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律令国家と隋唐文明

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 大津 透 、 出版 岩波新書
日本とは、太陽の昇るところ。でも、日本国内にいわば、日が昇るのは、さらに東であり、日本列島から日が昇ることはない。
そうなんですよね…。私も、前から、なんとなく疑問を抱いていました。
日本の国土は世界の東の端だと中国の人々は見ていた。つまり、日本とは、中国を軸として、中国から見た国号だ。日本というのは、本来は、東方、極東を意味する一般名詞だった。なーるほど、ですね。
「旧唐書」には、倭国伝と日本伝と二つが別々にあり、この二つは別の国家だと認識されている。遣唐使のころ、「日本」という意味は唐から見た「日辺」(にっぺん)である。唐のころは、日本、日域、日東が日本に限定されず、新羅を指して使われていた。つまり、「日本」とは、中国から見て日の出るところ、極東を指していた。
隋の皇帝が怒ったのは、倭が日が昇り、隋が日が沈む、つまり我が先だとしたからだというのは俗説で、間違っている。日出すると日没するとは、東と西の方界を示しているだけ。倭が「天子」と名のったことに皇帝は許せなかった。倭が「天子」と名乗るという、隋と対等だなんて、とんでもないことだ…。
初めのころ、天皇の服装について、中国の皇帝にあるような規定はなかった。そして、天皇の行列についても、日本古来の習俗にしたがった神祭りの行列だったので、明文で規定することはできなかった。
日本の古代政府は、中国との違いをよく認識していて、まったく同じような規定を置くことはできなかったのです…。
現在の天皇・皇后は、先代もそうでしたが、皇居内で「お田植え」やご養蚕を行うが、これは明治に始められたもの。日本の天皇は、中国の皇帝とちがって、みずから農耕をするような存在ではなかった…。
古代日本の社会生活がどんなものだったのか、かなり具体的イメージがつかめる新書でした。
(2020年4月刊。840円+税)

県警VS暴力団

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 藪 正孝 、 出版 文春新書
日本全国の暴力団員は最盛時に18万人いたのが、今は2万8千人になったとのこと。これには警察の取り締まりの成果も大きいと思いますが、それだけでもないようです。たとえば、暴走族は今ではほとんど見かけません。成人式での暴力的騒動も、すっかり影をひそめてしまいました。
北九州の暴力団「工藤会」とたたかってきた警察官による体験をふまえた暴力団取締の現場の話です。
工藤会が襲ったクラブ「ぼおるど」は、弁護士会の懇親会のあとの二次会の会場として、私も何回も行ったことがあります。
「ぼおるど」が襲われたのは平成15年8月18日(日)の夜9時すぎ。手榴弾が投げ込まれ、店の女性12人が重軽傷を負った。前年の4月には、営業中に糞尿をばらまくという威力業務妨害事件も起きていた。その店長も殺人未遂事件の被害者になった。「ぼおるど」は暴力団員の出入りを禁止する店であり、経営者は暴力追放に立ち上がった市民団体の代表をつとめていた(と思います)。
投げられた手榴弾はアメリカ軍の攻撃型手榴弾であり、たまたま不完全爆発したことで死者が出なかったけれど、完全爆発していたら何人か確実に死んだのは間違いない。うひゃあ、恐ろしい…。
「警察は命までとらないが、工藤会は命をとる」
これは怖いですね。実際、工藤会は漁協元組合長などフツーの市民を殺しています。暴力団担当の元刑事まで狙っていますから、やりたい放題でした。北九州は、ひところいわば無法地帯だったのです。
「ぼおるど」は、営業を再開したものの、実弾入りの脅迫状が送られるなどがあり、事件の翌月には休業し、ついに廃業に追い込まれてしまった。「逆らう者は許さない」という工藤会の目的は達成されてしまった。なんということでしょう。残念でなりません。これでひっこんでいたら日本の警察は顔がありません。
北九州市議会の議長宅、そして北九州県議会議員宅に拳銃弾が撃ち込まれる事件が相次いだ(平成16年1月から5月)。
工藤会が土木・建設業者からとっていたみかじめ料は、建築1%、土木2%、解体5%。
これは大きいですよね。大型公共工事は、全国どこでも暴力団と政治家がトータルで3~5%をまき上げていると言われています。ただし、昔からの「伝統」的な処理なので、警察が証拠をつかんで立件するのは難しいようで、これまた本当に残念です。
工藤会は平成10年に内部通達を出し、傘下の組員が警察と接触することを固く禁止した。違反したら破門・絶縁するというものだった。
暴力団を抜け出して、正業につくことを可能にする社会環境づくりも日本は遅れているように思います。どうなんでしょうか…。体験をふまえているだけに、とても説得力がありました。
(2020年5月刊。850円+税)

