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裁判官はなぜ葬られたか

カテゴリー:司法

(霧山昴)

著者 岡口 基一 、 出版 講談社

 昨年(2024年)4月3日、著者は国会の弾劾裁判所によって裁判官から罷免された。著者は、裁判官でなくなっただけでなく、法曹資格までも失った。

私は著者のフェイスブックを昔も今も愛読しています。問題となったFBには、やや表現に穏当さに欠けるのではないかという印象をもっていますが、それでも表現の自由、裁判官にも市民的自由を保障するため、今回の罷免判決は明らかに間違っていると考えています。間違いというより、許されない判決だというべきものです。

 ところが、弁護士会のなかにも罷免判決を正当だと考える弁護士も少なくなくいた(いる)ため、日弁連では罷免反対の会長声明を出すことが出来ませんでした。

 著者の主張は、こうです。

 一般市民の立場でSNS等をしたにすぎない裁判官が、かつては裁判官の「市民的自由」を何よりも重視してきた弾劾裁判所において罷免された。結局、裁判官の市民活動が強く制限されていることが明らかになった。こんなことでは、日本の民主主義は上辺だけの見かけ倒しのものになってしまう。

著者に対する弾劾裁判は最高裁が訴追申立てをして始まったものではない。国民の訴追申立てにもとづいて、国会議員からなる訴追委員会が訴追を決めたもの。

 最高裁は、裁判官について、世俗から隔離して雲上人にしておいたほうが国民の信頼を得やすいと考えている。その結果、裁判官は世間から隔離された存在となっている。居酒屋で同僚・部下と飲むことはあっても、裁判官と分かるような言動は慎んでいる。

 最高裁の元長官が右翼的な政治活動に挺身しているというのには、石田和外三好達がいる。

 裁判官村のルール(掟)は、

 ① 前例に従うこと

 ② 一般社会とは極力かかわらないこと

 ③ 「先輩」の裁判官を不快にさせないこと

というもの。

 著者は、最高裁との情報戦で完敗した。林道晴・東京高裁長官(現・最高裁判事)は著者に対して、SNSを止めるように命令した。裁判官には表現の自由なんてないというわけである。

 最高裁には、マスコミという強力な援軍がいる。著者について、毎日新聞も読売新聞も著者の弁明を記事にしなかった。

大竹昭彦・仙台地裁所長は著者に対して、こう言った。

 「きみが岡口か。あんな戒告決定を受けて、よくまあぬけぬけと裁判官、続けてられるね」

 上から目線の非難そのものです。

 弾劾裁判所は、2021年7月29日、著者に対して、職務停止命令を発令した。そして、自宅待機が命じられた。それでも給与は支給された。ちなみに、罷免判決によって退職金は支給されなかった。

当時は現職の裁判だった竹内浩史判事が、唯一、弁護側証人として証言した。かつては裁判官のなかにも青法協の会員がいましたし、懇話会やネットワークのメンバーもいましたが、今では「絶滅」してしまいました。本当に残念です。

罷免判決は、前半の事実認定部分では弁護人側の主張がことごとく認められ、著者は「完勝」と評価しています。

 ところが、後半の法的判断のところで一変(一転)して、著者を強く批判する言葉のオンパレードとなった。たとえば、著者がブログで引用したところ、それを著者のなりすましアカウントで引用投稿され、それを見た遺族が著者の投稿と誤解した。これは不幸な誤解ですが、今や「なりすまし」やフェイクニュースが横行していますので、その真偽を見抜くのは、とても困難です。

 罷免判決は、「東京高裁と東京地裁がそう言っている」ことを理由としている。ところが、罷免判決は前半部分の事実認定において、この事実認定を完全に否定した。すると、自ら両裁判所の事実認定を否定しながら、「裁判所が言っているから」というのは、理由がくいちがっている。そして、そのことについて何の説明もない。

 いやあ、これはひどいですね。ともかく罷免しようという結論が先にあったということなのでしょうが、あまりにも無理があります。

 私は、著者が罷免されたあとも、元気に講演そして執筆活動を続けていることに心より敬意を表します。つい先日は福岡でも講演していただきました。今後とも引き続きのご活躍を心より祈念しています。

(2025年10月刊。1980円)

「死線をゆく」

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)

著者 ナサニエル・フィック 、 出版 KADOKAWA

 アメリカ海兵隊の現場リーダーとして、アフガニスタンそしてイラクの最前線で活動した体験を振り返る本です。みすみす部下を死地に追いやるような作戦を最前線で指揮する中隊長に対して、明らさまに反抗した驚くべき経験も紹介されています。

 フェランド中佐は傲慢で、部下のことより我が身の出世を考えて部下を任務に行かせている。隊員たちはそう思っていた。中隊長は仕事熱心で人のいい男だが、戦術面では無能。指揮関係は信頼の上に築かれる。中隊長の判断は、あまりにお粗末で、海兵隊員が当然のこととして教えこまれる上官への信頼は、ことごとく打ち砕かれた。中隊長の命令に背いたのは、従えば誰かが何の理由もなく死ぬことになってしまう。戦闘指揮官としては最悪だ。

