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ドイツ人のすごい働き方

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 西村 栄基 、 出版 すばる社
 日本人の働き方は異常だと、私も思います。ともかく働きすぎです。でも、賃金も年金もあまりに安いので、仕方がないのです。そして、パート、アルバイトはもっと異常です。
 「103万円の壁」といいますが、大学生がアルバイトをしなければやっていけないなんて、明らかに間違っています。学費が高すぎますし、生活費の補助がまったくありません。軍事予算というムダな出費をほんの少し削れば、大学の学費なんて無料(タダ)にできるのです。
 ドイツは労働時間が日本より年に266時間も短いのに、平均賃金は日本より4割も多いのです。それでいて、労働生産性は日本の1.5倍も高く、GDPは日本を抜いて世界3位です。なぜ、どうして…。その秘密に迫っている本です。
 ドイツ人は、基本的に残業は一切しない。
 午前中は集中して各自の仕事をこなす時間だから、社内で会議はしない。
会議は短くて目的が明確で、余計な時間をさかない。発言する人だけが参加する。発言しない人は、会議に必要ないとみなされる。会議は準備がすべて。終了と同時に議事録がつくられる。
各自の机の上には、必要最低限のものしか置かれていない。帰宅するときは、すべて所定の場所に戻され、机上には何もない。
 ドイツでは片付けが重要視されている。整理整頓は生活の基本。探しものをするムダな時間を削減する。
 有休休暇は労働者の当然の権利であり、とらなければならないもの。長期休暇によって「空っぽ」になる。この間は、仕事に関する連絡を断つ。
 ドイツ人のビジネスパーソンは、帰宅直前と出社直後にメモをとる。これで、朝にスタートダッシュをかけ、生産性が上がる。「明日やること」「今日やること」を明らかにしておく。
 ドイツ人は日本人のように完璧さを求めることはしない。8割の完成度でよいところには、あまり時間をかけない。
 病欠は有給休暇に含まれず、3日までの休暇は、医師の診断書の必要がない。
 バックアップシステムが完備している。
 日本人はドイツ流の仕事の仕方・すすめ方を大いに学び、取り入れたほうがよいと思いました。
(2024年11月刊。1650円)

たゆたえども沈まず

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 原田 マハ 、 出版 幻冬舎文庫
 ゴッホが日本の浮世絵を大変気に入っていて、その絵にも浮世絵が背景画として描かれていることは私も知っていました。パリで画商をしていてゴッホを経済的に支えていた弟が、日本人画商とつきあいがあり、その線でゴッホも日本人画商たちと濃密な交際があった。なるほど、そうだったのか…。そう思って読み終えて、巻末の解説を読むと、ゴッホと弟テオが日本人画商と接触があったという証拠は何もないとのこと。ただ、同じころにパリにいたことは間違いないが、ゴッホとテオの手紙にも日本人画商はまったく登場しない。うむむ…、そうなのか。
 そして、最後に、本書は史実をもとにしたフィクションであって、特定のモデルはいないと注記されているのです。なあんだ、騙されたのか…、そう思いました。
 それでも、あまりに情景そして心情描写が見事なものですから、ついついモデルのいる小説だと思って読んでしまったわけです。作者のストーリー力には脱帽せざるをえません。
 この本の主人公は日本からパリに行って日本の芸術をヨーロッパに売り込もうと活躍している日本人画正(林忠正)です。その弟子は、まったく架空の人物だというのに驚かされました。著者の想像力のすごさには、まいります。
 ゴッホとテオは離れて住んでいたので、2人がかわしたたくさんの手紙が残っています。私もいくつかは日本語で、そしてフランス語の勉強として読みました。
 本のタイトルの、たゆたえども沈まずとは、パリについてのラテン語による格言です。パリは何回も洪水被害にあっていますが、そのたびごとに見事に復興して、今日があるわけです。
 パリの中心地にあるノートルダム大聖堂も火災の修復を終えて、一般見学が出来るようになったようですね。同じように沖縄の首里城も一刻も早く修理を終えてほしいものです。
ゴッホは、印象派の画家として活躍しましたが、その生前は、今日のように崇拝の対象ではなく、作品(絵)はほとんど売れませんでした。宮澤賢治の小説も、その生前はまったく知られていませんでしたよね。世の中には、ときどき、そういうことが起きますね。
 それにしても、ヨーロッパの人々は浮世絵を見たときには驚いたでしょうね。極端なまでに顔の特徴を誇張する絵画手法に、恐らく呆気(あっけ)にとられ、のけぞったに違いありません。
(2024年2月刊。750円+税)

