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トランプ

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ワシントンポスト取材班 、 出版  文芸春秋
アメリカという国は、今では理性で推測することが出来ない危険な国になってしまいました。ベルリンの壁と同じような国境障壁をつくるというのは、まさしくバカげています。そして、北朝鮮への先制攻撃をほのめかすなど、危険きわまりありません。どうして、こんなウソぱっかりの男がアメリカの大統領になれたのか、不思議でなりません。といっても、我が国の首相もアベといって、同じように危険な存在なのですが・・・。
トランプは、プライバシーを重視しない珍しいタイプの億万長者だ。
トランプは、いかに大金持ちかをアピールし、豪勢にお金をつかい、ゴシップ欄やビジネス欄としてスポーツ欄をにぎわせる。雑誌の表紙を飾り、常に自身をメディアにさらしている。
トランプは社会に出てまもないころから、自分をブランド化してきた。ブランド化のカギは、自分について書かれたあらゆる記事をじっくり研究することに始まる。トランプが朝一番にすることは、自分に関する記事の切り抜きを見ること。
トランプは若いころから、噂になるにはどうすればよいかを研究してきた。
トランプは自分の意見が正しいと信じて疑わない。自分の能力に絶対の自信をもつ。しかし、完全な知識があるわけではない。
トランプの娘イヴァンカは、正統派ユダヤ教徒と結婚するにあたって、ユダヤ教に改宗した。
トランプの顧問弁護士をつとめていたコーンは地方検事局時代に、ユダヤ人のローゼンバーグ夫妻をソ連のスパイとして死刑台に送り込んだ。コーンもユダヤ人だった。コーンが検事局に入り出世したのは、マフィアとつながっていたからだと本人が公言していた。コーンはゲイであり、のちにエイズにかかり、59歳の若さで亡くなった。
トランプはコーンを大いに活用した。トランプ・タワーを建設するときには、トランプはマフィアとのつながりを活用し、ボスの愛人のために特注の部屋を用意してやった。
トランプにとって女性は、プロジェクトや資産と同じく、成功の証だった。
トランプがつくりあげたイメージに、控え目なところは皆無だった。トランプは、自分とその暮らしぶりがどう見えるかにこだわり、慎重に「自画像」を組み立て、美しく彩り、その周囲には富の象徴としてデートの相手、愛人妻、子どもたちを配した。
公の場では、隣に必ず豪華な女性がいた。好みタイプは決まっていた。モデル、ミス・コンテストの優勝者、女優の卵。たいては典型的な美人で、脚が長く、グラマーでゴージャスな髪をしている。特権階級に生まれた女性はおらず、相手の女性は公の場では発言しない。トランプにとって、女性は常に狩りの獲物で、追い求める対象でしかない。
トランプは、常に結婚における上下関係をはっきりさせていた。
「結婚は人生で唯一、完璧でないものをオレが受け入れた領域だ」
大荒れの結婚生活にもかかわらず、元妻たちが離婚後に公然とトランプを批判することはなかった。トランプは、そうはさせなかったのだ。元妻たちに秘密保持契約にサインさせた。たとえば年間35万ドルの扶助料が打ち切られることになる。
トランプが32億ドルもの謝金をかかえたとき、銀行家は、トランプを殺すより、生かしておいたほうが良いと決断した。
トランプは、ヒラリー・クリントンへ10年ものあいだ政治献金をしていた。そして、トランプは2001年に民主党員になった。
1999年から2012年までに、トランプは、7回も所属する党を変えている。トランプは、立候補するつもりなら、友人をつくっておく必要があるからだと説明した。なんと節操のない男でしょうか・・・。最低の金持ちです。
トランプという恥知らずな金持ち男が、あたかも庶民の味方であるかのようなポーズで多くのアメリカ人を騙したツケをアメリカ人はこれから払わされることでしょうね。そのトバッチリが日本にまで来そうなのが怖いのですが・・・。
(2016年11月刊。2100円+税)

