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足利成氏の生涯

カテゴリー:日本史(室町)

(霧山昴)
著者 市村 高男 、 出版 吉川弘文館
 足利尊氏(たかうじ)の四男・基氏(もとうじ)を始祖とする関東の足利氏の流れに、足利成氏(しげうじ)はある。
 基氏は、鎌倉公方(くぼう)家の祖。成氏は父が四代鎌倉公方の足利持氏で、成氏が9歳のとき、父の持氏が山内上杉勢に攻められ、永享11年(1439)年2月、謹慎中の永安寺で自害し、兄義久も自殺して鎌倉公方家は滅亡の渕に追い込まれた。
 そして、成氏(万寿王丸)も捕らえられたが、幸運にも処刑が中止されて助かり、信濃の禅寺に身を潜めた。
室町将軍・義教(よしのり)が赤松満祐(みつすけ)に殺害されたことから、鎌倉公方に成氏を推す勢力が盛り上がり、ついに成氏16歳の文安4(1447)年8月に鎌倉に帰還した。成氏が20歳のとき、江ノ島合戦が起きた。この実際の戦闘で成氏は上杉方に勝利して、実力と存在感を示すことができた。
 成氏は鎌倉に戻り、寺社の所領を回復し、徳政令も発した。成氏は、関東管領(かんれい)の上杉憲忠と張りあっていたが、享徳3(1454)年12月に上杉憲忠を御所に呼びよせて殺害した。これには公方近臣たちの意向が強く反映していたとみられる。憲忠を殺害された上杉方は、享徳4(1455)年正月、早々、成氏への報復合戦を始めた。享徳の乱の始まりである。
 足利幕府は、将軍義政や管領細川勝元らの方針で、成氏討伐を主張し、決定した。成氏は鎌倉を離れ、享徳4(1455)年12月、下総(しもうさ)古河(こが)に着陣した。
 京都で、応仁・文明の乱が始まったのは応仁元(1467)年5月のこと。
 文明14年(1482)年11月、成氏は、足利義政と都鄙(とひ)和睦(わぼく)を成立させた。鎌倉公方の成氏は、下総古河に移って古河(こが)公方と呼ばれるようになった。これは成氏が鎌倉を追い出されて古河に逃げたのではない。
 やがて、古河は鎌倉から移転した「鎌倉殿」の本拠であり、「関東の首都」としての位置を占めることになった。
 成氏は生まれたあとまもなく、鎌倉の大地震や富士山噴火などの災害被害の洗礼を受けた。また、永享9年に陸奥・関東で大飢饉が発生している。
乱世を駆け抜けてきた成氏は、50代半ばすぎに中風を患ったが、すぐには家督(かとく)を子に譲ろうとはしなかった。成氏は67歳で亡くなった。
 成氏の政治的交渉には柔軟性があり、自分の信念なしに時流に流されることのない良い意味で頑固さがあった。
 京都の幕府は、年中行事や儀式・典礼などの面で、公家世界の影響を強く受け、武家社会の伝統や儀礼を変質させた。かえって鎌倉府のほうが、儀式・典礼や年中行事などで武家政権の伝統や文化が良く保存されることになった。
 古河公方の実態を明らかにした本格的な書物として、最後まで興味深く読みすすめました。
(2022年10月刊。2700円+税)

