法律相談センター検索 弁護士検索

海のホーチミン・ルート

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者  グエン・ゴック 、 出版  富士国際旅行社
 私にとってベトナムとは、青春時代のベトナム反戦運動そのものです。アメリカが遠くアジアのジャングルへ50万人もの兵士を送り込んで侵略戦争をすすめたあげく、みじめな姿で敗退していったことは今も記憶に強く残っています。
 国の独立を守るために多くの前途有望なベトナムの青年たちが志半ばに倒れてしまいました。同じことは、亡くなったアメリカ兵5万5千人についても言えることです。まったくの無駄死にです。この戦争でもうかったのはアメリカの軍事産業のみ。
 この本は、ベトナム戦争をたたかい抜くために必要不可欠だった山のなかのホーチミン・ルートのほかに海上輸送路もあったことを明らかにしています。漁船に偽装して、北から南へ武器・弾薬そして医薬品などを運んで、南でたたかう解放戦線の兵士に届けていたのでした。
 山のなかを通るホーチミン・ルートは、車道だけで2万キロ。燃料を運ぶパイプラインは全長1400キロ。アメリカ軍は、このホーチミン・ルートを壊滅すべく、空からB52をふくむ爆撃機で、400万トンの爆弾を投下した。これは、アメリカが第二次世界大戦でつかった全砲爆弾量とほとんど同量。大量の枯葉剤もまき散らした。しかし、ホーチミン・ルートは最後まで健在だった。
 そして、海のホーチミン・ルートも開放されていた。陸のホーチミン・ルートは3カ月から長いときには1年間かかった。しかし、海のルートを使うと、1週間から10日間で南部の目的地に到達できた。
 北部のトンキン湾を出て、公海上を南下し、南部の秘密の船着き場の所在地と同じ経度に達したら、一気に方角を西に変えて、ベトナムの領海に直進する。夜の闇のなかで荷物をおろし、船着き場の守備隊が荷物を秘密の武器庫に運び込む。そして、夜明け前にベトナム領海を脱して公海に入る。
 山のホーチミン・ルートは山のなかで隠れる場所が至るところにある。これに対して、海のルートは隠れる場所のない広大な海面である。しかも、陸上よりも圧倒的な力の差のある海軍と対決することになる。
 メコンデルタには、巨大な秘密の船着き場が網の目のようにつくり出されていた。
  この本は、南シナ海の風波を乗りこえて北から南の戦場へ命がけで武器・弾薬を運んでいた北ベトナムの125海軍旅団の戦士たちとそれを支えた家族や民衆に取材して出来あがっています。苛烈な戦争を生き抜いた人々が今も健在なのです。もちろん多くの人が犠牲になっています。
ベトナム戦争はアメリカの愚かさを全世界に証明しましたが、今また、トランプ大統領は力の政策をごりおしですすめていて、本当に怖いです。まったく歴史の教訓から学んでいません。それは、わが日本のアベ首相も同じことで、残念なのですが...。
(2017年9月刊。1500円+税)

