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島津氏と薩摩藩の歴史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 吉川弘文館
 薩摩藩と島津氏の強さがどこから来るのか、私は前から大変興味があります。
 島津という地名は都城市にあり、そこに島津荘があった。
島津氏も、いろいろ内紛が起きています。総州家と奥州家との争いというのもありました。
 室町時代の遣明船は細川氏が中心で、堺の商人が主導権を握っていた。薩摩の坊津(ぼうのつ)で硫黄を積み込み、島津氏の警護で中国へ渡航していた。坊津は日本の津の一つとされるほど、対明(外)貿易で栄えた。島津氏はまた、琉球貿易を独占していた。
 ザビエルは薩摩出身のアンジローに接し、当時の日本人が名誉を重んじ、盗みに厳しい罰を与え、知識欲が旺盛で、食事は少量で肉食せず、米で作る焼酎を飲み、海岸の砂を掘って温泉に入ると書いた。
 またザビエルは鹿児島で布教を許された。次のように報告した。
 「今まで発見された国民のなかでは最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のなかには見出せない。日本人は親しみやすく、一般に善良で、害意がない。知識欲が旺盛で、善良で、社交性が高い。」
足利学校の七代の当主は、大隅の伊集院氏の一族。
城下士は半農半士の外城(とじょう)衆中を「肥(こえ)たんで士(さむさい)」と呼んで軽視していた。安永9年、外城衆中を郷士と呼び改めた。
 江戸幕府の初期のころ、島津氏は、日本最大の貿易大名だった。
 薩摩藩は藩士の子弟の教育にも熱心に取り組んだ。子どもは年齢により、二才(にせ)と稚児に分けられた。二才は14.5歳から24.5歳までの青年。稚児は小稚児(6~10歳)、と長(おせ)稚児がいた。小稚児の教育は長稚児が、長稚児の教育は二才が行った。二才たちは互いに鍛錬しあった。
 薩摩藩の産金量は佐渡に次ぐ2位。全国の3分の1の産金国だった。薩摩国で金がとれていたなんて…、知りませんでした。
 島津重豪は、その娘(茂姫)が将軍家斉の御台所になったので、将軍の岳父として権勢を振った。いやあ、これは知りませんでしたね…。
 万延元年(1860年)の8月に生麦事件が起きた。そして、イギリス海軍が鹿児島市中に放火し、3分の1を焼失させた。イギリス海軍はアームストロング砲で砲撃した。薩摩藩は果敢に反撃し、イギリス艦隊も大破一隻、死傷者63人。これに対して、薩摩側は城下の市街地の10分の1が焼失した。しかし、当時、世界最強を誇っていたイギリス軍が退却した結果に世界は驚いた。
 「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということ。日本は勇敢であり、ヨーロッパ式の武器や戦術にも長(た)けていて、降伏させるのは難しい」
 長州藩のほうは四国連合艦隊にたちまち砲台を占拠されるなど、屈服させられましたが、鹿児島湾での戦いは「日本が勝った」のでした。
 ざっとざっと薩摩藩の歴史をおさらいした気分です。
(2024年9月刊。2200円+税)

