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ルポ・コールセンター

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  仲村 和代 、 出版  朝日新聞出版
  私のお客さんにもコールセンターに勤めているという人が男女、何人もいました。
  話を聞くと、実にすさまじくて、大変な精神労働だと感じました。一人の男性は、明らかに顔色が悪くて、そんなにストレスがあるのなら、早くやめたほうがいいんじゃないですかと言ったほどでした。
  沖縄にはコールセンターがたくさんあるようです。
  あるコールセンターで働く人の3~4割は男性。ほとんどが20~30代。パソコン操作が必要だから、だ。
  コールセンターは個人情報の宝庫。情報管理のため、センター内に私物持込みは制限されている。ケータイは持込み禁止。
  このコールセンターにかかってくるのは、忙しいときには1日10万件、暇なときでも1日5千件近い。ここでは、一時間当たり8.5件。つまり、1件のコールを7分で処理するのが、コールセンターの目標。しかし、なかなかそうはならない。目標を上回っているのは、上位10人だけ。
フロアに40人いるオペレーターの9割はパートかアルバイト。仕事の厳しさに耐えられず、1ヶ月で3割がやめていく。残った人でも、1年で1割がやめる。だから、慢性的な人不足が続いている。
  オペレーターには、10人に1人の割合でスーパーバイザーがつき、そのうえに大きな班をまとめるマネージャーがいる。スーパーバイザーも非正規社員であることはオペレーターと同じ。
  クレーマーに耐えるコツは、「自分が怒られているんじゃない。何か別のことに怒っていると思うと、気にならなくなる」ということ。
  このコールセンターでは、昔はなるべく早く電話を切るようにしていたが、今はより丁寧に応対するように変えた。早く電話を切っても、次のクレームにつながり、結果として、一人の客にとられる時間が、かえって長くなることが多かったから。
  ふむふむ、これはよく理解できます。
かかってくる電話は、フツーの内容が8割、怒っているのが1割5分。そして残り(5分)は、あげ足とりみたいなもの。
  オペレーターの仕事は、「ありがとう」と言われるものではなく、見返りがほとんどない。
  自給1100円は、沖縄では高いほうだ。
  コールセンターを営む上位30社の売上高の合計全額は前年比6.1%増で、金額にして8628億円ほど。
  いずれの会社も、正社員の割合はせいぜい2割以下。
  日本の企業のために海外にもコールセンターができている。たとえば、中国の大連にコールセンターを置いておくと、人件費が安くてすむ。またアメリカでもコールセンターをインドやフィリピンに設置して、アメリカで深夜にあたる時間帯で対応させる、ただし、日本の客の求めるサービスの質は高いので、いいかげんな対応はできない。
  どうやら大連のコールセンターは撤退したようです。
  沖縄には、いくつものコールセンターが進出し、人材の奪いあいになっている。
  コールセンターの労働は、感情労働である。一つは、人と接することが不可欠なこと、第二に、他人のなかに何らかの感情変化を起こすこと。
コールセンターでの労働組合の組率は低い。平均23%、でしかない。
  食品会社「カルビー」は、事前の「お客様相談室」をもっている。みんな6年以上つとめていて、10年をこす人も少なくない。カルビーは、「客のニーズを探る場所」と位置づけている。これって、すごいことだと思いました。
  電話をめぐる状況は大きく変わりつつある。コールセンターにわざわざ電話をかけてくる人はどんどん減っている。
 弁護士も「感情労働」の一つですよね。「お客様を大切に」といっても、限度があります。
  社会の一断面を知らせてくれる面白い本でした。
  
(2015年10月刊。1200円+税)

