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「生類憐みの令」の真実

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 仁科 邦男 、 出版  草思社
生類憐みの令から個々の動物に対する愛情はほとんど感じられない。
著者は、このように断言します。ええっ、では一体なぜ、なんのためのものだったの・・・。その謎を解き明かしていく本です。最後まで面白く読み通しました。
徳川五代将軍綱吉は、将軍になる前の27年間、松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と呼ばれていた。娘のほか馬と鶴には特別な愛情をそそいでいたが、それ以外には犬をふくめて可愛がったという形跡はまったくない。
江戸城内に「御馬屋」はあっても「御犬小屋」はなかった。
綱吉は、少年時代から人や動物の死に対する嫌悪感が強かった。12歳のとき、明暦の大火を体験している。このときは綱吉邸も燃えている。死者は10万人をこえ、町には、人や牛馬、犬猫の死体が山積みされた。
鷹狩りの鷹は、犬の肉が餌として与えられていた。
江戸城内には狐が多く、大奥では、狐が嫌がる狆(ちん。犬の種類)を座敷に放して、狐の侵入を防いでいた。
生類憐みの令は、まず、江戸限定の犬の車事故防止・養育令として登場した。当時の江戸には、大八車(だいはちぐるま)が2000台もいた。そして、犬が大八車にひかれて死亡する事故が相次いだ。
町の犬たちは、あらゆる生ゴミを食べるので、町の清潔さを維持することに貢献していた。
大八車による犬や猫の事故については処罰されたが、逆に故意でない人身事故は罪に問われなかった。「人」の生命は軽く、「生類」の生命は重かった。
令が出たことで、江戸の町には人を恐れない犬が次々に生まれていった。
綱吉は、虫を飼うことも禁止した。ただし、江戸限定だった。
綱吉が本当にこだわり続けたのは馬だった。
生類憐みの令の「生類」のなかに「人」はふくまれていない。
綱吉が力をいれたのは「捨て子の保護」ではなく、「捨て子の根絶」だった。綱吉は捨て子を防ぐため、町民の妊娠まで報告させた。
綱吉のころの江戸には、5000人をはるかにこえる非人がいた。
綱吉は理屈を好んだ。少年時代から学問が好きだった。
犬小屋の話は有名ですが、収容された犬は、ストレスから来る病気などのために早死したようです。知らなかったことがたくさんありました。
(2019年9月刊。1800円+税)

暁鐘、革命家・李大釗の物語

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 大川 純彦 、 出版  藤田印刷エクセレントブックス
第二次大戦前、革命前の中国で活動していた李大釗(りたいしょう)の物語です。
1927年4月6日、ソ連大使館に逃げ込んでいた李大釗と李を従う青年19人そして家族やソ連大使館ら60人余りが中国兵に踏み込まれて、逮捕・連行された。当時の北京政府総司令・張作霖の厳命によるもの。もちろん、外国公館への武装立ち入りを禁止する国防法を無視したものだ。ところが、欧米列強は、これを黙認した。ロシア革命が拡大、波及することを恐れていたから。
李大釗らは軍事法廷に引きずり出され、20人全員に死刑が宣告され、その日のうちに絞首刑に処された。李大釗は38歳だった。これは、軍閥政府による共産党大弾圧事件の犠牲者だった。
李は北京大学の図書館長をしていたとき、生活に困っていた毛沢東に図書館の仕事を世話した。周恩来は、北京で李から直接指導を受けていた。
魯迅は北京大学の講師として、李の同僚だった。
孫文が、「国共合作」をすすめるうえで、協議を重ね、信頼していた共産党の指導者は李だった。
李大釗は日本に留学し、早稲田大学政経学科に入学した。李大釗が日本にいたのは1913年から1916年までの3年間ほど。大学のゼミで指導を受けたのは、キリスト教社会主義者として名高い安部磯雄教授だった。安部教授によって李は社会主義への目が開かれた。安部教授は東京の下町である氷川下町でのセツルメント活動をしていて、ロビンソン牧師も一緒だった。
李は中国共産党の命名者でもあった。そして、国民党に入党し、「国共合作」をすすめた。李大釗は孫文と「国共合作」を協議して。その具体化をすすめた。
李大釗の死後、すぐには葬儀すら出来なかった。ようやく葬儀が出来たのは刑死のあと6年もたってからだった。
中華人民共和国が成立するのは1949年ですから、李大釗が亡くなって20年後のことでした。まだまだ厳しい苦難の日々が続いたのです。
李大釗の長女の回想録をもとにした自伝小説風になっていますので、とても読みやすい本です。
(2019年4月刊。1200円+税)

