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いも殿さま

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 土橋 章宏 、 出版  角川書店
いま、わが家の敷地内に芋畑があって、やがて芋掘りパーティーが開かれます。保育園の園児が老健施設のじいちゃん、ばあちゃんと一緒に芋掘りをして楽しむのです。芋を植えるときも老・幼一緒でした。その前はジャガイモ植え付けと掘り起こしでにぎわいました。恐らくでっかい芋がゴロゴロ掘り起こされることでしょう。
そんな芋ですが、日本に古くからあったのではありません。
江戸時代に少しずつ普及していったのです。種芋は薩摩藩にありました。まさしくサツマイモ(薩摩芋)だったのです。よそ者を受け入れない薩摩藩に忍び込み、種芋をひそかに買い求めて、島根で育てた代官がいたのでした。
石見(いわみ)銀山で有名な石見の代官所に赴任した井戸平左衛門が飢饉対策として芋を植え付けるに成功した実話にもとづく感動的な小説です。
ところが、幕府の命令で勝手なことをしたとして井戸平左衛門は代官を罷免され、唐丸(とうまる)駕籠に乗せられ、江戸へ護送されます。地元の人々が見送りました。
江戸幕府では、平左衛門の処分をめぐって評定所で意見が分かれました。
大岡忠相(ただすけ)は、平左衛門の働きを高く評価していました。
しかし、自分の役目を完遂したことを悟った平左衛門は処分の結果を待たず自ら切腹してしまいました。
島根には平左衛門の功をしのんで、各地に芋塚が建てられ、井戸神社まで建立されたとのことです。
いつの世にも骨のある役人がいるものですね。ふと、前川喜平・元文科省事務次官を思い出しました。
(2019年3月刊。1600円+税)

極北のひかり

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 松本 紀生 、 出版  クレヴィス
1年の半分をアラスカで過ごし、厳寒のなかで動物やオーロラを撮影する写真家の体験記です。
クマを用心し、蚊の大群と戦い、猛吹雪に耐える生活です。ところが、日本では写真を撮らないという徹底ぶりにも驚きました。
この本を読んで、クマよりも寒さよりも、何より蚊との戦いこそが、もっとも大変だと想像しました。アラスカに発生し生息する蚊は、なんと17兆匹。これはアラスカの総人口の2400万倍だ。
蚊をおびき寄せるのは、汗、体温そして呼吸。テントの真上5メートル付近の空洞が黒く染まり、揺れ動くほどの蚊の大群にテントは包まれる。外で用を足そうとして下半身をむき出しにしたら蚊の格好の餌食となる。うひゃあ、これはたまりませんね・・・。
蚊の対策はネットで頭を覆う。そして、アメリカ陸軍が開発した薬(ディート)を使う。
蚊はカリブーにも襲いかかる。カリブーが蚊にやられて衰弱していく。
食事は、朝も夕も同じ、豆雑炊。異なるのは、ふりかけの種類だけ。なぜ、豆雑炊なのか・・・。軽量で安価。腐らないので長期保存できるうえ、あっという間に調理できる。そして、匂いを発しないので、クマを誘引することがない。
アラスカのキャンプは食事を楽しむ場ではない。そう割り切る。いい写真を撮るためにここにいるのだから・・・。
クマ対策として、食料専用のテントを生活用テントから100メートルほど離して設営する。そしてクマよけの電気柵で取り囲んでおく。
いやはや良い写真を撮るためには大変な努力が、そして工夫と忍耐力が求められるのですね。おかげで、自宅でぬくぬくとしながらオーロラのすばらしい写真をみることができるわけです。ありがとうございます。
(2019年4月刊。1600円+税)

