法律相談センター検索 弁護士検索

バルセロナで豆腐屋になった

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 清水 建宇 、 出版 岩波新書
 ええっ、こんなタイトルで岩波新書になるの…、それが読む前の第一印象でした。
 読み終わってみると、違和感はきれいさっぱり消えていました。サブタイトルは「定年後の『一身二生』奮闘記」となっています。朝日新聞の記者が定年後、スペインのバルセロナで豆腐屋を開業して10年間がんばった体験記です。家業が豆腐屋というわけではありません。それなのに、なぜ豆腐屋を、それもスペインのバルセロナという地方都市なんかで…。
 著者は記者時代、ヨーロッパ絵画の特集記事のためスペインにも行っています。 そのとき、どこよりもバルセロナが気に入ったのでした。街が美しく、食べ物がおいしい。そして、アジアから来た異国の人という奇異の目で見られることがなかった。これが、バルセロナを気に入った理由です。
 では、なぜ豆腐屋なのか…。豆腐や油揚げ、納豆が大好きなので、それなしの生活は考えられない。ならば、自分でつくってやろう。いやはや、とんだ(飛んだ)思考法ですね。私にはとても真似できません。大学生の長男、中学生の長女、次女に計画を話すと、すんなり受け入れられた。その前に妻(カミさん)の了解は得ている。
 2010年4月、62歳のとき、バルセロナで豆腐屋を開業した。今から15年も前のことなのに、とても詳細かつ具体的に話が展開していくのに驚きます。当時のメールやら計画書、領収書などが全部保存されていたからのようです。さすがは元記者ですね。まずは豆腐づくりの修業です。もちろん日本でします。
 油揚げの生地は、豆腐よりはるかに薄い豆乳でつくる。凝固せず、無数の小片が浮かんでいる状態にしてから水を抜き、型箱で固める。それを短冊状に薄く切り、最初は低温で、次に高温で揚げると、ふくらんでキツネ色になる。油揚げの生地の固さは、親指と人差し指で押して確かめる。がんもの生地は練っている途中でヘラを突っ込み、その手ごたえで判断する。大豆の煮え具合いは湯気のにおいでつかむ。青臭いにおいがするうちは、まだ煮えていない。甘いにおいがするようになれば出来あがりだ。豆腐づくりは全身をセンサーにしてやる仕事。手ごたえやにおいは数字に出来ないから、書くことも出来ない。途中からメモ帳とペンの出番はなくなった。
 なーるほど、手指の感覚にモノを言わせるのですね。私には出来そうもありません。
 著者の妻は佐賀市出身、名門の佐賀西高卒です。バルセロナでは鍼灸師そしてヨガの師匠として活躍しました。
豆腐屋の朝は午前5時起床に始まる。そして、店に着くと豆腐づくりを開始。午前中の販売を終えて、午後3時に一日で最初の食事をとる。
 ええっ、大丈夫なの…と驚くと、なんと著者は体重92キロだったのが、豆腐屋を始めて75キロまで落ちたとのこと。つまり、肥満だったのです。1日2万歩も歩いたそうです。
 豆腐屋には一年中、完全な休日というものはない。丸一日オフとなるのは、年に数回ある連休の初日だけ。忙人不老。忙しい人は老(ふ)け込まない。
 「あなたは、なぜその仕事を辞めないのですか?」
 この質問に対する答えこそ、職業選択の参考になる。なるほど、そのとおりでしょう。五大ローファームに入って企業法務の大きな歯車の一つになって何十年もして、果たして人生に満足できる人がどれほどいるか、私には疑問でなりません。
 奥付の上に著者紹介があり、はたまた驚きました。なんと、私と同世代(正確には私より1年だけ上)、団塊世代なのです。『論座』の編集長、「ニューステーション」のコメンテーター、論説委員を経たあと、スペインで豆腐屋を開業したわけです。その勇気と行動力に対して、心より敬意を表します。
 面白い本でした。
 
(2025年1月刊。960円+税)

