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九月、東京の路上で

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 加藤 直樹 、 出版 ころから
 1923年9月1日、午前11時58分、関東大地震が発生した。昼食どきだったので、火災が発生し、広がった。同時多発的で、しかも強風にあおられ、東京市の4割以上、横浜市でも8割が焼失した。倒壊・焼失家屋は29万3千棟、死者・行方不明者は10万5千人以上。被害総額は当時の国家予算の3.4倍。
 このとき、「朝鮮人暴動」の流言が広がり、実際に朝鮮人へ危害を加えることになった。
9月2日の未明、品川警察署は数千の群衆に取り囲まれ、「朝鮮人を殺せ」と人々は叫んでいた。
 当時、日本に仕事を求めて多くの朝鮮人がやってきていて、女工や建設労働者として働いていた。少なくとも8万人以上とみられていた。彼らの半数近くは日本語が話せなかった。
 自警団は、「パピプペポと言ってみろ」「15円50銭と言ってみろ」と、朝鮮人には発音が難しい言葉を言わせて判別していた。
 内務省の警保局長は2日、「朝鮮人が各地で放火しているので、厳しく取り締まるよう」という趣旨の通牒を発した。「流言」が事実として公認されてしまった。
 世田谷区千歳烏山(からすやま)にある烏山神社の境内に13本の椎の木が植えられている。これは「殺された朝鮮人13人の霊をとむらって地元の人が植えたもの」と語り伝えられているが、よくよく真相を調べてみると、実は、朝鮮人を虐殺した地元の自警団員12人が殺人罪で起訴されたことから、郷土愛として起訴された被告への「同情」として植樹されたものだった。朝鮮人虐殺は当時の状況では仕方のないことだったとされたというわけです。
 多くの朝鮮人・中国人が虐殺されたが、一人の軍人も裁かれることはなかった。
 「このたびのことは、天災と思ってあきらめるように」と役人から申し渡されたという。
亀戸警察(江東区)では南葛労働組合の幹部を逮捕・連行してきて、虐殺した。平沢計七や川合義虎など10人以上の人々が殺害されたことが判明している。
 埼玉県内でも200人以上の朝鮮人が虐殺された。その下手人たちは起訴されたが、執行猶予が95人、実刑になったのは21人、無罪2人だった。
 デマを信じて行動した人々は、それこそ普段は「善良な市民」だったのでしょう。それが、殺人鬼のように「殺せ、殺せ」と叫んで、実際行動に移ったわけです。
 先日の兵庫県知事選挙で斉藤知事を「正義の味方」と誤信して、駅前に出かけて拍手し手を振っていた人々と同じ現象ではないでしょうか。心底から恐れおののきます。
 そんな状況も考えたら、関東大震災のときの朝鮮人大虐殺は決して過去のことではないことを今しっかりと確認する必要があると思います。それにしても、デマなのか、本当(真実)なのか、簡単には分からないことが多くなったというのも事実ですね…。
 福岡県弁護士会が昨年12月14日に著者を招いて開いた講演会の会場で購入した本です。
(2024年3月刊。1980円)