命を危険にさらして

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マリーヌ・ジャックマンほか 、 出版 創元社
5人のフランス人女性戦場ジャーナリストの証言です。
彼女らはフランス最大のテレビ局TF1で働いています。戦場での現場での映像取材ですから、まさに生命がけの危険な仕事です。実際に、爆撃されて生命を落とした仲間もいます。
なので、一番大切なのは、取材を終えて、無事に戻ってくること。恐怖をコントロールし、情に流されずに冷静さを保ち、一瞬で判断をくだし、ジャーナリストとして自分がやるべきことに集中する。
戦場に行く前にフランス軍の主催する数日間の研修、特殊部隊の訓練を受ける。銃撃戦に巻き込まれたときに車から脱出する方法。パニックになって弾丸が飛んでくる方向のドアを開けてしまう可能性がある。また、銃で狙われているとき、部屋の隅には避難しない。弾がはねかえってくる危険がある。銃撃を受けたとき、身を守るためには車のエンジンブロックのうしろに隠れる。木のうしろはダメ。
人質にとられたときの模擬訓練では、目隠しをされた状態で、自分のいる空間を把握し、時間の感覚を失わない方法を学ぶ。体力を温存し、肉体的にも精神的にもできるだけ長いあいだもちこたえられるようにする方法も教わる。
子どもの写真を財布に入れておかない。これは感情的な弱みを握られないため。
恐怖を感じない人はいない。出発前に恐怖を感じるには耳を傾ける。恐怖は誠実な友人のようなもので、実際の危険や想像上の危険を知らせてくれる。一度認めたら、その恐怖と距離を置いて、忘れるようにする。
戦場ジャーナリストは、戦争によるアドレナリンが麻薬のようになってしまうことが多い。兵士も戦場の経験が病みつきになる人がいるのと同じですね…。
戦場ジャーナリストの仕事は、学校や教科書で学ぶことはできない。現場で習得する。経験だけが、これほど特殊な仕事について教えてくれる。それは、もっとも基礎的なものから、もっとも複雑なものまで、さまざまな状況から救い出してくれる。
フランス特有の専門職である映像ジャーナリストは、カメラで撮影するのが仕事だが、ジャーナリストとしての教育も受けている。
実際、彼女らはフランスの超エリート校である政治学院(シアンスポ)を卒業したりしています。彼女らは、シリアに行き、リビアに行き、ルワンダに行って、死体の山々を現地でみて、カメラで映像としてとらえているのです。
日本のNHKにも、そんなカメラマンがほしいところですよね…。「アベさま(今はスガさま)のNHK」ではなく、国民のためのNHKであってほしいものですが…。
それにしても、フランスの女性もすごいです。戦場に行ってもドライヤーは必携だし、化粧道具も欠かせません。自らの顔を出した映像を送るからには、きちんと化粧しておくのは視聴者への敬意のあらわれだというのです。そのプロ根性には頭が下がります。
(2020年1月刊。1600円+税)

