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当世出会い事情

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 アジズ・アンサリ 、 出版 亜紀書房
スマホ時代の恋愛社会学というサブタイトルのついた本です。
スマホ時代になって、不倫の立証はかなり容易になってきました。だって、不倫相手とのやりとりが残っている(写しとられる)ことが多いからです。しかも、その会話は性的に露骨ですし、写真のやりとりも多いからです。
セクスティングというコトバを本書で初めて知りましたが、このコトバを知る前にその理由は見聞していました。
セクスティングとは、デジタルメディアを通じて、露骨に性的な画像を共有すること。
なぜ人々はセクスティングをするのか?
パートナーと親密さを共有するため、性的な魅力をアピールするため、パートナーの求めに応じるため、遠距離をこえて愛情を保つため…。
ところが、親密な時を分かちあう贅沢とプライバシーを与えてくれるテクノロジーが、その一方で、悲しいことに、パートナーの信頼を大きく裏切る行為も可能にしてしまう。
世間には、性的に健全で、まともな人間はセクスティングなんかしないと考えている人も多いが、実際には、そうではないという証拠が山ほどある。
大人たちがセクスティングの危険をどう考えようと、若者たちのあいだでは、それがどんどん普通のことになりつつある。
スマホによって浮気も簡単に可能になった。アメリカで恐ろしいほど人気のある出会い系サイトは会員数1100万人だ。3年前に850万人だったのが急増している。ここのモットーは、「人生一度。不倫をしましょう」だ。
SNSが浮気を簡単にできるようにした半面、そのためにはいっそう発覚しやすくもなった。
ちなみにフランスでは、政治的リーダーが少なくとも愛人をもち、そしてしばしば第二の家庭まで築くものだと、国民の多くが理解している。フランソワ・ミッテランが大統領だったとき、愛人と娘がエリゼ宮にしばしばやってきていた。エリゼ宮には正妻と子どもたちがいることを承知のうえで…。そして、ミッテランの葬儀のとき、第一家族の横に第二家族が並んで座った。
うひゃあ、そこまですすんでいるのですか…、知りませんでした。
出会い系サイトにアップする写真についてのコメントもあります。
女性の場合には、カメラに向かって誘いかける感じのほうが成功率が高い。ところが、男性のほうは笑わずに視線をそらしているほうが、ずっと効果をあげる。女性にとってもっとも効果的な撮影アングルは、正面からの自撮りで、ちょっとはにかんだ表情を浮かべ高い角度から撮るのがいい。男性では、動物といっしょの写真がよく、もっとも効果が薄いのは、アウトドア、飲酒、旅行の写真。
世の中、スマホですっかり変わってしまいました。
(2016年9月刊。1900円+税)

植民地支配下の朝鮮農民

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 樋口 雄一 、 出版 社会評論社
日本が戦前、朝鮮半島を植民地として支配していたときの実情を詳しく調査した本です。
日本の植民地下の朝鮮の人口の8割は農民であり、2500万人の2割、500万人もの人々が日本だけでなく、中国東北部(満州)や中国、そして南洋へ移動した。それは16歳から50歳までの稼働労働人口だった。その主たる要因は食の窮迫にあった。
朝鮮総督府のレポート(1941年版)にも、食糧の不足から、人々は食を山野に求めて草根木皮を漁り、かろうじて一家の糊口をしのいでいるとしていた。
当時の朝鮮の乳幼児の死亡率は30%ほどで、2歳か3歳まで生きていて初めて出生届をした。なので、平均寿命を統計的に明らかにすることができなかった。
本書が分析の対象としている江原道は、平均寿命が43歳と低かった。
江原道は高地が多く、冷害の被害を受けやすかった。自作率の高いことが特徴。
江原道は、畑作地帯で、大豆・小豆とも良質の品種がとれた。農家の半数は牛を飼養していて、養蚕も盛んだった。
朝鮮社会の主食は87%が混食で、米や麦も粟などと一緒に炊かれていた。魚も肉もほとんど食べられず、副食はキムチと味噌が大半だった。
トウモロコシとジャガイモだけでは人々の成長は遅く、皮膚病にかかりやすかった。
江原道でも蜂起があり、日本軍と戦った。蜂起には5千人以上が参加し、銃器も3千丁ほど所持していた。しかし、日本軍は砲兵隊や機関銃をもち、最新式の軍隊だった。
蜂起軍は、「暴徒」というレベルをこえ、指揮と戦闘体制がととのっている部隊もあった。日本の支配に反対するという明確な目標をもつ、民衆の自覚的な運動だった。
日本軍は、正規軍と憲兵隊そして警察が一体となって殺戮を行い、蜂起軍を鎮圧した。
朝鮮総督府はケシ栽培とアヘン生産を統制し、推進した。そして、戦前の朝鮮には少なからぬ、麻薬中毒者がいた。そして、日本は今度は、麻薬を朝鮮や中国に輸出した。
朝鮮総督府は軍部をバックとしてケシの生産を割りあてていた。朝鮮における麻薬生産は総督府の指導のもとで、大々的に行われていた。
江原道庁には、日本の敗戦間近なころから不穏な動きがあった。住居などを朝鮮人が日本人から買い取るという申し込みもあっていた。朝鮮人は知識人を中心として、ラジオで世界情勢を知り、日本の敗戦が間近に迫っていることが共通認識となっていた。
日本敗戦時、日本内地に200万人の朝鮮人が居住していたが、満州にも200万人、中国各地に計100万人の朝鮮人が暮らしていた。2500万人の朝鮮人の2割が国外に暮らしていた。
朝鮮半島の中央部にある貧しい江原道の戦前の実態が紹介されている労作です。
(2020年3月刊。2600円+税)

