法律相談センター検索 弁護士検索

「核兵器も戦争もない世界」を創る提案

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 大久保 賢一 、 出版 学習の友社
これまで核戦争が実際に起きなかったのは、運が良かっただけという著者の指摘には、私もまったく同感です。同じことは、3.11の大震災による福島第一原発事故についても言えます。あのとき、アメリカ人は一斉に日本から脱出し、逃げ出したのですが、それはメルトダウンが関東一円を死の街にしてしまう危険が現実的なものだったからです。原発に欠陥があったから、なぜか水がたまっていて大爆発が起きなかったというのを知ったとき、私も心底から胆が震えてしまいました。これは樋口英明元裁判官も著書で強調しているところですが、そんな現実を少なくない日本人が忘れていて、安倍前首相の「アンダーコントロール」を真(ま)に受けているのが本当に残念です。
これまで核戦争が起きなったのは、核兵器が存在するおかげだ。平然とこのように言う人の神経が著者には理解できない、と言います。核兵器が存在していたから核戦争が起きなかったというのは、二つの現象を表面的に並べたたけで、論理的な説明にはなっていない。
著者は、こんなたとえ話を持ち出しています。「ニューヨークにワニがいないのは核兵器があるおかげだ」、「憲法9条は北朝鮮の核開発を止めることができなかった」、「お前が生きていられるのは、オレのいるおかげだ」。こんな異論が成り立つはずもない。まったくそのとおりです。
1980年6月、アメリカのカーター大統領の安全保障担当大統領補佐官のブレジンスキーは、深夜、軍事顧問からの電話で叩き起こされた。ソ連の原潜から220発のミサイルがアメリカ本土に向けて発射されたという。ブレジンスキーは、直ちに報復攻撃できるよう戦略空軍に核搭載爆撃機を発進させるよう指示した。次の電話では、ソ連のミサイルは2200発と告げられた。全面攻撃だ。ブレジンスキーは妻を起こさないことにした。30分以内に、みんな死んでしまうからだ。その後、3度目の電話があって、誤警報だと判明した。これは笑い話としてすませていい話では決してありません。いつでも、実際に、ちょっとした間違いから核戦争が起きる危険があるからです。
アメリカで起きた原発事故だって、そこで働いていた人々が故意に重大事故をひき起こした可能性があるとされているものがあります。ヒューマン・エラーというものです。
「俺はもつ、お前はもつな、核兵器」
アメリカやロシアなどの核兵器大国は自分たちが核兵器を持つのは正義だけど、他の国がもつのは不正義だなんて、一方的な論理にしがみついています。インド・パキスタン・イスラエルは、それが不満で核不拡散条約に入らず、北朝鮮は脱退してしまいました。
核兵器禁止条約は発効したのに、日本政府は今なお、背を向けたまま。
「かえって国民の生命・財産を危険にさらす」とか、わけの分からないことを言っている。要は、アメリカの核の傘のもとにいれば安全、アメリカに楯つくなんてもってのほか、という従属根性まる出し。そこには自主性のカケラもない。
「平野文書」なるものがあるそうです。私が読んだことがありません。日本国憲法をつくるときにマッカーサーとわたりあった幣原元首相の側近だった平野三郎という人が1951年に幣原本人をインタビューした記録のようです。
幣原は、戦争をやめるには武器をもたないことが一番の保証だと断言した。
幣原は「武装宣言」は狂気の沙汰であり、軍拡競争から抜け出そうという「非武装宣言」こそ世界史の扉を開くとした。今は夢想家のように思われ、あざけ笑われるかもしれないが、百年後には正しいことを言った預言者として正当に評価されるだろうと語ったというのです。まさしく先見の明がありました。
少しでもまともなことを言い、行動したりすると、自民党のタカ派からは、「あいつは共産党だ」と言われる。自分に反対するものは、みんな「共産党」と言うんだというエピソードも紹介されています。
そんなことでくじけてはいけません。正しいこと、必要だと思ったら、声を上げ、行動に移すことです。
著者は長く反核・平和運動に従事してきて、現在は日本反核法律家協会の会長もつとめています。もっと読みやすい編集・体裁にしてほしいと思いながらも、内容の重さにひきずられて読了しました。160頁の小冊子です。ぜひ、あなたもお読みください。
(2021年8月刊。税込1540円)