難民たちの日中戦争

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 芳井 研一 、 出版 吉川弘文館
日本の無謀な大作戦が日本政府トップの無理な指示によるものだというのを改めて認識しました。1944年4月から1945年2月にかけて中国大陸で展開された大陸打通作戦のことです。この作戦は、日本の陸軍史上最大の50万人もの兵力を動員した。それは、日本国民の戦意喪失を防ぐために、アメリカ軍の対日空爆基地をつぶすという大義名分の大作戦。
ところが、実際の参加兵力は41万人、作戦距離2000キロという大作戦は、制空権がないなか、補給もほとんどないという無謀な行軍と戦闘を余儀なくされた。
したがって、現地の日本軍は食糧は現地調達、つまり現地で掠奪するしかなかった。ところが、中国の民衆はほとんど逃亡し去っていて、掠奪すべき食糧は残っていなかった。
また、41万人の日本兵のうち、10万人ほどはほとんど未教育の補充兵だった。食糧が現地調達できない日本兵は下痢、栄養失調、コレラで次々に死んでいった。第58師団は、出発時1万3849人だったのが、敗戦時には7388人と生存者は半分だった。
そして、この無謀な大作戦のきっかけは1942年4月の日本本土初空襲のドゥリットル空襲だった。日本本土がアメリカ軍による空爆の射程内に入ったことは、一般国民に突然、戦争の前面に立たされたという感覚をもたらし、士気に影響するところが大きいと政府当局は判断した。なので、日本への空襲のためのB52の離着陸可能地にある中国の飛行場を破壊することが最優先される作戦が考えられ、実施された。これをリードしたのが東条英機首相だった。
1938年に広東爆撃から重慶爆撃へと中国の都市爆撃を拡大していった日本軍指導者は、1942年の首都東京の電撃空襲を受けて、冷静な作戦の見通しと判断を見失った。
総力戦をうたっていた東条首相以下の日本政府と軍部のトップにとって、国民の継戦意志を確保するため、つまり国民動員のために必要な不可欠と判断した。そこで、現地作戦軍の意向を無視して押し付けた。
しかし、この大陸打通作戦の終末期には、アメリカ軍は中国大陸にある航空基地を利用することなく、日本本土を空襲するようになっていた。すなわち、アメリカ軍は、1944年の6月、マリアナ沖海戦で日本海軍の空母や航空機に壊滅的打撃を与え、7月にはサイパン島、グアム島そしてテニアン島に上陸して占領した。7月からは、日本本土爆撃基地は中国本土からマリアナ諸島に移された。11月には、マリアナ基地から飛びたったB29爆撃機70機が東京を本格空襲した。
日本軍の中国大陸での戦面拡大によって厖大な難民が生まれた。難民が一番多かった河南省では、1942年から43年にかけて200万人もの人々が餓死等で死亡し、300万人が難民として他省に流出した。これには、1938年の国民党軍による黄河の決潰も大きく影響している。しかし、それも日本軍の侵攻への対抗策としてなされたもの。
中国大陸への日本軍の侵攻作戦について、日本の指導部と現地作戦群の思惑が見事にずれていて、現地軍の独断専行がひどかったことは他の本でも再三指摘されています。
日本軍は、現地の中国人をなんとか手なづけようと、満鉄社員のなかから52人を指名し、その経験を生かした宣撫(せんぶ)班を7つも組織した。まあ、しかし、日本軍が近づくと中国の民衆のほとんどはまたたくまに逃げ出してしまったのでした。
日本軍は、1938年6月から国民政府の首都になっていた武漢を目ざした武漢作戦を開始した。30万人以上の兵力が動員され、戦死者6558人、戦傷者1万7040人、病者10万5945人という大消耗戦となった。このとき、日本軍は占領地の多くで治安体制を整えることができなかった。このころ、陸海軍は、軍事費のさらなる拡大を追求していて、30億円以上もかけて武漢作戦に着手したかった。いわば、自分たちの権益を守るために大勢の若い日本人を死地に追いやったわけです。もちろん、その「敵」は中国人民でした…。
1938年5月、日本軍は広東市内を突然に空襲した。これは、日中戦争の帰趨を左右するほど大きな国際的影響があった。要するに、フツーの市民を爆撃した日本はけしからんという全世界の世論の声を招いてしまった。このとき、「軍事施設に限って」日本軍が空襲した事実はなく、むしろ日本軍は、意識的に民家を狙って空爆していた。これと同じことをアメリカ軍も日本を空襲したときにやったわけです。カーチス・ルメイ将軍は、日本を石器時代に戻すと豪語したのです。そのカーチス・ルメイに対して、日本政府は戦後、大勲章を授与したのです。いったい日本国民の生命、財産を政府はなんと考えているのでしょうか…(プンプン)。
日本史も切り口によって新しい視点を身につけることができることを実感させられた素晴らしい本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2020年10月刊。1800円+税)