世界を支配するアリの生存戦略

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 砂村 栄力 、 出版 文春新書
 外来アリのすごさは、普通のアリにはない社会性を進化させることによって得られた底なしの繁殖力にある。外来アリは、スーパーコロニーという無数の巣が相互に連携しあう巨大なコロニーをつくり、超効率的な社会活動を行う。
 ヒアリはアメリカでも撲滅されず、被害や対策のため年間50~60億ドルという巨額のコストが生じている。日本でも18都道府県で111もの確認事例が出ている。
 世界の侵略的外来種ワースト100の中にアリ類が5種も含まれている。アルゼンチンアリ、ヒアリ、コカミアリ、アシナガキアリ、ツヤオオズアリ。
 アリは本体的に毒針をもっている。毒針を退化させたアリは、ギ酸という毒を腹部末端からスプレーのように噴射する能力を獲得している。
 シロアリはアリの仲間ではなく、ゴキブリの一グループ。シロアリは、真社会性を獲得したゴキブリ。
世界でもっとも分布を拡大していて、温帯域の経済国を席捲しているのは、アルゼンチンアリ。アルゼンチンアリに対して影響力の強い天敵は今日まで特定されていない。
 アルゼンチンアリの巣には、複数の女王がいる。女王は1日に数十個ほどの卵を産む。
 日本には、4種類のスーパーコロニーが存在する。大陸をこえ、世界を席捲するスーパーコロニーをメガコロニーと呼ぶ。スーパーコロニー内では年に1度、巣内の女王の90%が働きアリに殺される。女王処刑は冬に行われ、寒空の下、働きアリが巣の外へ女王を引きずり出し、首に咬みついて殺す。働きアリは、血縁度の低い女王を選んで殺しているらしい。これによって、スーパーコロニー内の血縁度が調整されている。いやあ知りませんでした。女王が処刑されるなんて…。
 アメリカでは、ゴキブリよりもアリのほうがもっとも問題となる家屋害虫。それで、害虫対策用品の名前にもアリのほうが先に来ている。
 侵略的外来アリは、アブラムシの甘露のように糖分に富んだ液体状の餌を非常に好む性質がある。それを、アリの駆除対策に活用されている。
 アリはすごい生物だけれど、外来種の繁殖を許すわけにはいかないということもよく分かる新書です。
(2024年8月刊。1050円+税)

高倉健の図書係

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 谷 充代 、 出版 角川新書
 高倉健は無数の読書家だったことを初めて知りました。
 山本周五郎。「周五郎さんの言葉に励まされ、勇気をもらっていた」
時代小説を中心に、人生をひたむきに生きる人間の哀歓を描き出した山本周五郎は、高倉健がひときわ好きな作家だった。真田広之にも、「この本を読め」と言って渡している。
 三浦綾子。「いろいろな人間が出てきて、あえぎながらも乗り越えていく」
 「時間があったら本(活字)を読め。活字を読まないと顔が成長しない。顔を見れば、そいつが活字を読んでいるかどうか分かる」(内田吐夢監督)
 読書家の高倉健から、著者は「図書係」の役目をまかされた。1980年代後半のころ。
高倉健は、慎重に出演作品を選ぶことで有名だった。
 高倉健は、小学校に上がってすぐ肺浸潤に冒され、兄妹から離されて親戚のおじさんの家で闘病生活を過ごした。母親は毎日、ウナギを買ってきて、黒焼きにして食べさせ、肝まで飲ませた。そのおかげで健康を回復したものの、毎日のウナギは辛かった。それで高倉健にとって、川魚類は一番苦手な食べ物になった。
 高倉健は比叡山の滝に打たれに行ったことがある。滝行は、最初に右腕を出して流れ落ちる滝に当て、ついで左腕と、順に身体のあちこちに水をかけていく。そうしないと心臓麻痺を起こしてしまう。準備を終えると、滝に打たれながら合唱し、一心にお経を唱える。
 高倉健と取材旅行に行くと、「いつも一人で過ごす休暇と同じにしたい。散歩も自由時間も食事のメニューも」、「コーヒーは砂糖なし、ミルクたっぷりでお願いします」。「旅先に持ってくるのは、本と好きな映画のビデオだけ」、「好きな本を読んでぐっと来るものがあれば、その旅は最高だよ」。なーるほど、ですね。超有名人でしたから、ときどきは一人になりたかったのでしょうね。真似できませんが…。
 高倉健が亡くなって、もう10年がたつのですよね。すごい役者でした。『幸せの黄色いハンカチ』は最高でしたね。いい本でした。
(2024年11月刊。940円+税)