国民食の履歴書

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 魚柄 仁之助 、 出版 青弓社
明治になってから日本に入ってきた洋風調味料の御三家はソース、カレー粉、マヨネーズ。とはいっても、和食の伝統がこれら御三家によって破壊されたというわけではない。むしろ、それらを和食にうまく調和、同化させたのが現在の日本食。なーるほど、ですね。
インドのカレーと違って日本には日本のカレーがある。イギリスのウスターソースではない日本のソースがある。肉とチーズを食べるフランス人のマヨネーズと、魚と米を食べる日本人のマヨネーズが違っていて、何も不思議はない。なるほど、なるほど、そう言われたらそうなんですよね…。
本場インドでは、サラっとした「汁カレー」。イギリスは、バターで小麦粉を痛めたルウを使ってドロリとさせた。日本では、イギリス流のドロリとしたカレーこそがカレーであるというのが定着している。そうですよね、日本人にとって、カレーは、ドロリとしていなくてはカレーではありません。チキン、ポーク、ビーフが手に入らないときには、身欠きニシンを入れたカレーもあるそうです。戦前の大正時代の料理の本で紹介されています。
日本のマヨネーズは、欧米のマヨネーズとは異なる、独自のもの。マヨネーズが「自分でつくるもの」から「買ってくるもの」になったのは、戦後のこと。ええっ、戦前はマヨネーズは家庭でつくるものだったんですか…、それは大変でしたね。
絶対に油が分離しないスピードマヨネーズをつくる秘訣は、練乳(コンデンスミルク)をコップ3分の2杯だけ入れて混ぜること。練乳が乳化剤の役割を果たして、油の分離を防ぐ。ええっ、そんな裏技があったのですか…。
日本のソースは、初めのころはショーユ(醤油)からつくっていた。
日本のギョーザ(餃子)の大半は焼きギョーザ。私の大好物でもあります。大正13(1924)年には、東京に「ビターマン食堂」としてギョーザを食べさせる専門店があったそうです。1人あたりの年間ギョーザの消費量日本一は宇都宮と浜松で争っていましたが、何と宮崎が日本一になったというニュースが先日、流れていました。結局は、全国3位になったようです。
中国は水餃子が主であり、皮が厚い。かなり前に大連に行ったとき、何種類ものギョーザを食べさせてくれる店に案内されて、腹一杯、思う存分に焼きギョーザを食べることができました。ギョーザの命は皮づくりにある。西洋料理のラビオリは洋風餃子。日本のギョーザは皮が薄いのでおかずに適している。これは納得です。たくさん食べたいですから…。
肉じゃがが日本で「おふくろの味」となったのは1980年代だそうです。これには驚きました。たしかに、1960年代に東京で大学生をしていましたけれど、そのころ肉じゃがなんて聞いたことはありません。私のちょっとしたぜいたくな一品料理はレバニラ炒めでした。
料理本に「肉じゃが」が登場するのは1975(昭和50)年ころだったということです。私が川崎市で弁護士を始めたころになります。この本には、それまでの「肉豆腐」が「肉じゃが」に変わったという説を紹介しています。いずれにしても、川崎市内の居酒屋で「肉じゃが」を食べたことはなかったように思います。
なんだか読んでいて楽しくなる料理の本でした。
(2020年1月刊。税込1980円)