ルポ・京アニ放火殺人事件

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 朝日新聞取材班 、 出版 朝日新聞出版
 2019年7月18日、京都アニメーションの第1スタジオの正面入り口から入って、バケツに入れたガソリン10リットルをまいて放火し、たちまち3階建てのスタジオを全焼させた。このとき70人いた社員のうち36人が殺され、32人は重軽傷を負った。犯人の青葉真司(当時41歳)も大火傷して逮捕された。
 火傷の回復を待って青葉被告の裁判員裁判は2023年9月に始まり、23回におよぶ裁判があり、被害者遺族が次々に被告人に質問した。
 青葉被告の弁護人は責任能力のないことを主張したが、判決では責任ありと認定され、死刑判決が下された。
青葉被告の両親は父親のDVによって母親が逃げ出し離婚したあと、無職の父親が兄と本人、そして妹の3人と一緒に暮らしたが、絶えず父親に殴られる生活を送った。青葉被告が21歳のとき、父親は亡くなった。
 青葉被告はコンビニで店員として働いたり、派遣社員になって工場で働いた。やがてネットのゲームにはまり、昼夜逆転の生活を続けた。そして2012年にコンビニ強盗事件を起こして実刑判決を受け、刑務所に入った。刑務所生活のなかで京アニの作品を鑑賞し、自分もノートに小説のアイデアを書いていった。
 2016年、長編小説を京アニ大賞に送って落選。2018年11月、京アニ作品をテレビで見て、自分の小説に書いたアイデアが盗用されたと思った。
 「小説がつっかえ棒だった。そのつっかえ棒がなくなったら、倒れるしかない。どうでもいいやと思った」
 犯行直前、京アニ近く、現場脇の路地に腰かけ、十数分間、考えごとをした。
 「自分のような悪党にも、少なからず良心の呵責(かしゃく)があった」
 法廷で次のように答えた。
 「底辺は押し付けあい。押し付けあいの世界は、食いあいになっている世界で、どう生きるかしか考えていなかった」
 判決は2024年1月25日。朝から京都地裁周辺は雪がちらついていた。
 この本によると、被害者遺族に3回も被告人質問をした人がいるそうです。よほど納得できなかったのでしょうね。そして、意見陳述もしていますので、5回も法廷に立ったとのこと。
 大変むごい、残酷な放火大量殺人事件です。その犯人の人間像を明らかにするのは、この日本社会の病巣を究明するという大きな意味があると思います。再び起こしてはいけない犯罪ですから…。
(2024年11月刊。1980円)

裁判官、当職もっと本音が知りたいのです

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 岡口基一・中村真ほか 、 出版 学陽書房
 九弁連主催の研修会で著者たちが語ったものが第一部となり、第二部として追加の座談会がもたれ、そこでの問答が紹介されています。とても実践的な内容で、すぐ今日から役に立ちますので、本書が発刊後たちまち増刷されたというのも納得です。
 裁判官には二つのタイプがあること、高裁(控訴審)の1回結審を前提として、控訴理由書をどう書くか、裁判官はどのように事件を処理しているのか、まさしく弁護士なら誰でも知りたいことが明らかにされています。
 私は長らく裁判官評価アンケートに関わっています。この回収率は単位会によってひどいアンバランスがあります。宮崎の9割、熊本の8割が突出していますが、福岡や北九州では2割に達しません(筑後部会だけは5割)。回答率が低い理由の一つに、担当裁判官の氏名を知らないので、アンケートに回答できないということがあげられます。自分の裁判を担当する裁判官の氏名を知らないということは、裁判官のタイプそして傾向も知らないということです。でも、裁判官の性向を知らず、自分の言いたいことを言ったら、あとは裁判官にすべておまかせというのはプロフェッショナルの弁護士としてあるまじきことなのです。ぜひ、裁判官評価アンケートにも協力してください。
 裁判官には、相対的真実派と実体的真実派の二つのタイプがある。これを見分けるには、日頃から裁判官について情報を共有すること。そうなんです。裁判官をよく見きわめる必要があるのです。「敵」を知らずして勝てるはずはありません。
 主張は要件事実でいき、立証はストーリーでいく。
準備書面にアンダーラインを引いておく必要はない。普通の文章を普通の感じで書くのが一番。読み慣れている書式が一番。といいつつ、この本は大事なところは、ゴシック(太字)になっています。
 攻撃的な表現の書面は裁判官は迷惑に感じるだけ。
書面は短いにこしたことはない。意味もなく長いのは時間のムダ。
 裁判官は1週間前に提出されると1回目はざっと見て、期日の前日にちゃんと読む。1週間前に提出されると、裁判官は考える時間が確保できる。期日の直前に提出する弁護士が今なお少なくありません。当日の朝に提出されることも珍しくはありません。私は1週間前の提出励行を心がけています。
裁判官は証拠はあまり見ないが、証拠説明書はしっかり見ている。
 裁判官は訴状でファーストインプレッションを持つ。そして、しばらくその心証に拘束される。
 とはいえ、証人尋問によって裁判官が心証を変えることはよくある。本人の顔を見て人柄を見抜く。尋問で、裁判官は自分の心証に間違いないかを検証している。
 陳述書で裁判官の心証をとり、尋問には頼らない。陳述書が始まったときは、私も大いに懐疑的でした。でも、今は活用しています。やはり、なんといっても便利なのです。
 裁判官にとって、当初の心証が変わらない事件は多い。
控訴審裁判官は、起案マシンのように毎日起案を強いられているので、基本的に控訴棄却、原判決維持で書きたいもの。
最終準備書面は、証拠評価であれば、裁判官は参考にする。新しい主張であれば時機に遅れたものとして、問題にもされない。
 裁判官は録音は聞かないが、短い動画なら見る。
 控訴審において、原判決の心証をいかに崩していくかも語られていて、いくつかのパターンが紹介されています。大変勉強になりました。
この本の作成にあたっては佐賀の半田望弁護士が大活躍しています。
(2025年3月刊。3300円)