パリ十区、サン・モール通り209番地

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 リュト・ジルベルマン 、 出版 作品社
 もう久しくフランス、そしてパリに行っていません。ひところは毎年のように行っていました。パリ、リヨン、ボルドーそしてモンサンミッシェル、アヌシー、シャモニー、エズなど観光地にも行きました。もはや30年前のことになりますが、フランスに40日間いました。南仏のエクサンプロヴァンス大学での外国人向け夏期集中講座に参加したのです。大学の学生寮に3週間も暮らしました。独身貴族の気分をたっぷり味わうことができました。今はもうそんなことをする元気(勇気)がありません。なんでも思い立ったときにやっておくことだと、今になってつくづく思います(反省しているのではなく、やっておいて良かったという意味です)。
さて、この本に戻ります。パリはパリ・コミューンが戦われた舞台でもあり、この本でも少し紹介されています。
 1870年、ナポレオン3世がプロシアに宣戦布告し、結局、敗北。そこで、パリ市民が決起し、市民軍(国民衛兵)がつくられた。そして、1871年3月、ついにコミューン評議会が成立し、パリを支配した。そこへ、ヴェルサイユ政府軍が攻撃を仕掛けてきた。最新兵器の前に市民軍は次々に敗退していく。このパリ十区でもバリケードが築かれ、激しい市街戦が展開したようです。
 敗れた市民軍は次々に処刑され、ニューカレドニアを流刑地として流されたのでした。
 1942年7月、ナチス・ドイツの支配するパリでユダヤ人狩りが始まった。実行したのはパリ警察で、フランス人警官が動いた。十区については、152の検挙班が組織された。
 7月16日午前9時現在の逮捕者数は4044人。パリ十区の209番地では18人が逮捕された。ユダヤ人住人の多くが一斉検挙を免れた。
 この本は109番地で生活していたユダヤ人一家の行方を丹念に追跡しています。意外なことに絶滅収容所に送られても戦後、生還した人がいました。
 7月16日と17日に逮捕されたユダヤ人は1万3152人にのぼる。この冬期競輪場に7日間、閉じ込められたあと、各地にある収容所に送られた。
 この状況を描いた映画を私は観ました。あまりにも悲惨な状況です。食事はなく、水も不十分。そして、トイレがない(圧倒的に足りない)広場に1万人以上も集められ、7日間を過させられたのです。想像するだけでも恐ろしい状況です。
 そして移送列車に乗せられます。母は無理矢理子どもと離されたのでした。ひどい話です。ひどすぎます。ナチスはユダヤ人を人間と考えていませんでした。
 一斉検挙のとき、幼い子どもは泣きださないように、口にアメ玉を押し込まれ、母親と同じベッドで息を潜めていた。それが生きのびた戦後、大人になって突然に思い出されたりする。思い出したくない過去だけど、つい現れてしまう過去の記憶というものがあるようです。
 映画にもなっているようですが、そちらは観ていません。パリの一区画に住んでいた人々を追跡した貴重な労作です。
(2024年8月刊。3600円+税)

戦場の人事係

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 七尾 和晃 、 出版 草思社
 凄惨な沖縄の戦場を生きのびた軍曹(准尉)が、戦時名簿をもとに亡くなった兵士の遺族たちに、その最期の状況を伝えるべく全国を歩いたという実話です。
 この元軍曹(石井耕一)は、新潟県で1913年に生まれ、1944年7月、3度目の召集で沖縄に配属されたのでした。野戦高射砲大隊の人事担当として勤務し、1945年6月、米軍の捕虜となり生きのびることができました。戦後は町の助役を6期24年つとめたあと、豊栄市長も4期16年つとめました。2012年2月、享年98歳で永眠。
 著者は95歳の石井から話を聞き、戦時中に石井が作成し、本土に持ち帰った戦時名簿の現物を見せてもらいました。
 捕虜収容所にいるとき、米兵と親しくなり日本刀が欲しいという米兵からジープに乗せてもらって、戦時名簿を埋めていたガマ(洞窟)に行き、掘り出したのです。缶に入れて防水の布でくるんでいたので、名簿や行動・死亡記録は無事でした。奇跡的な発見です。
遺族に手紙を出すと、届かない人もいたけれど、届いた遺族から最期の様子を聞きたいという申し出があったりした。
 あるとき、遺族は、帰り際にこう言った。
 「そこまで家族のことを思っていてくれたのなら、なんで、何としてでも生きのびてくれなかったのでしょうか…」
 いやあ、遺族の言いたいことは分かりますよね、でも、沖縄の戦場はそれを許さない厳しさだったのです。石井が生きのびたのは、ただ運が良かっただけでした。沖縄戦で、日本兵は米軍の本土攻勢を少しでも遅らせるよう死守せよと厳命されていたのですから…。
沖縄に上陸した米軍は18万3000人で、艦船1500隻が一気に押し寄せた。
 この沖縄戦では、指揮していたバックナー中将も1945年6月18日に日本軍の砲弾があたって戦死しています。それほどの激戦だったのです。
貴重な記録がよくぞ残ったものです。そして、それを掘り起こした著者にも敬意を表します。
(2024年8月刊。1870円)