朝鮮戦争に「参戦」した日本

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 西村 秀樹 、 出版  三一書房
日本の戦後復興に朝鮮戦争が大きく寄与したことは歴史的な事実です。
その朝鮮戦争に、実は、日本人が兵士として、また後方支援(掃海活動)などに参加していた事実が詳しく紹介されています。
そして、アメリカ軍の朝鮮での軍事行動を妨害すべく、日本国内で若者たちが起ちあがったのでした。それが吹田事件であり、枚方(ひらかた)事件でした。
1905年、セオドア・ルーズベルト大統領と桂太郎首相は秘密協定を結んだ。これは、日本はアメリカがフィリピンを統治することに同意し、アメリカは日本が韓国に対して保護監督権をもつことを承認するというもの。まさしく、帝国主義の時代だった。
韓国併合条約は、形式としては韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れたという「任意」を装っている。しかし、その実態は、日本が軍隊や警察をつかって徹底的に弾圧した結果であった。
1895年、日本は明成皇后(閔妃・ミンピ)暗殺事件を起こした。一方的に宮廷に押し入り、皇后を殺害したうえ、その遺体を焼却したのですから、日本人の行為は残虐そのものです。立場を逆にして、もし明治天皇の皇后が隣国人に暗殺されたら日本人はどう思うだろうか・・・。本当に、そのとおりです。加害者の子孫は忘れても、被害者の遺族は忘れることができるはずはありません。
日本政府は、日本人が朝鮮戦争にどのように関わったのか正式に質問されたとき、「正確に事実関係を示すことは困難」だとして、きちんと回答しなかった。
たとえば、朝鮮戦争のときに日本人がかかわった海上輸送は、その指揮官はアメリカ人であって、その実情を明確にされていない。乗組員の日本人には、作戦の全容は教えられなかった。少なくとも8000人もの日本人が朝鮮戦争時に、海上輸送に従事していた。
朝鮮戦争に参加していたイギリスは1万4000人、タイとカナダがそれぞれ6000人。そうすると、日本人が8000人いたのは、比較すると、とても多いことになる。
在日韓国人のなかでは、自願軍644人が結成された。それに対抗するようにして、6月29日、北九州では若者70人が日本兵を望んだ。
日本の特別掃海隊は、2か月間で作戦を終了した。任務である機雷処理は27個を遂行した。
そして、2隻の掃海艇を失い、死者1人、重軽傷者という大惨事があった。
日韓関係がきわめて悪化している今日の状況を考えても、大変時宜にかなった本だと思います。ぜひ、ご一読ください。
(2019年6月刊。2500円+税)

当番弁護士は刑事手続を変えた

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 福岡県弁護士会 、 出版  現代人文社
福岡県弁護士会は1990年に全国に先駆けて待機制の当番弁護士を始めた。それから30年がたとうとしている。今では、被疑者の国選弁護制度まで実現している。
私も被疑者の国選弁護人を今年(2019年)は1月から10月まで6件担当し、被告人国選弁護へ移行したのは2件のみです。
この本は2016年に開かれた当番弁護士制度発足25周年記念シンポジウムをもとにしていますが、当番弁護士制度の発足経緯、スタートしたころの状況が紹介されていて、私もその当時の大変さをまざまざと思い出しました。福岡部会では重い携帯電話の受け渡しから大変だったと聞いています。今のように各人がケータイを持ってはいなかったのです。
私は、福岡県弁護士会が当番弁護士制度を発足させたあと、「委員会派遣制度」をつくって運用しはじめたこともまた高く評価されるべきだと考えています。これは、世間的にみて重大事件が発生したら、被疑者からの要請を待たずに、弁護士会側の判断で当番弁護士を派遣するというものです。この制度が始まったことにより、「弁護人となろうとする者」(刑訴法39条1項)の解釈が見直されることになりました。
そして、日弁連がつくった「被疑者ノート」もグッドアイデアでした。これが書けそうな人には、私もなるべく差し入れるようにしています。すると、被疑者との会話が深まるのです。
当番弁護士がスタートした1990年度の出動件数は108件、翌年217件、3年目に415件だった。それが11年目の2001年には2312件となり、16年目の2006年には4千件近い3991件になった。今では、すっかり定着しました。もっとも刑事事件そのものは、幸いなことに激減しています。
福岡県弁護士会はリーガルサービス基金をつくって、財政的にも制度を支えた。この財政的な裏付けは、天神センターが発展していき、弁護士会の財政が潤沢になったことによります。
まさしく当番弁護士制度は日本の刑事手続を大きく変えたと言えます。このことを歴史的にふり返った画期的な本として、一読をおすすめします。
(2019年10月刊。2500円+税)