日本弁護士総史

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 安岡 崇志 、 出版 勁草書房
 江戸時代に公事師(くじし)がいて、公事宿(くじやど)があったことは小説にも描かれていて、今ではかなり知られていると思います。ところが、この公事師を幕府は禁止していたとか、不当に軽く低く評価する人がいます。私は、いろいろの文献を読んで江戸時代の裁判手続において、公事師・公事宿の果たした役割は決して軽視すべきものではないと考えています。この本も、私と考えが共通しているようで、安心しました。
 「公事宿・公事師は長い間、法制史・近世史の研究から打ち捨てられていた」
 しかし、今では、「江戸時代の公事師や公事宿があまねく存在し影響を及ぼしたことにより、19世紀最後の四半世紀に劇的な法の変化への道が開かれた」として、積極的に評価されるようになっているのです。そして、明治以降の日本の法制度は、江戸時代の法制度と明らかに連続面をもっているとまで指摘されています。日本人の心性が明治ご一新の前後で、まったく異なったなど言えるはずはないのです。
 そして、明治になって、初代の司法卿(法務大臣)になった江藤新平(佐賀戦争で敗れて大久保利通によって刑死)が民事訴訟に関する手続きを整備し、代言人に関する規則を定めました。
 明治の初めに代言人となった人々は、江戸時代の公事宿・公事師の流れをくむ人だったと考えられる。つまり、訴訟代理の実態は、江戸から明治への「地続き」でした。
代言人が誕生して3年半後の1876年2月、司法省は代言人規則を制定した。
 1876年に代言人の免許をとったのは、わずか174人。しかし、この当時民事訴訟(新受件数)は32万件もあった。つまり、無免許の代言人がほとんど代人として訴訟を請け負った。1880年7月、東京に代言人組合が誕生した。
 1890年7月の第1回衆議院議員選挙のとき、300人の当選者のうち25~31人が代言者だった。
1893年5月、弁護士法が施行され、代言人は弁護士登録し、弁護士会を設立した。
 代言人は、フランスの訴訟代理人の訳語として福沢諭吉が考え出したとされる造語。弁護士は、漢籍にもある古い「弁護」と「士」を組み合わせた半造語。
「三百代言」は下賤(げせん)な代言人を「三百」として、「安物」と見下したコトバ。
 1896年6月に結成された日本弁護士協会は任意団体だったが、職能団体として時代に先駆けた功績をいくつもあげている。あとになって、弁護士法施行後の明治期を「黄金時代」だったとされた。(島田武夫・1958年度日弁連会長)。
 1918年7月、富山県で半騒動が勃発したとき、日本弁護士協会は全国調査に乗り出し、総会で決議を採択した。
 1933年当時の弁護士について、「弁護士には家主が家を貸さない。米屋からも酒屋からも鼻つまみにされる。既に人心を失った」とされた。「三百追放」は実現したが、弁護士層全般が下り坂になってしまった。
 1929年、弁護士が背任、横領詐欺などで20人も逮捕された。1930年、日本弁護士協会が弁護士の経済状況をアンケート調査した。それによると、収入平均額は年2700円で、検事の平均俸給の8割程度だった。弁護士の6割近くが「弁護士純収入だけでは生活費をまかなえない」と回答した。金融恐慌の影響だとみられる。同時に、弁護士人口の過剰。毎年250人から350人増えていて、訴訟事件が減少していた。過当競争があり、非弁護士が暗躍していた。非弁取締の法律が1936年4月から施行された。
明治から終戦まで、弁護士がもっとも多かったのは1934年の7082人。翌1935年もほぼ同数の7075人。ところが、1936年に5976人に急減する。1937年から1938年にかけても945人減って、4866人になった。このように会員が減少したのは、①戦時の進行で国民の権利主張が圧迫され、弁護士の活動範囲が狭くなった。②満州国へ転出していった。③応召によって軍務についたほか、司政官となったなどがあげられる。
江戸時代の公事師、明治になってからの代言人、そして戦前の弁護士の実情がよく分かります。
(2024年12月刊。4400円)
 一気に春めいてきました。団地の桜も気がつくと3分咲きです。日曜日の朝、庭に出るとチューリップ1号が咲いています。午後に帰って庭に出ると、至るところにチューリップが咲いていました。一気に開花したようです。今年は地植えのヒヤシンスが見事に咲いてくれました。紅、ピンク、黄色の花が華麗に咲きほこっています。
 庭にジョウビタキがやってきました。そろそろお別れです。旅に出る挨拶に来てくれたようです。春はいいのですが、花粉症に悩まされ、目が痛く、鼻水したたるいい男なので、辛いです。

