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日本語とにらめっこ

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 モハメド・オマル・アブディン 、 出版 白水社
アフリカのスーダンからやってきた全盲の青年が、どうやって日本語を身につけたのかが改めてインタビュー形式で語られた本です。著者の本は、前に『わが盲想』(ポプラ社)を読んで大変面白く、このコーナーでも紹介しました。
日本で暮らしているということは、お笑いの文化の中で生きているようなもの。異文化に触れたとき、自分と違う文化に出会ったときは、全部それが何かおかしく感じてしまう。日本人にとっては何でもないことが、笑いの対象になってしまう。まず自分の中で笑い、それを言葉にして表現する。最初に書くときは、読者を想定しないで書く。
日本の論文は読みにくい。それは、結論が最後に来るから。結論を初めにもって来ると、すごく分かりやすくなる。この先、いったいどこに連れていかれるか分からないというのは困る。
スーダンには、コーランを教える伝統的な寺子屋みたいなところがある。ハルワという。ここではコーランを暗誦するだけでなく、読み書きも仕込まれる。6歳までにアラビア語がうまくなるのは、ハルワでコーランを覚えるのと同時に、アラビア語を正しく書くことも訓練していたから。コーランだけでなく、古い詩などでも暗誦したりしていたので、アラビア語がとてもうまくなる。
著者は夏目漱石の『坊ちゃん』、『三四郎』などの読み聞かせをしてもらって、漱石の偉大さを体得したようです。
漱石には文体の力がある。漱石は、歴史的背景を知らなくても楽しめるところがすばらしい。
スーダンでの著者は、19歳まで、教科書以外の本は5冊も読んでいない。盲目の子にとって図書館が近寄りがたい存在だった。
著者は書きはじめるまでに相当の時間がかかる。ただ、書きだしたら、一気に書きあげる。メモはとらないで、頭の中で考える。
変な野望があると、いいものは書けない。うまい日本語をつかって書こうと思ってもダメ。自分の中から湧いて出てくるものを書くとよい。そのとき、難しい言葉は使わない。分かりやすい言葉で分かりやすく書く。
著者の書いた文章は、日本語の表現が魅力的。書き言葉の中に話し言葉を入れこむ特徴、功名な緩急、歯切れの良さ。つっこみに関西弁や得意のおやじギャグが入ったり…。
東京外国語大学に入り、大学院に進学しているうちに『わが盲想』を書き(2013年)、国際学の客員教授としても活躍しました。
アフリカ・スーダンからやってきた全盲の青年が日本社会に溶け込むとき、どんなに苦労するかが詳しく語られていて、大変勉強になりました。今後のさらなる健勝とご活躍を心より祈念します。
(2021年4月刊。税込2200円)

スニーカーの文化史

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ニコラス・スミス 、 出版 フィルムアート社
スニーカーといえばナイキでしょうか…。私は持っていません。買うのに行列をつくったり、ネット上でいろいろ転売されたりして話題をよんでいることを見聞するくらいです。
マイケル・ジョーダンをナイキが起用したのは大きな賭けでしたが、それが見事にあたった、というか、あたりすぎだったようです。
この本は、スニーカーを生み出す苦労話から始まります。つまり、天然ゴムだと熱いと溶けてしまうし、寒いとコチコチに固まってしまって、使いものになりません。そこで大変な苦労をした人がいたというわけです。チャールズ・グッドイヤーです。
ゴムは耐水性はあるが、致命的な欠点をかかえている。高温下だと溶けるし、低温下だと脆(もろ)くなってしまう。
グッドイヤーは、5回も6回も債務超過となり、債務者刑務所に入れられた。1830年代のアメリカは破産すると刑務所に入れられたのでした。
1844年、ついにグッドイヤーは特許を認められた。ゴムに硫黄、鉛白を混合させて加熱するのだ。ただし、グッドイヤー一族がその後も繁栄したのではなく、別の企業が「グッドイヤー」というブランド名を使った。
スニーカーは、英語の忍び歩く(スニーク)に由来する。
短距離ランナーのはく靴が注目されたのは、1936年のドイツでのオリンピックのとき。ヒトラー支配下のオリンピックで、黒人のランナーが4個もの金メダルを獲得したことが大きい。
兄弟がケンカ別れして、アディダスとプーマというシューズのブランドが誕生した。
アメリカでバスケットボールが盛んになったのは、主としてスペース上の理由だ。地域の公園の一角にバスケットボール用のコートができて、プレーに必要な人数や用具も少なくてすむ。
1970年代に、ジョギング、テニス、バスケットボールが爆発的に人気を集め、さらに1980年4月、ニューヨークで地下鉄やバスがストライキでストップしたとき、大勢の市民がスニーカーをはいて、通勤した。
ナイキがジョーダンに的をしぼってアタックしたとき、ジョーダンはアディダスを好んでいたし、とくに乗り気ではなかった。しかし、ジョーダンの両親がナイキとの契約に必死だった。
エア・ジョーダンは1985年4月に発売された。1ヶ月もせずに50万足、売り上げは1億ドルをこえた。大ヒットだった。ジョーダンとナイキは、私だって知ってるくらいですからね…。すごいですよね。ところが、このエア・ジョーダンをめぐって殺人事件が起きてしまったり、とんだ社会現まで引き起こしたのです。
さらに、ナイキの靴が、インドネシアなどの労働搾取工場でつくられていることが暴露されて、大問題になりました。
スニーカー愛好家のことをスニーカーヘッズと呼ぶそうです。インターネットで高値で売買されているのです。
アメリカの副大統領になった黒人女性カマラ・ハリスが公式の場で、黒のチャックテイラー(スニーカー)をはいているのが注目を集めました。今やスニーカーは活動的な女性のシンボルでもあるのですね。
ゴム底の靴は、まだ百数十年の歴史しかないのに、今の社会では必須不可欠のものになっていますよね。自分の足元を見るのにぴったりの本でした。
(2021年4月刊。税込2200円)

