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写真が語る満州国

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 太平洋戦争研究会 、 出版 ちくま新書
 日本が中国東北部につくりあげた満州国の実相を豊富な写真とともに明らかにした新書です。かなり前に大連に行ったことがあります。日本統治下でつくられた大連ヤマトホテルがそっくり残っているのに驚きました。その前は大きな広場になっていて、朝早くは太極拳を練習している老若男女でいっぱいでした。
 ヤマトホテルは主要都市15ヶ所にあったそうです。いずれも満鉄直営です。
 関東とは、万里の長城の東端にあたる山海関から東の地方を指す中国語。当時の満州の省である奉天・吉林・黒龍の三省を総称した。つまり関東とは、満州全体の呼称だった。
 ロシアが旅順・大連周辺を関東州と命名したのを日本も踏襲した。
 1906年11月に発足した満鉄は1万3000人の社員を擁した。このうち中国人は4000人で、全員が社員より格下の日給の雇人だった。
満鉄の軌道は世界標準の広軌にした。日本は狭軌。
日本は満州を我が物とすべく、関東州の租借期間を1997年までの99年間に延長した。同じく満鉄は2002年まで経営できることにした。
 満州国が「建国」されたのは1932(昭和7)年3月のこと。日本の繁栄は満州であってこそというキャンペーンが功を奏していた。「満蒙は日本の生命線」というスローガンです。
 上海事変は、満州国の実態を調査するため国際連盟が派遣したリットン調査団に対する目くらまし戦法の一つでした。ところが、中国軍はドイツの軍事顧問団の指導を受けていて、近代的兵器も備えてクリークで待ち構えていたので、日本軍は予想外に苦戦させられた。このとき「肉弾三勇士」の話があり、日本人の戦意高揚に役立てられた。
満州国の国防・インフラ建設、官署の人事などは、すべて関東軍司令部が握っていたので、リットン調査団が満州国を独立国家ではないと認定したのも当然でした。その結果、1933年2月、日本は国際連盟から脱退してしまったのです。
文字どおりのカイライ政権だった満州国ですが、幻想を抱いて日本から満州に渡った大勢の日本人は、日本敗戦後、大変な辛酸をなめさせられました。生きて日本に戻ることのできなかった人が無数にいました。
今、再び戦前の日本へ復帰しようという動きが現実化しています。とんでもないことです。
(2024年8月刊。1200円+税)

6人の女性プログラマー

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 キャシー・クレイマン 、 出版 共立出版
 コンピューターが誕生したとき、そのプログラマーは6人全員が女性だったのです。
 ところが、彼女らはコンピューターが世間に披露されるとき、その功績を紹介されませんでした。祝賀会に招待されることもなく、せいぜい接待係として下働きさせられたのです。
 コンピューターを発案し、つくりあげたのは確かに天才的な男性たちでしたが、そのコンピューターを動かしたのは、女性たちだったのに、その功績が隠されたというわけです。
 本書は、その点に光をあて、女性プログラマーの活躍ぶりを具体的に詳しく明らかにしています。ところはアメリカ、そして第二次大戦中のことです。大砲の軌道計算を素早く、正確にしてほしいというのが、アメリカ陸軍の要請でした。つまり、コンピューターは軍事利用目的でつくられたのです。そして、プログラミングを担当したのは数学に強い若い女性たちでした。
 ペンシルベニア大学ムーア校電子工学科に女性たちが集められた。
 ムーア校の計算手チームは昼夜交代制で電気機械式の卓上計算器を使って弾道計算を数年間にわたってしていた。
 世界最初のコンピューターであるENIACは、1946年2月に公開された。大砲から打ち出された砲弾が砲口を離れてから標的に命中するまでの軌道を計算することが求められた。しかし、標的が何マイルも離れていると、天候も軌道に影響を与える。風や雨、気温もそうだ。微分方程式が大砲の精度と命中率に革命を起こした。砲手がどの角度で砲を構えたらいいのか、確実に分かるようになった。
 大砲には後座効果というものがある。砲弾を撃ったときの反動にともなう大砲の後ずさりのこと。大砲の後座は砲弾の速度を低下させ、傾きを変化させるため、砲手が標的を外す原因になった。また、赤道直下の砂漠の空気の温度や密度は、アメリカの通常状態をもとに計算された表の値とは異なっていた。なーるほど、そうなんでしょうね…。弾道計算が複雑なわけがよく分かりました。
 真空管は1904年にフレミングが発明し、1939年の万国博覧会のころには大量生産されていた。
6人の女性は、カトリック、ユダヤ教、クエーカー教、長老派とさまざまだった。
 ENIACで使われた真空管は1万8千本あった。ENIACの高さは2メートル半、長さは24メートルあり、広い部屋に収まるよう巨大なU字型に配置された。ユニットが左右に16台ずつ、真ん中に8台がそびえ立つ。壮大で威圧感があった。
ENIACは並列プログラミングができた。人間は並列では考えない。直列で考える。本を読むのも、文章を書くのもみな直列。しかし、コンピューターは並列で計算できる。
 ENIACは、世界初の汎用プログラム可能電子計算機であり、地球上のいかなる計算機より1000倍以上も高速だった。
6人の女性プログラマーは、複雑な軌道計算を「エラーなく」走らせ、しかも、どの部品が「エラー」を起こしたかを診断できた。
ENIACは、1週間分の仕事をわずか20秒以内で計算した。世界が一変した。
 ところが、ENIACも盛大なオープンセレモニーにおいて、6人の女性プログラマーはまったく無視された。このとき無視されたプログラマーに光をあてた本です。なるほど、「寅に翼」ではありませんが、先駆者の女性は、日本でもアメリカでも大変な苦労をしたのですね…。貴重な本です。
(2024年7月刊。2860円)

