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身近な鳥の生活図鑑

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  三上 修 、 出版  ちくま新書
 わが家からスズメがいなくなりました。10年くらい前までは家の2ヶ所スズメの巣がありました。トイレに入ると、子スズメたちのにぎやかな声が聞こえてきたものです。親スズメは巣に入るときは、そっとして音を立てません。今でも、古くて固くなったパンくずを庭にまくのですが、何日もそのままなのが残念です。
 毎年やって来るジョウビタキが今年は、なぜかほとんど姿を見せてくれません。愛嬌ある仕草で、大好きな小鳥が来てくれないので庭仕事が物足りません。
 相変わらず多いのがヒヨドリです。ヒヨドリ夫婦がいつのまにか庭のスモークツリーに巣をつくっていて、ヘビに狙われてヒナが食べられてしまったことは、このコーナーで報告しました。ヒヨドリ自体は毎日うるさいくらいに鳴きかわしてやって来ます。
 この本は、スズメ、ハト、カラス、ツバメなど、身近な鳥の生活習慣を教えてくれます。
 スズメは、オスもメスも同じ色をしているので、観察しているだけで見分けるのは不可能。スズメの足の指は4本。前に3本、うしろの1本。スズメが巣をつかうのは1ヶ月ほど。子育てのため。スズメは同じ巣を何度もつかう。スズメは、合計4~6卵を産み、全部うんでから卵を温めはじめる。そして2週間ほどで孵化する。
 スズメは雑食だが、ヒナに与えるのは昆虫が多い。親鳥による子スズメへの世話は、巣立ちして10日間ほど。
 子スズメは秋になると一部は長距離を移動する。なかには数百キロ先まで移動する。
巣立った子スズメのうち半数以上は、その冬を越せない。しかし、6年以上も生きたスズメがいる。スズメが群れている時に鳴きかわしているのは、個体同士で意思疎通をしているということ(ではないか・・・)。
 スズメの数は1990年に比べて、半減している。日本にスズメは1800万羽いる(だろう)。
 減ったのは、スズメが巣をつくれる場所が減ったから・・・。そして、エサをとれる緑地が減っていることから。
 スズメを飼ってみると、スズメは人を見分けていることが分る。
ハトはミルクで子育てをしている。ハトの食道でミルク(ピジョンミルク)を作り出す。オスもこのミルクを出せる。
 鳥はおしっこはしない。糞と一緒に、水の必要のない形で排出する。
 鳥は一般に、あまり水を飲まない。飛ぶために身体を軽くする必要があるから。
 ハシボソカラスは繊細なカラスなので、開けた場所を好む。ハシフトカラスは神経が図太く、高いところから見下ろしてエサをとる。ボソとフトでは、体重差が1.5倍もある。地上を歩いているカラスはハシボソカラス。フトは、ぴょんぴょん跳ねて移動することが多い。
 わが家には、メジロもよくやって来ます。
ヒヨドリが10羽ほど一度にやって来て、収穫間近のほうれん草をたちまち食べ尽くしてしまったこともあります。
 身近な小鳥をもっと知りたいと思っている人に一読をおすすめします。
          (2015年12月刊。940円+税)

