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遊牧民、はじめました

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 相場 拓也 、 出版 光文社新書
 モンゴル大草原の掟(おきて)というサブタイトルのついた新書です。衝撃的な面白さでした。モンゴルの大草原で生活するということが、どれほど大変なことなのか、ひしひしと迫ってきました。
モンゴル草原の大地とは、人間にはあまりにも残酷な「失望の荒野」でもある。
 凍りつく大地と、実りの少ない草の原野である。そんな場所での生活は、生きるだけでも精いっぱいで、人間本来の野生の生存本能が試される。
 突然の生命の終わりや、命をつなぐための家畜群の全滅に向きあったとき、遊牧民が絶望しないための心理操作として、「自分の責任ではない」という単純明快な答えが用意されている。荒々しい自然と対峙したとき、巻き起こる災害に対処しなければならないとき、あらゆる不幸に対して、「自分のせいではない」と思えることこそが、草原の民の心の強さなのだ。うむむ、そういうことなんですか…。
モンゴルでは、酒は社会の悪しき潤滑油でもある。
 単調でエンターテインメントのない草原の暮らしでは、気晴らしや息抜きが少なく、心のゆとりを感じにくい。酒を飲むこと、来客と世間話をすることが数少ないストレス発散になっている。
 モンゴル人は、起きてほしくないことは、とことん口にしない。会話のなかで否定形を一切使わない返答は、自分の未来を否定しないためのモンゴル流の口頭技法。口に出して現実になることを恐れているため、未来や過去を否定しないような回避法が根底にある。
 モンゴル遊牧民の心持ちは、悲観を前提とした悲壮感に満ちた生。単調で、死と隣りあわせの遊牧生活に、南国風の楽観論が育(はぐく)まれることはなかった。
 遊牧民は、その歴史上、常に不知と暴力にまみれた社会だった。組織内や親族内でもめごとが発生したとき、「話し合い」による解決はほとんど実践されない。
 モンゴル人とのあいだで、一度でも人間関係に亀裂が生じると、それはもはや回復できないほどの破綻を意味している。
 遊牧民の社会には「末っ子」が家督を継ぐ末子相続という習慣が今でも連綿と受け継がれている。この末子相続は、親族間や氏族内関係を複雑にする原因にもなっている。
 末子は、両親が死ぬまで同じ天幕で共に暮らすのが通例。末子相続は、地域コミュニティの富の偏在を肯定的に推し進める。末子相続というシステムのもと、遊牧民は、「富や名声とは、努力で勝ち得るものではなく、親の経済力や生まれで決まる生来所与のもの」という強い感覚がある。末子への羨望(せんぼう)と、それに由来する闘争こそが遊牧民の戦いの根源に直結している。
モンゴル人と接していると、人間関係を長続きさせるのが不得意だと実感される。
 モンゴル人に対して、決して怒ってはいけないし、直接的に物事を伝えたり、批判してはいけないし、相手のへそを曲げさせてはいけない。
 モンゴル人は、本質的に好戦的な心を宿し、暴力行使へのハードルの低い人々である。
 遊牧民と親しくなるためには、手土産、酒盛りそして一芸披露が必要。
 遊牧民はとにかく話題に飢えている。情報ネットワークを重視する遊牧コミュニティでは、隣人・知人の行動はきわめて重要な判断基準になっている。遊牧民の日常会話のほとんどは家畜と人間(親戚・知人・隣人)、そしてお金の3つしかない。
遊牧民が移動するのは、自らの意思というより、家畜を養うための水と草を探し求めて、家畜によって移動させられているというのが実態。遊牧民は、自由気ままに草原を放浪して生きていられるほど、楽な稼業ではない。移動とは、単純に牧草資源を探し求めているわけではない。家畜とは遊牧民のすべてであり、すべては家畜から育まれる。
 モンゴル人の食文化では、ただ茹(ゆ)でただけのヒツジ肉がごちそう。調味料は塩を少々で、他には何もない。
 モンゴル人の住居である天幕は、入って右側が「女性の場」、左側が「男性の場」と決まっている。そして、出入口の扉は、かつての遊牧民の王国が征服を目論む侵攻方向と一致している。
 モンゴルの女性は、しっかりしていて、凛とした強さと、しなやかさで、男性優位のイスラームのコミュニティを生き抜いている。
 かつての遊牧民の社会では、人生は30歳にみたない程度で終わっていた可能性がある。
 遊牧民としてのモンゴル人の大草原での厳しい生活、そこから来る人間形成について、驚くばかりで、まったく目を開かされた気がしました。
(2024年9月刊。1100円)

