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役に立たない読書

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 林  望 、 出版  インターナショナル新書
ほとんど同世代の著者と私は読書に関しては、かなり共通した考えです。
本は買って読むもので、図書館から借りて読むものではない。読んできた本を振り返ることは、自分の人生を振り返ることに他ならない。文学作品を味わう醍醐味の一つは、登場人物の中に自分自身の分身を発見することにある。
自分が読みたい本を読む。これが読書するときの鉄則。そのとき、間口(まぐち)はできるだけ広くしておいたほうがいい。
図書館で借りて読んだ本の知識は、しょせん「借りも物」の知識でしかない。自分が読みたい本は、原則として買って読み、読んでよかったと感じた本は、座右に備えておくべきだ。
「自腹を切る」ことの対価は、たしかにある。
著者は、自宅の地下に2万冊は入る書庫があるそうです。わが家にも1万冊とは言わない、2万冊近くの本があるように思いますが、最近、少しずつ引き取り手を探して押しつけつつあります。なにしろ、年間500冊以上の本を買って読んでいますので、その行方(所在)は困るばかりなのです。
読書するのには、あらゆる細切れの時間を大切にする必要がある。10分間だけ、別世界を旅する。
まさに、そのとおりです。ですから私は、バス停に立ったら、私のカバンの外側に入れている新書が文庫本を取り出して、立ち読みを始めます。中に入って座れたら(立っていても)ソフトカバーの本を読み出します。ですから、電車の中ではなるべく顔見知りの人と一緒になったり、同席したくはありません。
「我が本」を文字どおり「我が物」にする。これは、借り物ではないのだから、きれいな姿で、次に古本屋に売ろうと思っていないということです。気に入ったらところは折り曲げたり、付箋をつけたり、傍線を引いたり、欄外に注記を書き込んだりする。
書評には、面白くないと思った本は取りあげない。私も同じです。面白くもない本を読み返すほど、私はヒマでありません。何か面白いと思えるところがある本しか、このコーナーで取りあげたことはありません。
日本では昔から識字率も高く、本を読まずにはいられない人が少なくなかった。
滝沢馬琴の本を江戸時代の人々が熱狂していたというのは、現代の私にもよく分かります。ともかく面白いストーリー展開でした。
著者は、漢字仮名まじりの文化が定着している日本では、電子書籍は普及しないと予測しています。紙の本でないと読んだ気がしないというのは、日本語独特の問題があるからだ・・・。日本語は、世界一、同音異義語が多い。多すぎる。
読書には、大きな意味がある。人生は、できるだけ楽しく、豊かに送りたい。豊かに楽しく生きることのヒケツが、すなわち自由な読書だ。それは強制された読書ではない。自由に読み、ゆっくり味わい、そして深く考える。ただ、それだけのこと・・・。まったく同感です。反語的タイトルの本です。
(2017年4月刊。720円+税)

猿神のロスト・シティ

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ダグラス・プレストン 、 出版  NHK出版
中米ホンジュラスに、地上最後の人跡未踏の地があるというのです。そこには、恐ろしい毒ヘビやジャガーがいるので、人間はうかつに近づけません。といっても、現地に人々は住んでいます。
文明国が派遣した調査国は、ベテランであっても、1日10時間はたらいても、1日に3キロとか5キロしか前へ進めないというほど深いジャングル(密林)があります。そのうえ、ホンジュラスは、殺人事件の発生率が世界一。麻薬カルテルが周辺土地の大半を支配している。ホンジュラスのあるところでは、請負殺人の費用は25ドルでしかない。
ジャングルで最大の危険は毒ヘビ。夜行性で、人や動くものに引き寄せられる。攻撃的で、過敏で、敏捷だ。
そして、ジャングルでは道に迷いやすい。迷ったと思ったら、もう動かず、救いを求める笛を吹いて、誰かが迎えに来てくれるのを待つしかない。調査国のメンバーが現地から帰国してしばらくすると、その半数が謎の病気を発病していった。それはリーシュマニア病という熱帯病で、マラリアに次いで世界で2番目に致死性の高い寄生虫病だった。
5世紀ころ、ここに国王が存在していた。国王は16代も続いている。
8世紀ころ、旱魃(かんばつ)による飢饉(ききん)が頻発して、平民を苦しめたことから、王国の存立が危うくなった。
ところで、この古代文明は毒ヘビそして病気から身を守っていたのか・・・。
同じ中米にあるコスタリカという平和な国の話を読んだ直後でしたので、この二つの国の違いはどこにあるのか、不思議でなりませんでした。
私は、もちろんホンジュラスのような物騒な国には住みたくありません。やっぱり住むなら、平和の国ニッポンかコスタリカですよね。そのためにもアベ退陣を一刻も早くして実現してほしいです。
(2017年4月刊。2200円+税)