和算

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 小川 束 、 出版 中央公論新社
江戸時代、庶民においても「読み、書き、珠算(そろばん)」は必要なものと考えられていた。江戸時代の人々は、みな算数が社会において重要な知識、技能であることを理解していた。「そろばん(珠算)が何の役に立つのか」などと文句を言うモノはいなかった。江戸時代、珠算は必須の技能だったからだ。
神社に奉納した絵馬のようなものとして算額がある。江戸時代、数学の愛好者は互いに問題を解いたり、算額を奉納していた。神社は数学の発表の場だった。現存する最古の算額は、1683年のもの。関ヶ原合戦(1600年)から83年たっただけ。このような算額奉納は世界に例がなく、日本独自の文化現象。現存している算額は884枚だが、復元された91枚、文献に出てくる1646枚を加えると、2621枚にのぼる。
算額は天明(1781~1789)年ころから急激に増えはじめ、1800年から1809年にピークを迎えた。この10年間だけで、算額は300枚近い。算額は東日本に多く(東京369枚。次は岩手184枚、福島153枚、長野109枚、新潟105枚)、西日本は比較的少ない。
江戸時代の人々が数学を学ぶとき、初歩を終えると、数学を教授する師匠の下に入門するのが普通だった。数学にはいくつかの流派がある。
数学を教えながら、全国各地を歴訪した人がいたというのも驚きです。法道寺善という安芸国(広島県)出身の人です(1820年生まれ)。法道寺は、豊前(大分)、肥後、長崎、北陸道、東山道を遊歴し、各地で数学を教授したといいます。
江戸時代の人々にとって、もっとも身近な算学(数学)の教科書は、「塵劫記(じんごうき)」だった。1627年に刊行された、この本によって近世日本の数学文化は一挙に花開いた。
江戸時代の数学は世界的にみて最先端をいく成果をいくつもあげた。関孝和は日本の和算の創始者。関は存命中は1冊の本しか出していないが、一般人には難しすぎる傑作だった。
江戸時代の数学は、抽象的な計算技能と、その応用分野としての平面幾何、立体幾何から成り立っていた。そんな数学文化が継続できたのは、幾何の問題を無尽蔵に生み出すことができたから。そこには、図形の美しさという美的感覚、複雑な計算の完遂という高揚感があった。
なーるほど、すばらしいんですね。アルファベットも、X・Yもない時代、そして0(ゼロ)もなくて、どうやって計算していたというのか、ぜひ知りたいところなんですが…。
(2021年1月刊。税込1980円)

戦国佐竹氏研究の最前線

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 佐々木 倫朗、 千葉 篤志 、 出版 山川出版社
江戸時代には秋田藩を治めた佐竹氏は、今もその末裔が県知事ですよね。ところが、戦国時代には関東にあって、小田原北条氏と対抗していました。
さらに、伊達氏の関東進攻を阻み、豊臣政権の下で54万国の大々名となった佐竹氏。
佐竹氏は常陸北部から起き上がった。そして佐竹義重は北条や伊達と戦った。
感状(かんじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して出す書状。官途状(かんとじょう)とは、主君が部下の戦功を賞して、特定の官位を私称することを許す書状のこと。
陣城(じんじろ)とは、合戦(かっせん)のとき臨時に築かれた城のこと。
「洞」(うつろ)という耳慣れない目新しい言葉が出てきます。洞とは、濃厚な一族意識を含む、血縁関係にある一族を中心として、地縁などの関係をもつ者を擬制的な血縁関係に位置づけて包摂する共同体、またはそのような結合原理を示している。佐竹氏による権力編成の方法そして、血縁以外には、官途、受領(ずりょう)、偏諱(へんき)の授与、家臣の田の取立があげられる。
洞とは、血縁関係にある一族を中心として、それに非血縁者を擬制的に結合させた地縁共同体あるいはそのような結合原理。洞は、それぞれの階層に個別に存在し、大名クラス。勢力が構成する「洞」には、周辺の国人(在地領主や地侍)や大豪クラスのつくる「洞」が包摂され、包摂された国人クラスの洞のなかに、さらに下の階層の「洞」が包摂されるという、重層的な構造で成り立っていた。
関ヶ原の戦いのころ、佐竹氏は戦局に影響を支えるだけの軍事力をもち、実際、東西両軍にその存在を強く意識されていた。しかし、佐竹氏は軍事行動を起こして、その旗幟(きし)を対外的に鮮明にすることはなかった。なぜなのか…。
佐竹氏の内部では、積極的に西軍に加担しようという空気は醸成されておらず、上杉氏との協定も東軍による佐竹氏領国への侵攻を心配した佐竹義宣の焦りから、内部の意思統一が図られないまま、性急に結ばれたものだったと解するほかはない。
佐竹氏のもとでも鉄砲が大量に使われていたというのには驚きました。戦国大名の実情を知ることのできる本です。
(2021年3月刊。税込1980円)