葛藤する法廷

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 水野 浩二 、 出版 有斐閣
 「ハイカラ民事訴訟と近代日本」というサブタイトルのついた本です。「ハイカラさんが通る」って、なんか聞いたことがありますよね。いったいいつの話なのかな…。
 なんと、この本は明治24年(1891)年に施行された民事訴訟法の運用と、その改正法が成立・施行された1929(昭和4)年までの動きを追っているのです。
 なんで、私がそんな古い民事訴訟法に興味をもったかというと、江戸時代の民事裁判と明治時代のドイツ直輸入とされている民事訴訟法の異同また関連性の有無を知りたかったからなのです。
 私の畏友の園尾隆って元裁判官(現弁護士)は江戸時代の民事訴訟手続は明治時代にも生きていて、受け継がれているところがあると指摘しています。私も漠然と、この指摘に賛同しているのです。
 ところが、この本の著者には、その視点が残念ながら欠如しているようです(あるのかもしれませんが、私には読みとれませんでした)。それはともかくとして、この本で話題になっているところは、現代の裁判にも共通するところが多いのに驚かされました。
 たとえば釈明権の行使です。昔(明治から昭和初め)の裁判所は釈明権の行使に消極的であったらしく、弁護士の側は、それへの不満を多く述べています。
 裁判官の多くは不干渉主義をとっていたようです。当事者にまかせっきりで、裁判官がきちんと交通整理(争点の整理)をしないのです。今も少なからず存在しますが、こんな裁判官は無責任としか言いようがありません。裁判官による「過剰な介入」という批判は多くなかったとのこと。これまた、今も同じです。
このころ弁護士は、判検事とは別の弁護士試験というものがあって、それに合格すると、すぐに弁護士業務ができていました。すると、実務修習がないわけですので、初めての弁護士は勝手が分からず、困ったでしょうし、周囲も困惑させられたことでしょう。
 また、裁判にあたって、弁護士を代理人として選任しないことも少なくなかった。それは裁判官を困らせた。そこで、弁護士強制の制度の導入を唱える人たちも一定いましたが、法改正にまで結びつけることができませんでした。
 本人訴訟は、明治の当時も令和の今も一定数まちがいなく存在します。私は、これからもあまり減ることなく存続するとみています。日本人のなかには昔も今も裁判が好きでたまらないという人が一定数いるのです。これは私の実感です。
明治民訴法の下では、法廷での証人尋問は、すべて裁判官を通じて発問することになっていたようです。驚きました。
 法廷に立って証言する証人は、そのほとんどすべてが前もって訴訟当事者のいずれかからよくよく言いふくめられていた。証人は法廷では嘘をつくものだと多くの裁判官に考えられていた。
 口頭弁論というのは、昔も今も、書面を提出するだけで、実際には口頭での「やり取り」はありません。
 清瀬一郎弁護士(戦後、国会議員にもなった、有名な人ですよね…)は、東京のほうは法律解釈に重きを置き、大阪のほうは事実の真相を得ようとする点に重きを置くので、東西でかなり力点が違うとみていた。
 弁護士からすると、現実の裁判官(これも当時の…)は、しばしば近代法の常識を「権威主義的に」ふりまわす「非常識」な存在だった。逆に言うと、弁護士は、「常識や人格を備えた名判官」への憧憬があった。これは現代でも同じですね。実際には、そんな裁判官は残念ながらきわめて少数なのですが…。
ほとんどの裁判官は自分で思っているほど常識はなく、なにより「強い者」に歯向かう勇気がありません。まあ、これは、ないものねだりなのかもしれませんが…。
 明治の裁判では、法廷での証言よりも、書証に圧倒的な重点が置かれていました。法廷では偽証が多いと思われていたのです。
 それにしても、法廷で弁護士そして当事者が証人に直接尋問できなかったというのは驚きです。ただし、今もヨーロッパでは裁判官しか尋問できないという国があると聞いた気がします。フランスだったかと思いますが、これは間違っているでしょうか…。そうだとすると、日本の弁護士にとって不可欠な反対尋問ができないというわけですから、完全な欲求不満に陥ってしまいますよね。
 ということで、面白く370頁もの学術書を読み通しました。
(2022年3月刊。7700円+税)