性からよむ江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 沢山 美果子 、 出版 岩波新書
この本のなかで私の目を引いたのは、生まれた子どもは夫の子か、それとも不義の子なのかをめぐって、米沢藩の裁定を求めたという一件資料が解説されていることです。
子どもの親たちは大名でも武家の名門でもなんでもありません。山深い寒村の川内戸村(山形県置賜軍飯豊町)の養子・善次郎(20歳)と、岩倉村(同町)の娘きや(21歳)のあいだの子かどうかという紛争です。
文化3年(1806年)の川内戸村は戸数7戸、人数37人で、岩倉村は37戸、200人。そんな小さな村で、それぞれの村役人と2つの村にまたがる大肝煎(おおきもいり)が藩の役人に対して書面(口書。くちがき)を出しているのです。
夫・善次郎と妻・きやは文化元年から不仲となっていたところ、きやが妊娠し、女の子を出産したのでした。ちなみに著者は最近、現地に行って、この両家が歩いて5分くらいに位置していて、善次郎家は今も現地にそのまま残っているとのこと。これには驚きました。200年以上たっても、「善次郎さんの家は、あそこ」と地元の人から教えてもらったとのことです。いやはや…。
藩役人の屋代権兵衛が双方に質問(御尋)した答え(御答)が書面で残っている。夫・善次郎は、「昨年1年間、夫婦の交わりをしていないので、自分の子ではありえない。妻の不義の相手が誰か今は申し上げるべきではない。そのため、生まれた子を引き受ける理由はない」と答えた。
妻・きやは「5月までは夫婦の交わりはあったので、夫の子どもに間違いない」と答えた。
また、きやは「ほまち子」、つまり不義の子だと自分が言ったというのは否定した。
さらに、藩役人はそれぞれの父親に対しても質問し、その答えが同じ趣旨で記載されている。要するに、両者の言い分は真っ向から対立しているのです。
藩の役人の裁定文書も残っていて、それによると、子どもは夫の実子と認められ、夫は藩の許しがあるまで再婚は許されない、「叱り」を受け、身を慎むように申し付けられましたが、それだけです。妻のきやは正式に離婚が認められ、道具類は全部とり戻せました。それ以上のことは書かれていないようですから、お金は動いていないようです。養育費の支払いというのも、なかったのでしょうね…。
そして、著者は、この当時、寛政の改革による米沢藩の人口増加政策を紹介しています。つまり、このころは、生まれた赤子を殺す、つまり間引きを禁じて、妊娠・出産を管理し、出産を奨励していたのです。さらには、そのための新婚夫婦には家をつくるための建築材料や休耕地の所有権を与えたり、3年間の年貢免除の特権まで与えています。
さらに、貧困な者には、申し出によって、おむつ料として最高で金1両の手当てまで与えたのでした。この結果、女子の間引きはされなくなり、男女の性比は、女子100に対して男子104となった。これは現在とまったく同じ。
学者って、ここまで調べるのですね。さすが…です。大変興味深い話が盛りだくさんでした。
(2020年8月刊。820円+税)