はしっこに、馬といる

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  河田 桟 、 出版  カディブックス
 沖縄県にある与那国島にウマと暮らす女性の話です。
 馬語を話せるというのです。すごいですね。この本を読んでいると、なぜだか不思議に心がほんわり、温まってきます。詩を読んでいるような気分で、とても分かりやすい文章でウマの生態がやさしく描かれています。 
 ウマと一緒に暮らすと言っても、ウマは夜は森の中で仲間の野生馬たちと過ごします。
 与那国島には野生のようにして生きている与那国馬という体高120センチほどの小さなウマたちがいる。与那国馬は、数百年ものあいだ、この島の草を食べ、この島の水を飲み、台風の暴風雨に耐え、冬の雨や強風にもまけずに生きてきた。
 この本には、ウマ百態とも言うべきウマのスケッチがたくさんあって、ほのぼのとした雰囲気に包まれています。
ウマたちは、順位をはっきりつけることによって群れとして平和に暮らしている。
 著者はウマと一緒に暮らすといっても、ごはんの青草をあげ、手入れをする以外には、何もせず、ただそばにいるだけ。動きもゆっくりで、ぼうっとしていて、空気みたいな存在。だから、ウマたちも「なにもないヒト」と認知している。
 このヒトは身内だというウマに認めてもらうために一番大切なのは、毎日、そばにいること。
 ウマは、「なにも起こらない」おだやかな状況に幸福を感じる生き物。
 ウマは、警戒心の強い、群れで生きる動物。身内なのか、そうでないのかによって、相手にたいする反応はずいぶん違う。
 ウマは変化に敏感な生き物。いつもと違う感じが何かあると、すぐに気がついて緊張する。そして嫌そうな顔をする。
ウマは、からだをぴったりくっつけあうことに心地よさを感じない動物。いつでも逃げられるように、からだを自由に動かせるように、ある程度の距離があるほうが安心する。
ウマは、常にこころとからだの言葉が一致している。
ウマは、群れから離れたくない、ひとりで前にすすみたくない不安なことがあったら逃げ出したい生き物。
ヒトが馬語を話そうと思ったら、何をするかより、はるかに大切なのは、タイミング。
ウマに馬語で話しかけると、必ず何か答えてくれる。
カディと名づけられた与那国馬の写真をみてみたいものです。心安まる、いい本でした。ありがとうございます。
(2015年5月刊。1700円+税)

老人に冷たい国・日本

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  河合 克義 、 出版  光文社新書
 いつのまにか私も年金をもらうようになりましたので、立派な老人の一人です。
 日本という国は、アメリカ製の軍艦や飛行機などは超大金を出して惜しみなく買うくせに、福祉となると一変してケチケチです。本当に老人に冷たい国だと思います。
 孤立は、貧困と切っても切り離すことができず、貧困が孤立を生み出している。家計が苦しくなると、交際費が縮小する。親族、近隣そして友人関係が切れると、孤立化を生み出している。家計が苦しくなると、交際費が縮小する。親族、近隣そして友人関係が希薄化し、また切れてしまう。関係が切れると、孤立化をもたらし、その人の問題は親族にも地域にも友人にも分らないという状態を生む。こうして問題が潜在化する。
 ひとり暮らしの高齢者が日本全国に600万人いる。そのうち300万人は生活保護基準以下の生活をしている。生活保護を受けている一人暮らしの高齢者は70万人いるので、残り200万人あまりが生活保護を受けずに生活している。
 2000年以降、孤立死・餓死がそれ以前よりも増加している。
 2000年4月に介護保険制度がスタートしてから、それまでの高齢者福祉の行政サービスは大部分が民間事業者に委ねられた。こうした変化のなかで重大な問題は、行政による高齢者問題の把握力を低下をもたらしたことである。
 このシステムは、比較的生活が安定している高齢者にとっては身近な制度となったが、自分から声を上げない人々にとっては、制度との距離が大きくなった。
 高齢者の生活基盤が脆弱なために、親族・地域から孤立し、ひっそり亡くなっていく人が後を絶たない。それは高齢者だけの問題ではない。日本の社会、社会保障・社会福祉制度は大切なものを欠落させているのではないか。
 緊急に対応すべきは、国民生活に一定のミニマム基準が設定され、各制度がその基準を下まわらないように全体的に調整することである。
 先進国のなかで、日本ほど「老人に冷たい国」はない、とつくづく思う。
 アメリカは果たしてどうなのかと疑問に思いますが、ヨーロッパ各国と比べて福祉が遅れていることは間違いありません。自民・公明の政権は、軍事予算を5兆円以上にどんどん増やす一方で、福祉予算を大きく減らしています。守るべきは「国」ではなく国民生活です。優先順位が間違っているのだと私は思います。
(2015年7月刊。760円+税)