お父さん、だいじょうぶ?日記

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 加瀬 健太郎 、 出版 リトルモア
 お父さんはカメラマン。しかも、どうやら新聞社のような会社勤めではないらしい。昼間から家にいて、幼い子どもたちの写真を撮っている。そんな子どもたちが主人公の写真集みたいな本です。子どもは男の子ばかり3人。でも、この本には末っ子はまだ登場しない。男の子2人はイタズラ好きな、やんちゃで力があり余っています。
 私にも、孫2人が男の子なので、似た感じです。たまに同居して一緒に生活すると、それはもう朝起きたときから大変です。嵐が吹きまくります。それでも昼寝してくれるときは、午後、少しばかり静かになります。まさしく台風の眼のなかに入った感じです。でも、やがて目が覚めると、たちまち嵐の参上です。
 忙しくない写真家なので、よく家にいる。すると嫁さんに嫌がられる。気を使うからって…。
 そうなんですよね。だから私は外に出かけて列車に乗って喫茶店に入り、本を読みます。周囲に少しの雑音があったほうが読書に集中できます。ところが、元気のいいおばちゃんたち何人かが話し始めると、たまりません。さすがに集中できなくなるので、そそくさと立ち去ります。何事にもモノには限度というものがあります。
子どもたちの寝相が悪いのは万国共通なのでしょうか。私の子どもたちのときもそうでしたし、孫たちも同じです。いつのまにか、とんでもないところで寝ています。寝ている大人を乗りこえたりもします。
 私も、初めての子(長男)のときは、冬、布団からはみ出し何もかけずに畳の上に寝ていたり、お腹まる出しになっているのを見て、慌てて布団をかけてやりました。だけど、体温の高い子どもたちは平気なのです。それくらいで風邪をひくこともありません。それが分かったので、二番目の子どもからは寝相の悪いのを見ても、まったく心配しなくなりました。何事も経験がモノをいいます…。
庭に1メートルを超えるヘビが死んでいるのを発見したという。子どもが手に持ってぶら下げている。
 我が家の庭にも昔からヘビが棲みついています。死んだヘビをみたのも1回ありますし、ヘビの抜け殻も見ました。今のところに住むようになってまもなく、ヘビを見つけたとき、怖かったので、棒を持ってきて叩き殺してしまったこともありました。でも、あとで反省して、それからは見つけても殺さないつもりでやっています。ところが、夏、家人がヒマワリの下で雑草とりをしていて、ひょっと上を見ると、ヘビがヒマワリにぶら下がって昼寝していたそうです。ですから、茂みに入るときは物音を立てるようにしています。
 ヘビがいるのは、モグラがいるからです。ミミズもいたるところに穴を掘っています。自然と共存するって、案外、難しいものなんです。
 子どもたちは穴を掘るのが大好きです。庭に深い穴を掘って水を入れ、ちょっとしたプールをつくりあげたりもします。
子どもたちはすぐに大きくなります。まさしく、あっという間に大きくなってしまいます。もうすぐ、孫たちが遊んでくれなくなるのかと思うと、寂しいです。今のうちせいぜい楽しませてもらうつもりです。
(2021年5月刊。1760円)

