法律相談センター検索 弁護士検索

「戦争は女の顔をしていない」

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 小梅 けいと 、 出版 KADOKAWA
独ソ戦を舞台とする原作(岩波書店)は、このコーナーで前に紹介したと思いますが、女性と戦争との関わりが深く掘りさげられていて刮目すべき衝撃作でした。そんな深みのある労作がマンガ本になって、視覚的イメージでつかめるなんてすごいことです。作画者に心より敬意を表します。
独ソ戦で、ナチス・ドイツと戦ったのは男性だけではなかったのです。大勢の女性兵士が参加していました。狙撃兵として名をあげた若い女性が何人もいますし、飛行機パイロットにも勇敢な女性飛行士たちがいました。ドイツ軍に捕まれば、もちろん男性兵士以上に性的虐待がひどいうえに殺されてしまいます。それでも、彼女らは最後まで戦ったのです。
もちろん、後方支援というか、傷病者を手当てする看護兵もいましたし、洗濯部隊までいたのです。洗濯機なんかありませんので、すべて手で洗います。石けんは真っ黒で、手が荒れてしまいました。
狙撃兵は2人1組で、朝も暗いうちから夕方暗くなるまで、木の上や納屋の上に登って気づかれないようカムフラージュしてじっと動かないで敵のドイツ軍を見張る。
食糧がなくなり、戦場にでた子馬を殺したときには可哀想ですぐには馬肉シチューが食べられなかった。
女性兵士には男物のパンツをはかされていた。生理用品もなかった。若い女性兵士にとって恥ずかしいという気持ちは、死ぬことより強かった。
戦後、かつての女性兵士が取材にこたえてこう言った。
戦争で一番恐ろしかったのは、死ではなく、男物のパンツをはいていることだった。
『独ソ戦』(岩波新書)も大変すぐれた本ですが、このマンガ本や原作を読むと、もっと独ソ大戦争の悲惨な実相がつかめると思います。一読を強くおすすめします。
(2020年2月刊。1000円+税)