特攻―戦争と日本人

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  栗原俊雄 、 出版  中公新書
 1944年3月、陸軍航空部隊は組織的な「特攻」に踏み出した。後宮(うしろく)淳大将が航空総監・航空本部長に就任してからのこと。後宮は東条英機首相とは陸軍士官学校17期の同期で、東条とは関係が深かった。このころ東条は権力の絶頂期にあり、首相、陸相、軍需相そして参謀総長まで兼任していた。
 これって、まるでナチス末期のヒトラーと同じですね・・・。権力集中は権力失墜の一歩手前です。アベ首相も同じようになるでしょう。
 東条の意を受けた後宮は、着任して早々、「体当たり攻撃」の計画を指示した。
 本当に無責任ですよね。自分は安全なところにいて、自らは死地に出向くことはなく、全と有為の青年を死に追いやるのですから・・・。
命令された今西六郎師団長(少将)は内心、特攻作戦に反対だった。
 「体当たり部隊の編制化は、士気の保持が困難で、統御に困り、かえって戦力が低下するだろう」
フィリピン戦線ではじめられた特攻は、兵士が死ぬことを前提とするもの。この特攻隊を最初に送り出したのは、大西瀧治郎・海軍中将だった。
 パイロットがひとりだちするのには膨大な時間がかかる。300飛行時間程度では、なんとか飛べるくらい。毎日3時間とんでも100日(3ヶ月)かかる。
 ミッドウェー海戦のとき、日本軍は一挙に216人もの搭乗員(パイロット)を失った。致命的だった。
 航空機の生産量は、日本は最大時(1944年)に2万8180機だった。これに対してアメリカは、その4倍の10万725機だった。
 フィリピン戦線で初の神風特攻隊の隊長となった関大尉は、不満だった。
 「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら、体当たりせずとも、敵母艦の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させる自信がある・・・」
 そして、初めての特攻隊を送り出した猪口参謀、玉井副長、中島飛行長は戦死することなく、戦後を生きた。関大尉は23歳で死ぬことを迫られた。
 わすれてはならないことは、この特攻作戦が昭和天皇によって認可されていたということ。
 昭和天皇は、特攻作戦を聞いて、「よくやった」という、「お褒めの言葉」をもらした。これが、特攻遂行のエネルギーになった。昭和天皇は、特攻を褒めたたえたのだ。
 特攻作戦によって昭和天皇が停戦に動くどころではなかった。それどころか、昭和天皇が喜んだということなら、もはや特攻は中止されるはずもない。
 特攻機は、アメリカ軍の主力艦を一隻も沈めていない。アメリカ軍の迎撃能力の向上、そして特攻機のパイロットの心理状態が効果をあげることを許さなかった。
 昭和天皇は、戦艦「大和」の出動について、戦後、「まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語った。この無謀な作戦の犠牲になった4000人が、これを知ったら、どう思うだろうか・・・。そして、まぎれもなく「特攻」であった大和艦隊の戦死者は誰も特進の対象とはならなかった。
戦後まで生き残り、自民党の参議院議員までなった源田実は、「特攻で死んだ人々は、ほとんどすべて満足感をもって死んでいる」と書いた。いったい、どこに「満足感」の根拠があるのか・・・?
 自民・公明による安保法制法は日本を戦争する国へ推進しようとしています。戦争は不合理、狂気がひとり歩きしてしまいます。走り出す前に止めなくてはいけません。今なら、まだ十分まにあいます。
 ご一緒に戦争法反対の声をあげましょう。運用させることなく法を廃止させなければなりません。
(2015年8月刊。820円+税)