宋美齢秘録

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 譚 璐美 、 出版 小学館新書
 ドラゴン・レディとも呼ばれる蔣介石夫人の栄光と挫折の人生を紹介した新書です。
ドラゴン・レディと呼ばれる有名な中国人女性は2人。もう一人は、清朝末期の西太后。パワフルで狡滑、短気で傲慢的、神秘的なアジア人の女傑を表わすコトバ。
宋美齢は三女で、軍人の蔣介石と結婚した。長女の宋靄齢(あいれい)は財閥の孔祥煕(こうしょうき)と結婚し、二女の宋慶齢は革命家の孫文と結婚した。
 両親は富豪でクリスチャン。上海で生まれたが、父の教育方針で、兄弟姉妹6人全員がアメリカで学校教育を受けた。
孫文が宋慶齢と出会ったのは亡命先の日本。二人は英語で会話しただろうとみられています。孫文は広東語、慶齢は上海語を話し、お互い外国語のように通じないからです。
 ところが、孫文は52歳、慶齢は22歳なので、30歳も離れているのに二人は結婚に踏み切ったのでした。
 蔣介石は勉強嫌いで、落ち着きがなかった。蔣介石もまた日本に留学した。清国人専門の軍事基礎学校・東京振武学校に入学した。蔣介石が孫文を助けたことから孫文に重用され、1924年、黄埔(こうほ)軍官学校の校長に任命された。軍人教育の仕事は蔣介石にとって天職だった。
 1927年12月、蔣介石40歳は29歳の宋美齢と結婚した。蔣介石は宋一族の一員に加わったことから、軍資金が得られるようになった。
 1936年12月、西安事件が発生。張学良が蔣介石を拉致監禁した。このとき、宋美齢も西安に乗り込み、蔣介石の解放のために動いた。
 宋美齢はアメリカに向かって、またイギリスに向かって得意の英語を駆使して激しい日本批判を展開した。
 アメリカのスティルウェル中将は蔣介石と「水と油」の関係だった。「蔣介石は無能で、アメリカが支援する価値なし」という報告書をルーズベルト大統領に提出した。スティルウェルは、国民党政府の汚職体質と、蔣介石の身勝手なやり口に腹を立てていた。
1943年2月、宋美齢は全米を講演してまわった。侵略国である日本の印象が悪化し、中国に同情する世論が高まった。
 1937年から1940年ころ、中国には四大財閥があった。宋靄齢の夫・孔祥煕の孔家、宋子文の宋家、蔣介石の蔣家、それに陣果夫の陳家。
 国共内戦に負けたあと蔣介石は台湾に移り、宋美齢のほうはアメリカに住んだ。そこは、東京ドーム3倍超の豪邸。
 2003年、105歳で宋美齢は死亡。ニューヨーク州の高級墓地には、宋美齢の墓石そのものはない。
 ドラゴン・レディの実体を少し知ることができました。
(2024年6月刊。1100円+税)