中世ふしぎ絵巻

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 西山 克(文)、北村 さゆり(画) 、 出版  ウェッジ
変わった(凝った)装丁の本です。絵を主体として、解説しているように見えて、やはり文章が主体の絵巻解説本です。
『百鬼夜行絵巻』とか『百怪図巻』というものがあるそうですが、この本はそれをやや現代風にアレンジした感じの妖怪たちが描かれています。
そして、厩(うまや)につながれている馬が人の言葉をしゃべったという話ものせる怪異譚(たん)が紹介されています。
若い女は孤の化身だったとか、病気になった関白の肩に「小さき孤の美しげなる」が乗っていたのが目撃されたという話も紹介されています。
皆既日食をパロディー化した『百鬼ノ図』がある。日食の時間帯に、御法度(ごはっと)の歌舞音曲を楽しむ妖物たち。日食の間を待ちかねてメイクを始める化粧道具の怪。その闇の中で、妖物たちを解放する鬼卒(きそつ)。
『妖物記』は、寛正(1460年ころ)の飢饉という、大災害の記憶を留めるものとして描かれた。
天皇の家政機関に「作物所」があった。「つくもどころ」と呼ぶ。
先食台(せんじきだい)は、本当は施食台(せじきだい)であり、死者、いわば餓鬼や鬼神たちが一飯に与(あず)かっていた。
不思議な花があった。金花、銀花。本当に花なのか・・・。二人の陰陽師(おんみょうじ)の一人は花と言い、他方は花ではないと断言する。その正体は、クサカゲロウという昆虫の卵。
昔から日本でゲイの人を「おかま」と呼ぶことがあるのは、釜鳴りを鎮める呪法には異性装がからんでいた。そして、釜鳴りを鎮める呪法とかかわっていたから、「おかま」と呼ばれるようになったのではないか・・・。
なかなか読ませて魅せる長文の解説付きの妖怪絵本です。少し高価なので、せめて図書館で閲覧してみて下さい。
(2017年6月刊。3200円+税)

