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菅原道真

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 滝川 幸司 、 出版  中公新書
太宰府天満宮と言えば菅原道真ですよね。近くに国立博物館がありますので、たまに行きます。その菅原道真とは、いったいいかなる人物だったのか、この本を読んで、ようやく少し素顔(実像)をつかむことができました。
菅原氏は、もとは土師(はじ)氏。土師氏は、葬送で天皇家に仕えた氏族。ところが、勢いを失いつつあったので、改氏姓を願い出た。
道真は33歳で文章博士(もんじょうはかせ)に任じられた。文章博士は、大学寮紀伝道で中国の文学・歴史を教授する官職。33歳は若い任官だった。
道真は式部少輔と文章博士を兼任し、儒家を領導する立場となったが、それは誹謗中傷嫉妬を招いた。
42歳のとき、道真は文章博士、式部少輔、加賀権守(ごんのかみ)を解かれ、讃岐守(さぬきのかみ)に任じられた。道真にとっては不本意な任官だった。しかし、紀伝道出身者は地方官として治績をあげることが期待されていた。
そして、4年たって、念願の都へ戻った。890年(寛平2年)のこと。
891年、道真は蔵人頭(くろうどのとう)に任じられた。蔵人頭は天皇の側近ともいうべき存在だ。宇多天皇は道真に期待していた。さらに、式部少輔に再任され、次いで佐中弁(さちゅうべん)を兼任した。佐中弁は、太政官行政の事務部局で、きわめて重要であり多忙な職である。
道真は蔵人頭について辞表を出したが、受理されなかった。
892年(寛平4年)、道真は従四位下に叙された。翌年、道真は参議に任じられた。道真、49歳。蔵人頭・左京大夫からは離れ、参議に任じられ、公卿の地位に至り、太政官の議政に参加する地位に就いた。
さらに、道真は、佐中弁から左大弁に昇った。そして、勘解由(かげゆ)長官も兼ねた。勘解由使は官人らの交替を監査する役所。このようにして道真は、参議兼左大弁、式部大輔・勘解由長官を帯びた。
道真、50歳のとき、遣唐大使に任命された。しかし、結果として、派遣はされなかった。
894年(寛平6年)、道真は侍従を兼ねた。この年、道真は、従四位下参議兼左大弁・式部大輔・春宮亮・勘解由長官・遣唐大使・侍従ということにある。このような兼官の多さは類例をみない。
さらに、道真は、参議から中納言に昇った。菅原氏としては初めての任官だった。
道真は宇多天皇を補佐する政治家として、藤原時平とともに政権トップとして政治を担当するようになった。
道真の長男、菅原高視は大学頭(だいがくのかみ)に任じられた。
899年(昌泰2年)、道真は権大納言であり、右大臣に任じられた。これに対して、道真は2度も辞表を出して抵抗した。門地が低いこと、儒者の家系であること、上皇の抜擢によって地位を得たとした。
道真は、誹謗・中傷を受けながらも、大臣の職をつとめた。
道真は、儒家としては異例の出世によって妬まれ、誹謗され、また宇多法皇の側近として醍醐天皇制と対立する存在としてとらえられていたようだ。
宇多法皇の道真に対する過度の厚遇、信頼が左遷のもとになった。
901年(昌泰4年)、道真、57歳。右大臣から大宰権師(ごんのそち)に落とすという醍醐天皇の宣命(せんみょう)が下された。このとき、分を知らず、専権の心があった。醍醐天皇の廃位を計画して、兄弟の間を裂こうとしたという罪状が記されていた。
道真の子息のうち、官途についていた者はすべて左遷された。道真は大宰府、高視は大佐、景行は駿河、兼茂は飛騨で、残った淳茂のみ京に残って学問に励むことができた。
前の天皇に重宝され、トップの地位を占めるところまで行ったものの、次の天皇からは排斥されてしまったということなのでしょうね。出世は反発も招くというのが世のならいです・・・。
(2019年9月刊。860円+税)

