著者の父親は、昭和20年月、ニューギニアで戦死(享年30歳)。恐らく戦闘中に死んだのではなく、凍死、病死、飢え死にでしょう。戦争とはむごいものです。
 著者が小学5年生のとき、知能テストでIQ175。大阪府で一番になった。すごい少女です、まったくもって・・・。
 そして、中学では数学部に入ります。信じられません。そんな部があったなんて。24歳の数学教師が難問を一年生の著者に真剣勝負を挑むのです。
 連立方程式、因数分解、確率、統計。そして、高校の微分・積分まで・・・。
 いやはや、開いた口がふさがらないことは、このことです。
 私は、高校3年生まで理系コースにいましたが、2年生のとき、数学の才能がないことを自覚・痛感して、文系に乗り替えました。化学と物理は好きだったし、得意だったのですが、数学の「美しさ」を体感することが結局できませんでした。
高校で著者は泳げないくせに水泳部に入ったというのです。これまた大胆不敵なことです。そして、全国一斉模擬試験では、数学でなんとトップ。これまた、すごいと、読んでいるほうまで、他人事(ひとごと)ながら、快感を覚えますね。
 著者は京都大学理学部に入ると、湯川秀樹教授の講義を受けました。
 著者は日本物理学会の会長も務めたり、大活躍をしましたが、個人的には病気で「5年生存率」ゼロと診断されたこともあるのです。45歳のとき、乳がんで左右の乳房を全摘。そして70歳で甲状腺ガン。5回ものガン手術を受けたのに、手術の翌日から病室で論文を書いていたというのです。ここまでくると、神業(かみわざ)ですよね。そして、75歳になる今日も、元気なのです。
 第一に、自分の可能性に限界をもうけない。身のほど知らずということ。
 第二に、行動に移す。無謀とか、無鉄砲。
 第三に、めげない。脳天気だということ。
 第四に、優先順位をつける。
 第五に、集中力を養う。
 有限の時間と能力のなかで欲張って生きるには不可欠の要素である。一番大切なポイントは、自分の手で獲得すると決めてしまうこと。そうすると、世の中で怖いものは何もなくなる。
 人生は楽しんだもの勝ちだ。自分で、そうすることに決めれば結果は勝手に着いてくる。
 読んでいると、なんだか人生ってすばらしいね、ワクワクすることがたくさんあるんだねって思えるようになります。読んで元気の湧いてくる本です。
(2014年6月刊。1600円+税)

ブラボー、隠されたビキニ水爆実験

カテゴリー:社会

著者  高瀬 毅 、 出版  平凡社
 3.11のあと、福島第一原発の後始末が難行しているのに、平然と原発を再稼働させようとしている政府と企業がいます。信じられないほどの無責任さです。
 安倍首相とその親族は福島第一原発周辺に別宅をもうけて、週末はそこでゆっくり過ごすようにしたらいいのではありませんか。なにしろ、「収束」宣言をしたのですから、安全のはずでしょう。
 放射能の怖さは、それが目に見えず、何の臭いもしないので、近寄ってみても、手でさわってみても、その危険は実感することが出来ません。
 60年前、太平洋で漁業に従事していた漁船に突如として「死の灰」が降りかかってきました。何も知らされていなかった漁船員は、白い灰をまともに浴びて、日本に帰り着いてから、たちまち発症していったのです。「第五福竜丸」事件の始まりです。
 ところが、この本によると、アメリカの水爆実験によって被爆した漁船は、実は、第五福竜丸以外にもたくさんいたというのです。
 アメリカによる巨大な水爆実験は、膨大な放射能を太平洋の広い範囲に拡散させた。そこには、たくさんの漁船がいた。日本の港に入ってきた何十隻もの漁船から放射能が検出された。放射能に汚染されたマグロを廃棄しなかったマグロ漁船も13隻いた。被災した漁船は、のべ1000隻にのぼった。
 1954年3月1日あら5月14日まで、アメリカは6回にわたって原水爆実験を実施した。
 何が起きているのか知らされていない漁船の乗組員たちは、海水で体を洗い、海水の風呂に入っていた。
太陽が昇るときのような明るさが3分ほど続いた。それから3時間すると、粉のような灰が船体に一面降りかかった。その晩は、飯も食えず、酒を飲んでも酔わなかった。2日目あたりから、頭痛を訴える人が出てきた。3日目には、灰のかかった皮膚がひやけしたように黒ずみ、10日くらいたってから、水ぶくれの症状になった。
 これは、当時39歳だった久保山愛吉氏の証言です。やがて亡くなられました。
 いま、「第五福竜丸」は、元の夢の島に保存されているとのこと。私も一度みてみたいと思いました。
(2014年6月刊。1800円+税)

