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すてきな地球の果て

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 田辺 優貴子 、 出版 ポプラ社
 夏は北極、冬は南極、そして春と秋は東京で生活するという植物生理生態学者のレポートです。写真もたっぷりあって、うらやましい限りです。植物の生理生態を研究するには野外調査が必要だというのは分かりますが、北極にも南極にも行ったなんて、すごすぎます。
 南極には、2007年、2009年、2011年と3回も行ったのです。著者は、身内が遺伝性の難病をかかえていることから、「好きなことをして生きていく」と決断し、実行しています。
自分の足で、見たこともない場所に行って、匂い、音、温度、湿度、色、風の流れ、季節の移り変わり、その全部を自分の身体で知りたい、体得したいということです。旅するって、そういうことですよね。
 私は、離婚して傷心の依頼者に対して、遠くへ旅行することをいつも勧めています。北海道、それも利尻島なんていいですよね。私もまだ行っていませんので、ぜひ行ってみたいです。
 青森出身の著者は大学を京都で過ごし、ペルーに出かけた。そして、大学を休学してアラスカに出かけた。アラスカでオーロラを体験。
 そして、大学院のとき、京都を出発し、自転車で青森に向かった。ときは5月。2004年5月のこと。京都を出発して15日目、ついに秋田と青森の県境に至った。その日は、海岸沿いで寝ることにした。コンロを出し、スーパーで買ったウィンナーをコッヘルで焼き、おにぎりと一緒に食べた。
目の前の日本海が荒々しく並の音をとどろかせている。海からの強い風が顔にまっすぐ吹きつける。空には雲ひとつない。太陽が水平線にどんどん近づいていき、波で削られたゴツゴツの奇岩群が真っ赤に染まっていた。その赤い大きな岩々になんども荒波がぶつかっては、砕けたしぶきを水平線に沈む夕陽がオレンジ色に染め上げた。それを見て、なんだか涙がこみ上げ、あふれそうになった。
 バックパッカーとして世界を旅した女性のこまやかな観察が文章によくあらわれていると思いました。うらやましいというか、自分には、とてもこんな勇気はないなと思いつつ、ひたすら没入しました。
(2013年8月刊。1500円+税)

江戸の絵本読解マニュアル

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 叢の会 、 出版 文学通信
 江戸時代については、それなりに知っているつもりでしたが、草双子(くさぞうし)は聞いたことがあるくらいで、詳しいことは知りませんでした。この本によって、草双子の魅力をたっぷり味わうことができました。
 京都・大坂の上方(かみがた)を追いかけ、文化を発展させてきた江戸は、上方とは異なる独自の性格をもつ「絵本」をつくり出した。それが草双子。
 草双子は版本(はんぽん)。1枚の桜の木の板に文字と絵を掘りつけた版木(はんぎ)を使って刷り、製本する。作者が文章を書き、画工が絵を書き、それを彫師が板に彫って版木をつくる。その版木に墨を付けて和紙に刷るのが刷師。刷り上がった紙を半分に折って丁合を取り、表紙と裏表紙を付けて和綴じ、袋綴じをする。こうした一連の作業をプロデュースしているのが版元。
 江戸時代前期には、近世文学の仮名草紙と浮世双子が絵入り本、上方絵本と武者絵本は全ページに絵が入る絵草紙として出版された。少し遅れて江戸時代の中期初めころ、江戸で草双子が出版されはじめた。
 赤小本、赤本、墨本、青本と、表紙の色で区別されて呼ばれている。やがて安永期に黄表紙群が登場し、草双子は転換期を迎えた。
 たとえば「桃太郎」の話。江戸時代にもよく知られた昔話だった。そして草双子では、桃太郎のライバルとして柿太郎を登場させ、両者は鬼退治を競う。柿太郎のほうが一足先に鬼退治に向かうが、鬼にやっつけられてその子分となり、やってきた桃太郎と戦う。桃太郎にはかなわず、桃太郎が鬼を退治すると、柿太郎は桃太郎の家来になった。
 草双紙では、登場人物が誰なのか、顔立ちや着物の紋様で描き分けるか、袖や着物の裾に文字を書き込んで人物を示す手法も多用される。これは分かりやすいですよね。
 江戸中期、初期の草双紙に登場する化物(ばけもの)たちは、子どもから大人まで親しみやすい存在、「愛されキャラ」の化物だった。
 普段から身の回りで使用している器物に手足をつけ、顔を描いたりもしている。化物を擬人化して、当時の風習や流行を取り入れ、紹介している。続く黄表紙の時代では、化物の世界を面白おかしく想像し、ユーモアたっぷりの笑いのタネとして、化物のパロディーが描かれた。
 坂田金平(きんぴら)や鎌田又八は、当時の歌舞伎でも演じられる人気の勇者であり、こうした人気ヒーローが巨大な化物を退治していく話が草双紙で人気を呼んだ。これは最近の「鬼滅の刃」と同じようなものだ。
 草双紙には、読者の旅行への「お出かけ心」をくすぐる仕掛けがしつらえられているものが少なくなかった。日本人は昔から旅行が大好きなんですよね…。
 江戸時代は、人々が古典文学に出会い、求めた時代だった。それまで貴族や学者など、一部の人々のあいだで書き写され伝えられてきた作品が、出版文化が花開いたことから、広く人々が手に取れるようになった。
 『源氏物語』は、その代表作であり、リメイクやパロディーものなど、二次創作も盛んで、原作同様に楽しまれた。福岡の小林洋二弁護士も『源氏物語』オタクのようです。
 中国の『三国志』も江戸で大人気の作品でした。
 江戸時代の人々の豊かな活字文化の一端を知ることができました。
(2023年4月刊。2100円+税)