武士論

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 講談社選書メチェ
武士たちの500年の通史です。サブ・タイトルは古代中世史から見直す、となっています。本格的な武士論だと思いました。
古代において、武士とは朝廷に武芸を奉仕する下級武官で、文人と対をなす諸道の一つ、とされた。中世でも、朝廷に武をもって使える者とされているが、乱れた世を平らげる存在ともされている。
10世紀、平将門の乱のころ、合戦の場では、合戦を始める旨の文書をかわし、矢を射る。基本は弓矢の合戦だった。弓箭(きゅうせん)の道に秀(すぐ)れていることが「一人当千」の武士だった。
11世紀(1019年)、女真族の刀伊が壱岐を襲撃したあと、志摩郡船津に上陸し、さらには肥前国松浦郡を襲った。これを大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家が武士を派遣して撃退した。元寇の前にも外国軍が侵入しようとしたことがあったんですね…。
平安時代の末、白河院は、源氏・平氏の武士たちとのあいだに主従関係を形成し、御所や京都を守護させた。そのなかで抬頭してきたのが平氏だった。平清盛は12歳の若さで、佐兵衛佐(さひょうえのすけ)に任じられた。そして、その父・平忠盛は山陽・南海道の海賊追討を院宣で命じられ、西国に勢力を拡大し、西国に確固たる基盤を築いた。そして、忠盛は昇殿を認められ、内の殿上人になった。格は高く、平氏は武家として待遇された。
保元の乱(1156年)で、後白河天皇の側が勝利したので、信西は天皇を全面に立てて政治をすすめた。このとき死刑を復活させた。武士の習いである私的制裁を公的に取り入れたということ。
平治の乱(1159年)のころ、平清盛は、太宰大弐になって日宗貿易に深く関わっていた。そして、平氏側が圧勝して、知行国もふえて、経済的にも抜きんでた存在となった。
ところが、平清盛には、新たな政治方針がなく、大量の知行国を手にして福原に戻った。ただ、院を鳥羽殿に幽閉した影響は大きかった。それまでの武士は院の命令で動いていたし、実力で治天の君を代えることはなかった。これを契機として、武士が積極的に政治に介入する道が開かれ、武力を行使して反乱をおこすことが可能になった。
源頼朝の伊豆挙兵(1180年)のとき、朝廷や平氏が特別な政策を打ち出していないなか、頼朝は徳政政策をかかげて、諸勢力を糾合していった。
少し時代を飛ばして鎌倉末期・室町時代の初期のころ。バサラ大名が出現した。その典型が佐々木道誉(どうよ)。茶や能、連歌、花、香など、この時代のあらゆる領域の芸能に深く関わった。
この本でたくさんのことを学びましたが、最後に二つ。その一つは、鎌倉時代の武士が諸外国の軍人と大きく異なるのは、文化的教養が備わるようになったこと。和歌(あとでは連歌)や「けまり」を身につけていた。もう一つは、訴訟がとても多かったこと。著者は「訴訟が雲霞(うんが)のごとく鎌倉にもたらされた」としています。鎌倉幕府も室町幕府も、訴訟の取り扱いには頭を悩ませ、慎重にすすめていたようです。ここにも、日本人が昔から訴訟が好きだったこと、「日本人は昔から裁判嫌い」だというのが真っ赤なウソだったことがよく分かります。
「葉隠れ」が武士道だなんて、とんでもないことを詳細に裏づけている本でもあると思いました。
(2021年6月刊。税込2090円)