幸福な監視国家・中国

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 梶谷 慎、高口 康太 、 出版  NHK出版新書
中国の地下鉄駅ではX線による荷物検査を受ける。日本の新幹線のような高速鉄道に乗るには身分証の提示が必須。
街中いたるとこに監視カメラがあり、全国で2億台。2020年には6億台になるだろう。
中国をお訪問すると、その監視社会ぶりに驚かされる。
このように現実世界でもインターネット上でも、すべてが政府に筒抜けになっている。ところが、現状を肯定的にみている。これは驚くべきこと・・・。
中国の新・四大発明とは・・・。
1つは高速鉄道、2つはEC(電子商取引)、3つはモバイル決済、そして、4にシェアサイクル。EC、つまりネットショッピングは、全世界の40%を占め、世界一。
淘宝には、客がショップの信用評価をする仕組みがあり、このためショップは懇切丁寧に対応する。ネットショッピングの割合は日本が5.8%、中国は19%と3倍以上。
中国のモバイル決済は2680兆円に達する。そして、この巨大な資金の動きがアリババグループとテンセントの2社に把握されている。つまり、重要情報をこの2社だけで独占している。
アリババグループが展開する信用スコアの芝麻信用は、ユーザーの金融能力を点数で評価する。そのため、借りて返したという履歴を企業に引き渡すことで、自らを優良ユーザーとして証明でき、それが信用評価を押しあげる。
監視カメラは、日本ではひっそり目立たないように設置されている。しかし、中国では、むしろ、これ見よがしに、「監視しているぞ」と誇示する設置の仕方が多い。
住民の道徳的信用スコアは、どうなっているか。一切の違反がないと1000点。A級とは970点以上、850点以上はB級、600点以上をC級。それ以下はD級。
中国のインターネットユーザーは8億2900万人。全国民の60%に相当する。10年前の2008年には、まだ22.6%だった。
IT化の先進国・中国から、日本はいろんな面で大いに学ばねばならない。そう思ったことでしたが、同時に国民のプライバシー保護をどうするか、大きな課題です。
(2019年8月刊。850円+税)