無一文「人力」世界一周の旅

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 岩崎 圭一 、 出版 幻冬舎
 著者は28歳のとき、こう思った。「このままでは人生があっという間に終わってしまう。働いてお金を稼ぐより、自分のやりたいことを優先したい」
 その夢は、世界中を自分の目で見て回ること。著者のすごいところは、あえて「無一文」になって旅を続けたというところです。その無謀さと勇気に思わず息を吞みました。
 著者が出発したのは2001年4月のこと。まずは東京の新宿で1ヶ月半、ホームレス生活をした。その後、9ヶ月間かけて全国47都道府県をヒッチハイクでまわった。無一文なので沖縄に渡るときは、貨物船に乗り込み、何でも下働きの仕事をするから乗せてほしいとという条件を申し出た。
 ヒッチハイクしているときは、不潔感を漂わせないようにヒゲをそり、水道で体を洗えるところでは体を洗った。そうなんです。何ヶ月も風呂に入らず、シャワーも浴びないホームレス生活の人からは、なんともいえない異臭があり、同室はとても耐えられません。
 2002年3月、韓国へ渡った。知人のくれた船のチケットで釜山に行く。そして、コトバも通じないのに、韓国でもヒッチハイク。そして、次は中国は渡る。いやはや、なんという度胸でしょうか。
 中国で安い自転車を買い求め、自転車で南下していきます。3ヶ月以上かけてベトナムに到着。よほど身体が頑強なのでしょうね・・・。
 タイでママチャリ(自転車)の2台目を購入。そしてシンガポールへ。次は、チベットに入る。朝食はビスケットにたっぷりの蜂蜜を塗ったものを食べる。ここで、日本人の同行者が出来る。
 インドに入ったのは2003年11月のこと。ネパールに入ってから、著者は路上で手品の芸を演じ、もらった投げ銭を収入とするようになった。この手品ができるという一芸は著者の旅を大いに助けたようです。それも、最後には、なんとイギリスの人気オーディション番組(テレビ)「ブリテンズ・ゴット・タレント」で日本人初めてのゴールデンブザーを獲得したのです。2022年1月のこと。著者は29歳で日本を出発して20年たち、50歳になろうとしていました。途中の大事な話が抜けていました。2005年5月にはエベレストの登頂を達成しているのです。これまたすごいことです。
 エベレストに登るには300万円ほどの料金を支払わなければいけません。そのうえ、もちろん装備もきちんとしておく必要があります。友人が日本でカンパを集めてくれたとのことです。
 前から気になっていたのですが、こんな高山で、しかも冷凍庫なみに寒い中、トイレはどうしているのか・・・。床のない小さなテントの下に樽を置き、そこに用を足す。この樽が一杯になると、それを担いで下まで運ぶ人がいる。恐らく、極寒ですから、それほど悪臭はしないのでしょうが、これって大変なことですよね。
 エベレストの頂上は8848メートル、そこで写真を撮って15分ほどで下山を開始。よほど運も良かったのでしょう。
今や著者は51歳、日本を離れて21年間、一度も日本に戻っていないとのこと。まさに国際人ですね。元気の出てくる旅行記でした。
(2023年6月刊。1800円+税)