マフィア国家、メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 工藤 律子  、 出版  岩波書店
いやあ、正直言って、メキシコがこんなに怖い国だとは知りませんでした。
トランプがメキシコ国境との間に壁を築くというのは悪い冗談だとしか思えませんが、メキシコ政府がそんなに腐敗しているのかって、想像を絶します。
日本の官僚制度もアベ政権の人事局長システムで悪いほうに変容されつつありますが、それでも前川さんのような骨のある人を支持する土台がまだあると信じています。メキシコには、残念なことにそれがないようです。
メキシコでは、政府が深刻な腐敗をかかえ、麻薬マフィア国家と化している。連邦政府、地方政府、あらゆるレベルで多くの人間が犯罪組織とつながっている。その結果、2006年12月から2015年8月までの行方不明者は3万人、殺害された人が15万人。その犯罪の9割は裁かれない。
仕事帰りの若い女性、14歳から22歳前後の貧困層の女性が誘拐されたり、失踪される事件が多発している。人身売買の犠牲となっている。
麻薬カルテルという呼び名は、今やまとはずれだ。現在では、犯罪の多国籍企業化し、世界54ヶ国を舞台として、多様な犯罪ビジネスを展開している。麻薬、武器、石油、臓器売買、DVD,CDの海賊版販売など・・・。
犠牲者が出ても、分裂した国家内部の汚職と腐敗のために、罰せられるべき人間が罰せられない。メキシコでは、誘拐・失踪事件の99、9%が未解決。真犯人は、権力内部の協力者や仲間に守られ、法で裁かれない。
2016年にメキシコで起きた殺人事件は2万3000件。これは、内戦中のシリア(6万件)に次いで、世界で2番目に多い。
その主犯が麻薬カルテルと断定できないところにメキシコの抱える問題の深刻さがあります。つまり、軍や連邦警察も、「殺人」に加わっているようなのです。これでは、国民は誰を信じていいのか分かりません。困ってしまいます。
そして、メキシコの犯罪多発に「加担」しているのがメディアです。権力の言いなりでしかなく、言論の自由がない。
日本のマスコミもアベ政権の顔色をうかがうばかりになってはいますが、ときとして真実を伝えようとしているところが違います。
暴力に暴力で立ち向かっても解決にもならないことを学んだという元ギャング団リーダーの言葉が紹介されています。本当にそのとおりです。
こんな危険なメキシコに現地取材した著者の勇気に心より敬意を表します。これからも生命・健康に留意しつつ、適切な情報を日本に伝達していただくことを期待します。
(2017年7月刊。1900円+税)

百姓たちの山争い裁判

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版  草思社
日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんていう俗説はまったく事実に反しています。弁護士生活43年になる私の実感です。
聖徳太子の「和をもって貴しとせよ」というのは、当時、あまりの裁判の多さに呆れて、おまえたち、いい加減にせよと嘆いて言ったというものです(聖徳太子はいなかったという説も有力ですが・・・)。
この本は、江戸時代に日本全国で起きていた山をめぐる裁判のてん末を明らかにしています。なかには、なんと300年続いていた裁判もあるというのですから、驚きです。
江戸時代の裁判は、今と違って手数料(貼用印紙)ゼロです。ただし、交通費や宿泊費は自己負担でしたから、それがバカになりませんでした。そして一審制で、上訴(控訴・上告)はありません。ところが、越訴(おっそ)という非常手段はありました。それをしたからといって、すぐに死罪になるというものでもありませんでした。
林野の多くは、共有地だった。一つの村だけの入会を村中入会(むらじゅういりあい)、複数の村々による入会を村々入会(むらむらいりあい)と呼ぶ。
入会地は村の共有地だったから、村人たちがそこを利用するときは、村で定めた利用規則に従う必要があった。自分勝手な利用は出来なかった。入会山で盗伐した者は、耳をそいで村を追放するとか、米五斗の過料と定められていた。
領主を異にする村同士の争いは、村(百姓)と藩(武士)がペアを組んでたたかうタッグマッチの様相を呈していた。
山争いの功労者は神として祀(まつ)られた。領主が訴訟を受理するのは、領主の義務ではなく、お慈悲だった。ところが、実際には、百姓は武士が辟易(へきえき)するほど頻繁に訴訟を起こした。百姓は、「お上(かみ)の手を煩(わずらわ)すことを恐れはばかってはいなかった。
裁判が始まって、訴えたほうの訴状と、訴えられたほうの返答書は、子どもたちの学習教材として村々に流布していた。
江戸時代の裁判は、純粋に法にのっとって理非を明らかにするというものではなかった。藩の統治の正しさを確認するという政治的意図が明らかに認められた。
村の代表者は、入牢するくらいではへこたれなかった。
百姓のたくましさがここにも見てとれると思いました。面白い本です。日本人は本当に昔から裁判が好きなのです。
(2017年6月刊。1800円+税)

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