真田一族と幸村の城

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  山名 美和子 、 出版  角川新書
真田幸村のことがよく分かる新書です。
真田一族は信州小県(ちいさかた)地方、上田盆地の北東隅の真田の里に発祥した小さい豪族。戦国時代、真田の里の四囲には、群雄が勢力を競って、ひしめきあっていた。
小豪族の真田氏は、大勢力の真っただ中をかいくぐって台頭し、戦国大名にのしあがり、激動の世に名をとどろかせた。真田三代は、すぐれた調略戦を駆使した。
真田一族は、時勢に応じて武田、織田、豊臣、上杉、徳川と同盟したが、武田のほかは主君としていない。
真田幸村の父・昌幸は、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言われた。これは、卑怯者というより、変幻自在の知略策謀による、あざやかな出前進退が興味深いというのもで、いわば戦国武将へのほめ言葉だ。
真田一族は六文銭(六連銭)の旗のもと、覇者への野望をいだくこともなく、国のごとく時代を疾走していった。
ヤマカン(山勘)というのは、当て推量のこと。山本勘助が上杉謙信との戦いのときに霧を読み誤ったことから来る言葉。
天正13年(1585年)、昌幸と家康とが戦った第一次上田合戦のとき、徳川軍の戦死者1300人、これに対して真田軍は、わずか40人のみ。真田軍の大勝利だった。
幸村が無名だったのは、次男だったから。江戸時代の前まで、長子相続は定まっていなかった。
幸村は20歳からの12年間を、秀吉の馬廻衆(近習)として秀吉のそばに仕えた。父の昌幸は、嫡子の信幸を家康に仕えさせ、幸村を秀吉の人質にした。これは、戦国の世には、よくあること。
戦国武将の多くは、世俗権力の介入を拒む高野山に菩提所をもちたいと願った。幸村の兄・信之は、93歳まで長生きし、戦国時代を知る語り部として奉公した。
真田家は、江戸時代に老中まで出して、名功として明治まで生き残った。
幸村は高野山においてたくさんの子らの声に囲まれていた。戦国武将の一人として、正室のほかに4人から5人の特定の女性がいて、子どもも10人を超えることは珍しくなかった。 
気軽に読める新書です。
(2015年9月刊。800円+税)

水車小屋攻撃

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  エミール・ゾラ 、 出版  岩波文庫
 岩波文庫でフランス文学の古典が出たので、読んでみました。
 大学生以来フランス語を勉強しているわけですので、50年近くにもなることからフランス文学を原典で読めたら、どんなにいいことでしょう・・。
 でも、現実は原典を読むどころか、覚束ない会話力がサビてしまわないように維持するのがやっとなのです。トホホ…。
 この文庫本はゾラの短編集です。ゾラというと、「ジェルミナール」などの長編小説を思い出しますよね。
 普仏戦争(プロシア=ドイツとフランスの戦争)の現実を批判的な立場から描いた「水車小屋攻撃」など、読ませます。
 訳者の解説によると、ゾラの作品は戦争一般の残酷さと愚劣さを、のどかな田園風景のなかで展開する牧歌的な恋と対比することによって浮き彫りにしようとしている。
 戦争というものは、勝とうが負けようが、平和な市民生活を破壊するものでしかない。このことを、じっくり味わうことができる。かのアベ首相に読ませたいものです。
 フランス全体が愛国的な、好戦的な雰囲気に包まれるなかで、ゾラは反戦を訴える勇気を示した。
 今の日本にもなんとなくそんな雰囲気がありますよね。それを根本であおっているのがアベ首相を先頭とする自民・公明の与党です。口先では「平和を守るために必要だ」なんて聞こえのいいことを言って、日本の青年を平気で死地に追いやる安保法制法を「成立」させた責任は重大です。
 ゾラの小説を読みながら、今年も、安保法制法の廃止を目ざしてがんばる決意を固めました。
(2015年10月刊。860円+税)

ヴィクトリア女王の王室

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ケイト・ハバード 、 出版  原書房
19世紀イギリスのヴィクトリア女王の宮廷の実情が女王付きの女官の生活を通じて明らかにされている本です。
宮廷というのは、とんでもなく退屈な空間だったことがよく分かります。私なんか、とても耐えられそうにありません。
空想以外には何の退屈しのぎもなく、何時間もただひたすらじっと待機しているだけの状態が続く。「命令」を待つだけの終わりのない待機。頭ごなしの命令を受け入れるしかなく、義務にがんじがらめにされるだけ。宮廷は、毎日が同じことの繰り返しで、それが毎年続いていく。ウィンザー城の生活は、おだやかな退屈とともに進んでいった。
ヴィクトリア女王は、誰がどの部屋に泊まるのか、誰が馬に乗って、誰が馬車に乗るのか、さらには食堂に入るときにつくる列の順番まで決めていた。つまり、訪れる者たちのあらゆる行動を管理していた。
王室というのは息苦しい閉鎖空間だ。少人数で、互いを思いやる必要がそれほどなく、暇をもてあまし気味で、しかも家族や友人といった外の世界とは切り離されている。そこでは、ほんのわずかなゴシップの種にも飛びつき、むさぼる者が大多数だった。
ヴィクトリア女王は独立心の権化とも言える存在だった。女王が下す判断は本能的かつ断定的で、自分が愛する人々に対しては熱狂的に、ときには盲信的なまでに忠実だった。他方、自分が気に入らなかったり、それ以下の感情を抱いた相手に対しては、徹頭徹尾、冷ややかに接した。
女王に近づいたり離れたりする際の決まりがあった。ドレスの裾をどうやって持ちあげるかについても規則があった。離婚した女性は夕食には同席できなかった。
ヴィクトリア女王にとって、子どもたちは、人生にとってもっとも大きな喜びである夫・アルバートとの人生における障害物だという意識を捨てることができなかった。
エリザベス一世の時代、女官たちは、上から寝室付きの女官、私室付きの女官、女官、未婚の女官と、4つの階級に分かれていた。ヴィクトリア女王の女官は大部分が下流貴族の妻や未亡人や娘たちだった。
宮廷では、自由な意思と自主性は捨てる必要があった。そこでは、辛抱と自制心、そして寛容の精神が求められた。
イギリスの女王の宮廷生活の一端を知り、その恐ろしい退屈さを知って、身が震えてしまいました。可哀想な人生としか私には思えません。創意や工夫が許されない生活だなんて・・・。人間らしさが感じられません。
(2014年11月刊。2800円+税)