ヤマンタカ、大菩薩峠血風録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 夢枕 獏 、 出版  角川書店
大菩薩峠というと、赤軍派が軍事演習していて大量検挙されたことをすぐ思い出します。その内幕が小説化されたのが警察官三代の生きざまをたどった警察小説(『警官の血』)です。
この本は、舞台は幕末。机竜之助が登場します。つまり、中里介山(かいざん)の『大菩薩峠』を底本とする全く新しい小説なのです。
『大菩薩峠』は大長編小説です。私は、その長さに恐れをなして、初めから挑戦しようとしたこともありません。著者は3回も挑戦したそうです。だけど、全20巻のうち、2巻目の途中で、いつも挫折したとのこと。やはり文庫本で20冊は長いです。長すぎます。ところが、この本の「あとがき」によると、それでも著者本人が新聞連載のものを3割もカットしているとのこと。すごいですね・・・。
大菩薩峠って、いったいどこにあるのでしょうか・・・。
タイトルの「ヤマンタカ」とは、正しくはヤマーンタカ。頭部が水牛で、身体は人間。仏教の尊神で、日本では大威徳明王。水牛に乗っている明王でもある。
ヤマーンタカのヤマは、夜摩天、つまり地獄の閻魔(えんま)大王のこと。ンタカはアーンタカで、殺す者。したがって、地獄の閻魔を殺す者になる。このヤマーンタカの本地は、文殊(もんじゅ)菩薩という。地獄の閻魔を殺すほどの力をもった尊神の実体が菩薩。最凶にして菩薩。これが机竜之助。剣豪小説です。
大菩薩峠は江戸を西にさる30里、甲州裏街道が甲斐団東山梨郡萩原村に入って、その最も高く、最も険しきところ、上下八里にまたがる難所。青梅から16里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠。
近藤勇、土方歳三、沖田総司も登場してきます。
歳三がねらうのは、相手の頭ではない。腕でもなく、胴でもなく、脚である。
斬るときに相手が踏み出してきた脚を真横から上下に両断する。いや、何も足を両断せずともよい。
ふくらはぎまで斬らず、脛の骨を、その太さの半分も斬り割ればよいのだ。
飼われて訓練された技(わざ)ではない。野良犬の技だ。それで勝負は決することになる。
しかし、こちらから呼吸を計って前に出る技ではない。あくまでも相手が攻撃して踏み込んでくるのを待つ技だ。そのため、頭部を、無防備に相手にさらしているのである。
すさまじいまでの精神力が必要な技だ。相手の動きを瞬時に察して動かなければ、自分が斬られてしまうことになる。
息づまる斬り合いが見事に描かれ、思わず息をのみながら頁をくっていくことになります。その筆力にただただ圧倒されてしまいます。それにしても机竜之助とは不気味な存在です。
(2016年12月刊。1800円+税)

