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コンビニからアジアを覗(のぞ)く

カテゴリー:アジア / 社会

(霧山昴)
著者 佐藤 寛 ・ アジアコンビニ研究会 、 出版 日本評論社
日本には5万店をこえるコンビニがある。これは郵便局(2万5000局)の倍。
たしかに、町の至るところにコンビニがあります。不意にトイレに行きたくなったときにも、コンビニを見つけたらホッとします。でも、コンビニが閉店した跡を見ることも多いですよね。もちろん看板も何もかも残っていないので、どのコンビニチェーンかまでは分かりませんが、コンビニの栄枯盛衰も激しいと実感しています。ちなみにマクドナルドなどのファスト・フード店も全国に7000店近くあるそうです。
今、日本のコンビニはアジア各国に進出している。
日系コンビニには共通点がある。チェーンが異なっていても、レジカウンターの配置、商品の店内での位置が極度に標準化されていて、どの店でも似たような商品は似たような場所に並べられている。コンビニでは、チェーンをこえて「標準化」が徹底している。これは、消費者にとって、予測可能性の高さ、それは慣れ親しんだ空間という安心感を与える。
日系コンビニは、売り場面積100平方メートルほどの標準的な店舗で2800~3000品目を扱う。
日本型コンビニはSQC、良質な店員の接客態度(S)、商品の品質の高さ(Q)、店舗の清潔さ(C)を密接不可分のものとしている。
また、POS(販売時点情報管理)は、いつ、どのような商品が、どのような価格で、どれだけ売れたかを経営者が把握するためのシステム。このシステムを最大限に活用して、販売と発注を連携させ、フランチャイズの本部が個々の店舗を経営指導するのに役立てている。
日本では、たとえばセブンは、98%がFC(フランチャイズ)加盟店であり、直営店は2%のみ。そして、商品の製造・物流は既存のメーカーや卸売業者を利用した。また、米飯・調理パン・惣菜といった、日持ちのしない調理ずみ食品を「戦略的商品群」として重視している。これらは高い粗利益率をもたらしている。
インドネシアではセブンは2017年に116店舗を閉鎖したように苦戦している。インドネシアで日系コンビニがうまくいかなかった理由の一つが、ジャカルタの交通渋滞が激しすぎるから。
最近、力を入れているのはベトナム市場。
日系コンビニは、カンボジア、ラオス、ミャンマーには進出していない。
ベトナムにファミリーマートとミニストップが先行している。
ローソンは中国で2000年代に苦戦した。
ファミリーマートは2014年に韓国から撤退した。
タイでは、買い物に行くことを「パイ・セブン」と言うほどになっている。タイのセブンイレブンは1万店をこえている。タイのセブンイレブンは全店舗のうちの14%以上の1574店舗がガソリンスタンド併設型。タイのセブンイレブンは、屋台文化と共存している。
ちなみにセブンイレブンは全世界に6万8千店舗近い(2019年2月末)が、そのうち81%はアジアにある。
台湾では、身近な存在であるコンビニをいかして、「幸せを守るステーション」という社会政策がとられている(新北市)。これは、食事をとれない18歳以下の子どもを発見したら、コンビニで無料の食事が提供されるというシステム。新北市は、食事をとれない子どもを発見したら、必要なサポートを行う。コンビニが食事を提供するときの費用は新北市の負担ではなく、寄付によってまかなわれている。
これは、日本の「子ども食堂」のようなものです。いいですね…。
中国市場について、ファミリーマートは台湾企業のもつノウハウに依拠している。
中国のコンビニでは、中国人の口にある日本料理というのではなく、「ホンモノ」の日本の味を楽しみたいというニーズが強い。中国風にアレンジされた「ニセモノ」は敬遠されるようになった。
アジア各国における日系コンビニの実際と課題とが写真つきで紹介されている面白い本です。
(2021年6月刊。税込2640円)