「真実を求めて」

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 布川事件の国賠訴訟を支援する会 、 自費出版
 冤罪・布川(ふかわ)事件の国賠訴訟をふり返った記録集です。A4版、75頁の記録集ですが、内容も体裁(編集)も実に素晴らしい出来上がりで、心より感動しました。桜井昌司さんの冒頭の「最後のご挨拶になりました」にも心を打たれます。
「不良少年」だった20歳のときに逮捕されて有罪となり、以来、54年間に及ぶ国家権力との「仁義なき闘い」を勝ち抜いた桜井さんに対して心から拍手を送ります。桜井さんは「挨拶」のなかで「末期がんで余命1年を宣告」されたとのことですが、いえいえまだ元気で全国を駆けめぐっています。
 最近は飯塚事件(すでに死刑執行ずみ)の再審請求で福岡まで来られたようです。
 「皆さん、本当にありがとうございました。54年間に及んだ闘いは愉しかったです。皆さんとお会いできたことが人生の宝です」
心にしみる挨拶文です。桜井さんとコンビを組んで冤罪を晴らすために闘っていた杉山さんは病死されましたが、杉山さんのお墓まいりの写真も紹介されています。
 写真といえば、桜井さんは2012年から2014年にかけて四国巡礼したようで、巡礼服の桜井さんが記録集の各所で紹介されていて、これまた心をなごませます。
 単なる活動記録集になっていないのは、「支援する会」の代表委員でもある豊崎七絵・九大法学研究院教授の講演と弁護団の谷萩陽一団長の報告が紹介されていることから、布川事件の闘いの意義、そして国賠訴訟が切り拓いた意義を確認することができます。
まずは豊崎教授の講演です。教授は、布川事件の闘いの意義は三つ。第一に、松川・白鳥(しらとり)、八海(やかい)、そして仁保(にほ)事件という、戦後の著名な冤罪事件の闘いを継承しつつ、それらを上回って、再審・国賠を闘い抜いたうえ、大変筋の通った勝ち方をした。第二に、他の冤罪事件にとって偉大なる道しるべになったこと、桜井さんが結び目(結節点)となっていること。第三に、不備の多い再審法改正の立法事実を示したこと。
 最後に、教授は今後の課題として三つをあげています。その一は、裁判所が冤罪の原因と責任の所在を明らかにするのをためらってはいけない。その二は、冤罪の責任は、警察と検察だけでなく、裁判官にもあること。その三は、冤罪の原因と責任を究明する仕組みを立法で設けること。
 いやあ、すばらしい指摘です。いずれも大賛成です。多くの裁判官は検察官の顔色をうかがうばかりで本当に勇気がありません。残念です。たまに気骨のある裁判官に出会うと、ほっと救われた気がしますが、本当にたまにです。
 続いて谷萩弁護士の報告です。国賠訴訟の判決は検察官には手持ち証拠を全部開示する義務があるとした。このことを高く評価しています。本当にそうです。検察官が私物化していいはずはありません。洪水でなくなったとか、嘘を言って提出しないなんて、公益の代表者として許されていいはずがありません。証拠を隠した検察官は職務濫用として免官のうえ処罰されるべきです。そして、最後に谷萩弁護団長は、桜井さんが本当にがんばったし、弁護団も支援する会もがんばったけれど、裁判官(遠藤浩太郎判事)に恵まれたとしています。裁判官の良心を奪い立たせるほどの運動と取組があったということでしょうね。本当に、裁判は裁判官次第だというのは、日頃の私の強く実感するところです。
 この記録集のなかには私のメッセージも載っています。本当に読みやすい体裁でもありますので、みなさん手にとって読んでみてください。桜井さん、本当にお疲れさまでした。引き続き、冤罪犠牲者の会でもがんばってください。
(2023年4月刊。非売品)