古川苞―その不屈の生涯

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 藤田 廣登 、 出版 国民救援会葛飾支部
苞って漢字、読めませんよね。しげる、と読みます。古川苞は三・一五事件で逮捕された1600人のなかの一人でした。
三・一五事件とは、1928年(昭和3年)3月15日の未明、1道3府27県において、特高警察によって全国一斉に共産党とその同調者と目された人1600人が治安維持法違反として検挙された事件です。この年、初めての第1回男子普通選挙が実施され、労農党が躍進し、山本宜治も当選しました。3月15日というのは、この選挙直後のことです。
古川苞は1906年(明治39年)に北海道・小樽で生まれました。父は公務員で転勤が多く、古川は東京で小学校、そして東北の山形中学、山形高校を卒業して、1926年に東京帝大に入学しました。文学部社会学科です。
亀井勝一郎と山形高校で同学年で、亀井も古川も東大新人会に加入しました。そして、古川は墨田区柳島元町で活動していた帝大セツルメントに参加したのでした。
この帝大セツルメントでは、労働者に社会科学を教える「労働学校」の人気が高かったのですが、古川は「市民学校」という地味な活動分野を選びました。セツルメント市民教育部に所属し、中等課の講師を引き受けたのです。
私も古川の40年後の1967年にセツルメントに入り、川崎市幸区古市場(ふるいちば)で、若者サークル活動をしていました。セツルメント青年部です。そこで、大いに学び、目を開かされました。
古川のセツルメント「市民学校」には、東京モスリン亀戸工場働く人たちも生徒にいたようです。この工場では、1926年7月に総同盟の指導するストライキが起きたのです。
セツルメントではセツラーネームというものがあり、私は高校生までの坊主頭が過渡期でしたので、マンガの主人公と同じイガグリと呼ばれました。古川は「コモさん」と呼ばれていたそうです。
古川は、生活が実に几帳面で、まじめだったけれど、社会人生徒に冗談を言って笑わせ、教室はいつも明るい雰囲気だったとのことです。
私は、昔も今も、人を笑わせるのは、あまり得意なほうではありません。
古川は、柳島町にあった帝大セツルメントの宿泊所に寝泊まりしてセツルメント活動に打ち込みました。私も、川崎に下宿しながらセツルメント活動を続けましたので、大いに共通するところがあります。
飯島喜美という若い女性も帝大セツルメントと接触して目ざめ、16歳で賃上げストライキの先頭に立ちました。この飯島喜美はモスクワのプロフィンテルン大会にも参加し、報告していますが、帰国して活動中に特高警察に逮捕され、激しい拷問を受けた末、1935年12月に24歳という若さで獄死してしまいました。
三・一五事件で逮捕されたとき、古川はまだ帝大生であり、警察のブラックリストにのっていなかったので、29日間の勾留で釈放されます。そして、1929年に再び四・一六事件で、特高による全国一斉検挙があり、古川も再び逮捕されました。このときは、小松川警察に40日間も勾留されて拷問を受けたことから、心臓脚気が悪化したことから釈放され、自宅(郷里の山形)に戻りました。
やがて、健康を回復すると、古川は、共産党中央部の秘密印刷所の任務についたのでした。当時は、私のセツルメント活動のころもまだそうでしたが、ガリ版印刷です。古川は、ガリ切りがうまかったのです。
そして、1930年2月に「二月事件」で逮捕され、今の中野区にあった豊多摩刑務所に入れられます。さらに市ヶ谷刑務所に移されたあと、古川はハンガーストライキを始めました。病気が悪化して、執行停止となり、古川は自宅に戻ることができました。古川は無口で、不言実行型の青年だったので、まもなく活動を秘密裡に再開します。
1934年6月、自転車に乗って移動中、古川は江島区大島で検挙されました。実に4度目です。古川は獄中でも完全黙秘を貫いて、がんばりました。しかし、腸結核のため、自宅に戻され、そこで1935年12月15日に亡くなったのです。29歳でした。
青砥(あおと)無産者診療所が1930年8月に設立したときには、古川の父親が200円も拠出したそうです。
セツルメント活動のなかで社会の現実を識り、自覚して立ち上がった偉大な先輩の話を知り、胸が熱くなりました。わずか56頁の小冊子ですが、よく出来ていると思いました。救援会の皆さん、これからもともに不当な弾圧を許さない取り組みをすすめましょう。
(2018年12月刊。300円+税)
 木曜日の朝8時半、隣の駐車場の奥にある草ヤブからタヌキが1頭出てきました。丸々ふとった親ダヌキです。昔からタヌキ一家がこの草ヤブに棲んでいたことは分かっていましたが、白昼堂々と出現してきたのには驚きました。
 いつもネコが団地内を同じように巡回するのですが、ネコの姿は見かけません。タヌキはゆったりした足取りで坂道をのぼり、団地内を悠然と歩いていきます。
 やがて、巡回が終わったようで、草ヤブに戻っていきました。
 いったい何をしたのでしょうか…。不思議です。
 火曜日に東京の日比谷公園に行って桜が満開なのに驚きました。私の町ではまだ二分咲きです。そして、花壇のチューリップが全然咲いていません。わが家は、それこそチューリップは満々開です。東京と福岡では、こんなに違うのですよね…。