蔦屋重三郎

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松木 寛 、 出版 講談社学術文庫
 江戸で出版業が社会的にも重みを増し、企業として確立するようになったのは17世紀半ばの明暦のころ。江戸の書商たちは、書物問屋仲間と、地本(じほん)問屋仲間という仲間組織を結成した。
 書物問屋というのは、堅い内容の数の書籍を商い、仏教関係書、歴史書、医学書などを扱った。地本問屋は、草双子や絵双紙などの地本(読み物ですね)を扱った。
 蔦屋(つたや)重三郎は、18世紀後半の天明・寛政期に活躍した有力な地本問屋だった。江戸芸術界のそうそうたる立保者たちを援助し、彼らに発表の場を与えたプロデューサーといえる。太田南畝、山東京伝、恋川春町、喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九、滝沢馬琴と並べ立てたら、びっくりしてしまいます。
 天明期には狂歌が大流行した。それは京都のインテリ貴族階級に始まったが、やがて庶民のあいだにも広まり、大坂そして江戸に波及して大流行した。狂歌の集まりが盛んだったようです。
そして、天明から安永、文化になると黄表紙が全盛期を迎える。山東京伝などです。1万部も売れていたそうですから、その繁盛ぶりに驚かされます。そして、政治を諷刺する黄表紙が続々発刊されるのです。
 ところが、天明の田沼時代から、松平定信に変わると、寛政の改革が始まり、暗転します。ついに、山東京伝は手鎖50日、蔦屋重三郎も財産半分没収という処分を受けました。このあと、浮世絵に重点が移ります。蔦屋の後半生は歌麿抜きでは語れない。
 そして、蔦屋は東洲斎写楽を一気に売り出した。寛政6年5月のこと。大首絵30種を同時に出版。しかも、大判雲母摺(きらずり)。この大首絵には圧倒的な迫力がある。
 ところが、著者は第3期になると、まったく投げやりの、魂の抜けた形ばかりになる。第4期は洞落してしまった作品ばかり。そして、ついに写楽は消えてしまったのでした。
 第3期が駄作だというのは、ある原型があって、それをコピーしたようなものだからだというのです。そして、著者は写楽が歌舞伎の実際を見ないで描いたのではないかとしています。
 さらに、自分の替え玉をつかったともしているのです。いやあ、まいりました。写楽の絵をじっくり見たことのない者として、第3期、第4期の作品なるものが駄作だといわれても…。まるで分かりません。
 写楽の正体は八丁堀に住む、蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛だというのが今のところの最有力説です。蔦屋重三郎は48歳のとき、脚気で若くして亡くなりました。
 NHKの大河ドラマの主人公になっていますよね…。評判はどうなんでしょうか。
 
(2024年10月刊。1210円)