カピタン最後の江戸参府と阿蘭陀宿

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版  勉誠出版
江戸時代、オランダはヨーロッパ人として対日貿易を独占していた。長崎の出島で1641年から1858年まで218年間も、それは続いた。
そして、カピタン(オランダ商館長)は当初は毎年、次いで4年に1度、江戸にのぼった。166回にものぼる。これは朝鮮通信使の12回、琉球使節の18回に比して断然多い。
カピタンの江戸参府の道中、一行を数日、止宿させた定宿(じょうやど)を阿蘭陀(おらんだ)宿と呼んだ。江戸、京、大坂、下関、小倉にあった。
江戸では本石町3丁目にあった。現在、JRの新日本橋駅のあたりに「長崎屋」があった。
1826年の参府にはシーボルトが随行していた。1850年の江戸参府が最後になった。
オランダ人としては、カピタンのほか書記1人、医師1人の合計3人。日本人のほうは60人ほど。
1850年分については京都の「海老屋」の宿帳(御用留日記)にその全員が書き残されている。
カピタンの江戸参府旅行は、宿駅を早朝に出立し、次の宿駅で昼食をとる休憩、そのあと引き続き次の宿駅まで旅して泊まる。この一休一泊を基本方針とする旅程だった。
献上物・進物は余分に持参し、無事だと残品が出る。それを売るのは許されていて、元値の5割増で買いとられ、それが元値の3倍で転売された。すると、幕府高官も阿蘭陀宿もずい分の定期的収入となった。
シーボルトが随行したときにはピアノまで運んでいた。
カピタンたちを見ようとどこでも見物人が押しかけてきて、大混雑した。役人は、その整理で大変だった。鉄棒をもった制止役人は汗だくだった。
江戸城でカピタンが将軍に会うときには、カピタンから将軍の顔は見えないほど。ところが、御台所をはじめ、将軍一族の女臣たち、大奥の女性たちが御簾のうしろから見物していた。入口の襖の前後には、大名の子どもたちや坊主が重なりあって、じっとカピタンたちを見つめて座っていた。
ケンペルが将軍に面会したのは「御座空間」だったことが、ようやく判明した。
カピタンの江戸参府が詳細に再現されています。日本人って、本当に昔から好奇心旺盛だったんですよね・・・。高価な本ですので、図書館でどうぞお読みください。
(2019年7月刊。6000円+税)

脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 マット・ウィルキンソン 、 出版 草思社
生物が長く生きられるようになったのは、ひとえに移動運動のおかげである。移動運動が生物圏に登場して初めて、生命体の世界は十分に発達し、たんなる生化学以上の何かになるのだ。自己推進力が進化してこなかったら、生命は、数個の散在した、短命の、ひどく複雑な化学物質の破片でしかなかっただろう。
大人の典型的な歩行速度は時速4.8キロ(秒速1.4メートル)。上限速度は時速10.8キロ(秒速3メートル)。これ以上は速く歩けない。競歩の世界記録は時速16キロ(秒速4.6メートル)。いま、トップの長距離走者は時速23キロ、アマチュア選手だと時速11~15キロ。
汗をかいて身体を冷却できるのは、人間のみ。ほとんどの哺乳類は汗をかかない。これは、毛皮に含まれている脂が水分の通過を妨げるから。
チンパンジーの身体は、頭のてっぺんから足のつま先まで、二足歩行するようにはまったくできていない。チンパンジーの身体構造は、樹上生活のための運動機能が、地上生活向けの運動機能よりも優先的に備わっている。長く力強い腕と手は、広げるとかなりの幅になり、最小限の筋力で、木の幹をしっかりとつかんでよじ登ることができる。
鳥類は、コウモリや翼竜と同じように、森林で飛び方を習得したのだ。地上起源説は誤っている。鳥は、その羽毛のおかげで飛行できるようになった。祖先である恐竜たちは、前適応として備えていた木登り能力、樹上性の祖先たちが好条件の森林に住み、たまたま滑空性を獲得する道が開けていた。そして、独特の羽毛ベースの原始的な構造のおかげで、羽ばたき飛行を手に入れた。
ハエトリグサは、植物が昆虫を食べる。ハエトリグサは、動物は動き、植物は動かない、というあたりまえの考えにショックを与える。ハエトリグサは、この法則の例外だ。
固着性動物は、どれも幼生のときは移動する能力がある。幼生たちは、ただ水中を漂うのではなく、推進力を起こして活発に動き回る必要がある。
植物のとった対策は、水中浮遊性の精子を空中浮遊性に変えることだった。
また、動物の身体に糊か面ファスナーのようなものでくっつけて種子を拡散させている。
生物の進化の過程を明らかにし、生物の移動の意義を深く掘り下げている本です。生命の神秘を深く実感することのできる本でもあります。
(2019年3月刊。2800円+税)