王朝日記の魅力

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 島内 景二 、 出版 花鳥社
NHKラジオで古典講読をしている著者が放送台本を書き言葉に置き換えていますので、とても読みやすく、しかも内容が濃いのです。さすが学者は違います。読み方の深さに圧倒されました。
『蜻蛉(かげろう)日記』の作者は道綱の母、そして藤原兼家の妻。上巻・中巻・下巻には、19歳から39歳まで、あわせて20年間の「女の一生」が書かれている。
著者による現代語訳を少し紹介します。
夫から捨てられて、みじめな死に方をするのではなく、夫を捨て、夫によってみじめなものにさせられた自分の人生をも潔(いさぎよ)く捨ててしまう。そういう潔い死を、私は求め続けた。私にはプライドがある。運命に追い詰められて死ぬのはみじめである。死にたくないなどと逃げ回って、けれども、ほかにどうしようもなくなって、仕方なく死んでゆくような、情けない死に方は絶対にしたくなかった。けれども、ただ一つだけ、私が捨てられないものが存在する。私の生んだ、たった一人の男の子、道綱である。
道綱の母は、藤原兼家という夫の束縛を断ち、大空のはるか向こうまで、自由を求めて飛んでいきたかったことだろう。夫の兼家には、「近江」という愛人がいて、別に村上天皇の皇女とも男女の関係にあった。道綱の母は、『蜻蛉日記』を読んでいる読者に向かって、直接、私の心を推し量(はか)ってくださいな、と呼びかけている。
いやあ、すごいですね。これではまるで現代に生きる日本女性の叫び声ではありませんか…。
平安時代には、女性が出家して尼になるときも、髪の毛を全部剃(そ)って丸刈りになることはない。髪の毛を肩のあたりまでで切り揃(そろ)える。残った髪の毛は、額のあたりで振分髪(ふりわけかみ)にして、左右に分ける。この髪型を「尼削(あまそぎ)」という。
オカッパ頭になるのですね。そして、いよいよ死の間際になったら髪の毛を剃ってしまったのです。
道綱の母は、読者の目からすると感情移入するのがかなり難しい性格の持ち主だ。
この本は、『蜻蛉日記』と『源氏物語』の共通点を指摘しています。それは、紫式部の『源氏物語』が『蜻蛉日記』から多くのものを学んでいるということです。
道綱の母は、兼家との夫婦関係が完全に消滅すると、わが子・道綱の政治家としての未来も閉ざされてしまうことを心配した。なので、我慢するしかない。
『蜻蛉日記』は、作者の主観が生み出した世界を、言葉にうつしとったものだと考えられる。言葉が世界をつくり出す。正確には、心を写しとろうとした言葉が、王朝日記文学をつくり出したのだ。
『蜻蛉日記』のなか、『源氏物語』、そして『更級(さらしな)日記』のなかにも不思議な夢のお告げがよく登場する。王朝の女性たちは、夢の実現を強く願い続けた。女性たちの夢や希望がぎゅっと圧縮されたもの、いわば「夢の遺伝子」が『蜻蛉日記』であり、『源氏物語』であり、『更級日記』だった。
『蜻蛉日記』の作者(道綱の母)は、60歳まで生きて、995年に亡くなった。
その夫である藤原兼家は一条天皇が即位したとき、摂政になった。その4年後、兼家は亡くなった。さらに、その5年後に作者(道綱の母)が亡くなった。この年、兼家の息子である道隆と道兼は相次いで死去した。翌年、兼家の息子の道長が権力を掌握した。
まもなく紫式部による『源氏物語』が書かれはじめ、『和泉式部日記』そして、『更級日記』の著者が生まれた。女性の手による散文の名作・傑作が続々と誕生した。その最初が『蜻蛉日記』なのだ。
この『蜻蛉日記』は『源氏物語』に大きな影響を与えただけでなく、近代小説にも影響を及ぼしている。田山花袋、堀辰雄、室生犀星の3人があげられる。
こういう講釈を聞くと、『蜻蛉日記』で言われていることは、そのまま今の日本にあてはまると思えてきます。決して古いとか時代遅れになったとは思えません。喜ぶべきか悲しむべきか分かりませんが、すごいことですよね。手にとって読んでみる価値が大いにある本です。
(2021年9月刊。税込2640円)