電撃戦という幻(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 カール・ハインツ・フリーザー 、 出版  中央公論社新社
連合軍の精鋭をダンケルクに追いつめながら、ドイツ軍は停止した。完勝を目前にして、ヒトラーはなぜ最後の一撃を加えなかったのか・・・。
ダンケルクから撤退する「ダイナモ」作戦が開始される前、イギリス軍はせいぜい4万5千人を救出できればよいと考えていた。3万人が関の山という見方もあった。ところが、1940年5月26日から6月4日までに37万人(イギリス兵24万7000人とフランス兵12万3000人)が救出された。ドイツ軍の捕虜となったフランス兵は8万人だった。
ドイツ軍が激戦のすえダンケルク港を制圧したのは、6月4日午前9時40分だった。
政治家が軍事作戦に口出しするのはドイツでは異例のこと。エリート軍人の知的選民、冷静沈着なプロフェッショナル集団として一時代を築いたドイツ参謀本部に、気まぐれで、何をしでかすか分からない、爆弾をかかえたような男(ヒトラー)が闖入(ちんにゅう)した。
問題は、ヒトラーの軍事知識が本物であったかどうかにあるのではなく、この指導者が異常なほど感情に左右されやすい人間だった点にある。ドイツ総統(ヒトラー)は、自己の可能性を際限もなく過大評価するかと思えば、事態を絶望視し、しばしば救いようのない悲観論に沈潜してしまうのだった。
5月24日、グデーリアン装甲軍団は、ダンケルクまであと15キロメートルに迫っていた。ヒトラーは作戦指導に介入し、ルントシュテットをとおして装甲部隊に進撃を停止するよう命じた。しかし、実際には、この時点で、すでに装甲部隊は停止していた。このとき国防軍の上層部内で抗争があっていて、ヒトラーは「停止命令」というかたちで、これに干渉した。
ヒトラーの「停止命令」の本当の理由は、軍事指導者としてのヒトラー自身の権威を守ることにあった。つまり、ヒトラーがダンケルクで止まれと命じたとき、それは装甲部隊に向かってではなく、陸軍総司令部の将官たちに対してなされたのだ。
戦争が歴史上比類のない完璧な勝利のうちに終わりそうになると、偉大な勝利者としての栄光はヒトラーの上にではなく、軍人たちの上に輝いてしまうかに見えた。陸軍総司令部か主役になり、ヒトラーは端役の地位に追いやられてしまっている。これはいかにもまずい。放ってはおけない…。
ヒトラーがこれほど不機嫌なのを見たことがない、とヨードルは語った。
ヒトラーは決意した。理由など、どうでもいい。とにかく復讐あるのみだ。見せしめが必要だ。奴ら(国防軍上層部)を懲らしめ、折檻し、軍の最高司令官は誰かということを思い知らせてやる。
「停止命令」は、ヒトラーにとって、客観的な軍事情勢から導き出されたものではない。権力を維持しようとするヒトラーの防衛本能から生まれたのだ。
ヒトラーのあらゆる決断、あらゆる政策決定は、客観的な情勢判断とは無縁だ。軍を指導するのは自分であって、他の誰でもないということを国防軍上層部に示す必要があったというだけのこと。
なーるほど、よくよく分かる説です。
軍事的天才を自認したヒトラーは、参謀本部から魂を抜きさり、みずからを舞台の中心にすえ、軍人たちを背景の書き割りの地位に退かせた。
こうやってダンケルクの悲劇はヒトラーの悲劇の始まりだったわけです。
1940年の西方戦役と1941年の対ソ侵攻の違いは次のように総括できる。
西方戦役は、「電撃戦」としては計画されなかったが、結果的にそのようになってドイツ軍は大勝した。対ソ侵攻は「電撃戦」として計画されながら、思いどおりにいかず、最終的に挫折した。
下巻だけでも300頁近い大作ですが、ヒトラーの軍事才能(が、実は、なかったこと)とドイツ国防軍の電撃戦なるものの実体がよく認識できました。軍事史に関心ある人には強く一読をおすすめします。
(2012年2月刊。3800円+税)

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