潮待ちの宿

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  文芸春秋
うまいですね・・・。しみじみとした気分となって江戸情緒をたっぷり味わせてくれる本です。「歴史小説の名手が初めて挑む人情話」だとオビにありますが、まさしく、そのとおりの出来ばえです。
岡山県笠岡市の港町が舞台となっています。ときは幕末から明治のはじめのころです。長岡の河井継之助まで登場してくるのには驚かされますし、長州藩の負け武士たちもあらわれるなど、幕末のころの史実も踏まえていて、一気に読ませる力があります。
主人公の志鶴(しづる)は、貧乏な親から口減らしのため、小さな旅館に奉公に出され、そこでおかみ(女将)の伊都(いと)らに支えられて成長していきます。その姿が各話完結でつながっていくのです。作者の想像力の豊かさには、ほとほと驚嘆するばかりです。
そして、泊まりに来る客、そして女将を慕う人々など、人物描写がよく出来ていて、私も一度は、こんな人情話を書いてみたいものだと、ついつい身のほど知らずに思ったことでした。
潮待ちの宿というタイトルもこの本の話の展開に見事にマッチしています。小さな港で起きる話を「待つ」という言葉で貫いているのに、心地良さを感じさせます。
この本の最後に、出版前に読書会を開いて、いろいろな意見をもらったことが紹介されて、参加者の名前がずらりとあげられているのは、どういうことなのでしょうか・・・。これらの人々の感想によってストーリー展開がいくらか変わったということなのか、もっと知りたいと思いました。
今年よんだ本のなかでもイチオシの本の一つです。
(2019年10月刊。1750円+税)

消えた山人、昭和の伝統マタギ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 千葉 克介 、 出版  農文協
私の終わりころから9年間、秋田などの東北の山で活動していたマタギを追った貴重な写真集です。
マタギは、「山をまたぐ」が語源と言われていますが、実際、1日に10キロといわず数十キロも歩いていた。
狩り、ケボカイ(皮はぎの神事)、熊祭り、山の神祭り、小屋かけ、火起こしなど、昭和時代の山中でのマタギの生態が写真によく残されています。忘れてはならない山の狩人たちです。
マタギは産火と死火を忌み嫌い、家で出産や死亡があると、火が穢(けが)れると考え、その家の人間は1週間、狩りに出かけなかった。また、クマ狩りの前の1週間は夫婦の性交渉もできなかった。
マタギには、「狩人」と「狩り」の両方の意味がある。漢字では、古くから「又鬼」と書かれる。
大正・昭和初めのマタギ装束の着方が写真で再現され、解説されています。カモシカの毛皮を上に着ます。背負うのは村田銃です。
クマの胆(い)は、万能薬として珍重され、金と同じ値段で取引されていた。1回に飲む量はゴマ粒3つ。
マタギにとって、クマは捨てるところがなく、クマの骨や血、冬眠時の糞も薬として売られていた。
クマが獲れるのは集落にとって大きな喜びで、老若男女が集まってくる。
クマの肉を骨ごとに煮込み、ナガセ汁をつくる。最高のマタギ料理だ。
マタギは個人であり、集団であり、それを支えてきたのは集落である。
今ではほとんど消え去ったマタギの生態をたくさんの写真とともに解説した貴重な本です。
(2019年8月刊。2500円+税)

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