日清戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者  大谷 正 、 出版  中公新書
 日清戦争が、いつ始まり、いつ終了したのか、明確になっていないということを初めて知って驚きました。
 日本と中国(清)が戦争したのは朝鮮戦争の支配権をめぐるものだったわけですが、台湾についても戦争があり、その終期が不明確だったのです。
 日清戦争の始まりが曖昧なのは、日本政府の先制・奇襲攻撃をごまかそうとする隠蔽工作の結果でもあるのです。
中国では、地方の郷勇組織が近代的軍隊へ転換しはじめ、それを中央政府が認知した。日本は、中央政府が主導して徴兵制軍隊をつくった。この違いは大きい。国土の広さの違いからくるところもあるのでしょうか・・・。
日本では、1873年の徴兵令公布とともに徴兵制による近代軍が誕生した。
 1893年、日本軍の師団編成が完結したものの、兵站部門には問題が残り、日清戦争においてトラブル多発の一因となった。
 1892年8月、第二次伊藤博文内閣が成立した。
 1894年、伊藤首相は日清協調を主張したが、外相の陸奥宗光が開戦を主張した。
 対清・対朝鮮強硬論が高まり、ジャーナリズムの多くも、これに同調し、9月の総選挙を前にして、政党の多くが対外強硬論を競うなか、伊藤内閣は朝鮮半島からの撤兵に踏み込みきれなくなった。
 当時の清政府の内情は、日本人以上に複雑だった。清の光緒帝は、1887年から親政を始めていたが、依然として重要国務には西太后が関与した。そして、直隷総督・北洋大臣の李鴻章が重要な発言力をもっていた。李鴻章は、日本との開戦回避に動いた。西太后も同じ。主戦論は、光緒帝と若い側近たちが唱えた。
 李鴻章が2300人の兵士と武器を牙山(朝鮮)に送るという情報に接し、7月19日、日本政府と大本営は対清開戦を決定した。しかし、この段階でも、明治天皇や伊藤首相は清との妥協の可能性を探っていた。
 7月25日、豊島付近で日本の連合艦隊が清海軍と遭遇し、戦闘が始まった。豊島沖開戦である。
 宣戦布告あるいは開戦通知の前に日本海軍は清軍艦を攻撃した。その前の7月23日、日本軍が漢城(今のソウル)の朝鮮王宮を攻撃して占領。朝鮮国王を「とりこ」にした。
 後日、不都合な事実は隠され、歴史の書き換えがなされた。王宮占領は、先に射撃をしてきた朝鮮兵に反撃して日本軍が王宮を占領した自衛的・偶発的な事件だとされた。
 7月29日、日本軍が清軍と戦闘するなかで、「死ぬまでラッパを吹きつづけた木口小平(当初は、白神源次郎だった)」の話がつくられた。
 海陸で戦闘が始まると、日清両国とも、宣戦布告に向けて動き出した。
 日本政府部内では、開戦の名目をどうするかで議論続出となり、まとまらなかった。
 ようやく、8月2日に閣議で8月1日に開戦と決まった。
 9月10日の閣議では、それより早く、7月25日を開戦日とすることになった。とすると、7月23日の戦闘は日清戦争ではなくなる。
 「石橋を叩いて渡る」慎重な性格の明治天皇にとって、日清戦争は不本意な戦争だった。清に負けてしまうかもしれないことを、天皇は大いに心配していた。
 「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と明治天皇は高言した。相当にストレスがたまっていた。
 広島に大本営が翌4月まで置かれた。明治天皇が出席した大本営の御前会議は、実際に作戦を立案決定する場ではなく、多くは戦況報告を聞く場だった。
 開戦前の明治天皇は対清戦争に消極的だったが、広島では次第に戦争指導に熱心になっていった。心配に反して、日本軍が清軍に勝っていったからです。
 台湾では、日本の領土になることを拒否する地元有力者らが独立を求めた。唐景松は5月25日、台湾民主国総統に就任した。「虎旗」を国旗とする、アジア最初の共和国が生まれた。台湾の抗日軍は激しい戦い、日本軍を悩ませた。そのうえ住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、赤痢や脚気が蔓延した。このようにして日清戦争の死者の過半は台湾でのものだった。
 10月、日本軍が全面攻撃すると、劉永福はイギリス船で大陸へ逃亡し、台湾民主国は滅亡した。
 1896年春、日本軍が占領していたのは、台湾の西部のみだった。台湾の南部、東部そして原住民の暮らす山岳地帯は未占領だった。山地住民の制圧は1905年ころまでかかった。
 日清戦争に参加した日本軍兵力は25万人に近い。軍人軍属は40万人。そのうち30万人以上が海外で勤務した。そして、死亡したのは1万3千人。その原因は、脚気・赤痢・マラリア・コレラの順に高かった。
清軍の戦力となったのは「勇軍」(郷勇ともいう)と練軍で、総員は35万人だった。
 日清戦争は、閣議決定によって8月1日に始まったとされているが、誤りだ。
 日清戦争は三つの戦争相手国など、相手方地域の異なった戦争の複合戦争だった。
 第一に、日清戦争は朝鮮との戦争、清との戦争、そして台湾の漢族系住民との戦争という三つがあった。
 日清戦争は1894年7月23日の日本軍による朝鮮王宮攻撃に始まった。そして、日清戦争の終期は、1895年3月30日の休戦条約調印、5月の講和条約調印によって法的には終了した。しかし、朝鮮との戦争、そして台湾住民との戦争は1896年4月の大本営の解散でも終結しなかった。
日本にとって、日清戦争はもうかる戦争だった。一方の清は、日本へ支払う賠償金2億両(日本円で3億1100万円)を自力で捻出できず、外債依存の泥沼に陥った。
 そして、日本政府が得たお金(3億円)は、陸海軍の要求を8割まかなうというものだった。清からの賠償金の8割が、その後の日本軍の軍備拡張に充てられた。
 歴史の真実を知ると同時に、日本軍の野蛮な侵略作戦は許せないという気分にもなりました。
(2014年6月刊。860円+税)