小説・ライムライト

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 チャールズ・チャップリン 、 出版  集英社
チャップリンって小説も書いていたのですね。まさしく天才って、何でも出来るという見本のようなものです。
この本は映画「ライムライト」の制作過程も丹念に明らかにしていて、興味深いものがあります。チャップリンが打合せのときに言った言葉もちゃんと記録され、ペーパーとして残っているようです。
チャップリンは、推敲に推敲を重ねていて、その手書きの校正の過程も紹介されます。
異常なほどのこだわりがあったようです。そのおかげで私たちは超一流の芸術作品を今日も楽しむことができるわけです。
映画「ライムライト」の先行試写会が催されたのは1952年8月2日。その翌月の9月17日、チャップリンはイギリスへの船旅に出た。ところが、アメリカ司法長官はチャップリンの再入国許可を取り消した。FBIのフーバー長官と共謀して、チャップリンを「アカ」と決めつけての措置だった。
当時、アメリカでは「アカ狩り」旋風が吹いていたのですね。今でも、アメリカではその偏見がひどいようです。なにしろ、国民皆保険を主張すると、そんな人には、みな「アカ」というレッテルを貼られるというのですから、狂っています。それだったら、ヨーロッパなんて、オール「アカ」になってしまいます。とんでもないことです。
チャップリンがアメリカに渡ったのは、20年後の1972年。このとき、アカデミー特別名誉賞が贈られ、チャップリンはようやくアメリカと「和解」した。
トランプ大統領に象徴されるような、アメリカの「影」の部分ですね。
1936年、チャップリンは、ジャン・コクトーに、映画は木のようなものだと語った。
揺さぶれば、しっかりと技についていないもの、不必要なものは落ち、本質的な形のみが残る。
チャップリンが家で新しいアイデアを考えているあいだ、撮影が中断されることはよくあった。それができたのは、プレッシャーがなかったからだ。スタジオはチャップリンの持ち物であり、スタッフは常駐していたし、未使用の映画フィルムは廉価だった。
『黄金狂時代』は撮影に170日、全体で405日かかった。『街の灯』は撮影に179日、全体で683日だった。そして、『殺人狂時代』は80日、『ライムライト』は59日で撮影された。
チャップリンが延々と書きものを続ける形でアイデアを発展させ、磨きあげ、記録していく。実際には、秘書に対して長時間口述するという作業があり、そのあと出来あがったタイプ原稿に対して、チャップリンが改訂を加え、それがまた新しいタイプ原稿とさらなる改訂につながる。このプロセスが問題なく続いていく。チャップリンは、なかなか満足しない性質だった。
チャップリンのこだわりぶりは際だっていた。
チャップリンは気の利いたフレーズを手放しで喜んだし、それがとりわけ自分の創作したものであったときには、なおさらだった。
チャップリンは映画に自分の子どもたちや、妻、兄などの家族も登場させていたのですね。知りませんでした。スイスにチャップリンの邸宅だったところが博物館になっているそうですね。ぜひぜひ一度みてみたいと思います。
映画「ライムライト」は忘れていますので、DVDを借りてみてみたいと思いました。
(2017年1月刊。3500円+税)

証言・北方領土交渉

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 本田 良一 、 出版  中央公論新社
この本を読むと、日本がソ連そしてロシアから北方領土を取り戻すのに大きな障害となっているのはアメリカであり、その意向を受けて常に動く日本の外務省だということがよく分かります。
アメリカは、北方領土に続いて沖縄を返せとなるのが嫌なのです。それは、沖縄の施政権が日本に戻ってからも変わりません。大量の米軍の基地があるからです。
アメリカにとって、沖縄の米軍基地を維持するのは至上命題。
「ソ連が千島列島の重要な部分を放棄するような事態が起きれば、アメリカは直ちに沖縄の施政権返還を求め日本からの強い圧力を受けることになる」「アメリカにとっての沖縄は、ソ連にとっての千島列島よりも、もっと価値がある。このため、沖縄でのアメリカの立場を危険にさらしてはいけない」
これはダレス国務長官の言葉です(1955年3月、4月)。
そこで、日本の外務省は、アメリカの意を受けて、2島平還で日本がソ連と平和条約を締結しようとしていたのを、「4島一括返還」にこだわる口実で、つぶしてしまった。その後も外務省は4島一括返還にこだわり続け、2島返還という「柔軟」路線をつぶした。
それは、共産党へニセ情報を流したり、鈴木宗男議員の逮捕につながっていた。
4島一括返還にこだわるより、当面は2島返還を先行させたほうがいいのではないか、主権も共同主権のようなあいまいな形のものからスタートしてもいいんじゃないかと、歴史をよく知らず門外漢の私は無責任にも考えてしまいます。ところが、それでは困るんだと日本の外務省の首脳部は考えているようです。本当でしょうか・・・。
日本の外務省が、いつだってアメリカの言いなりにしか動かない現実をずっとずっと見せられ続けている私は、もっと自主性をもって、柔軟にロシアと外交交渉してもよいように思いました。
(2016年12月刊。1800円+税)