無実の死刑囚、三鷹事件・竹内景助

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 高見澤 昭治 、 出版  日本評論社
三鷹事件が起きたのは1949年(昭和24年)7月15日の夜8時24分。三鷹駅構内の無人の7両連結の電車が暴走し、時速60キロをこすスピードで600メートルを走り、駅構内を突き抜け、駅前の派出所や運送店を破壊したあと、ようやく停止した。その結果、改札口に向かって歩いていた乗降客6人が亡くなり、十数人が重軽傷を負った。
この年は、直前の7月5日に下山事件(国鉄の下山総裁が列車に轢断され、死亡した事件)、1ヶ月後の8月17日には松川事件(列車転覆脱線事故のため運転士ら3人が死亡)が発生している。そして、この三鷹事件については、発生した直後から、マスコミ(新聞)は共産党員による犯行だと報道した。
ところが、暴走電車によって完全に破壊された駅前派出所には警察官は誰もおらず、1人として被害にあっていない。また、事故直後にアメリカ軍のMP(憲兵)が現場に来て暴走電車内に立ち入っているのが目撃されている(その状況写真もある)。事故発生前にアメリカ軍のジープが現場に停まっていた。
当時、日本を占領していたアメリカ軍は、三鷹事件について、いち早く「共産党による破壊工作」と決めつけ、吉田内閣に働きかけて、捜査当局の目を共産党員による犯行へ向けさせた。このことは間違いない。
下山事件は自殺ではなく、他殺。そして、松川事件はアメリカ軍の謀略部隊によるデッチ上げ事件、これが間違いないところでしょう。この三鷹事件も、アメリカ軍による謀略事件の疑いがきわめて濃厚です。
ところが、ひとり竹内景助ばかりは「単独犯」なのか「共同犯」なのか「自白」が変転したこともあり、有罪のまま獄死(病死)してしまったのでした。
事件発生の翌2日である7月17日に、朝日新聞の社説は、名ざしこそしていませんが、共産党員による犯行と言わんばかりですし、毎日新聞にいたっては、「思想的関係のあることが明らかになった」として「極刑にせよ」という見出しをつけています。驚くべき内容の社説です。
では、なぜ竹内景助のみは有罪となって確定したのか・・・。
竹内以外の被告人たちは、無罪をあくまで主張して、がんばった。しかし、竹内はいったん「自白」しているうえ、単独犯だとしたり共同関係にあるといったり、フラフラしていた。そして、弁護士に「だまされた」というのでした・・・。
竹内は、几帳面で真面目な性格の人間だった。
逮捕されたのは8月10日だったから、事件が発生して2週間以上たっていた。
警察からは、松川事件での赤間被告と同じように、叩いたらすぐ壊れる「弱い環」とみられていたのかもしれません。
検察官が竹内に言った言葉を、竹内は詳しく再現しています。
「この野郎、まだ言わんのか。証拠が山ほどあるんだぞ。いくら無罪と言ったって、そんなこと通用するもんか、バカめ・・・。救い難い奴だな、こいつは。このまま死刑にしてやるから覚悟していろ。共産党は、こういうバカばかり集めて、ああいう事件しか起こせないんだなあ、呆れたもんだ・・・。おい、何をボンヤリしてるんだ。その手をようく見ろ、人殺しめ、人の顔なんか見なくてもいい。自分の手をようく見ろ。きさまが殺した手を見ろ・・・。人殺し。おい人殺し。電車がひいたんでも、結局、人殺しだ。それでもまだ白ばっくれているというのか、このやろう。意地でも死刑にしてやるぞ。それだけ頑張るんだから覚悟しているだろうな」
いやはや、とんでもない検察官です。
三鷹事件の「真相」を初めて知ることができました。再審の厚い壁を、ぜひとも乗りこえていってほしいと思います。
(2019年10月刊。2000円+税)

挑戦する法

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 島川 勝 、 出版  日本評論社
著者は20年間の弁護士生活のあと、1992年に裁判官となり、10年間を裁判所で過ごしたあと、法科大学院で実務の教員になりました。今は、また弁護士に戻っています。私は著者が裁判官になる前の弁護士のとき、クレサラ問題に取り組むなかで交流がありました。
著者は裁判官になってから、破産部でサラ金破産を担当しました。破産件数が日本最多のころのことです。そのため効率化が図られ、免責審尋は個別面接する余裕がなく、集団面接という方式となっていました。要するに、個別事情は無視して、裁判官が一方的に「説教」して終わらせるものです。
著者は、それだと破産者に破産原因をきちんと認識することがないため、再度の破産も目立ってきたので、「島川教室」を開設した。単に形式的に不許可事由を尋ねるのではなく、利息の計算方法や破産の原因について、きちんと説明するように心がけたのでした。
このころ大阪弁護士会のクレサラ問題を扱う弁護士の多くは、なんでも一律、簡単に免責を得るのが当然で、倫理性は不要だと声高に主張するばかりでした(私は、当時も今も異論を唱えました)ので、それへのささやかな抵抗を試みていたことになります。
著者は裁判を迅速にする試みのなかで、証拠(証人)調べをするのが2割になっていることを問題だと指摘していますが、これにもまったく同感です。争点を明確にしたうえで、証人を法廷で調べるのは原則として必要なことです。
著者が1992年に裁判官に任官したとき、大阪から他に4人(合計5人)だったそうです。このころは弁護士任官に勢いがあり、裁判所も積極的に受け入れようとしていました。今では弁護士任官は年間5人にもみたない状況です。裁判所が消極的なのです。厳しいハードルを勝手にもうけて、せっかくの任官希望者をふるい落とすものですから、希望者自体が激減しています。大変悲しむべき事態です。裁判所改革は、本当にすすんでいません。
著者は大阪の西淀川大気汚染訴訟の原告弁護団事務局長としても活躍していましたし、青法協(青年法律家協会)の会員でもありました。そんな経歴の弁護士が裁判官に就任したというので大変注目されました。期待にたがえず10年間の裁判官生活をまっとうし、このような立派な本を刊行したわけです。そのご苦労に心より敬意を表します。
(2019年11月刊。3800円+税)

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