パチンコ

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 杉山 一夫 、 出版 法政大学出版局
ミン・ジン・リーの『パチンコ』を歴史的に裏づけるような本です。といっても、ミン・ジン・リーとは関係なく、著者は一貫してパチンコの歴史を追いかけてきました。私より少し若い団塊世代で、本業は版画家です。パチンコの詳しさは並はずれています。
昭和27年、パチンコ店は4万2000軒。前年は1万2000軒でしたから、4倍近い増加率。
電動化される前、左手でもてる玉数は10~15個、親指で1個ずつ玉入れ口に押し出し、それと連動させ、右手で打つ。素人は、どうがんばっても1分間に50~60発。ところが、パチプロは、その倍の120発を楽々と打っていた。
プロは1分間に100発以上打てたというのですが、これは素人でしかなかった私には、とても真似できません。西部劇に出てくるガンマンの早撃ちと同じです。
1973(昭和48)年に電動ダイヤル方式ハンドルが登場するまで、パチンコは親指でパチンと弾く、日本の大衆娯楽だった。
司法試験の受験生のころ、東横線の都立大学駅前で降りて都立図書館に通って勉強していたことがあります。駅前にパチンコ店があり、つい午前10時の開店にあわせてフラフラと入店しパチンコに撃ち興じたことが何回かあります。勉強しなくては…という罪の思いがありましたが、午前10時だと台が選べますので、ジャンジャンとチューリップが開いて、大当たりになり、チョコレートなどの景品をたくさん下宿に持って帰り、近くに住んでいた仲間に分けてやったことを覚えています。でもでも、こんなことをしていたら、とても勉強に専念できないと一念発起し、その図書館通いは止めました。
パチンコは、実は、日本人の発明。パチンコ産業のピークは1995(平成7)年で、30兆9020億円。これは、この年の国家予算の半分の規模。いまでは衰退産業とも言われているが、それでも年間20兆円の基幹産業である。
パチンコは日本の警察管理のもとにある。開業から、玉の大きさ、貸し玉の値段、出玉の数、景品の内容に至るまで、隅から隅まですべて警察が規制している。いわば、パチンコ産業は警察の利権の拠点と化している。警察の許可がなければ何ひとつできないのが、パチンコ店とパチンコ機。各県の遊技共同組合には警察OBが大量に天下りしている。いま自民党の平沢勝栄代議士が警察長の保安課長のとき、全国共通のプリペイドカードの会社を認可した。
パチンコ業界は自民党に多額の献金をしているし、朝鮮総連を通じて北朝鮮に送金してきた。これは、どちらも公然の秘密だった。
CR機の登場によって、パチンコは名実ともに日本の基幹産業になった。
電動式パチンコ台が導入される前、パチンコ店には釘師(くぎし)がいました。弁護士になった私の依頼者にもそれを職業としている人がいました。ほんとうにごくごく微妙な傾きで玉の動きを左右するというのです。
そして、パチンコ台の裏には大勢の人が働いていました。「島裏」の女性従業員が10万人もいたというのですから、驚きです。それを、パチンコ店は電動化、自動化していって、無人化したのです。よくぞここまでパチンコの歴史を詳しく調べたものだと驚嘆しました。
(2021年3月刊。税込3520円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.