民主主義のつくり方

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 宇野 重規 、 出版 筑摩選書
大変失礼ながら、学術会議の任命拒否問題があるまで、東大教授である著者を知りませんでした。略歴によると、私が大学に入った年(1967年)の生年なのです。私も、すっかり年齢(とし)をとってしまったというわけです。申し訳ありません。
著者は東大で法学博士を取得し、政治思想史、政治哲学を専攻していますから、古今東西の政治思想家が次々に登場し、論評が加えられるさまは、小気味がいい感じです。
さて、問題は日本に本当の民主主義はあるのか、育つのか、です。著者はその点、希望を捨ててはいけないという考えです。
現代日本社会においても、民主主義の「種子」(タネ)は少しずつ根を下ろしつつある。もちろん、その「種子」が今後も順調に発育をとげ、さらに相互につながって一つの「森」を形成するようになるかどうかは、予断を許さない。
未来とは、本質的に理解不能なもの。安易に未来を予測できるとする言説や理論のほうが危うい。未来とは、人間にとって本質的に他者なのだ。
現代のように「未来を見通せない時代」だからこそ、すべての個人が自らの信じるところに従って「実験」を行う権利があるというプラグマティズムの教えに希望がある。
みんながあきらめてしまって投票所に足を運ばなかったら、「種子」が「森」になるはずもありません…。ぜひぜひ、投票率を6割といわず、8割にまで上げたいものです。
この本は、民主主義への不信が募(つの)る現代にあって、あえて民主主義を擁護するために書かれている。自分たちの力で、自分たちの社会を変えていくことが、民主主義の本質のはず。誰かが何をやってくれることを期待しているのは、自らの運命を誰かに委ねてしまっていることを意味する。
近代政治思想史は、自己の熱い壁の内にこもった個人が、他者に依存することを何よりも恐れながら、それでも何とか共存をはかるための論理を模索してきた歴史であった。
習慣とは、定着・安定と修正・変化の両側面をともなった媒体である。
習慣は、まったく変化しないわけではなく、長い目でみれば、習慣は、つねに変化し、けっして同じ状態にとどまるものではない。社会に安定性をもたらし、社会の再生産を可能にするのは習慣である。
現代日本の各地で、新たな「民主主義の習慣」が生みだされていることに著者は注目しています。そして、その担い手は、地域社会に根ざした存在であること、若い世代に注目すべき新たな動きが生じているというのです。そんな新たな変革の「余地」は「ローカル」な場所に生まれ、存在しているという著者の指摘が生かされ、現実のものとなり、大きくなっていくことを私も大いに期待したいと思います。
難しい話なのですが、意外にも分かりやすい口調の本でしたので、スラスラと読むことができました。こんなすばらしい能力をもった学者を理由も示さずに学術会議のメンバーに任命拒否するなんて、スガ首相の罪悪はあまりにも大きいと改めて実感しました。
(2020年12月刊。1500円+税)

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