江戸の犯罪録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松尾 晋一 、 出版 講談社現代新書
 長崎奉行「犯科帳」を読む、というのがサブタイトルなので、出島があり、オランダとの貿易の窓口になっていた長崎ならではの密貿易犯罪が多く紹介されています。
ところで、「犯科帳」とは、そもそも何なのか…。
 この新書が扱っているのは長崎奉行所での審理にもとづく刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記録されている。期間は1666(寛文6)年から1867(慶応3)年までのもので、145冊ある。
長崎奉行は単独で判断を下すことはできず、必ず上級機関の指示を仰ぐことになっていた。刑事案件については、老中から幕府評定所に下付され、評定所において評議が行われ、その結論が老中にあげられるという手続きだった。
 そして、江戸に伺いを出すときには、長崎奉行は事件の経緯をまとめた報告書に加え、その判決案も添えていた。ほとんどの場合、判決案はそのまま採用されたが、なかには覆されることも時々あった。
 有名なジョン万次郎も日本に帰国したときは、長崎に送られ、揚屋(あがりや。上級身分の者が拘束された)に入れられて取り調べを受けている。
 長崎奉行は原則2人。1人が江戸にとどまり、1人が長崎に常駐する体制がとられている。奉行に伴われて江戸から長崎に派遣される武士は多くはなく、200人ほどで、年々、減っていった。
 通事は通訳するだけでなく、唐人関係の捜査権も付与されていた。
長崎は、幕府にとって「頭痛のタネ」だった。長崎で死亡した長崎奉行も数人いる。
 長崎では公事方御定書が軽んじられる土地柄だった。
長崎には、「ケンカ坂」と呼ばれる坂がある。1700(元禄13)年12月19日に発生した大ゲンカでは、28人が裁かれ、うち18人が死罪となった。これは、鍋島藩の家臣と長崎の町年寄をつとめる名家の下人との大乱闘事件。
 オランダ船を舞台とする抜け荷(密貿易)は多かった。
 1732(享保17)年秋から翌18年の春にかけてウンカ類が大量発生し、西日本は大飢饉となった。そこで、長崎奉行は諸国の米を長崎に送られ、なんとか一人の餓死者も出すことはなかった。しかし、住民の不満から米屋の打ちこわしが起きた。
 1667(寛文7)年には朝鮮への武器輸出が問題になった。
 1675(延宝3)年には、唐船を購入してカンボジアとの交易を図ったことが露見した。信じられないような密輸事件が起きていたのですね…。
 本来、抜荷は発覚したら死罪だったが、将軍吉宗は罰則を寛刑化した。罪人に自訴(自首)を促し、それで抜荷を抑制しようとするものに変わった。死を覚悟しても抜荷するのは、なんといっても利益が膨大だったから。元手の8倍もの利益が上がることがあった。
 1686(貞享3)年、オランダ人8人が関わる密貿易事件が起きた。このとき日本人が28人も関与していたし、日本人には死罪が命じられた。
 朝鮮へ渡海して、人参を買い求めて日本で高く売ろうとする人々もいた。仕入れ値の6倍で日本で売れた。偽(にせ)人参として、桔梗(ききょう)の根を売りさばいた悪人もいた。
「犯科帳」には、長崎で起きた事件であっても、必ずしもそのすべてを記録したものとは言えない。
 「犯科帳」は、現在の犯罪書のような、当時の長崎における犯罪とその処罰が整理され、系統書に記された記録だとは単純に言いきれない。
長崎の遊廊は、丸山町の遊女屋30軒、遊女335人、寄合町には遊女屋44軒、遊女431人いた。遊女は基本的に自由に遊郭を出入りできていた。
 長崎をめぐる犯罪、そして処罰の実例がよく分かって勉強になりました。
(2024年10月刊。1200円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.