弁護士の日々記

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 前田 豊 、 出版 石風社
 福岡の弁護士である著者が20年前に弁護士会の役職にあったときの随想、そして最近の世相に思うことをまとめた本です。
 私は、白寿(99歳)を祝った著者の父親の被爆体験を初めて識りました。長崎で19歳のとき被爆したのです。三菱造船稲佐製材工場で働いていました。
 突然、空気中が溶接ガスの火花の色みたいになって爆風に飛ばされた。もう、これで死ぬのだと思った。何にも分からず、十数分くらいたったと思う。
 三菱長崎製鋼所のあたりでは、市民や学徒動員の負傷者でいっぱいだった。まさに、この世の地獄だった。大橋から下の浦上川を見ると、そこも傷を負った人たちでいっぱいだった。死体もごろごろしていた。
 救援列車に乗った。いったん乗って、降りて、戻ってくるのを待つと、超満員で汽車が戻ってきた。重傷者は、血止めの方法を教えれくれとか、殺してくれとか、苦しんでいる人が多くいた。車内はまさに地獄状態だった。やっとこさで乗り、列車の連結のところに立ちずくめで諫早駅まで行った。
 焼けたふんどしに裸足(はだし)姿で駅から2キロ歩いて、家に着いた。畳に腹ばいになったあとは、何にも分からない。翌日、体全体が痛む。頭の毛が燃えた悪いにおいがする。昼間はハエがたかる。夜は蚊が刺す。弟たちがウチワであおいでくれる。火傷(ヤケド)にはイノシシや穴熊の油を父が塗ってくれる。背が自分の死を待っている状態で過ごす。8ヶ月後、ようやく歩けるようになった。
そんな状態にあったのに、99歳まで長生きしているとは、まことに人生とは分からないものです。
 さて、随想のほうは20年前の司法をめぐる話題が豊富に提供されています。読んで、そうか20年前というと、裁判員裁判が始まったころなんだなと自覚させられました。
 そして、法テラスもこのころ(2006年10月)スタートしたのでした。いろいろ批判もあるのですが、それまでの法律扶助制度に比べたら、格段の前進であることは間違いありません。
 現在、天神中央公園にある貴賓(きひん)館に福岡控訴院(福岡高等裁判所の前身)があったことを初めて知りました。その後、赤坂近くの城内に移り、今は六本松にあります。
 著者から贈呈していただきました。ありがとうございます。
 それにしても、今の仙人姿は、どうなんでしょう…。相談に来た人に近寄りがたいという印象を与えていませんか。それとも奥様のお好みによるものなのでしょうか。
(2025年2月刊。1760円)

蔦屋重三郎、江戸を編集した男

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 田中 優子 、 出版 文春新書
 法政大学の元総長である著者は江戸文化の研究者で、NHKの大河ドラマ「べらぼう」の主人公として蔦屋(つたや)重三郎が目下、売り出し中なので、急きょ書き下ろしたのです。
蔦屋重三郎は「地本(じほん)問屋」の一人。文字と絵が合体した本をつくるのが仕事。江戸には146軒の地本問屋が存在した(1853(嘉永6)年)。1850年ころの江戸の寺子屋への就学率は70~80%。
 江戸時代の浮世絵は肉筆画ではなく、その中心は印刷物。そして、1765(明治2)年ころ、「見当(けんとう)をつける」という技法が完成し、浮世絵は突然、あざやかな色彩を帯びた。画期的なカラー浮世絵を始めたのは鈴木春信。
 浮世絵は多色刷りの時代となり、下絵師、彫師、摺師という分業でつくられた。
 中国版画のきわめて高い技術が導入された。多色にするには、色ごとに重ねて刷る。
 平賀源内は高松藩の武士だった。源内はゲイだったから吉原には出入りしなかったが、吉原細見の序文を書いた。
1777(安永6)年、蔦屋重三郎は洒落本(しゃれほん)を刊行した。道陀楼(どうだろう)麻阿と名乗る著者の正体は、秋田藩江戸留守居役・平沢常富だった。そして、この洒落本から黄表紙が生まれた。洒落本を絵本にしたもの。
 1785年、蔦屋重三郎は、山東京伝の洒落本を刊行した。
 1791年、蔦屋重三郎は身上半減(財産の半分を没収)、山東京伝は手鎖(てじょう)50日の刑を受けた。これは、老中・松平定信の寛政改革に逆らったから。手鎖は庶民のみに科せられる刑だった。
天明時代、狂歌師たちが集まり、活躍した。この集まり(連)には、武士も町人も職人も、そして版元も役者も参加していた。そのほとんどが20代から30代。
 蔦屋重三郎は、天明狂歌という文学運動を粘り強く編集・出版して歴史に残した。
 東洲斎写楽が活躍したのは1794(安政6)年から1795年にかけての10ヶ月間のみ。おおざっぱで乱暴なアマチュアの絵。しかし、緊迫感がある。
 役者の舞台における劇的な瞬間がとらえられている。写楽は誰にも師事しておらず、挿絵や表紙のプロセスもなく、いきなり出現した。
 写楽は浮世絵の素人。なので、繊細で精密な線は描けない。毛髪も着物も大雑把。写楽の芝居絵は、人間が登場人物のキャラクターを化粧や鬘(かつら)や衣装や表情や身体全体で表現して成り立っている。そうなんですか…、ちっとも知りませんでした。
 遊里、吉原を含む江戸の文化の奥深さを感じさせる新書でした。
(2024年12月刊。1100円)