子ども福祉弁護士の仕事

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  平湯 真人 、 出版  現代人文社
 養護施設の子どもたちは経済的な自立の困難をかかえている。小さいときから、まわりの大人との信頼関係をもつことが出来ないため、人生に自信がなく、肯定感がもてない、自分が尊重されたという実感がもてないことが少なくない。大人が子どもにしなくてはいけないことは、子どもが生きていく自信をつけること…。
非行に走った子どもにとって、その行動への反省が大切なことは言うまでもない。しかし、問題は、反省する力を、そのようにして培(つちか)うか、ということ。これまで大切にされたことのない子どもは、すぐには反省することができない。子どもの首根っこを抑えて頭を下げさせるのが反省ではない。人間が自分の行動を反省できるためには、一定の成熟が必要であり、反省する本人の成長を認めてやれる環境が不可欠だ。
どこまでも子どもを権利の主体として扱い、その権利の実現のために働く大人の姿が求められている。このような役割をする弁護士が子ども福祉弁護士だ。
今年、喜寿になった平湯弁護士は、23年間は裁判官として事件に向きあい、48歳からは弁護士として子どもに向きあってきた。
著者は、幼い子どものころ、母の売り上げた納豆の代金の一部をかすめて自宅近くの駄菓子屋でお菓子を買った。両親はそれを知っていたが何も言わず、著者を叱りもしなかった。そこで、著者は考えた。子どもには考えたり、迷ったりするのに十分な時間が保障されるべきだ。子どもを叱ることなく、子どもが自分で考えて、どうすることを決めていくことの大切さを著者は両親から教えてもらった。
私より6歳年長の著者とは、著者が福岡地裁柳川支部の裁判官時代に面識がありました。そして、このとき、赤旗号外を配りながら「演説会に来んかんも」と声をかけた松石弘市会議員が公選法違反で起訴された事件で、公選法は憲法違反なので無罪とするという画期的な判決を書いたのでした。
著者は、弁護士になって子どもの権利委員会に所属して活動するようになり、国会で、子どもの虐待に関して3回、参考人として意見を発表することがあった。すばらしいことに、これらの意見発表の多くが立法化されたというのです。すごいです。
平湯弁護士は、現場を踏まえて法や制度を変えていくのも「子ども福祉弁護士」の役割だと強調します。
千葉で起きた「恩寵園事件」の取り組みが紹介されています。園長一家が収容されていた子どもたちを虐待していたという事件です。子どもたちが集団脱走して児童相談所に駆け込んだのに、千葉県は口頭指導しただけで子どもたちを園に戻してしまいました。行政のことなかれ主義のあらわれです。
ところが、新聞記事を読んで、現場に飛び込んでいった弁護士たちがいました。山田由紀子弁護士や平湯弁護士たちです。その行動力には本当に頭が下がります。そして、子どもたちを一時的にしろ受け入れた大人たちがいました。
この本には、そのときの園児たちが、今では子をもつ親となって、当時の悲惨な状況をどうやって切り抜けたのかを語っています。感動的な座談会です。平湯弁護士が、当時の園児たちに、子どもにとっての「ふつうの生活」とは、どういうものかと問いかけています。
・ 脅えながら生活しないこと。
・ 愛のある生活のこと。
・ 落ち着いて静かに暮らして、時間が来たら、「やったあ、ご飯だ。うれしいなあと感じる生活。
 なるほどですよね。たくさんのことが学べた本でした。
熱意と包容力、子どもに対する揺るぎない温かな眼差しをもつ人として、平湯弁護士が紹介されていますが、まったく同感です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2020年2月刊。2200円+税)