追撃砲は、標的を観測できる誰かが着弾点の誤差を追撃砲に伝え、砲弾を命中させようとしているものに誘導しないかぎり効果がない。したがって、その観測手を見つけて殺害しなければ、こちらが殺(や)られてしまう。

物資の補給では、燃料と水と弾薬が優先。食料はあとまわし。

 歩兵にとって、戦車と一緒に行動するのは、頭上に攻撃機が控えていたり、深い戦闘壕の底に潜っているようなもので、とにかく気分がいい。

 100万ドルの負傷とは、命に別条なく、戦線離脱して帰国できる負傷。

 1980年代、ソ連軍との戦いでムジャヒディンが消耗していたところに、CIAがスティンガー・ミサイルを供給したことで、戦いの潮目(しおめ)が変わった。スティンガーはロバの背中にのせて運べるほど小さいミサイルで、航空機の排気熱を追尾する。

 新参者(新兵)には近づきたくない。自殺行為をやらかすから。

 海兵隊でもっともタフな部隊は、偵察部隊だ。

 戦場における強さとは、手に負えない状況にも冷静に立ち向かい、穏やかにほほ笑みかけ、とことんプロフェッショナルな誇りをもって敵に打ち勝つ能力だ。

 ムスリムの暗殺者たちの多くは、自分の死後、99人の処女と永遠に生きられることを信じている。 「そんなのウソでしょ」という人はいない。

 戦闘は一種のめまいだ。どんな訓練をしようと、自分の感覚が信じられなくなる。

著者は大尉になったあと、海兵隊を早期に退職した。戦いを好まない戦士に自分がなったことを認識して、海兵隊を辞めた。著者は裕福な家庭に育ち、アイビーリーグの名門大学を卒業した白人男性で、戦場に出て戦争とは何か、正義とは何か、現実を見聞きするなかで考え、変化していった。海兵隊を去ったあと、ハーバードの大学院でMBAとMPAの学位を取得した。

アメリカの「強さ」の内実は、案外もろいものだとも、本書を読みながら思ったことでした。

(2025年5月刊。38050円)

赤ちゃんは世界をどう学んでいくのか

カテゴリー:人間

(霧山昴)

著者 奥村 優子 、 出版 光文社新書

 赤ちゃんは、とても愛らしい存在です。丸い顔に、ふっくらほっぺ、そしてつぶらな瞳なので、じっと見つめられると、思わず抱きしめたくなります。そんな赤ちゃんですが、他人を思いやる心があり、計算もできるというのです。本当でしょうか・・・。

 赤ちゃんは、数を認識し、足し算ができる。悪い者と良い者を区別し、正義の味方を好む。優しい心を持ち、自分のお菓子を他者に分け与えることに喜びを感じる。アイコンタクトをとる相手から積極的に学び、高度な学習能力をもっている。

 早期からの英語教育は必ずしも必要ではない。

赤ちゃんは、人の表情の変化に反応する。6ヶ月の赤ちゃんは、人の顔だけでなく、サルの顔も区別できる。

 先日、新聞に北九州の動物園にいる91頭のカンガルーの顔を飼育員は全部見分けられるという記事が載っていました。宮城の金華山にいる野生の鹿を研究員は見分けていて、母娘であることも一目で分かるそうです。1年間もじっと見つめていると、識別できるようになるのですね・・・。そういえば、アメリカ人は日本人の顔はみな同じに見えると聞きました。

 サルは「サル真似」ができない。模倣は得意ではない。しかし、人間は赤ちゃんのときから模倣が得意。それは、模倣が他者とのコミュニケーションや学習において重要な役割を果たしているから。そのうえ、赤ちゃんは、意図を読みとり、合理的な判断をもとに模倣している。

 赤ちゃんは、新しいもの、動物について学ぶときには、フォーマルな服装の人物から教わろうと選別している。

 赤ちゃんは、信頼できる他者を選び、優先的に学習する。

赤ちゃんは、他者にお菓子を与えるときのほうが、より大きな喜びを感じている。

 赤ちゃんは、他人の苦しみに反応する。生後10ヶ月の赤ちゃんが、いじめられている相手に原初的な同情的態度を示す。

 赤ちゃんは人助けが好き。赤ちゃんは1歳のころから平等な分配を好む。赤ちゃんは弱者を助ける正義の行為を肯定する傾向がある。

 疑問文を頻繁に使う養育者の子どもは、より多くのコトバを習得する。

人間がコトバという最大のコミュニケーション手段をどのように獲得していくかを解明することは、最新のコミュニケーション技術の開発に役立つ。つまり、赤ちゃん研究は、人類の技術の発展に深く関連している。

赤ちゃんがコトバを学ぶには、人との関わりあいが必要。ビデオ映像や録音だけでは、赤ちゃんは難しい。仲間と一緒に学ぶと、映像からより多く学べる。

 この本は、このような赤ちゃん学の到達点を教えてくれるのですが、それに至る研究・実験の方法を紹介しています。みんな、なるほど、そうするのか・・・というものでした。ぜひ、あたってみて下さい。大変勉強になる、最新の赤ちゃん学を紹介する新書です。