張作霖

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 杉山 祐之 、 出版  白水社
満州某重大事件とも呼ばれる日本軍による張作霖爆殺(暗殺)事件までの経緯が刻明にたどられている本です。
張作霖というと、なんとなく馬賊の頭目というイメージですが、この本を読むとなかなかの人物だったようです。中国の政争、派閥抗争史としても興味深く読みましたが、著者の筆力はたいしたものだと感嘆しました。読み物としても面白いのです。
ちなみに、最近の日本の「ネトウヨ」一味のなかに、張作霖暗殺はコミンテルンによるものだという人がいるようです。昭和天皇が、この事件の報告をめぐって田中義一首相を嫌って退陣に追い込んだ事実が明らかとなっている今日、あまりにナンセンスな説であり、ネトウヨの知的レベルの低さをあらわしているだけだと思います。
張作霖爆殺事件は1928年6月に起きたが、この事件は、日本敗戦に至る亡国の軌跡への決定的な分岐点だった。
張作霖は、1875年3月、奉天近くの農村で、雑貨店主の三男として生まれた。父親は博徒でもあった。張作霖は、13歳のころ、3ヶ月間だけ教育を受けた。要するに、張作霖は正規の教育は受けていないのです。ところが、軍の近代化など教育には熱心でした。単なる馬賊ではなかったのです。
張作霖の14歳のころ、父親は殺され、そのあと一家は生活に苦労したようです。
張作霖は、獣医を始めた。馬の治療が出来たということです。
張作霖は、誰にでも、好かれる面をもっていると同時に、激しい衝動、人を凍りつかせる冷酷さももちあわせていた。張作霖は小柄で、身長162センチだった。
張作霖が匪賊に加わったのは1897年春ころの2ヶ月間のみ。人質の見張り役をしていた。22歳のころということになります。
張作霖は、人を見きわめ、信じ、用い、報いた。徹頭徹尾、人を生かした。いろんな事業に力を入れ、稼いだお金は部下にばらまいた。
袁世凱の下に張作霖は入り、38歳の若さで中将位の師団長となった。奉天最大の武人であった。張作霖は、日本との対立を慎重に避けた。張作霖は、44歳にして名実ともに「東北王」になった。
日本政府は、張作霖を完全には信用しなかった。張作霖は、日本の支援を得たいとき、困ったときには、日本との協力を口にする。だが、張作霖は、満州で日本が権益を拡大しようとすると、表面では笑顔を見せながら、のらりくらりと、裏では頑強に抵抗した。満州では、外国人への土地家屋貸借を禁じる条例が次々に施行されていった。
張作霖にすれば、何かと口実を設けて権益を拡大しようとする日本にフリーハンドを与えるわけにはいかない。中国では親日的であることが「売国」行為と見なされつつあった。義俠を誇る張作霖にとって、中国人から売国奴呼ばわりされることは耐えられない屈辱である。
張作霖は、若いころから、ためらうことなく新兵器を採用した。機関銃を導入し、迫撃砲を外国から買いいれた。
ソ連と国境を接し、その力や冷酷さ、詐謀を目にしてきた張作霖は、ソ連と共産党を恐れ、心底から嫌っていた。
1927年6月、張作霖は北京で大元師となった。国家元首である。
張作霖暗殺のシナリオは、張作霖を殺し、治安が乱れたところで関東軍を出動させ、一気に満州を制圧するというものだった。日本の朝鮮軍から呼び集められた工兵隊が橋脚の上部に200キロの黄色爆薬を仕掛けた。張作霖の乗っていた車両は吹き飛ばされ原形をとどめていなかった。張作霖は10メートルも飛んでいたが、まだ生きてはいた。亡くなったのは4時間後だった。起爆スイッチを入れたのは、鉄橋から300メートル離れた監視所にいた独立守備隊の東宮(とうみや)鉄男(かねお)大尉だった。亡くなったとき、張作霖は53歳だった。日本軍は爆破「犯人」として中国人3人を捕まえようとして2人を殺したが1人に逃げられた。この3人は日本軍に騙されたカムフラージュ用の浮浪者だった。逃げた1人は、張学良のもとに駆け込んで、すべてを話した。
張作霖を抹殺すれば満州問題は解決するというのは河本大佐らの甘い期待は、妄想でしかなかった。
日本政府は、日本軍の手による暗殺事件だと判明しても、それを発表することは出来なかった。国際社会からの批判を恐れて、満州某重大事件として、あいまいにしてしまった。
やはり、正すべきときに正しておかないと、あとで大変なことになるというわけです。
今の「森友学園事件」だって、権力行使の事実を明らかにすることが何より大切なことで、うやむやにしてはいけないということです。
大変な力作ですので、戦前の満州に関心のある人は強くご一読をおすすめします。
(2017年4月刊。2600円+税)

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