アリ語で寝言を言いました

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 村上 貴弘 、 出版 扶桑社新書
アリ語で寝言(ねごと)を言ったなんて、なんと寝とぼけたタイトルなんだろうと思って読みすすめていると、なんとなんと、本当の話だったのです。
いやはや、アリを研究する学者って、寝言でまでアリを語っているのですね…。でも、ちょっと違うんです。寝言そのものがアリ語だというのです。ええっ、アリが話せるなんて、聞いたことないよ。そう、そうでしょ。でも、でも、アリって仲間同士で話しているっていうんですよ、本当に。
娘が「お父さん」と起こそうとしたとき著者は寝ぼけながら、「キュキュキュキュ、チャチャチャチャ」と答えてしまった。
「お父さん、起きて!アリ語をしゃべっているよ」
娘の、その言葉で、はっと目が覚めた。
キュキュキュキュ キュッキュキュキュキュキュ チョキュキュキュ キュッキュキュキュキュ
キュンキュンギョギョ
これはハキリアリたちが個体間で鳴きかれている音を特製の録音装置で聴きとったもの。
アリは腹柄節(ふくへいせつ)で音を出し、脚と触覚に耳(基質振動と空気振動を受容する器官)がある。
たとえば、いま判明しているのは、「この葉っぱはうまい」というと、働きアリは集まり、「この葉は、それほどでもない」と聞くと、別のところに移動する。
このように、音にはちゃんと意味があるのです。いやあ、これって本当でしょうか…。
アリはハチ目アリ亜科に属し、アリ亜科は1億5千万年前にハチとの共通祖先から分岐した。アリが出現したのは1億5千万年前で、5千万年前にはほぼ現在のアリの姿・形のものが出そろっている。そして、現在、地球上には1万1千種、1京個体のアリがいる。
著者は、アリを大学4年生のとき以来、28年間も飼育している。アリの飼育はむずかしい。
働きアリは、すべてメス。オスアリが生まれてくるのは、1年のうち繁殖期のみ。オスは地上に出てから数日から1週間ほど、長ければ2週間の生涯を終える。
働きアリが割り当てられる仕事は年齢によって決められている。たとえば、エサ探しや偵察など、巣から出る危険な仕事は老齢なアリが担当する。アリ社会の仕事は、効率よく分業されている。
アリといえば、ひとつの巣に1個体の女王アリが住んでいるというイメージが強いが、実は一つの巣に複数の女王アリが20~30個体いるというのも珍しくない。
ハキリアリでは、菌を食べるのは、幼虫だ。
昔、アメリカの牧場で6メートル四方で、深さが3メートルという巣穴を掘ったという記録がある。
ハキリアリは、畑を耕し、苗を植え、栄養を与えながら子育てし、雑草や害虫がでたら、とり除く。人間と同じだ。死んでしまったアリや、寿命が尽きそうなアリは外に出されてゴミ捨て場所に捨てられる。そして、ハキリアリの女王アリの寿命は10~15年。
アリと一言で言っても、こんなに多様なんです…、しびれます。
(2020年7月刊。900円+税)

「馬」が動かした日本史

カテゴリー:日本史

(霧山昴)
著者 蒲池 明弘 、 出版 文春新書
学者ではない歴史ライターと名乗るジャーナリストの書いたものだけあって、よく調べてあるうえに読みやすく、「馬」という新鮮な切り口で日本史をとらえることができました。
馬は昔から日本列島にいたのではないのですね。
縄文・弥生時代の日本列島には馬はいなかった。
馬は朝鮮半島から5世紀に持ち込まれた。古墳時代中期ころ。
日本列島にも、ところどころ「草原の国」があり、軍事利用のため馬が飼育されていた。それは、武士の誕生とも重なっている。かの『魏志倭人伝』にも日本列島に馬がいないことが記述されている。ええっ、そ、そうでしたっけ…。
日本が朝鮮半島を植民地支配していた明治43年(1901年)に、3万9千頭の馬がいたのに対し、日本国内には156万頭の馬が飼育されていた。そして、朝鮮半島といっても、済州島の馬が半分以上を占めていた。朝鮮半島には馬の飼育に必要な草原が乏しかった。ええっ、日本にそんなに草原がありましたかね…。いやいあ、それがあるというのです、日本各地に…。火山が日本に草原を生み出した。それは「黒(くろ)ボク土(ど)」という黒っぽい土による。この黒ボク地帯は武士の活躍する舞台となった。
サラブレッドは体格も見た目も立派だが、短距離レース向けに改良された馬。
日本固有の馬は、小型で不格好な体型で、走るのも遅い。しかし、粗食に耐え、長い遠征を戦うスタミナを備えている。
江戸時代の千葉には幕府直営の自然放牧の馬牧があり、5千頭以上の馬が放牧・飼育されていた。
「日本書紀」には、古墳時代の日本が朝鮮半島に馬を輸出していたことが記載されている。これまた、知りませんでした。
群馬県は、古墳時代に日本有数の馬産地であり(なので群馬という)、東日本最大の古墳がある。同じく古代からの馬産地である宮崎県に九州最大の古墳がある。
前方後円墳の数が一番多いのは千葉県。ここは国内最大の馬産地だった。
古墳時代の馬は希少な高級品だった。
7世紀に京都の朝廷が派遣した朝廷軍は、東北の蝦夷(えみし)軍と長く戦った。そのとき蝦夷軍の統率者の一人が英雄アテルイ。東北部を京の朝廷が握って離さなかったのは、ここが有名な馬の産地であり、金の産地だから、だった。
日本に住む人々と馬が古くから関わり依存しあっていたことなどが大変よく、無理なく説明されていました。面白く読めました。心より感謝します。
(2020年1月刊。900円+税)

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