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幻の村

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 手塚 孝典 、 出版 早稲田新書
満蒙開拓団の悲惨な歴史をたどった新書です。
満蒙開拓団は、1931年の満州事変、翌年の満州建国のあと、1936年に閣議決定されて日本の国策となった、現在の中国東北部へ日本人500万人を移住させる計画によるもの。
「満州に行けば地主になれる」
こんな政府のコトバをうかつにも信じて、農業の担い手としての成人男性とその家族が海を渡った。その真実は、日本の公設企業が現地の農民から安く買いたたいた農作地と家屋を与えられ、中国人をよそへ追いやる入植だった。そして、それはソ連国境の防衛と、植民地支配が目的だった。また、日本の軍事を担う、陸軍の関東軍への食糧供給など兵站(へいたん)の役割も担っていた。
この本は、長野県にすむ胡桃澤盛(さわもり)を主人公としている。彼は36歳のとき、旧・河野村の村長に就き、総勢95人の河野村開拓団を満州に送り出した。ところが戦後の日本に無事に戻ってきたのは22人のみ。73人が死亡した。翌年、この村長は42歳の若さで自死した。
河野村開拓団には敗戦時の8月15日に76人がいて、男性は4人のみ。7割が子ども。中国人の村人から取り囲まれた。そして、団長は暴力を受けて虫の息となり、日本人の手で殺された。そのあと、開拓団は集団自決をはじめた。まず、自分の子どもを首を絞めて殺した。そして、生き残った人々が長野県に戻ってきたときには、村をあげて送り出したはずなのに、厄介者扱いされた。
「好き勝手に満州に行って死んだ奴ら…」と、さげすまれた。戦死者とは違う扱いだった。
中国人が耕作していた土地を、日本人がタダ同然で追い出したところに開拓団は入植した。開拓団のほうは、先輩たちが開拓した土地だと信じていた。開拓団の生活は軍隊式で、日課には軍事訓練もあった。
日本敗戦後、関東軍は逃げるときに時間かせぎのため、橋を落としていった。そのため開拓団は逃げるのに苦労させられた。
満蒙開拓団青少年義勇軍は全国で8万5千人。そのうち3万人が命を落とした。
国策として満州へ送り出したにもかかわらず、日本政府は残留孤児の帰国について、「家族の問題」として、介入しない方針をとった。そして、公的な支援策はとらず、家族まかせにした。
満蒙開拓団がたどった苦難の歴史が教えるものは、政府(国)や当局(村)の言っていることをうかつに信用してしまう(うのみにする)と、生命も財産も失うことがあるし、自己責任として、信じたほうが悪いとされることがあるということです。
それにしても、今の自民党(自民・公明)政権のひどさ(無責任さ)は、あまりにもひどすぎますよね。アベノマスクにしても8千万枚が配られずに倉庫に眠っていて、倉庫代がかさんでいる。1千万枚が不良品であり、その検品代に21億円もかけたうえ、廃棄処分する。これから子どもに配られる10万円の半分をクーポン券にして、その配布のための事務手数料に1千億円近くかけようとする…。信じられないムダづかいです。私は絶対に許せません。プンプンプン…。投票率が5割ほどでしかない状況がすべてを許しているのです。
(2021年7月刊。税込990円)
 12月25日、天神でアメリカ映画『ダーク・ウォーターズ』をみました。デュポン社(化学製品のメーカー)がテフロンには生物への重大な健康被害を与えることを実験して知悉していながら消費者に対しては安全・便利だとウソを言って莫大な利益をあげていたのを企業側の弁護士がデュポン社とたたかうことになり、大変な苦労の末に勝訴したという実話にもとづく映画です。
 日本でも水俣病やイタイイタイ病裁判があるわけですが、わずかな弁護士が大企業と裁判して勝てた背景には情報開示制度が生きていることがよく分かりました。
 また、クラスアクション(集団訴訟)を活用し、大々的な疫学調査を国にさせたところも注目すべきところがあり、大変勉強になりました。
 残念なことに観客はわずか5人だったようです。