山田洋次が見てきた日本

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 クロード・ルブラン 、 出版 大月書店
 寅さん映画(『男はつらいよ』)の第1作は私が大学3年生のとき上映されました。大学祭のとき、無料(タダ)でみることが出来ました。それ以来年に1回から2回、ずっとみてきました。盆と正月の恒例行事でした。子どもたちが少し大きくなってからは、正月に家族でみる映画でした。弁護団合宿で飯塚の安い旅館に泊まっていると、ちょうど寅さんが沖縄で同じような安宿に泊まっている光景が出てきて、みんなで大笑いしたこともなつかしい思い出です。
 この本は、フランス人のジャーナリストが書いたもので、日本語訳はなんと770頁もある超大作です。当然、値段も高く9900円もします。まあ、しかし、寅さん映画、そして山田洋次監督の映画のほとんどをみてきた身として、読まないわけにはいきません。
 この本によると、寅さん映画は、そのときどきの日本の社会状況を正確に反映している記録映画の面もあるとのこと。なるほど、たしかにそうですね。その典型例が汽車(列車)です。今では廃線になっているところがいくつもあります。映画のなかでも、駅舎で寅さんとポンシュウが待っていると、いつまでも列車が来ないという場面(シーン)があります。もう廃線になってレールも取り払われているのに二人は気が付かなかったというのです。
 山田洋次監督は満州育ちです(生まれは大阪)。小学2年生のころの新京(現・長春)での写真が紹介されています。金持ちの、いかにも賢そうなお坊ちゃんです。ちなみに、祖父は柳川藩の武士の息子でした。
 この祖父は満州に渡って旅館業を営み、その稼ぎのおかげで息子を九州帝大の工学部に進学させることができました。そして息子である父親は満鉄に勤め、鉄道技師として働くのです。
 日本敗戦のとき、山田洋次は中学生で、学校でロシア語が必修になったので、ロシア語を勉強させられた。ところが、まもなくソ連軍は撤退し、八路軍がやって来た。
 そして、日本に引き揚げてきて、山口に住むようになった。苦学生として働きながら、東大を受験し、一浪して東大に入学します。法学部を卒業するのですが、学生のときには自由映画研究会に入っていて、松竹に入社するのでした。初任給は6000円。
 山田洋次は最下位の助監督として働くうちに、監督として大切なのは、その場のバランスを保つために十分な力を示すことができるかどうかだと理解した。
 野村芳太郎監督は、「映画なんてスタッフに任せておけば出来ちゃうんだよ。キミがつくるわけじゃない」と言った。周囲の人々の個性を尊重すると同時に、コンセンサスをつくりあげるように尽力すべきだ。そうしなければ、満足のいく作品はほぼ期待できない、ということ。山田組と呼ばれる親密なチームがあることで有名ですよね。スタッフの全員を山田洋次監督は知っていて、あだ名で呼んでいるそうです。
 山田洋次は30歳近くになって、ようやく監督に昇進した。ハナ肇を主役とする『馬鹿まるだし』を上映したところ、客が大笑いしているという知らせがあり、山田洋次も映画館に足を運んだ。すると、客がたしかに、予想もしなかったところで、わいわい笑っていた。これによって、山田洋次は松竹のなかで認められた。
観客を惹きつけるには、ユーモアとヒューマニズムが決め手になる。
 「現実が砂漠ならば、おれはオアシスを作るのだ」
 葛飾柴又は2018年に東京で最初の重要文化的景観に指定された。
 私は柴又には少なくとも3回は行っています。帝釈寺にも行きましたし、矢切りの渡しも見ています。
 近くに江戸川があり、寅さんはダンゴ屋に帰る途中、江戸川の土手を歩くのですが、実際には、これはありえないコースです。まあ、映画の見所(みどころ)をつくる場所として必要だったんでしょうね。
 柴又は狭い参道の両側に店が並んでいて、本当に草だんごを売っている店もあります。私も入って食べました。少し離れたところに寅さん映画の資料館があり、なつかしい情景が再現されています。
寅さんの叔父は、森川信、松村達雄そして下條正巳がつとめました。いずれも適役でした。叔母を演じた三崎千恵子は、私もNHKテレビで一緒に出演したことがあります。
 商品先物取引に騙されないようにという啓蒙番組です。九州・福岡で若い弁護士(私のことです)が取り組んでいるというので、東京から声がかかったのでした。1回目は全国生(ナマ)放送で、2回目は、ミニ・コントつきで録画でした。このミニ・コントに三崎千恵子が出ていて、私が弁護士としてコメントしたのです。いい思い出です。
 『男はつらいよ』は、第5作が最終作になる予定でした。ところが、1970年の「望郷扁」が70万人の観客動員だったので、松竹がもうけられると思って続扁がつくられることになったのです。
 渥美清の父親は小さな新聞社の政治記者、母親は代用教員で、裁縫の内職もしていた。
 チャップリンとチャーリーという有名な例を除いて、渥美清と寅さんという、役と俳優がこれほど一体化したことはない。
 『男はつらいよ』は、幾度となく200万人以上の観客動員を達成しました。信じられませんが本当です。映画館は満員、そして爆笑に次ぐ爆笑なんですが、ついしんみり、ホロリともさせられて…。
 『男はつらいよ』には、まさに日本の庶民が描かれている。人を愛し、自由を愛する寅さんの信条が、日本人の心をわしづかみにした。
 『男はつらいよ』は日本人にしか分からない。ガイジンになんか、その良さが分かるはずはない。そんな思い込みを完全にノックアウトしてしまう大作でした。
 毎週日曜日の午後、行きつけの静かな喫茶店で読みふけりました。楽しく充実した、濃密な、至福の時間を与えてもらったことを著者に感謝するばかりです。
(2024年9月刊。9900円)

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