法制度からみる現代中国の統治機構

カテゴリー:中国

著者  熊 達雲 、 出版  明石書店
 中国共産党の党員は8513万人(2012年末)。1949年の建国時の19倍であり、全人口の6.3%を占める。労働者出身は8.5%で、農業・林業・漁業出身者が3割弱を占めている。そして、知識人党員が32%と、もっとも比率が高い。
 共産党員になるのは容易ではなく、煩雑な手続が必要であり、要件も厳しい。
共産党は、中央指導部に設置されている「中央政法委員会」を通じて司法とつながっている。中国は裁判権を独立した権力とみなさず、それを検察権、捜査権、行刑権等の権力に入れて政法権としてまとめて一括して指導している。最高人民法院は、この中で他の機関と並列する一機関にすぎず、特別な地位を与えていない。裁判所の地位は低い。行政機関の国務院、軍事機関の中央軍事委員会と比べ、裁判機関の最高人民法院、検察機関の最高人民検察院は、地位が何段階も低い存在である。裁判機関、検察機関の長は、いずれも共産党中央委員会の委員にすぎない。
 法律解釈権は、最高人民法院のみしか行使できない。人民法院の院長、副院長、各裁判廷の院長から構成される裁判委員会は中国の裁判所内のユニークな裁判組織だ。裁判委員会は、二つの業務を担当する。一つは、重大・難事件を討議し、判決を決定する。二つは、裁判の経験を総括する。合議廷は裁判委員会の結論に従って判決文を作成する。 人民法院で言い渡された判決は、人員法委員長及び裁判委員会によって容易に改正できる。裁判機関の独立は確立されていない。中国には20万人近い裁判官がいる。
裁判官は腐敗の多発する職業である。1995年から2013年にかけて、84人の裁判所所長と副所長が汚職腐敗で摘発された。2008年から2011年にかけて、712人、795人、783人、519人の裁判官が検挙された。集団腐敗事件が増加する傾向がある。2002年には、武漠市中級法院の13人裁判官と44人の弁護士が関与していた。中級法院は、腐敗がもっとも深刻である。
 中国の弁護士は23万人をこえる(2012年)、法律事務所も2万に近い。弁護士は弁護事務の独占権が認められていない。
 司法試験の受験者は年々増加し、2013年には40万人に達している。
 中国の司法の実情を知ることのできる本です。
(2014年6月刊。2800円+税)

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