真田信繁

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  平山 優 、 出版  角川迸書
 真田幸村についての本格的な研究書だと思いました。真田幸村は昔からマンガ本その他で身近な存在でしたが、この本を読むと知らないことだらけでした。
 大坂冬の陣のとき、家康方の大名家臣には、関ケ原合戦以降、14年間も大規模な戦争が起きていなかったために、実戦経験のないものが多数を占めていた。そのため、戦場での駆け引きや出頭らの指揮の命令に従う要諦など、多くの点で経験に欠け、ややもすると暴走する者が少なくなかった。大名やその家臣たちは、それぞれの立場や思惑をかかえて大きな戦場にのぞんだ。そして、そこで、功績をあげ、自分たちの身上を上昇させていこうと考えていた。ここに、真田丸に攻撃を仕掛けてきた寄せ手たちが、思わぬ不覚をとった背景がある。
 真田丸や惣構に向けて、東軍の情勢は、とりわけ先手衆が功を焦り、面子を競いつつ攻め寄せる事態となった。これに釣られて後方の軍勢も先行を焦って続々と前に出てきてしまい、前田利常ら大将の命令も無視された。これが各軍の指揮系統を麻痺させ、混乱に拍車をかける結果となった。
 真田信繁が守る真田丸とその背後の惣構の連携により、東軍は甚大な打撃を蒙り、敗退した。前田、井伊、越後衆らが大敗を喫し、多大な損害を受けた。
 真田丸の戦闘で大敗を喫したことに、家康は大きな衝撃を受けた。そこで家康は穏やかに真田信繁を調略しようと試みた。真田昌幸・信繁父子は、家康が調略工作に置いて破格の条件を提示し味方につけて難局を打開すると、約束を反古した経緯をそれまで嫌というほど見せつけられてきた。それで、失敗に終わった。
外国人宣教師たちは、大坂冬の陣を徳川方の雅色が悪かった合戦だと認識していた。
大坂城の濠が埋め立てられて無惨な状況になったにもかかわらず、牢人衆たちは大坂を去ろうとせず、小屋掛けして居座り続けていた。そればかりか、全国から、豊臣家に奉公を望むものが方々から流れ込んできて、太閣在世中よりも人数が多いと言われたほどになった。豊臣方は、大坂城下に立札を出し、仕官は受け付けないと告知していたものの、実際には新参者の牢人たちを優遇していたので、彼らは妻子を連れて居座るようになった。冬の陣のときよりも多数の牢人たちが集まり、大坂方の動きは活発化していった。
 大坂方に味方する牢人が増えたのは、冬の陣における徳川方の作戦と、秀頼の主張に正当性が認められていたから・・・。
 牢人たちは、和議によって赦免されても召しかかえてくれる大名はまったくなかったので、大坂を去ることが出来なかった。牢人問題は豊臣方の責任事項であり、その召し放ちこそ和睦時の約束だった。
 家康は豊臣氏を滅ぼす気はまったくなく、あくまで国替えに応じさせて徳川将軍体制下に組み込むことで問題を解決しようと考えていた。そのため、東北、北陸、畿内のみに動員をかけ、西国大名には待機を指示していた。
大坂方には、牢人して時節を待っていただけあって、年齢は経ていても実践経験のある者が非常に多かった。
大坂夏の陣における東軍で目立ったのは、大した理由もないのに軍勢がいきなり崩れ、陣形を乱したばかりか、算を乱して逃げ崩れることになる。これを「味方崩」と呼んだ。味方崩が重大な事態を招いたのは、一部の兵卒が逃げ崩れ、味方の軍勢に逃げ込むことからであった。これは東軍の兵士たちの多くが実戦経験に乏しい者たちで占められていることから起きたこと。
 大坂夏の陣のとき、死戦を覚悟していた越前松平忠直軍の抜け駆けによって、東西両軍が望まない形で開戦することになってしまった。東軍は、兵力こそ15万を数えたというが、各軍勢は大名単位で思いおもいに活動している。家康・秀忠の指示は届きかねる状況だった。
家康は豊臣氏を最初から潰すつもりなどなかったし、大坂の陣が勃発したあとも、なんとか戦争を回避しようと秀頼の説得につとめていた。
家康は、兵糧の欠乏と寒気に悩まされ、戦闘での敗退などで諸大名が徳川から離反することを恐れていた。他方、豊臣方は、玉薬などの欠乏に悩まされ、これ以上籠城戦は困難になりつつあった。このようにして、双方の思惑が一致して、和睦は成立した。このとき、双方で問題となったのは、大坂城に籠城した牢人たちを、どう扱うかという問題だった。
敵方からも称賛された信繁は当時から大いに注目され、5月8日の首実験には多くの武将が見物にやってきた。
このようにして信繁は幸村として、軍記物のなかで大活躍するようになっていった。
 大変新鮮な切り口の幸村についての本です。NHKドラマ「真田丸」の時代考証を担当する著者の語りは明快です。
(2015年10月刊。1800円+税)

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