朝鮮植民地戦争

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 愼 蒼宇 、 出版 有志舎
 近代日本の曲がり角には必ず朝鮮がある。そうなんでしょうね。
 帝国日本は朝鮮半島を植民地として支配していた。これに抗して朝鮮の人々が戦闘を挑んだ。1875年の江華島事件、1882年の壬午軍乱後における公使館守備隊名目の日本軍駐屯、1894~95年の甲午農民戦争、1904~05年の日露戦争、1906~15年の義兵戦争、1919年の三・一独立運動、1918~25年のシベリア戦争と間島虐殺、1931~39年の満州抗日戦争。これらを朝鮮植民地戦争と総称する。
 火賊とは、朝鮮の盗賊団のこと。火賊は、一般人扱いされなかった。
日本の東北地方を歩いたイギリス人女性イザベラ・バードは、1895年1月に東学農民軍の梟首(きょうしゅ)を見ている。
 甲午改革は単なる内政改革ではなく、日本の朝鮮膨張と深く関連したため、その改革の正統性が根本的な秩序・法意識への求心力を強化することにつながった。
朝鮮王朝末期に起きた最大の民衆反乱が1894年の甲午農民戦争。東学農民戦争ともいう。日清戦争が起きた年です。農民軍は行動網領を定め、厳格な規律を維持した。参加したのは半プロ・貧農下層民などが中心。
 11月20日、日本軍と朝鮮政府軍の連合軍と4万人の農民軍とのあいだで、最大の激戦となった(公州の戦い)。当初は数に優る農民軍が優勢だったが、その後は近代的兵器をもつ日本軍による大虐殺となった。
 日露戦争(1904年)のころ、朝鮮半島に日本は鉄道を敷設していった。この苛酷な労働に対して朝鮮の民衆は激しく抵抗した。サボタージュ、逃亡、そして運行の妨害。
 1895年、日本軍の三浦梧楼は閔妃を虐殺した。
 1907年7月、ハーグ密使事件をきっかけに朝鮮王朝高宗が退位に追い込まれ、韓国軍が突如として解散させられた。当時の韓国軍は中央・地方あわせて8480人。そのうち、745人だけが残された。92%の軍人が失業した。これらの失業軍人が各地で義兵となった。
 1919年3月、三・一独立運動が始まった。朝鮮全土で200万人以上が「独立万歳」を唱えて参加した。この三・一独立運動における朝鮮人の被害はわずか2ヶ月間に934人の死者を出した(7500人が殺害されたという学者もいる)。
 日本は、「五家作統」という連座制によって、共同体をコントロールしようとした。
 また、村落を植民地戦争の最前線にし、抗日運動の根拠地のせん滅を図ろうとした。
 ただ、苛烈なせん滅作戦は、他方で逆効果でもあった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(壬申倭乱)のときも、朝鮮半島の各地で義兵が抵抗しましたが、日本の植民地支配に対しても何波となく義兵が決起しています。近代的兵器を装備した日本軍に圧殺されてしまうわけですが、朝鮮の人々の反抗ぶりもすさまじいものがあったようです。日本側の資料に残っています。
 関東大震災直後の朝鮮人虐殺に日本軍部が手を下したことは事実ですが、その軍人たちは、朝鮮の農民戦争を戦った経験があったという指摘がなされています。なるほど、そうだったのか…と思いました。
 いま多くの日本人に読まれるべき大変貴重な労作だと思いました。
(2024年7月刊。3500円+税)