ことばの番人

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 髙橋 秀実 、 出版 集英社
 いま、ちょうど私の最新刊(昭和のはじめ東京にいた父の話です)の最終校正をしている最中に届いた本です。何度見直しても校正洩れを発見しています。まさしく、「校正、恐るべし」です。目が慣れてしまうと、誤字を見逃しがちになります。なので、2日間ほど空けて、まっさらな目で一行一行、目を皿のようにして眺めていきます。それでも見落としがあるので、油断なりません。
 古事記を撰録した太安万呂は校正者だった。日本では、「はじめに校正があった」。
 ところが、今はネットの普及により、書いた人が読み返さないので、目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫だ。
 たとえば、「にも関わらず」と書いている人が、有名な大学者にまでいます。正しくは「不拘」、「関」ではなく「拘」なのです。
法律まで誤字だらけだというのには驚かされました。いったい、どうして、そうなった(ている)のでしょうか…。
 校正する人は、心の中に音声を残し、それと照合する。
面白い原稿は内容を読んでしまうので、要注意。誤りを拾い損ねてしまう。校正者は読むのを楽しんではいけない。
文章を読みやすくするには3つの改善策がある。句読点をひとつ入れる。言葉の順番を変える。修飾語と修飾される語を近くにする。
 今は。ジャパンナレッジという便利な有料サイトがある。これは70以上の辞書・辞典などが入っていて、横断検索できる。
校正者は根拠がないと指摘できない。
 校正者が内容を理解しようとすると、かえって誤植を見落としてしまう。
 心を空っぽにしないと、必ず見誤る。
 読者は内容を読むが、校正者は活字を見る。
校正者は、すべてを疑うべし。相手を疑う前に、自分を疑う。疑いを晴らすために辞書を引く。
日本語は正書法のない、極めて珍しい言葉。なので、英語やフランス語そして中国語であるディクテーション(ディクテ)がない。日本語だと正解はひとつではないから。なーるほど、そう言えば、そうですね…。
 私たちは生きているから間違える。間違えることは生きている証拠。だから、校正するとキリがない。うむむ、なんだか校正者の開き直りのような…。
 AIに校正を全部まかせるわけにはいかない。本当にそうなんですよね。AIは適当な嘘を平気でつくのです。面白い本でした。
(2024年11月刊。1980円)

神聖ローマ帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 山本 文彦 、 出版 中公新書
 神聖ローマ帝国と言われても、すぐにはピンときません。かのローマ帝国とは違うもののようだけど、どう違うのか、いったい、いつの時代に存在したのか…。
神聖ローマ帝国は962年から1806年まで、850年間にわたって存在した。日本史でいうと、平安時代(村上天皇)から江戸時代(11代の徳川家斉)までになる。
 ドイツを中心として、スイスやオランダも含むヨーロッパの中央の広大な帝国だった。
 神聖ローマ帝国が滅亡したころ、ドイツの文豪ゲーテが生きていて、目撃したようです。
この本を読んで、有名な「カノッサの屈辱」の真相を初めて知りました。
 1077年1月25日、雪が降りしきるなか、イタリア北部のカノッサ城の城門の前で、悔悟と恭順の意を示すため、王のあらゆる権標を取り去り、贖罪(しょくざい)服に裸足(はだし)の姿で門前にたたずみ、頭を垂れて大きな声で教皇のゴレゴリウス7世の慈悲と赦(ゆる)しを乞うた。降り続く雪に膝まで埋まりながら、贖罪は3時間に及んだ。
 そのため、教皇はハインリヒ4世の破門を解いた。このあと、ハインリヒ4世は対立国王ルードルフと戦い、敗れはしたものの、ルードルフが右手を失って死んだことから、ハインリヒが優勢となり、ローマで皇帝となった。そして、あのグリゴリウス7世を追いやった。
 だから、「カノッサの屈辱」をもって、単純に教皇が皇帝に勝利した事件とは評価できないというわけです。むしろ、逆に皇帝権の確立に至る一事件だとみることもできるでしょう。
 著者は、本書で、実は、これは単なる「和解のための儀式」だったというのです。演出された儀式にすぎなかった。この「演出」は仲裁者が求めたもので、暫定的な妥協が成立しただけなのだというわけです。
 そして、このハインリヒ4世の皇帝在位期間はなんと50年間。神聖ローマ帝国のなかでは2番目の長さです。
ハインリヒ4世の次のハインリヒ5世のとき、皇帝と教皇の争いは決着をみた。皇帝は教会の支配者としての地位を失い、皇帝は教会の外の世俗的支配者として生きていくことになった。
 この本を読んで、もう一つの驚きは、中世前期のドイツ王が、その一生を旅をして過ごしていたということです。
 それは、通信手段が赤発達だったので、広い地域を支配するのには、王自らが移動するのか、もっとも効率的だったからとされています。宮廷がそっくり移動していくなんて、とても信じられません。大変な苦労があったと思います。
 道路は舗装されていないので、馬車で移動するにしても、激しく揺れたことでしょう。道中に安楽な場はなかったことでしょう。なので、厳しい移動に耐えられる肉体と精神力が王には求められた。いやあ、これは大変なことですね…。
 ドイツ国内で郵便事業が始まったのは1490年のこと。郵便配達夫と馬は宿駅で交替するリレー方式で、24時間体制で配送した。そのため、宿駅は、一定数の馬を常に用意し、郵便配達夫に食事と寝床を提供した。
 いったい郵便料金はいくらだったのでしょうね…。高額だったとは思いますが、路線を維持するのは大変だったことでしょう。そして、17世紀後半からは、郵便馬車が走りはじめています。運賃さえ払えば誰でもこの郵便馬車に乗ることができたとのこと。
 18世紀になると、旅行革命の世紀と言われ、人々が徒歩ではなく馬車で旅行するようになり、ヨーロッパが近くなったようです。大変興味深い内容が満載の新書でした。
(2024年5月刊。1100円)

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