日本軍兵士

カテゴリー:日本史

著者  吉田 裕 、 出版  中公新書
 日本軍兵士の多くは戦場で病死・餓死してしまいました。なぜ、病死がそれほど多かったのが、本書を読んで理由が納得できました。要するに栄養失調から抵抗力を失っていたので、病気にかかると治ることができなかったのです。これは、日本軍が上層部は栄養あるものを食べていても、末端兵士の食糧確保を真剣に考えることがなかったという日本軍の体質から来ている本質的な弱点です。
 中国大陸で、日本軍は「高度分散配置」態勢をとっていた。歩兵1個大隊(800人)で、2500平方キロの地域を警備していた。「高度分散配置」の下で戦争が長期化していったことから、兵士たちの戦意は低下する一方だった。ある連隊は、一つの作戦のあいだに38人の自殺者を出した。
日本軍の戦地医療のなかで、歯科治療はもっとも遅れていた。戦場では、歯磨きする余裕がなかったので、虫歯をもつ将兵が増大した。軍隊の兵士の7~8割に虫歯や歯槽膿漏があった。
 アジア・太平洋戦争の犠牲者は、アメリカ軍が10万人以下、ソ連軍は2万人強、イギリス軍は3万人、オランダ軍が2万8千人。これに対して、日本軍は230万人。その大部分はサイパン島陥落後と思われるが、日本政府は年次別の戦没者数を公表していない。アメリカは年次別どころが、月別年別の戦死者数まで公表している。
 日本軍の戦没者のうち、餓死者は1400万人、全体の61%に達する。これほど多くの餓死者を出した原因は、日本軍が制海、制空権を喪失したことにより、日本軍の補経路が寸断されて、深刻な食糧不足が発生したから。昭和天皇も、この実情は認識していて、「将兵を飢餓に陥らしむるが如きことは、自分としてもとうてい耐えられない。補給につき、遺憾なからしむる如く命ずべし」と悟っていた。
北ビルマの戦線では、キニーネも効かないマラリアが普及した。それは、日本軍の兵士たちの栄養が低下していたため、栄養失調者のマラリアは治らないということだった。
戦線で長期にわたって食糧不足と身心の過労のため、高度の栄養障害を起こしていた。これを戦争栄養失調症と呼んでいた。そのような兵士は、体内の調節機能が変調をきたし、食欲機能が失われて、摂食障害を起こしていた。兵士たちは拒食症になっていた。食べたものを吐き、さらに下してしまう。壮健で、なければならない戦場で、身体が生きることを拒否していた。
 なるほど、そういうことだったのですね、やっと事情がのみこめました。
硫黄島の日本軍守備隊の死者は、敵弾で戦死したのは3割。残る7割のうち、その6割は自殺、1割は事故死、1割は他殺(捕虜になるのは許さない)。
酒癖が悪く、料亭を遊び歩くような不品行の将隊ほど、批判を恐れて兵士に慰安所に行くことをすすめ、さらには強姦をけしかける傾向があった。
 このような野蛮な体質をもつ帝国軍の依続を今の自衛隊の幹部のなかにはありがたく継承しようという者が少なくないようで残念です。
 広く読まれるべき新書だと思いました。ぜひ、あなたもお読みください。
(2017年12月刊。820円+税)

数をかぞえるクマ、サーフィンするヤギ

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  ベリンダ・レシオ 、 出版  NHK出版
 とても面白い本です。人間だけが遊ぶ動物だ、なんて思っていましたが、今ではそんなことはないと思い直しています。
 人間だけが悲しいとか感情があり、仲間の死を悼むことができるというのも間違いなのです。ゾウが仲間の死を悼んで、なかなかその場を離れようとしないし、骨になっても戻ってくるというのはテレビの映像で知っていました。
 この本では、ヤギだって仲良しが死んだら、その死骸のそばから数日間は離れない。ゴリラもチンパンジーも静かに仲間の死骸のまわりに集まって、順番ににおいをかいだり、そっと触ったりする。それだけではない。カササギもカラスも友の死に「お葬式」をする。くちばしでそっと死骸をつついてみて、そのあと草を加えて戻ってきて死骸の横に置く。カラスも同じように草や小枝を順番に死骸にかぶせていく。
 ネズミは思いやりを行動で示す。仲間のネズミが苦しんでいるのを見たネズミは、目の前に好きなチョコレートがあっても、ひとまず仲間のネズミを助け出そうとする。これは思いやりの心があることを示すものとしか解せない。
 ネズミは、くすぐられるのが大好き。くすぐられると甲高い声でチュウチュウ鳴くが、これは喜んで笑っているということ。
 魚だって遊ぶ。水槽の水をこっそり飲みにくる猫と「待ちぶせごっこ」をする。猫が水槽のそばにくるまで魚は隠れていて、それから、いきなり水面まではねあがって、水を飲もうと思ってる猫を驚かせる。魚と猫は、このやりとりを何回も繰り返し、どちらも傷つくことはなかった。つまり、遊びとして楽しんでいた。
 サルは自分が公平に扱われないことに気づくと腹を立てる。
 イヌ科の習慣では、公平に遊ばない犬は、群れから追い出されることもある。公平に遊ぶ犬は群れの仲間と信頼の絆を深める。
 熊も大いに遊ぶ。そして、クマは数をかぞえることができる。いったいぜんたい、人間は万物の霊長だなんて、誰が言ったのでしょうか・・・。人間なんて、核のボタンを頭上にぶら下げていつ絶滅するかもわからないのに、ノー天気に自分だけ特別な存在だと空威張りしているだけの存在でしかないのですよね・・・。あなたも、ぜひご一読ください。
(2017年12月刊。1600円+税)