もう一度!近現代史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 関口 宏 ・ 保阪 正康 、 出版 講談社
 戦前の日本は三つの大きな過(あやま)ちをおかした。その一は、統帥(とうすい)権の名のもとに軍事が政治の上に立ったこと。その二は人間の命を戦争の道具として使ったこと。特攻隊や「玉砕」がその大きな例。その三は、戦争を国家の事業と考えたこと。
 私も、この三つの指摘に同感しています。今、日本は戦争に備えるという口実で、大々的に軍事予算を増やしています。5年間で43兆円という気の遠くなる莫大な軍事費です。これまで5兆円をこえるというのに大騒ぎしていたのがウソのように、今では年8兆円といってもまあ、そんなものか、仕方ないなという雰囲気です。これでは福祉や教育予算が削られるのは必然です。でも、戦争にならないようにするのが政治家の最大の任務のはずです。
 軍部と軍需産業が癒(ゆ)着し、大威張りだった戦前の状況に戻ったら大変です。そんな日本にならないよう、戦前の日本にたどった道を振り返って、そこから大いに学ぶ必要があると思います。
 日本の陸軍は、中国軍なんて弱いもの、いくらか日本兵を派遣したら一撃で屈服させられるものと錯覚していた。上海事変が、その典型ですよね。実際には、中国軍はドイツ軍人の顧問団によって訓練され、最新兵器も備え、しかも士気旺盛だったのです。日本軍が慣れないクリーク戦で大苦戦したのも当然でした。
 東条英機は関東軍の参謀長だったことがあります。そして、東条と反目していた石原莞爾が、その下に参謀副長になったのでした。
 二人は互いにまったく口をきかなかった。 その後、東条英機は陸軍大臣になって「戦陣訓」を発表した。石原莞爾は、「こんなものは読む必要がない」といって、開封もせずに倉庫に収納させた。いやはや、すごい反目ですね。結局、石原莞爾のほうが予備役に追いやられてしまいました。
日本軍は中国大陸での泥沼の戦争にひきずり込まれ、総数129万人のうち、90万人をこえる将兵を中国大陸に置いていた。満州からは精鋭の師団が沖縄をふくめ南方に送られ、次々に敗北の道をたどりました…。
 名門中の名門である近衛文麿は優柔不断で決めきれない男だった。
松岡洋右は諸突猛進で、また言うことがくるくる変わる男だった。
アメリカの暗号解読の能力は大変なものがあったようです。山本五十六元帥の撃墜もミッドウェー海戦の失敗も暗号で内情を知られていたことで起きた悲劇でした。
天皇の弟宮で陸軍にいた秩父宮、海軍にいた高松宮も東条英機に強い反感をもっていた。秩父宮は、東条英機に対して、3度も詰問状を送っている。
 日本がなぜ戦争に敗れたのか、きちんと知ることは大切なことだと私は思います。それは自虐史観なんていうものでは決してありません。
(2022年4月刊。1980円)

近現代日本の警察と国家・地域

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 大日方 純夫 、 出版 日本評論社
 今も被疑者弁護人として毎日のように警察署に行く身なので、警察の歴史とその実情については昔から強い関心があります。
 江戸時代の町には番人小屋がありました。その番人は、大坂では非人があたっていたが、江戸の番人は非人ではなかった。
 明治になって首都ポリスが誕生した。1871年10月、東京に邏卒(らそつ)という名称で「ポリス」が設置された。それは3千人で、うち2千人は鹿児島から連れてきた。
 1973年10月、征韓派の参議が辞職するという政変があり、大久保利通が警察の実権を握った。11月10日に内務省が設置された。
 川路利良はヨーロッパ視察のあと、日本では「予防」を課題とする行政警察を中心に警察力を形成していった。しかし、実際には、反乱・一揆の続発という時期にあって、不安定な社会情勢に規定されて、「軍事的」な性格を強めざるをえなかった。1877年1月には西南戦争に警察力を投入した。
 日本の近代警察は、川路のもと、フランスをモデルとして成立していった。1874年末の警察官の35%が東京に集中していた。
 1884年2月、山県有朋が内務卿としてドイツから警察官を招聘(しょうへい)して、フランス式からプロシア式へ転換した。
 1920年、ヨーロッパでは警察は民衆のサーバントになっているところもあるが、日本の警察官はサーバントではなく、国家の官吏である。なので、警察官がストライキするなど、もってのほかのこと。
 東京に警視庁が設置されたのは1874年1月。戸口調査(戸口審査)は重要なものとして活用された。戸口査察は警察実務の基礎である。
 特高警察は選ばれたエリートへの道だった。内務省の若い役人は特高になりたがった。優秀だとされている人は、非常に特高になりたがった。一般警察官の多くは、特高係に抜擢(ばってき)されることを希望した。特高係は、あこがれの的だった。
 日本敗戦後、特高警察だった者は、その経歴を隠して戦後を生きのびていった。
 特高は、戦後の公安警察にそのまま横すべりした。ある県では、14人の警察署長のうち半分の7人が戦時中は特高関係者だった。
 警察官だった人が重要な内部書類を焼却しないで個人宅に持ち帰って保存していたものもあり、それをもとにして警察官のナマの姿が紹介されている本でもあります。
(2024年9月刊。2800円+税)

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