非正規介護職員ヨボヨボ日記

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 真山 剛 、 出版 三五館シンシャ
施設では、入所者の前では「オムツ」とは呼ばず、「パンツ」と言う。オムツは赤ちゃんのためのもの。プライドが傷つけられる…。
まあ、私はオムツではなく、昔風におシメと言って笑われるのですが…。認知症になっても、人間としてのプライドだけはもっているのですよね…。それが、人間の不思議なところです。
社長もコンサルタント会社の役員もしたことのある著者が56歳で介護施設で働くようになり、すでに70歳。その介護施設の実情を現役の介護職員として働きながら、泣き笑いのペーソスたっぷりに紹介している本です。やがてお世話になる日も近いと思いながら、身につまされつつ読みすすめていきました。
短気な人間に介護の仕事は向かない。
介護の仕事にセクハラはつきもの。セクハラするのは堅い職業についていた人、銀行員、警察官、宗教家、教員などに意外に多い。
施設の入所者の大半、とくに女性は便秘になりやすい。高齢者は腹圧が弱くなって、運動不足だから。それで、就寝前に便秘薬を飲ませる。便秘は苦しいし、身体によくないですよね…。
職員を大切にしない施設職員から見限られる施設、つまり職員が日常的に辞める老人ホームが優良な施設であるはずはない。そんな施設が入居者を大切にする(できる)はずはない。
お局(つぼね)様のようなベテランの職員がいて、細かいところにまで気がつくのはいいけれど、人前(みんなのいる前)で、厳しく叱責するようだと、新米職員は心が折れて、一週間もしないうちに辞めていく。
介助の仕事には細心の注意が必要だが、あまりに些細なことを気にしすぎると、かえってこの仕事はつとまらない。燃え尽き症候群(バーンアウト)は、介護職によく見られる。責任感が強すぎたり、ストレスに弱かったり、人の目を気にする神経質な人が陥りやすい。
毎日、深刻に真正面から彼らの「老い」や「認知症」と向きあっていたら、それこそこちらのメンタルがもたない。彼らを面白がるくらいでないと、とても介護の仕事は続けられない。それが正直な気持ち。これが著者がこの本を書いた理由です。うーん、なんだか分かりますね…。
(2021年9月刊。税込1430円)