三国志入門

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 宮城谷 昌光、 出版 文春新書
中国でもっとも多くの人々に読まれた小説は『三国志演義』。漢と明のあいだにあった三国時代の変遷、政争を扱った小説です。
私は、『三国志』よりも『水滸伝』のほうが、よりより胸がワクワクして好きでした。どちらも中学生のころに読んだのだと思います。なので、ダイジェスト版だったのかもしれません。
『三国志』には、劉備と関羽、張飛の三人が桃園で兄弟のちぎりを結ぶというシーンがあります。これも、史実とは違い、小説の世界のことのようです。
日本は中国から多くの制度や物を輸入したが、不思議なことに宦官(かんがん)と馬車は導入しなかった。
古代中国の戦場では兵車戦が大きな主役となっていたが、日本では歩兵戦と騎馬戦がおもになった。これは太平原のある中国と、山あり谷あり川ありというチマチマした地形での戦闘がほとんどだったことの違いによるものではないか。戦国時代の長篠の戦いも、それほど大きくはない川をはさんでの戦いでしたし、関ヶ原の戦いにも、現地に2度、私も行きましたが、平坦な土地はごくわずかしかありませんので、兵車が活躍できたはずもありません。
なぜ日本に宦官が登場しなかったのか、この本に答えはありません。ただ、明治までの日本の馬は去勢しないことで有名です。人間と馬は違いますが、なんだか似てませんかね…。
関羽を祀(まつ)る関帝廟(びょう)は、日本にも東西にあるそうです。関羽は武神だったのに、今では商売の神様になっています。
中国の美女は「国色(こくしょく)」といいます。国のなかで、もっともすぐれた容色のこと。
赤壁の戦い。208年に曹操と孫権が戦い、曹操軍が大敗してしまいます。さすがにスケールの大きな中国映画で、それを映像としてみました。
諸葛孔明(しょかつ・こうめい)は、私も大好きなヒーローです。実戦で活かせる兵法を考え出し、活用していったのです。兵糧不足と軍需物資の輸送のむずかしさに悩み、それを克服していったのでした。
三国志の世界を知ることは、宝の山に踏み込むようなものかもしれない。
中国モノの文学作品の第一人者による『三国志』の入門の手ほどきがされている新書です。
(2021年3月刊。税込1045円)

うん古典

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 大塚 ひかり 、 出版 新潮社
子どもたちの大好きな『うんこ漢字ドリル』が大ヒットするなかで、実は日本人は昔から大人も「うんこ」の話が大好きだったという、うんちくをこれでもかと傾けた本です。まさしく「うんこ」ワールドの世界が大爆発します。
王朝文学は、神話に劣らぬほどの「うんこ話」の宝庫。もっとも汚れた者こそが、もっとも神聖な境地に達するという物語のパターンがあった。
侍(さむらい)にとってトイレの付き添いや介添え、これが風呂の用意や掃除とともに、主な仕事になっていた。
鎌倉前期、禅宗の一つ、曹洞宗をおこした道元は、トイレのマナーを具体的かつ詳細な論述していた。
トイレは仏の説法の場でもあったので、そこでのマナーは、仏教的にも非常に大切なものだった。
『正法眼蔵』のトイレマナーは、身を清浄に保ち、トイレを正しく使うことで、心が安定、自分も他者も幸せになる。
これってコンマリ「近藤真理恵」本で、おすすめのことですよね…。
排泄の場であるトイレは、古代は乙女を犯そうと神が現れたり、江戸時代には人の尿をなめたり、尻子玉を抜こうとする河童が出てくるので、鬼神と出会いやすいというパラドックスがあった。つまり、トイレは、この世ならぬ異界への出入口だ。
現代では、便は健康状態をはかるバロメーターだ。健康第一を唱える人なら誰だって、その日の便の状態はよくよく視認しているのです。
いやあ、勉強になりました。
(2021年4月刊。税込1705円)

始皇帝の地下宮殿

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 鶴間 和幸 、 出版 山川出版社
私は幸いなことに兵馬俑(へいばよう)を2回も現地で見学しています。ともかくすごいのです。等身大の兵士と将軍の彫像が何千体も発掘され、展示してあるのです。実に壮観です。そして、当時の壮麗な馬車もあります。よくぞこんな壮大なものを構想し、実現したものです。実物の前では息を呑むばかりで、言葉になりません。
始皇帝(前259~前210)は、中国最初の皇帝。はじめは秦王(しんおう)として即位し26年間、東方の六国を併合してからは皇帝として12年のあいだ君臨した。陵墓の建設は、秦王に即位した翌年から。実に37年におよぶ治世のあいだ罪人(刑徒)72万人を動員して建設工事を続けた。始皇帝は50歳のとき、病気のため急死した。始皇帝の肖像は残されていない。今あるのは、17世紀の明の時代の肖像なので、完全に想像図。
兵馬俑坑が発見されたのは1974年のこと。始皇帝陵のすぐ近くにあります。
秦が滅びたあと、三国時代に楚王の項羽が30万人を動員して30日間かけて始皇帝陵から物を運びだした。また、失火から始皇帝の地下宮殿が90日間も燃え続けたという。
私も、それは知っていましたので、始皇帝陵はもはやカラッポになった状態だとばかり思っていました。ところが、本書は、地下5メートルほどの兵馬俑坑なら火災にあうかもしれないが、地下30メートルの地下宮殿が焼失したはずはないとしています。
始皇帝の墓室は、深さ30メートル、東西80メートル、南北50メートル。そして、地下宮殿は、東西170メートル、南北145メートル、高さ15メートル。
墓道は埋められているので、地下世界に入るのは不可能。
始皇帝は地下宮殿で金縷(きんる)玉衣をまとっている可能性が高い。
科学技術の発達によって、今では、実際に地下を掘らなくても、地下宮殿をイメージすることができるのです。驚きますね…。
そして、地下宮殿には、大量の行政文書や書籍が搬入されているはず。いやあ、すごいことですよね。これらの文書が発掘されたら、古代中国の実態が今よりはるかに鮮明になることでしょう。それは私の生きているうちには恐らく無理でしょうが、私は、あの世から戻ってきても、ぜひぜひ知りたいです。
兵馬俑も1回目と2回目とでは、ずいぶんと展示の仕方が異なっていました。コロナ禍の心配をしなくてすむようになったら、もう一度ぜひ行ってみたいです。万里の長城は行ってしまえば2度も行かなくていいところですが、兵馬俑はそんなものでは決してありません。
久しぶりに中国古代文明のすごさを少しばかり実感し、ゾクゾク興奮してしまいました。
(2021年9月刊。税込1760円)