(2025年6月刊。920円+税)

立ち読みの歴史

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 小林 昌樹 、 出版 ハヤカワ新書

 私も中学、高校生のころは本屋でけっこう長時間、立ち読みしていました。大学生になってからは本屋で長く立ち読みすることはありませんでした。

この本によると、この立ち読みは日本独特の現象なんだそうです。本当でしょうか・・・。

フランス・パリのセーヌ川のほとりにはブキニストと言って古本を売るコーナーが並んでいます。選ぶために本を手に取って眺めることはあっても、長時間の立ち読み風景は見かけません。

江戸時代にも書店はありましたが、和とじ本は平たく並べておくものですし、当時は立読するのが普通でしたから、立ち読みはなかったようです。すると、立ち読みというのは、日本でも戦後の光景なのかもしれません。本屋のオヤジ(主人)が手にハタキをもって、パタパタさせて、立ち読みの子どもたちを追い払うという光景がありました。

本屋では万引と並んで立ち読みが「大罪」として問題視された。万引はもちろん罪ですけど、立ち読みを万引に匹敵すると言われると、私は少しばかりひっかかります。

この本では、農村部では庄屋層までしか読み書きは出来ず、庶民は出来なかったとしています。従来の「通説」を否定していますが、本当でしょうか。寺小屋は大都市だけではなかったと思うのですが・・・。

江戸の庶民が貸本屋から本を借りて読んでいたというのは本当です。本は高かったからです。人口100万人の江戸だけで800店もの貸本屋があったそうです。やはり、これは多いとみるべきでしょう。

戦前は、雑誌をメインに売る小売店として、雑誌屋があった。日本初の総合雑誌「太陽」(博文館)は、年244万部も売れていたとのこと(明治30年)。すごい部数です。戦前、大正期の東京では、本屋が店頭での立ち読みをとがめないようにしたとのこと。買ってもらえる可能性に賭けたのです。

そして、戦後、立ち読みされないように、本をビニールで包む(シュリンクパック)ようになりました。ビニ本です。エロ雑誌だけでなく、マンガ本のコーナーにいくとみんな包まれていますよね。講談社のコミック本は2013年からシュリンクがかかったとのこと。意外なことに「ブックオフ」は創業(1990年)当初から「立ち読みOK」だったそうです。

今や書店(本屋)は絶滅しかかっています。この20年で、2万店が1万店に半減した。私の身近な書店も次々に閉店していき、全国チェーン店のほかは、いくつもありません。残念です。

(2025年4月刊。1320円+税)

新聞記者がネット記事をバズらせる

カテゴリー:社会

(霧山昴)

著者 斎藤 友彦 、 出版 集英社新書

 この本(新書)のタイトルから長いのです。フルタイトルは、「…、バズらせるために考えたこと」なのです。新聞記事の見出としては絶対にありえない長文ですが、インターネット上で読まれるためには、こんな長文でもよいというので、それを実践しています。

 著者は20年以上も新聞記者をしていました。ネット上で、読まれるものは、新聞記事と全然違っていることに気がついたというので、その体験を踏まえて、ネット上で読まれる(バズらせる)ためのコツを惜し気もなく披露しています。

 新聞では、読みやすさを多少犠牲にしても文をできるかぎり短くしている。これに対して、共感や感動を呼び起こす内容がストーリー仕立てで書かれている記事は、ネット上で、よく読まれている。短くしなくてもよい。

 最近の若い人は、文章として記事を読むことは、ほぼない。彼らは新聞的なリード(文)を「重すぎる」と感じて、読まない。リード文に固有名詞や情報が大量にあると、すっと頭の中に入らない。

 今や多くの人が新聞を読まない。読んでいる人は少数派だ。

 ニュースを他人事(ひとごと)としか思えないので、見ないし、読まない。自分の人生に、どう関わってくるのか分からないから、読まない。

 客観的な事実が端的に羅列されただけの見出しでは多くの人が見にこない。

 見出しは、多くの人が興味をもってくれるように工夫する。さらに、ストーリーとして読んでもらうには、主人公が必要。

 ネットの読書は、本の読者よりも気軽に記事を手にとっている。移り気で、ストレスを感じれば、すぐに離脱してしまう。描写は、できるだけ詳しくする。

 読者が「道に迷わない」ようにする工夫が必要だ。ニュース性のない記事が、ストーリー形式によって多くの人に読まれるようになっている。

 文章は淡々と書くこと。そのほうが、感情を込めた文章より読者に共感されやすい。

 新聞とデジタル記事とでは、見出しの付け方は、明確に異なる。読者に質問を投げかける形は、案外、読者から読まれる。

 読者は移り気で、長文を読むのに慣れていない。

 新聞の発行部数は、最新(2023年10月)に285万部。これに対して20年前(2003年)は5287万部だったので、半減している。1年間で200万部以上も減らしている。読者の変化に新聞はついていけていない。うむむ、そ、そうなんでしょうね…。

 それにしても、ネット記事は見出しは長文でもよく、共感を呼ぶストーリー性が求められるという指摘には、なーるほど、と思いました。

(2025年8月刊。990円)

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