南風に乗る

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 柳 広司 、 出版 小学館
 沖縄の戦後の歩みが生き生きと紹介されている本です。アメリカ軍の支配下にあった沖縄で、沖縄の人々は本当に泣かされていました。少女を強姦しても、人々を殺してもアメリカ兵はまともな裁判にかけられることもなく、アメリカ本土に逃げてそれっきり…。日本に裁判権がないのは、昔も今も実質的に変わりません。そして、目先のお金につられ、また脅されて、アメリカの言いなりの人々が少なくないのも現実です。
 今、沖縄の島々に、自衛隊がミサイル基地を設置し、弾薬庫を増設し、司令部は地下へ潜り込もうとしています。島民はいざとなったら、九州へ逃げろというのですが、いったいどうやって九州へ行くのですか。また、九州のどこに行ったらいいというのでしょうか。
 軍隊は国民を守るものではない。軍隊は軍隊しか守らない。むしろ、軍隊にとって国民は邪魔な存在でしかない。沖縄戦のとき、先に洞窟にたどり着いていた人を遅れてやってきた軍隊が戦火の中へ追い出した。
 ところで、この本のタイトルは何と読んだらいいのでしょうか…。「まぜ」と読むそうです。文字どおり南からの風のこと。マは「良」ですから、「良い風」でもあります。
 この本に登場してくる主要な人物は3人。まず、ビンボー詩人の山之口獏(ばく)。沖縄出身の天才詩人で、日本語で書いた詩がフランスで賞をとったそうです。2人目は瀬長亀次郎。戦前、川崎市で働いているうちに治安維持法違反で逮捕され、懲役3年となり服役。終戦時は沖縄にいて、避難しているうちにひどい栄養失調になって入院した。
 戦後の沖縄はアメリカ軍政下にあり、アメリカ軍の少佐はこう言った。「アメリカ軍はネコで沖縄はネズミ。ネコが許す範囲でしか、ネズミは遊ぶことができない」
 これって、今の日本でも本質的に同じですよね…。オスプレイを押しつけられ、佐賀空港の隣に基地ができるなんて、たまりません。
カメジローは、1952年3月の立法院議員に立候補し、那覇区でトップ当選。そして、琉球政府創立式典のとき、カメジローは、ただ1人、起立せず、さらにアメリカ軍民政府への協力宣誓を拒否した。
 いやあ偉いです。勇気があります。君が代斉唱の拒否どころではありません。
カメジローは、演説中は一切メモを見ない。終始、聴衆に自分の言葉で話しかける。独特のユーモアと明るさ、庶民性を兼ねそなえている。カメジローの演説は聴き手にとって、胸のすく思いのする、またとない娯楽だった。
「海の向うから来て、沖縄の土を、水を、そして沖縄の土地を勝手に奪っているアメリカは、泥棒だ。泥棒はアメリカにはいらない。アメリカは沖縄から出ていけ」
 アメリカ軍政下の沖縄です。ユニーク、かつ大胆なカメジローの演説は聴衆のどぎもを抜いた。
沖縄では、アメリカ兵がどんな重大犯罪を犯しても、日本の法廷で裁かれることはなく、非公開の軍事法廷で裁かれ、判決結果は公表されず、被害者へ知らされることもない。殺され損の泣き寝入り。これは本質的には今も変わらない。アメリカ軍に代わって日本政府がなぜか肩代わり補償するようで、まるで植民地システム。
1954年10月、カメジローは逮捕された。容疑は犯人隠匿(いんとく)幇助(ほうじょ)。不法滞在の人間を匿ったという罪。沖縄人民党員の活動をアメリカ軍が嫌ったというのが、実質的な逮捕理由。有罪となり、直ちに刑務所へ収監。控訴・上告のない一審制。
刑務所から出獄して8ヶ月後、カメジローは那覇市長に当選。アメリカ軍は、カメジロー市長の那覇市にはお金を支給しないと宣言。すると、那覇市民は、自らすすんで納税にやってきた。500メートルもの市民の行列ができ、納税率はなんと97%。銀行が税金の預りを拒否したため、大型金庫を買って、職員が交代で番をした。日本全国から5千通をこえる応援の手紙が届いた。いやあ、泣けてきますよね。アメリカ軍の言いなりにならない、我らがカメジロー市長を応援しようと心ある市民が立ち上がったのです。
そして、ついに市長不信任が可決。するとカメジロー市長は議会を解散して選挙へ。その結果は、カメジロー派の議員が6人から12人に倍増。反カメジロー派は7議席も減らした。
そこでアメリカ軍政府は、カメジロー市長を追放し、被選挙権まで奪った。このときの市長追放抗議市民集会には10万人をこえる市民が集まった。この集会でカメジローは勝利を宣言した。
「セナガは勝ちました。アメリカが負けたのです」
市民が投票で選んだ市長を、アメリカの任命した高等弁務官の意にそわないからといって追放するだなんて、「民主主義の国、アメリカ」が泣きますよね…。でもこれがアメリカという国の、今も変わらない本質だと私は思います。
カメジローの不屈な戦いは、岸田政権のJアラートを頻発し、「北朝鮮は怖いぞ、怖いぞ」と思わせて大軍拡路線に突っ走っている現代日本で、待って待って、と声を上げ、平和を守ってともに闘いましょうという勇気をわき立たせてくれました。思わず元気の湧いてくる本です。ぜひ、あなたにご一読をおすすめします。
(2023年3月刊。1800円+税)