銀河鉄道の父

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者  門井 慶喜 、 出版  講談社
 面白いです。植木賞を受賞したというのは当然だと思いました。宮沢賢治の父親が賢治とどのように接していたのか、ごくごく自然に受けとめることができました。その筆力たるや、大したものです。
 賢治の父親は質屋を営んでいる。天災は、もうかる。それが質屋の法則だった。もちろん、店や家族が直接被害を受けない限りである。
賢治の父親は、営業成績が優秀で、勉強が好きだったので中学校(今の高校)へ進学を希望したところ、父・喜助は質屋に学問は必要ないといって、断念させられた。
 賢治の父親は、夏期講習会を主宰して、知識人や僧侶を招いて知的合宿を開催してきた。そして、賢治には中学への進学を許した。質屋も、学問がなければつぶれると考えたのだ。
 賢治は森岡中学校を受験し、合格した。そして、賢治はさらに盛岡高等農林学校に進学した。それも主席の合格だった。賢治の妹トシも、高等女学校を首席で卒業し、東京の日本女子大学校に進学した。別の本で、トシが高女9のとき教師とのあいだのスキャンダルで騒がれていたことを読みましたが、このあたりも書き込まれていたらと残念に思いました。
 それにしても、この本では父親の目から見た息子・賢治の生活ぶりが淡々と描かれていて、父と子というのは、お互いに分かりあいにくい存在なのだと、つくづく思ったことでした。いえ、賢治の父は、賢治のために身を粉にしているのです。
 宮沢賢治を知るためには、妹トシとの関わりだけでなく、父親との関わりも見落とせないと思ったことでした。もう少し賢治の内面深くに立ち入ってほしいなと思ったところもありますが、父親という目新しい視点があって最後まで面白く読み通しました。
(2018年1月刊。1600円+税)

明治の男子は星の数ほど夢を見た

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  和多利 月子 、 出版  産業社
 「男はつらいよ」の主人公は車寅次郎ですが、本書の主人公は同じ寅次郎でも山田寅次郎です。寅年に生まれた二男だったことから命名されました。
 トルコに18年間も住み、オスマン帝国のスルタン(皇帝)と芸術面で交流があったとのことです。さらには、幸田露伴の小説のモデルにもなっているといいます。『書生商人』という小説です。沈没した外国船への義捐(ぎえん)金をもって外国へ行くというストーリーですが、それは山田寅次郎がトルコへ和歌山沖で沈没したトルコの軍艦に乗っていて亡くなった人々の遺族へ義捐金をもっていったことにもとづいているのです。
そして、山田寅次郎は伊藤忠太という東大の建築史教授とも交友がありました。さらに晩年は茶道の家元として活躍したのです。赤穂浪士の討入りが12月14日に決まったのは、この日に茶会があることを師匠が浪士の一人・大高源吾に教えたからですが、この茶道師匠と縁のあるのが山田寅次郎の身内の祖先でした。
 オスマン帝国の軍艦エルチュールル号が和歌山沖で遭難したのは、1890年(明治23年)、山田寅次郎が24歳のとき。生存者65人。死者80人という大惨事でした。山田寅次郎たちは義捐金を集めて、遺体・造物の引き揚げに取り組みました。2000万円ほど要したようです。
 著者は山田寅次郎の孫娘にあたります。調べはじめると意外にもたくさんの資料が出てきたようです。豊富な写真とともに明治の男子が夢をもって海外へ雄飛していった状況が明らかにされます。
 それにしても、男子たるもの外国語を三つはモノにせよとのこと。私は、フランス語ひとつだけでも四苦八苦しています。
日本とトルコの交流をはじめた開祖にあたる山田寅次郎なる偉人を知ることができました。たくさんあるさし絵も明治の雰囲気がよく出ています。
(2017年10月刊。2800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.