マトリ

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 瀬戸 晴海 、 出版 新潮新書
ひところは刑事の国選弁護人になると、覚せい剤事犯が大半でした。その後、激減したのですが、近ごろ、再び覚せい剤事犯が少しずつ増えています。
マトリとは厚労省の麻薬取締官のことです。
マトリには300人の麻薬取締官がいる。その半数以上が薬剤師。
1980年ころは、毎年2万人以上が覚せい剤で検挙されていた。このころは、覚せい剤のほかは大麻やコカインなど5種類ほど。私も大麻事案は扱いましたが、コカインはありません。
ところが、今では、危険ドラッグや向精神薬など40種類をこえる。そして、最近は、検挙者数こそ年間1万人台だが、事態はより深刻化している。
覚せい剤は、2016年に押収されたのは1.5トンで最高だったが、2019年にも1トンをこえた。想像以上に海外から覚せい剤が持ち込まれていると考えられている。
麻薬産業は世界規模のビジネスとして確立している。アメリカ、カナダ、ベトナム、セルビアなど多国籍のメンバーが薬物密輸にからんでいる。
日本では薬物事件の80%は覚せい剤だが、これは世界的には珍しいことだ。
そもそも覚せい剤は、日本で初めて合成された有機化合物だ。
覚せい剤は、末端価額が1グラム6~7万円。これは東南アジアの相場の5~10倍。密輸入価格は1キロ1000万円だったのが、500~700万円に下がった。輸入価格が下がれば、暴力団のもうけは大きくなる。
検挙者は年間1万人だが、実際の使用者20万人はいるとみられている。
覚せい剤の製造には一定の技術が必要で、つくるとき特有の臭いが発生するため日本で密造するのはリスクが大きすぎる。そこで、日本の暴力団はすべて海外に依存している。そして、日本に運び込むため、事情を知らない女性が使われることも多い。
1963年ころの日本には、大小5000をこえる暴力団組織があり、構成員は18万人以上だった。それが2018年末には暴力団員は1万5600万人、準構成員1万4900人と激減している。
最近はインターネットを使った売買が多い。また、大麻を自宅で栽培している若者も目立つ。
マトリが活躍する必要なんかない社会を目ざしたいものなんですが…。
(2020年2月刊。820円+税)

地域から創る民主主義

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 宮下 和裕 、 出版 自治体研究社
いまは「危機とも転換ともなりうる、せめぎあいの新しい時代」だと、この本にこう書かれていますが、まったく同感です。
臆面もなく嘘をつき通し、証拠はすべて「処分」して国民の目にふれないようにして、追及されたら平然と開き直るアベ政治がまかりとおっています。少なくない国民は怒っていますが、「多く」の国民は、またかと呆れ、怒りを表明することがありません。でも、いつまでもこんな状態が続くほど日本国民はバカではないと私は確信しています。今は、政治の大転換の直前にあると自分によくよく言い聞かせているのです…。
著者は、日本国憲法がなぜ70年も続いたのかを改めて考えています。
憲法制定時の主要な政治勢力、GHQも日本政府も、そして共産党も、誰も憲法がこんなに70年も存続するとは思っていなかった。憲法制定にかかわったGHQ、マッカーサーや日本政府、政権担当者によって、早くもその制定直後に見捨てられた日本国憲法なのに、なぜ70年も改正されることなく続き、成文憲法としては世界で最長命の憲法となったのか…。
それは、憲法自身が、人類の、世界の到達点を示すものであり、日本国民とアジアの民衆の願いに合致していたから…。
まったく、そのとおりです。歴代の自公政権によってキズだらけにされてはいますが、今なお9条ふくめ、しっかり生きていると言うことができます。私たちの毎日の暮らしと平和をギリギリのところで守ってくれているのが、今の日本国憲法です。
1968年6月に、アメリカ軍のファントム戦闘機が九大構内に墜落したとき、著者は九大の全学自治会副委員長(あとで学友会中央執行委員長)でした。つまり、九大ジェット機墜落事故に関する抗議行動の先頭に立っていたのです。
2019年6月には、九大でかつては反目しあっていた学生運動各派が思想の違いをこえて統一集会をもったことも紹介されています。「暴力」の問題は簡単にタナあげすることは出来ませんが、考え方の違いはわきに置いて、今のアベ政治は許さないという点で一致した集会として成功したようです。といっても、みんな70歳をこえています。今の若い人たちに、この成果をどうやって伝承するかが私たちの切迫した課題となっていると思います。
大牟田出身の著者は自治体問題を扱う団体の専従事務局長として長く活躍してきました。この3年間の論稿をまとめて本にしたものですが、これで6冊目とのこと。地方自治と日本の民主主義の発展のために今後ひき続き活躍されんことを心から願っています。
(2020年3月刊。2000円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.