長崎と天草の潜伏キリシタン

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 安高 啓助 、 出版 雄山閣
 天草地方とキリシタン・島原天草一揆についての知見を深めることができました。
 この本によると、島原天草一揆への参加をめぐってキリシタン内部は分裂状態となり、一揆に参加しなかったキリシタンが「潜伏キリシタン」になっていったとのこと。
 そして「潜伏キリシタン」たちは洗礼名をもちながらも、絵踏をしたため、幕府から禁じられたキリスト教(耶蘇宗門)ではなく、別の宗教「異教」だとされた。彼らは仏教徒として寺情制度に従っていて、地域社会の構成員となった。
 文化2(1805)年の天草崩れで、5205人が検挙されたものの、「非キリシタン」の仏教徒と判断され、厳刑に処された者はおらず、差免(放免)となった。
 天草にキリスト教を伝えた宣教師のアルメイダは、育児院や病院を開設した。現世利益を重んじる人々は、そのおかげで助かりこぞってキリスト教に入信した。
アルメイダはマカオで司祭に叙せられたあと、天草に戻り、1583(天正11)年に天草で亡くなった。
 一揆当時の天草は、唐津藩の飛び地だった。
 キリシタン大名として有名な高山右近は豊臣秀吉から追放されたあと、同じくキリシタン大名だった小西行長を頼って天草へやってきた。高山右近が隠れて住んでいることがバレてしまい、結局、フィリピンへ渡っていった。
天草における一揆勢と果敢に戦い、ついには戦死した三宅藤兵衛重利は明智光秀の外孫にあたり、また細川忠利、熊本藩主と従兄弟(イトコ)の関係にあった。唐津軍は一揆勢と戦うなかで苦戦を強いられ、ついに藤兵衛は戦死してしまった。
 一揆勢は唐津軍と戦うとき、「鉄砲いくさ」の状況だった。次第に一揆勢が優勢となり、唐津軍は後退していった。
 開戦前は一揆勢に味方しなかった村人も、一揆勢の勢いと唐津軍の敗走を目のあたりにすると、続々と一揆勢に加わった。天草島内の百姓たちは戦況を見極め、優勢なほうにつこうとした。戦力としては上回る唐津軍に対して一揆勢が優勢になったのは、一揆勢の巧みな鉄砲術と強固な結束力によるところが大きい。
 一揆に敗退した藤兵衛について立派な墓が建立されたのは、幕府側から見た天草一揆としての位置付けによる。藤兵衛は、いわば「正義の名将」と昇華したようだ。
江戸時代、天草は流人処分の地とされた。江戸からの流人は一度で50人から100人ほどの大勢がやってきた。寛文4(1664)年から享保元(1716)年までに、天草には139人の流人が連れてこられた。いやあ、これはちっとも知りませんでした。流人といったら、八丈島などの遠い島々かと誤解していました。
知らない話がたくさん出てきて、面白くかつ知的刺激を受ける本でした。
 
(2023年1月刊。3520円+税)

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