中国共産党の歴史

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 高橋 伸夫 、 出版 慶応義塾大学出版会
中国共産党の輝かしい歴史の陰には凄惨な歴史が繰り返されていたことを改めて認識しました。
1921年7月、上海で秘密裏に第1回党大会が開かれた。このとき、毛沢東をふくむ13人の代表が集まったが、その平均年齢は28歳だった。彼らは必ずしもマルクス・レーニン主義者ではなかった。このとき採択された綱領はアメリカ共産党の綱領を、決議はアメリカ共産党宣言を手本とするものだった。
1923年6月、共産党の党員は420人。これに対して国民党の党員は5万人。国民党が1924年1月に広州で開いた全国代表大会では、共産党員を国民党に入党させることを正式に認め、毛沢東も国民党に入党した。
1927年春には、中国共産党の党員は労働運動の進展とともに6万人近くまで急増した。武漢で開かれた第5回党大会には、国民党中央委員会の代表団、コミンテルン代表、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連の共産党代表も参加した。
スターリンは国共合作が崩壊するなかで、中国の共産主義者に対して一連の武装蜂起に立ち上がることを命じた。このころ、中国共産党は、財政面でも、モスクワに大きく依存していた。コミンテルンは、中国共産党に毎月1万2820ドルを送っていた。
1927年12月に広州で起こした暴動は失敗し、6千人もの共産党員と労働者が殺害された。このころ、毛沢東は新しい軍隊をつくり出していた。この軍隊は志願制で、やめたければ好きなときにやめてよく、軍隊内部には民主制が施行され、将校と兵士は対等とされた。そして、「三大規律、八項注意」を徹底させた。
1928年夏には、共産党は井崗山根拠地を拡大させて、人口50万人をかかえた。
1929年代末の毛沢東は、まだ同僚たちから心服されていない人物だった。それどころか毛沢東は党中央にとって厄介者だった。それでも革命の現場には不可欠の実力者だった。
1930年から、中央根拠地で、「AB団(アンチ・ボリシェビキ団)」なる反革命集団がいるとして大々的な静粛が始まった。結局、「AB団」として7万人あまりが殺された。
1931年4月ころ、上海で活動していた党の秘密活動の責任者であった顧順章と総書記の向忠発が逮捕・処刑された。
1931年11月、毛沢東は、中央根拠地における紅軍の指導的地位から排除された。このとき、党のトップは周恩来だった。
1934年10月、「長征」が始まった。このときには、毛沢東はソビエト政府主席となっていた。しかし、軍事上の最高指揮権は、まだ周恩来が握っていた。毛沢東が軍の最高指揮権をもるのは、1935年8月から。
張学良は、共産党を日本軍に対するレジスタンスの信頼できるパートナーとみなしていて、自ら中国共産党への加入を申請した。これに対してコミンテルンが「軍闘」として加入を認めなかった。それでも張学良は、共産党との良好な関係を保ち続けた。
張学良が蒋介石を監禁した西安事変は、スターリンを大いに困惑させた。他方、毛沢東は有頂天となり、「西安事変は革命だ」とし、蒋介石を人民裁判にかけることを考えた。しかし、コミンテルンが介入し、蒋介石を釈放するしかなくなり、毛沢東は地団駄を踏んで悔しがった。
1940年、「百団大戦」のなかで八路軍が日本軍2万人を死傷させたとき、衝撃を受けた蒋介石の国民党は八路軍の削減を要求した。このとき毛沢東は、蒋介石が共産党軍を日本軍とともにはさみうちにして壊滅させようとしていると心配し、逆に国民党軍を背後から攻撃しようと考えた。このときもコミンテルンが介入してきて、毛沢東はあきらめた。
日本の右翼的な考え方の持ち主に、このころ、共産党軍は自ら戦わずして日本軍に国民党軍と戦わせて漁夫の利を得ようとしていたという「説」がまことしやかに流されています。このころ、こんな状況で、共産党軍が日本軍と事実上にせよ提携するなど、まったくありえないことです。
1941年から1945年にかけて共産党軍は、陝甘寧辺区で大規模なケシの栽培を始めていて、「革命アヘン」の売買による利益が党中央の財政収入の25~50%をまかなっていた。いやあ、これは知りませんでした…。
中国共産党の党員は、1937年7月に4万人だったのが、1938年末には50万人になった。
1042年2月、整風運動が始まった。
1943年3月、党中央書記処は毛沢東、劉少奇、仼弼時の三人から成り、毛沢東には「最終決定権」が与えられた。つまり、毛沢東は、別枠の権力者になったのです。かつては毛沢東より立場が上だった周恩来は、屈辱的な自己批判をして、毛沢東に忠誠を誓って、永遠の屈従を強いた。
1943年7月、延安で反スパイ動員大会が開催された。
1946年夏、国共内戦が始まった。初めの9ヶ月間は、紅軍は後退を余儀なくされた。国民党軍の将軍たちは、最後にはアメリカ軍が助けてくれると期待して、懸命さに欠けていた。その兵士たちも、村から強制的に連れてこられた男たちが大半なので、戦闘精神に欠けていた。そして、村々を略奪してまわった。これに対して、人民解放軍兵士は士気が高く、略奪することもなかったので、人々の支持が集まった。
(2021年7月刊。税込2970円)

