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私のヴァイオリン

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  前橋 汀子 、 出版  早川書房
 高校2年生の夏、17歳でソ連で留学。1961年8月のことです。いやはや勇気がありますよね。ヴァイオリンの修行のため、念願のソ連留学を実現したのでした。日本人が一人も住んでいないレニングラードに行ったのです。横浜を出発して1週間かかってようやくレニングラードに到着したといいます。今ならあっという間に、その日のうちに着きますよね。
 著者がヴァイオリンを始めたのは4歳のとき。すごいですね、こんな幼児のころからヴァイオリンを始めるのですね。自由学園幼児生活団に入ってからのことです。
 ヴァイオリンを「ヴァー子ちゃん」と呼んで、いつも枕元において寝ていたというのですから、やっぱり変わっていますよね。ヴァイオリンの練習をしないのは、ご飯を食べなかったり、歯をみがかなかったりするのと同じこと、そう思っていたとも言います。うひゃあ、す、すごいです・・・。
小学6年生のとき、コンクールに出場して2等に入賞。ところが、母親は優勝しなかったので、ひどく落胆した。著者のヴァイオリン上達に母親は並々ならぬ、涙ぐましい努力をしたようです。
レニングラードでは、4人部屋に入りました。寮の部屋では、誰が何時から何時まで練習するというスケジュールを決めていて、自分の番になったら、人が寝ていても、お構いなしにピアノを弾きはじめる。1日に10時間から12時間、みな死に物狂いで練習する。
レニングラード音楽院では、身体の骨格や筋肉について学ぶ授業もあった。ながく演奏活動を続けていくためには骨や筋肉をどう使うか、その仕組みを熟知しておくことが不可欠だから・・・。
筋肉を鍛えると、演奏をしているときの感覚が明らかに違う。うへーっ、そうなんですか・・・。
ソ連の次はアメリカへわたって勉強を続け、やがて世界にはばたいていきます。そして、今では日本で活動しています。いちど、コンサートに行って聴いてみたいと思いました。プロへの道のすごさの一端をうかがい知ることのできる本でした。
(2017年9月刊。1500円+税)

みすずと雅輔

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  松本 侑子 、 出版  新潮社
 みんなちがって、みんないい。
 金子みすずの詩は、どれも思わずはっとさせる新鮮さがありますよね。
 みすずの弟は古川ロッパの脚本家をしていたということを初めて知りました。その実弟の残した膨大な日記をもとに、姉みすずの幸福と苦悩の日々を描いた伝記小説です。
 初めはずっと事実ばかりを描いていると読んでいましたが、著者はあくまでも小説だと書いていますので、フィクションもあるようです。ただ読んでいるだけでは、どこまでが真実なのか、どこからがフィクションなのか判別できません。それだけよく描けていると思いました。
 それにしても、金子みすずはよく詩を書いたものですね。下関の片田舎から東京の出版社へ次々に投稿していったのです。なんと、4つの雑誌に童謡と詩が5作も一度に載ったのでした。見事なものです。「婦人倶楽部」「婦人画報」「童話」「金の星」です。
 金子みすずは投稿を続け、昭和4年までに512編の童謡を書いた。そのうち90編が雑誌に載り、昭和5年3月に自死した。金子みすずの詩を西條八十が絶賛した。
金子みすずは、死の前日、写真館で写真をとってもらいました。有名な写真です。娘への思いを込めたかったのでしょうか・・・。このころ、金子みすずは夫にうつされた性病のために重病人だったのですが、そのような病気やつれを感じさせません。ふっくらとした少女のような面だちです。
 実弟の日記が2014年に四国で見つかったことも、この本の細かい描写を助けています。金子みすずの生きたころは、自分の願望や欲望を口にする女や行動的な女は、「女のくせに」「おてんば」と叱られ、後ろ指をさされた。遠慮がちで、口数の少ない女だけが、ええ女子(おなご)と褒められる。金子みすずは、そうしたしつけを受けたことも詩に書いている。
   あたしひとりが 叱られた。
   女のくせにって しかられた。
   女の子ってものは、木のぼりしないものなのよ。
   竹馬乗ったら、おてんばで、打ちごまするのは、お馬鹿なの。
 金子みすずの詩を、いちど全部よく読んでみたいと思いました。
 11月に受けたフランス語検定試験(仏検・準一級)の結果が判明しました。幸いなことに今回も合格です。合格基準点72店のところを81点とりました。自己採点では80点でした。1月下旬に口頭試問を受けます。これが難関です。3分前に2問あたえられて、うち1問を選んで、そのテーマにそって3分間のスピーチをします。そのあと、ネイティブの試験官と5分間ほど問答するのです。3分間スピーチって、毎回ほんとに悩みます。最高のボケ防止策です。ボケてなんておれません。
(2017年3月刊。2000円+税)