鎌倉殿と執権北条氏

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 坂井 孝一 、 出版 NHK出版新書
なぜ源頼朝が苦労してうちたてた鎌倉幕府が、いつのまにか妻・政子の出身母体である北条氏一門で牛耳られるようになったのか…。北条政子は自分の子より、なぜ実家を大切にしたのか…。鎌倉時代には不思議なことが多いですよね。
源頼朝が伊豆で挙兵したとき、まず一番にやったのは山木攻め。このとき、わずか3~40人ほどの兵力で奇襲をかけた。この奇襲において北条氏は頼朝軍のまさしく中核だった。
ところが、石橋山合戦では頼朝軍は大敗し、頼朝自身も闘わずして上総・安房(あわ)に逃れた。
鎌倉時代には、敵対者の子が男なら、たとえ赤ん坊や幼児であっても命を奪うのが常だった。
このころ、武士は、恩を施してくわる者こそ主君だとみていた。
源平合戦の一つとして有名な「富士川の戦い」においては、甲斐源氏はともかく、兵力差におじけ(怖気)づいた追討軍のなかから数百騎が脱走したため、やむをえず撤退したのではないか…。
北条義時は、忠実なる御家人として頼朝に仕えた。
北条時政は、頼朝の期待にこたえた。ただし、少し調子に乗りすぎた。
頼朝自身は53歳で死亡。政子は、源家の若い当主である頼家を支える家長。御家人たちも政子の意見には従った。頼家は「暗君」ではない。積極的に幕政に関与し、将軍親裁(しんさい)を執行していた。
「比企(ひき)の乱」は、追いつめられた北条時政ら北条氏の側が仕かけたクーデターであり、その実態は「北条の乱」と呼んだほうがいい。
源実朝が鎌倉殿を承継したときは、わずか12歳だった。このときから北条時政の独走が始まった。
牧氏事件は、政子と北条義時ら、方丈時政前妻の子たちが将軍実朝と協力し、時政と後妻の牧の方を追放した事件。
北条義時は、情勢分析がうまく、適切なチャンスが来るまで、じっと待機していた。チャンス到来と判断すれば果断、迅速に行動した。
和田合戦で和田義盛の和田氏が滅びてしまった。
承久の乱における北条氏と後鳥羽上皇の駆け引きが詳しく紹介され分析されているところは、なるほど、そういうことだったのかと思わず膝を叩いてしまいました。
後鳥羽上皇が許せなかったのは、大内裏(だいり)焼失の原因をつくった鎌倉幕府が再建に協力しないこと。
後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発した。これに対して、義時の姉の政子が動いた。「尼将軍」政子の演説は、今も日本史上に残る名演説です。このとき、政子は簾中(れんちゅう)から言葉を発するという手続を踏んだ。この政子の演説によって御家人たちは激しく心を動かされた。
このとき、後鳥羽上皇が命じたのは、朝敵義時の追討だったのに、あたかも幕府本体への攻撃だったと政子はうまくすりかえた。すなわち、政子は義時追討を「三代の将軍の遺跡」幕府そのものへの攻撃であるかのように巧みにすり替えた。
そして、幕府を構成する御家人たちの危機感があおられ、鎌倉幕府の解体の危機がつきつけられた。その状況からして、御家人たちには「鎌倉方」を選択するしかなかった。
義時の率いる鎌倉勢は、圧倒的な実戦経験があった。和田合戦などで実戦を通じて学んでいた。これに対して、京方の将兵は実戦経験に乏しかった。
後鳥羽上皇は、さすがに「治天の君」として策略を立て、三段がまえの戦略を立てた。しかし、万が一に備えておくこともしなかった。
執権北条って、決して盤石ではなかったということがよく分かりました。歴史のダイナミックを実感させられる本です。
(2021年9月刊。税込1023円)

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