コード・ガールズ

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ライザ・マンディ 、 出版 みすず書房
日本がアメリカに宣戦布告して始めた太平洋戦争で、日本が勝てたはずがないことは、この本を読めば一目瞭然です。だって、アメリカは、1万人以上の女性を暗号解読作業に従事させていて、日本が絶対解読されるはずがないと慢心・過信していた暗号を見事に解読していたのですから…。
だから、真珠湾攻撃には役に立たなかったけれど、ミッドウェー海戦のときには、日本海軍の手の内を全部知っていましたし、山本五十六長官の行動スケジュールの詳細をつかんでいたので容易に撃墜できたのです。そして、日本軍の船舶輸送についても全部つかんでいました。アメリカが苦労したのは、暗号を解読していることを日本軍に知られないようにすることだったのです。
そして、駐ドイツ大使の大島浩が親ナチスでヒットラーとも親密な関係にあって、ドイツ軍の配置状況を詳細に東京へ報告していたのまで、その全部をアメリカは把握していたのです。これが連合軍のノルマンディー上陸作戦のとき大いに生かされました。親ナチスの大島浩は、客観的には連合軍のスパイのような役割を果たしていたのでした。まさしく歴史の皮肉です。
暗号解読にはインスピレーションのひらめきがなければいけない。しかし、同時にファイルを几帳面に整理整頓していなければ解読できない。
暗号解説には優れた記憶力をもつ大勢の人間が必要だ。
アメリカ陸軍の1万500人の暗号解読集団の70%が女性だった。海軍では80%。アメリカ人の暗号解読者2万人のうち1万1000人が女性だった。しかも、大学卒の優秀な若い女性たちです。全米からワシントンに集められ、秘密の施設で解読作業にあたりました。
暗号解読には、読み書きの能力と計算能力、注意力、想像力、労を惜しまない細やかな気配り、優れた記憶力、くじけずに推量を重ねる力が求められた。単調な骨の折れる作業に耐える力と、尽きることのないエネルギーと楽観的な心構えが必要だった。
暗号解読の成功は、診断力があるかどうかで決まる場合が多い。診断力とは、部分だけでなく、全体を見る能力、通信を偽装するために敵が考案したシステムの根本を見抜く能力のこと。
暗号解読者にかかる重圧、ストレスは大変なものがあり、神経衰弱になって、立ち直れない人も少なくなかった。
日本の暗号製造機でもあるパープル機は、連合国にもっともすぐれた情報をもたらしてくれた。日本人は自国の暗号システムの安全性に無邪気なほどに自信をもち、ひんぱんに通信文をやりとりしていたため、連合国に多くの貴重な情報を与えた。3年間に1万通以上の情報が連合国に与えられた。そして、真珠湾攻撃を予測できなかったのは、日本の外交官が、それを知らされていなかったから。
ナチス・ドイツのエニグマ(暗号機)は、ポーランドの暗号解析チームが解読した。そして、イギリスでは2000人の女性職人が解読機「ボンブ」を操作した。
アメリカは、日本軍の暗号を解読したことによって、日本陸軍部隊の兵力、装備、種類、位置、配備をつかんだ。敵の日本軍がどこに宿営していて、どこに向かっているか、アメリカは正確に知っていた。
そして、暗号が解読されたせいで貨物船が撃沈されたと日本が察しないようにアメリカは計略をめぐらした。日本が送信してきたもので、アメリカ軍が読めないものはひとつもなかった。これでは日本軍がアメリカに負けるのは当然のことですよね。物量以前に、情報戦での日本軍はアメリカに負けていたのです。それにしても日本の過信は今も続いていますよね。今でも日本民族は世界に冠たる優秀な民族だなんて吹聴する人がいるのですから、恥ずかしい限りです。そんな人は、この本をぜひ読むべきだと思いました。
(2021年7月刊。税込3960円)

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