西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 稲葉 香 、 出版 彩流社
 リウマチの持病をかかえながら、本職は美容師という著者が僧侶の河口慧海(えかい)と同じチベット文化圏を足で歩いた体験記です。
 文章もさることながら、その写真の壮大さ、気高いと形容するほかないヒマラヤの山並みには思わず息を呑むほど圧倒されます。そして、人々とりわけ子どもたちの生き生きとした笑顔に魅せられます。
 西ネパールの北西部に位置するドルポはチベット文化圏。標高4300メートルの高地に村が点在し、人々が伝統的な生活を営んでいる。東西南北、どこからドルポに入ろうとしても、5000メートル以上の峠を越えなければいけない。ここには富士山より低い場所はない。
 耕作できる土地は少ないが、それでもジャガイモ、小麦、ヒエ、ソバ、大麦をつくっている。家畜のヒツジ、ヤギ、ウシ、ヤクを夏の間は山の高地に放牧し、冬になると高度の低い村に連れてくる。また春になったら高地へと戻る。遊牧民の暮らしだ。
 高所に強いヤクは、厳しい環境で生きのびることができ、毛は機織(はたお)りで衣類や毛布となり、皮はなめして活用し、乳はヨーグルトや硬い乾燥チーズとなる。そして乾燥した糞は、料理と暖をとるための貴重な燃となる。
 村で出会った修行僧に河口慧海を知っているかと訊くと、「あそこにいるよ」という答えが返ってきた。古寺の内に仏像があり、それが河口慧海師だという。あとで著者が調べてみると、それは河口慧海の「チベット旅行記」に出てくる住職の像だった。それがいつのまにか現地では河口慧海の像になっていた。それにしてもチベットの山奥の寺に河口慧海と思われている仏像があるなんて驚きです。
 ちなみに河口慧海の「チベット旅行記」を読むと、もともとろくな食事もとらないうえ、正午を過ぎたら何も食べないまま山中を歩きまわったようです。まさしく超人的なのですが、この本によると著者と同じリウマチを持っていたそうです。いやはや、とんだ共通項があるのです。著者はスマホを使わず、紙の地図で行動しています。ところが、ヒマラヤの人たちは地図を見ないし、持たない。もちろんスマホに頼ることもしない。
 山と一体化して歩いている。
著者は、2007年から2016年までのあいだに、4回にわたってドルポ内部を横断した。すべて夏から秋のこと。では、冬のあいだはどうなっているのか探検しよう…。すごい発想ですね。
 3ヶ月間、冬のドルポを体験したのです。野外は氷点下20度。著者が泊まった家は、チベットスタイル。つまり、天井があいている家。壁も扉もあるけれど、上部は吹きっさらしの状態。なので、窓が開きっぱなしの環境で厳冬期を過ごした。とくに寒いのは、山に太陽が沈んだ夕方4時から夕食の時間まで。ドルポでは燃料も水も貴重なので、暖をとるためだけに燃料を使うことはない。暖がとれないで氷点下3度に耐えなければいけない。家の中でじっとしている氷点下3度はとにかく寒く、手足がキンキンに冷えた。いやあ、これはきついですね、よくぞ耐えましたね。いったい3ヶ月間、じっとして何をしていたのでしょうか…。
私としては、食事のこと、そしてトイレのことなども知りたいのですが、何も書かれていないので、もどかしさがつのりました。それにしてもたいした女性です。その行動力、バイタリティに対して心より敬意を表します。
(2022年1月刊。2200円+税)