スターリン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 オレーク・V・フレヴニューク 、 出版 白水社
スターリン主義者をスターリニスト、トロツキーの信奉者をトロツキストと呼びます。私が大学生のころ、学生運動用語として多くの学生が使っていましたし、知っていました。でも、その内実は、私をふくめてほとんどの学生が知らなかったと思います。スターリニストを単なる官僚主義だとすると、現在の日本の官僚は、上に忖度(そんたく)するばかりですので、ぴったり合致します。今の日本の高級官僚は、上から嘘をつけ、証拠を隠せ、改ざんしろと指示されたら、ほとんどは唯々諾々と従い、例外的に自死した赤木さんのような人がいるだけです。でも、スターリン治政下のソ連では、もう一歩すすんで、あいつを消せと指示されます。肉体的抹殺です。今の日本はそこまではありませんが、果たして、そんな指示に今の日本の官僚たちはギリギリ踏みとどまって抵抗できるのでしょうか…。
1937年から38年にかけた1年間だけでも、ソ連では70万人以上が処刑された。スターリンによる大テロルです。誰も止めるとこができなかった大テロルは、やがてスターリン自身にはねかえってきました。1953年2月末から3月初め、スターリンが別荘で通常どおり起きてこなかったとき、誰もが近づけなかった。この530頁もある本は、その状況が繰り返し再現されます。
なぜか…。スターリンが目を覚ましたとき、なんで、お前がこんなところにいるのかと激しく叱責されたら、即、生命にかかわることになるからです。みんなスターリンの不意のカミナリにびくびくしながら生活していたのでした。
恐怖は、スターリンにとって、もっとも重要な力だった。スターリンはソ連国家保安制度を強固な監督下に置くことによって、いつでも誰でも逮捕でき、即時銃殺に処すことができた。その実例はいくらでもあった。スターリンの政治はテロルに依拠していた。
スターリンは、根本的に、重要な細部を部下に委ねず、自分自身で管理するのを好む小領主だった。
スターリンが死ぬ直前にすすめた医師団陰謀キャンペーンは、大衆のムードを巧みに操作し、戦争勃発のどんな気配すらもないのに戦争準備の心理を助長し、それによって人々の日々の困難から気をそらさせた。そして、スターリンの周囲の人間に不安な気分のまま生活し続けることを強いるという効果をあげた。
スターリンは、他のどの独裁者と同じく、最悪のことを常に想定していた。スターリンは、国内外の情勢が悪化したとき、裏切られることを予測していた。絶対的に献身的で、より若い熱烈な支援者と古参幹部とを取り替えることは、自身の立場をうち固めるうえで、決定的に重要なことだ。
征服者の心の平安は、被征服者の死を覆す。
これはチンギス・ハンの言葉だとされているが、スターリンも参考にしていた。
スターリンが死の発作をおこした「近くの別荘」には、総数408人もの人間がつとめていて、護衛官だけでも335人がいた。この護衛総局で仕事をすると、実入りが大きかった。
スターリンの大テロルが全土で進行した結果、1940年までにロシアの各州やソ連邦を構成する共和国の指導者(書記)の57%から35歳以下だった。大臣や将官、企業長、文化人の団体の指導者も30代から40代までだった。これらの成り上がり者にスターリンは途方もなく大きな権力を付与し、彼らは、特権化された世界を享受していた。
そうなんですね。若い人は、上の重しがとれて、自らが昇進して、特権に恵まれることを喜んでいたというわけです。これがスターリンのテロルを止めなかった有力な原因の一つのようです。
ソ連の党政治局は、スターリンの意思に全面的に従属した。今やスターリンは正真正銘の独裁者だった。
1037年から40年にかけて、ソ連の将校団が2.5倍に拡大した。その結果、多くの指揮官が必要な知識と経験を欠いていた。
スターリンは、ナチス・ヒトラーの軍事進攻を開戦当初まったく信用していなかったのでした。この本によると、スターリンは、ヒトラーの意に反して国防軍がやったことだろうから、そんな挑発に乗るな、発砲するなと命じたのでした。すっかりヒトラーに騙されていたわけです。ヒトラー・ナチス軍の本格的大侵攻であり、たちまち前線が大崩壊したことを知るとスターリンは茫然自失で、別荘にこもってクレムリンに出てこなくなりました。
残る幹部たちが恐る恐る別荘に行ってスターリンに会いに行ったとき、スターリンのほうは全員がそろって引退勧告に来たかと心配して待ちかまえていたというのです。独裁者は、そうではないことを知ると、たちまち元通りに独裁者となって悪の罪業の数々を繰り広げていくのでした。
あとになってソ連がドイツを負かしてしまう段階では、わざと諸戦で負けて、かつてナポレオン軍を負かしたような高等戦術をとったなどと強弁しはじめましたが、実際にはスターリンの大いなる間違いによってソ連軍は大崩壊してしまったのです。
レーニンは死ぬ直前に、スターリンは粗野な男なので書記長にはふさわしくないから解任すべきだという遺書を書いていました。そこでスターリンは、レーニンの死後、政敵をうまく片付けたあと、書記長の辞職願いを提出した。いやあ実に見事な計算ですね。スターリンの計算どおり、もちろん辞職願いは受理されるはずがありませんでした。
ナチス・ヒトラーに匹敵するほどの大虐殺を敢行したスターリンの罪業について、最新の資料をつかって深く究明した本です。
スターリニストって、単なる官僚主義者なんかではないことがよくよく分かります。でも、そんなレッテル貼りに、いったいどれだけの意味があるのか、それも、そもそも疑問ですよね…。
(2021年5月刊。税込5060円)