東大駒場寮物語

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  松本 博文 、 出版  角川書店
私も18歳から2年間、この寮に入って生活していました。月1000円の学費と同額の寮費でした(と思います)。
6人部屋で生活していましたが、まったく自由気ままな毎日を過ごしました。同じ部屋から3人が司法試験を受けて合格し、私が弁護士に、あと二人は裁判官になりました。あと三人は企業に就職しましたが、うち一人とだけは今も交流があります。
この本は1973年生まれの著者が自分の寮生活を振り返っていますが、駒場寮の廃寮にも直面しています。今は、駒場寮はないのです。まだ跡地には行ったことがありません。
 駒場寮に「中央記録」なるものがあるというのを初めて知りました。寮の正式な記録を残す係があって、廃寮になった今もそれが民家に保存されているというのです。著者は、その記録を読んでいますから、個人的体験をこえています。といっても、東大闘争については誤りがあります。
 「民青は明寮の屋上にピッチングマシンを持ち込んで、全共闘系の学生に向かって石を投げていた」
これはまったくの誤りです。そのころピッチングマシンなるものが使われたことはありません。私も明寮の現場にいましたが、すべて人力です。東大野球部の学生の投げる石は強力なので要注意だったという話はありますが、それは全共闘にも民青側にも、どちらにも言えることです。
この本の著者は、残念なことに『清冽の炎』(花伝社)を読んでいないようですが、そこには東大闘争と駒場寮生のかかわりが生々しく紹介されています。600人もの生活の拠点としていた駒場寮は、基本的に「平和共存」していたのです。
駒場寮は不潔だったと著者は強調していますが、私のころは部屋替えも定期的にあっていて、それほどでもありませんでした。私は今も整理整頓が大好きですが、当時も同じです。ゴミ部屋なんて、あったかなという記憶です。また、こまめに洗濯だってしていました。決して私だけではありません。600人もの寮生がいれば、さまざまだったようですから、すべて不潔だったかのように決めつけられると、私にはいささか抵抗があります。
寮フを35年間もつとめた門野(かどの)ミツエさんのことが触れられています。私もお世話になりました。手紙そして電話の取次ぎを一人でしていたおばちゃんです。その妹さんがあとを継いだということも初めて知りました。
寮食堂では夜9時すぎに残食(ざんしょく)を売り出していました。夕食のあまったものを安く寮生に提供するのです。私も何回となく並びました。育ち盛りは、お腹が空くのです。
私は大学一年生の秋(9月)に1ヶ月を1万3千円で過ごしたという家計表を今も持っています。最低どれだけで生活できるか試してみたのでした。
九州弁丸出しで恥ずかしい思いをしましたので(寮内ではなく、家庭教師先で・・・)、速やかに東京弁を身につけました。東北弁の寮生も同じです。ところが、関西弁の寮生は、いつまでたっても一向に平気で関西弁を話しているので、その違いに圧倒されました。
 私の大学生活は自由な駒場寮での生活の楽しい思い出とともに始まったのです。
                     (2015年12月刊。1800円+税)

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