享徳の乱

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 峰岸 純夫 、 出版  講談社選書メチエ
応仁の乱の前に30年も続いた享徳の乱というのがあったのですね、知りませんでした。とても分かりやすい文章で、なるほどなるほどと読みすすめることができました。
戦国時代は応仁・文明の乱より13年も早く、関東から始まった。応仁・文明の乱は関東の大乱が波及して起きた。
関東の大乱は、享徳3年(1454年)、鎌倉(古河)公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端として内乱が発生し、以後28年にわたって東国が混乱をきわめた事態をいう。
この享徳の乱は、単に関東における古河(こが)公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府・足利義政政権が古河公方の打倒に乗り出した東西戦争である。
南北朝の内乱は57年間続いたが、享徳の乱は28年間も続いた。応仁・文明の11年間よりはるかに長い。源平合戦(治承・寿永の内乱)は5年間でしかない。
一揆というのは、百姓だけでなく、武士であっても、揆(やりかた)を一にするものをいう。
足利成氏が12月27日自邸で上杉憲忠誅殺事件を起こすその11月23日と12月10日に大地震が起きている。また、応仁・文明の乱の直前には大飢饉が発生していた。
1456年には、大きな彗星(ほうき星)が出現して、人々の不安が高まった。ハレー彗星の出現である。
中世の支配構造は職(しき)の体系と呼ばれる重層的なものであった。すなわち、同一の所領について、現地の地頭職、中間の領家職、上部の本家職などが重なって、それぞれの所得分の権利となっていた。つまり、「この所領は、わがもの」といえる主体か何人もいた。
足利成氏は享徳の乱の28年間、粘り強い戦いによって幕府、上杉方と五分に渡りあい、事実上の勝利をもたらした。成氏という人には並々ならぬ器量があった。
やがて太田道灌や北条早雲が舞台に登場してきます。戦国大名の形成過程がたどられています。
戦国大名に成長していった勢力には、その出身別にみると、前代の守護・守護代や国衆といわれる在地勢力があげられる、それらが戦国争乱の過程で上剋下や下剋上といった抗争や地域間の争覇を通じて権力を拡大して、一国ないし半国以上の領域を掌握して戦国大名となっていく。
まことに世の中には知らないことがたくさんあるものです。
(2017年10月刊。1550円+税)

世界の辺境とハードボイルド室町時代

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 高野秀行・清水克行 、 出版  集英社インターナショナル
 現代ソマリランドと日本の室町時代に共通点が多いだなんて、とんでもないことを言いあう二人のかけあい「漫才」がすばらしい本です。
 アフリカはソマリランドです。あの精強なアメリカ軍だって敬遠している利権の乏しいソマリランドに6回も通っているという著者の一人の話は奇想天外極まりありません。
 そして、それを受けて日本の室町時代も似たようなところがあると学者が応じます。
 何がそんなに似ているというのか・・・。 表向きは西洋式の近代的な法律があるけれど、実際には伝統的、土着的な法や掟が生きている。たとえば、盗みの現行犯は殺してもいい。日本の中世はそうだった。ソマリアでも同じ。なぜ、人を殺してはいけないのか・・・。中世の日本人なら人を殺したら、自分や家族も同じ目に遭うからだとはっきり答えるだろう。
 ソマリ社会は三重構造になっている。ソマリの掟があり、イスラムの法廷があり、国の裁判所がある。
 大都会は危険がいっぱいだけど、辺境の村は安全。ソマリ社会では、自分が招いたわけではない客人であっても徹底して守る。ゲストが家に来たら、その家のルールを曲げてでもゲストに合わせる。
 外国人が狙われるのは、外国人は政府側の客で、客がやられたら政府にとって最大の屈辱になるから狙うのだ。
 ソマリの掟では、女性を襲ってはいけない。女性を意図的に殺すのはよくない。神罰が下るし、男として恥だから。
 ピストルは、どこの軍隊でも将校以上しか持てない。兵隊と下士官は自動小銃をもって戦うか、将校は基本的に戦わない。ピストルと自動小銃では、ピストルは役に立たない。しかし、価値としてはピストルのほうが断然上。
 イスラム教徒は、自分たちはヨーロッパ人より上だって意識がある。欧米人は大便したとき、紙で尻を拭くような野蛮人だと呼んでいる。
 ソマリ人は独裁権力みたいなものをもっていない。権威があまり通用しない平等社会だ。氏族の長だからといって無条件に尊敬されているわけではない。
 タイやミャンマーやインドでは、新米よりも古米のほうが値段が高い。新米は水っぽいとして敬遠される。古米は水を吸って3割増しになるので喜ばれる。
 ソマリランドを走っている自動車の99%は日本の中古車。それも、日本でつくった日本車の中古だけ。クルマの持ち主がかわった瞬間に価格が6割に下落するなんていう国は日本しかない。2、3回転売されたクルマは、ほぼゼロになる。日本人は丁寧にクルマに乗るから質のいい中古車がタダ同然で手に入る。だから中古車を輸出するビジネスも日本でしか成り立たない。
 アフリカを知ることによって日本という国を歴史的にも認識できるというわけです。面白いです。
(2015年9月刊。1600円+税)