日本近代の出発

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 克 、 出版 集英社
明治天皇は明治17(1884)年ころには、明確に自分の意見を述べ、政府要人に対する好みもはっきりしていて、個性派の天皇になりつつあった。たとえば、キリスト教信者と疑った森有礼(ありのり)を伊藤博文が文部省御用掛(大臣)に任命しても、明治天皇は「病気」と称して1ヶ月も面会しなかった。また、黒田清隆は薩摩閥のナンバー1だったが、酒が入ると人物が一変し、トラブルが多かった。井上馨(かおる)に対してピストルを出して追い返そうとした。
明治憲法の草案として、夏島草案というのがあるのを始めて知りました。夏島というのは、金沢の夏島ですが、今の横須賀市夏島町です。このころ、天皇と議会が同等の権力をもつということは認められない、議会は天皇の相談(諮問)機関であるべきだという考え方に対して、伊藤博文は、立憲政治を主張した。それは、天皇の国家を統治する大権は、憲法の規定する範囲内にのみある、つまり、立憲政治の根本は君主権の制限にある、そして、行政の中心には、天皇ではなく総理大臣にあることを強く主張した。
国会開設運動が最高潮に達したのは1880(明治13)年。このころ建白・請願に署名した人は32万人に近い。この当時、20歳から50歳までの人口は770万人なので、その4%にあたる。これはすごい比率だ。つまり、運動に共鳴した多数の民衆がいた。自由民権運動は、一種の文化革命だった。
1874(明治7)年から1884(明治17)年までの11年間に、全国1275もの結社があった。埼玉に29社、神奈川県に100社が活動していた。
このころ、新聞の購読料は高かった。東京日日新聞は1ヶ月85銭。日本酒が11銭、巡査の初任給は6円のとき。ところが、新聞は一般の庶民も読むことができた。新聞縦覧所が各所にあって、立ち読みすることができた。ちなみに、当時の人々は、声に出して読んでいたようです。黙読する週刊はありませんでした。つまり、新聞は広く一般に読まれていたのです。
そして、演説会は、民衆のものでした。義太夫より演説のほうが面白いと言って、人々は聞きに集まった。1881年9月10日、大阪・道頓堀の戎座(えびすざ)で板垣退助らが弁士となって開かれた政談演説会は、1枚5銭の傍聴券5000枚が前日までに売り切れた。
演説会の話がつまらなければ居眠りしたり、ヤジったり、面白ければ熱狂して沸く、弁士も聴衆の反応にこたえて、話をより過激な論調にしたり、臨席している警察官をからかったりする。まさに弁士と聴衆とが一体となって盛り上げる。自由民権の生き生きとしたパフォーマンスがあった。
有名な五日市憲法草案は、このような状況の中でつくられたものなんですね。学習や討論の積み重ねが結実したものだったのです。明治とは、どんな時代だったのか、改めて考えさせられました。
(2021年1月刊。税込1600円)

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