ヒトラーとスターリン

カテゴリー:ドイツ・ロシア

(霧山昴)
著者 ローレンス・リース 、 出版 みすず書房
 ヒトラーの父親は税関検査官、スターリンの父親は靴職人。どちらも金持ちではなく、酒を飲んでは息子を殴る父親という共通項があった。ただし、当時は多くの子どもが同じようにして育てられていた。
ヒトラーは自分にとって代わる恐れのある、中央集権化した組織は、あらゆる手段を用いてつぶしていった。たとえば、ドイツの内閣を骨抜きにし、1938年以降、閣議は開かれなかった。
ナチ党員は500万人で、200万人のソ連共産党員ほど特権的ではなかった。スターリンは、共産党をエリート組織とみていた。
ヒトラーは聞く耳をもたず、誰にもさえぎられることなく、1時間40分も話し続けた。スターリンは、相手に話をさせ、熱心に話を聞き、相手を観察した。
 スターリンは、あらゆる人物に疑念をもって対応した。スターリンにとって最大の問題は、誰が自分を裏切ろうとしているかということだった。
 ヒトラーは、スターリンほど強い警戒心を持っていなかった。自分を裏切る行為が露見しないかぎり、身近な人々を信頼する傾向があった。そうでなければ、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件も起きなかっただろう。ところが、スターリンについては、暗殺企画はひとつも記録に残っていない。
ヒトラーもスターリンも、基本的にひとりぼっちだった。二人とも、心を許せる親密なパートナーを持っていなかった。
 ヒトラーは、その政治家人生において一度も事実に頓着したことはなく、ひたすらソ連憎しという感情だけを手がかりに世界を理解していた。
スターリンは、ヒトラーが首相に就任する直前の1932年7月、ドイツ共産党に対して、ナチ党よりもドイツ国内のほかの社会主義者を敵と見なせと命じていた。これが、いわゆる「社民主要打撃論」ですね。
スターリンは、いつでも自分を笑い飛ばすことができた。ヒトラーは絶対に、そんなことはしなかった。
 ポーランドの分割について、ヒトラーとスターリンは1939年秋に合意した。二人とも、ポーランド人を激しく嫌っていた。ポーランドを分割して占領・支配したドイツとソ連は、どちらも集団強制移住策をとった。
 ヒトラーのナチ・ドイツは強制収容所で「カポ」というドイツ人受刑者を囚人監視役としていた。同じように、スターリンのソ連は「ウルカ」という犯罪者集団を収容所で活用した。
 スターリンは、主要な文書に目を通し、承認を支えた。ヒトラーは重要な書類にもサインしていないし、する必要がなかった。
 スターリンは軍の指導者を目の敵にした。将校は14万5000人のうち2割以上の3万3000人が階級を剥奪され、うち7000人が殺害された。高位司令官の8割、150人が排除された。これがソ連軍を弱体化させた。
 スターリンが無条件の忠誠を評価して最後まで重用したヴォロシーロフは無能な将軍だった。この男なら、スターリンは「第二のナポレオン」になる心配をする必要がなかった。
 ヒトラーは、スターリンと違って、恐れることなく、才能ある人材を登用していた。ナチのイデオロギーにいかに傾倒しているかよりも、軍人としての能力のほうを重視していた。
ドイツがソ連領内に侵攻するバルバロッサ作戦の意図は分からないことだらけだった。
 ヒトラーはソ連の兵力をつかまないまま、ソ連領内に侵攻していった。大国ロシアは、豚の膀胱(ぼうこう)のようなもの。ちくりと刺せば破裂する。この程度の甘い認識で侵攻したのですね…。
 スターリンはドイツが侵攻してくるという重大情報を信じなかった。疑うことが身に染みついていたせいで、データが明快であればあるほど、うさん臭く思えたのだろう。
 スターリンはドイツとの国境線あたりに即座に反撃するための部隊を置いていた。これがドイツ軍にたちまち制圧されたことから膨大なソ連兵が捕虜となり、死に至らしめられたのです。まことにスターリンの責任は重大です。
 ヒトラーはソ連領内から略奪し、ソ連兵の捕虜は餓死させる方針だった。
スターリンを囲む野心的な側近たちは、スターリンの聞きたいことだけを聞かせたかった。ヒトラーの将軍たちも、ヒトラーの願望に調子を合わせていた。二人とも、自分をあざむいて希望を思い描いていれば、いずれそれが実現すると信じていた。
1941年の秋は、ヒトラーにとってもスターリンにとっても大きな転換期だった。
 スターリンにとって、1941年10月にモスクワにとどまると決意したときが運命の瞬間だった。ドイツ軍がモスクワに迫ったとき、赤軍が猛反撃を開始した。ドイツ軍は冬将軍の前に退却を開始した。
 このとき、日本はアメリカの真珠湾を攻撃して、日米開戦となったのでした。つまり、ドイツ軍はモスクワ占領どころか、退却必至の状況に陥っていたとき、日本軍は太平洋戦争に突入したわけです。先見の明のないこと、おびただしい限りです。
 610頁もの大作です。一泊ドッグで一心に読みふけりました。
(2024年8月刊。5500円+税)

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