ベトナム戦争に抗した人々

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者  油井 大三郎 、 出版  山川出版社
 私の大学生のころ、つまり今から50年前はアメリカがベトナムに勝手に入り込んでジャングルの内外でベトナムの人々と戦争していました。有名なソンミ村の虐殺事件はそのなかで発生した事件の一つです。氷山の一角だと思います。そのころは韓国軍もアメリカ軍と同じようにベトナムに出兵していて、残虐さではひけをとらなかったようです。
 アメリカの青年がベトナムで5万5千人も亡くなりました。残念なことです。本人たちも無念だったと思います。しかし、ベトナム人の死傷者は100万人を軽くこえています。
 アメリカがベトナムで戦争するのに、いまから考えても、何の大義もありませんでした。「ドミノ理論」があっただけです。ベトナムが「赤」化したら、周辺の国までドミノ倒しで赤く染まるから、それを防ぐというのです。そんなこと放っておいて下さい。アメリカに口出しできる権限は何もありません。
 このブックレットは、アメリカでベトナム反戦運動がどうやって盛り上がっていったのかを歴史的にたどり、改めて考え直しています。
 アメリカでは、ベトナム反戦運動は初めのうちは少数派として白眼視されていた。ところが、すぐに終わるはずの戦争が、北ベトナムや解放戦線(アメリカは「ベトコン」と呼んでいました。日本のマスコミも同じです)の粘り強い抵抗の影響もあって世論を大きく変え、ときの大統領に和平を決断させ、ついには撤退するに至った。
 アメリカの反戦運動のなかにもさまざまなグループがあり、相互に激しい対立もあったが、最終的には、なんとか「大同団結」できた。
 徴兵を拒否したり、星条旗を燃やして抗議したり、街頭や集会で警察と激しく衝突したため、愛国心のあついアメリカ人は反戦運動に対して強く反発した。主要メディアも同じ。ところが、次第にベトナム反戦の声が世論の多数を占めるに至った。なぜか・・・。
一般のアメリカ人は当初はベトナム戦争の展開に関心をもっていなかった。
ベトナム反戦運動が盛りあがったのは、1965年2月に恒常的な北爆が始まってからのこと。1960年に入ると、旧左翼の運動が復活、新左翼の運動も始まった。反戦団体のなかには1950年代の赤狩りの後遺症として、反共主義を求めるものもあり、また「非暴力直接行動」を主張する団体もあった。
反戦団体のラディカル派は、アメリカ軍の即時徴兵を主張したが、リベラル派は、北ベトナム軍をふくむ全外国軍隊の撤退に固執していた。
1965年11月、クエーカー教徒がペンタゴン前で抗議の焼身自殺を敢行した。
1967年4月、キング牧師がベトナム戦争反対を表明した。これに対して、全米黒人地位向上協会は、公然とキング牧師を非難した。
4月の反戦集会には、全米で30万人が参加し、セントラルパークは10~20万人の人波で埋めつくされた。しかし、アメリカの労組と労働者はベトナム戦争を支持していた。
マクナマラ国防長官は1967年5月に、ジョンソン大統領に対して方針転換を進言した。のちに「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれる文書がつくられた。
このころ、アメリカ軍は中国南部での核兵器の使用も検討していた。そして、北爆の拡大を強く主張した。
1968年1月30日、南ベトナム全土でテト構成が始まった。サイゴンのアメリカ大使館に解放戦線の兵士20人が突入し、6時間にわたって占拠を続けた。この戦闘シーンがアメリカのテレビで中継され、アメリカ国民の衝撃を与えた。このテト攻勢は「勝利は同迫」と説明してきたジョンソン政権の信頼を大きく損った。
このころ、政府側は、FBIによる潜入(介入)工作が強めていた。新左翼の党派同士の対立をあおったのです。
6月にロバート・ケネディが暗殺された。ジョンソン大統領は10月末に北爆の全面停止を発表した。
1969年10月の集会には全米で200万人が参加したが、多くが白人のミドルクラスで、初めての集会参加者も多かった。
非暴力直接行動は、違法は法律や政策に対して座り込みなどの非暴力的手段で頑強に抵抗するものであった。それゆえ、政府による反戦運動イコール暴力との非難をはね返し、無関心な国民の自覚を粘り強く求めていく効果をもった。
アメリカ内のリベラル派は運動の展開のなかで反共主義を克服し、ベトナムの民族自決を支持するように変化した意義は大きい。リベラル派はマスコミにも議会にも大きな影響力をもっていた。
ベトナム反戦運動の成果から改めて学ぶところは大きい、このように思い知らされた100頁あまりのブックレットでした。
(2017年8月刊。729円+税)

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