八鹿高校事件の全体像に迫る

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 大森 実 、 出版 部落問題研究所
 八鹿(ようか)高校事件といっても、今では完全に忘れ去られた出来事ですよね。1974年11月に兵庫県の但馬(たじま)地域で起きた「我が国教育史上未曽有の凄惨な集団暴行」事件です。加害者は部落解放同盟の役員たちで、被害者は八鹿高校の教職員です。加害者は刑事犯罪として有罪になり、民事でも損害賠償義務が課せられました。被害者の教職員側では、48人が加療1週間以上、4ヶ月、うち30人が入院して治療が必要となりました。長時間にわたって、一方的な集団的暴行が加えられたのです。
 この事件のとき出動した警察官600人は、眼前で展開されている解同側の暴行・傷害事件をまったく傍観視し、制止しませんでした。なので、あとで八鹿警察署長は職権濫用として問題になったのも当然です(不起訴)。
この冊子を読んで、その背景事情が判明しました。警察庁トップで介入するかどうか二分していたというのです。
 ときの警察庁長官(浅沼清太郎)や警視庁公安部長(三井某)、兵庫県警本部長(勝田某)は不介入方針のハト派。この一派は「ハブとマングースの闘い」だ、要するに、放っておけば互いに自壊するから、傍観しようとする。これに対して、断固として無警察状態を排除するという方針は、警察庁の前長官(高橋幹夫)、警備局長(山本鎮彦)、警察庁次官(土田国保)、そして兵庫県知事(坂井時忠)。
 警察庁警備課長だった佐々淳行によると、結局、高橋前長官の決断により、兵庫県警本部長に長官指示が伝えられ5500人の機動隊が投入された。つまり、但馬地方に無法状態をつくったのは警察だったわけです。「ハブとマングース」というのは、共産党と解同を戦わせ、どちらも勢力を傷つき、消耗するのを期待しようというもので、いかにも支配者層、権力者が考えそうな発想です。 
 もう一つ、この本で、八鹿高校の生徒会執行部を先頭とする高校生たちの涙ぐましい果敢な取り組み、そしてそれを先輩(八鹿高校OB)たちが力一杯に支えたという事実が掘り起こされていて、私はそこに注目しました。
 生徒たちは、暴行現場に駆けつけ、ひどい惨状を目撃し、警察に出かけて教師の救出を訴え、町を集団進行(デモ)をして町の人々に叫んで訴え、近くの八木川原に集まり集会で訴えたのです。
 もちろん生徒大会も開いて暴力反対を決議しています。
 そして、カンパを集め、文集をつくって、町内を一軒一軒、訴えて歩いてまわりました。そのとき、「共産党に利用されているだけだから、やめろ」「解同に不利になるようなことをするな」と制止する声がふりかかってきましたが、生徒たちはそんな妨害を振り切って死にもの狂いで動いたのです。すごいです。
 12月1日には、八木川原に1万7千人もの人たちが集まり、解同の暴力を糾弾したのでした。
この事件については、警察が動かないだけでなく、実はマスコミがほとんど報道しないという特徴がありました。解同タブーが生きていたのです。
 1974年11月から12月というと、実は私が弁護士になった年の暮れのことでした。なので、私はまだ関東(川崎)にいて、事件の推移をやきもきして見守るばかり。これほどの大事件をマスコミがまったく報道しないのに怒りを感じる日々でした。共産党の「しんぶん赤旗」だけが大きく報道していました。自民党の裏金づくりをマスコミが当初まったく報道しなかったのと同じです。「しんぶん赤旗」も購読者が激減して経営がピンチのようです。紙媒体がなくなって、インターネットばかりになってよいとは思えません。
 部落解放の美名で暴力を振るうのを許してはいけません。そんなことをしたら、差別意識がなくなるどころか、差別は拡大するばかりです。その後、「暴力糾弾闘争」が消滅していったのは当然ですが、喜ばしいことだったと考えています。
 それにしても、八鹿高校事件って、もう50年もたつのですね。当時の高校生たちも全員が60代後半になっているわけですが、みなさん元気に社会で活躍していると信じています。いかがでしょうか…。
(2024年11月刊。1100円)

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