新・弁護士読本

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 才口 千晴 、 出版 商事法務
 著者は「倒産弁護士」として有名でした。なので、倒産法改正にも深く関わっています。法制審議会の倒産法部会のメンバーとして1996年10月から2004年11月までの8年間に、破産法の改正、民事再生法の制定等に大きな役割を果たしたのです。私も民事再生法の個人版の制定にあたっては、日弁連の委員会のメンバーとして、意見を口頭そして書面で積極的に開陳し、資料を提供し続けました。なにしろ、年間20万人以上もの自己破産申立があっていたころのことです。民事再生個人版の申立はもう少し多いかと予測していましたが、案に相違して、それほど多くはありませんでした。それでも最近、久しぶりに1件だけ申立したところ、なんとか認可されました。
 「倒産弁護士」のあと、著者は最高裁判事となり4年8ヶ月間つとめました。いくつも少数意見を書いたようです。泉徳治判事(現弁護士)と同じ第一小法廷に所属していました。
 キャリア裁判官は、結論を定めて理由付をする。これは、なるほど、そうだろうなというのが私の実感でもあります。結論が決まっていれば、その理由はいくらでも書けるものなのです。
 それにしても、最近の最高裁判決はひどいです。ひどすぎます。再審を認めなかった鹿児島の大崎事件なんて、鴨志田弁護士が結論を聞いて卒倒したそうですが、その悔しさはよく分かります。沖縄の辺野古埋立をめぐる一連の裁判にしても司法権の独立なんて、どこに行ったのか…と、泣くしかありません。これも、大先輩の田中耕太郎という元長官が砂川事件の最高裁判決を出すにあたって実質当事者であるアメリカ大使に評議内容を洩らし、その指示をあおいでいたことが明るみになっても、田中耕太郎の処分すらしない卑屈さをひきずっているからでしょう。情けない限りです。
 さて、著者は、この本によって、後進の弁護士に弁護士とは何者か、どうあるべきかを説いています。含蓄ある内容です。しかも、弁護士は10年で一人前になるということを前提として、それぞれの経験年数の弁護士からの質問に著者の経験をふまえて答えるというパターンですので、とても読みやすくなっています。
 後輩弁護士を指導するときのポイントは三つ。
 その一、後輩の疑問や意見によく耳を傾け、積極的に理解するよう努める。ただし、安易に迎合はしない。
 その二、自分の考えを後輩に押しつけない。
 その三、指導は簡潔・明確とする。
 チーム・リーダーを養成しようとするには、意欲と実行がポイント。弁護士にとって愛嬌のあることは大切なこと。依頼者に親しみの心をもって事件に真剣に取り組み、紛争を解決して心を安らかにしてあげることは弁護士の職務であり、使命。心の温かさ、真剣かつ人間的な姿を一言で表すと愛嬌になる。
 著者はストレスを抱えながら仕事をしてはいけないと断言します。いつもフレッシュな身体でいなければならない。そのためには、重たい仕事、苦しい仕事をまず処理すること。そして、仕事の悪循環を避けること。なーるほどですよね。でも、言うは易くなんです…。
 「危ない事件」からはできる限り速くひく。度胸を決め、必要な筋を通し、将来に禍根を残さない。預かった資料やお金をすぐに返却して、決然と辞任する。
 うむむ、これが難物なんですよね。でも、本当にそうなのです。悪いしがらみからさっと脱け出し、新天地で心機も一転バリバリとやるのかストレスをためないコツです。
 私よりひとまわり年長の著者は、85歳になっても以前と変わらず意気軒高そのもの。私も見習って、うしろからついていきます。
 今後ともお元気にご活躍されることを心より祈念します。
(2023年9月刊。2200円+税)

徳川家康と武田勝頼

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 幻冬舎新書
『どうする家康』の時代考証も担当している気鋭の歴史学者による新書なので、論旨は明解、切れ味の良さに心地よいばかりです。
徳川家康の生涯において、最も苦難を強いられた敵は、武田氏。武田信玄と勝頼父子だ。信玄との抗争は、わずか半年あまりで信玄の死によって終了したが、その子・勝頼の度重なる襲来によって、家康の危機はさらに深まっていった。
家康にとって、勝頼との抗争のほうが費やした時間も長く、危機の連続だった。家康の本拠地である三河・岡崎の譜代らが勝頼と内通したり、息子・信康や妻(正室)築山殿まで武田氏の調略にあうなど、徳川家中の分裂を引き起こすほどの重大事態に陥った。家康にとって勝頼は、信玄以上の脅威であり、徳川氏単独では、手も足も出なかった。  
徳川家康と武田信玄は元亀1(1570)年までは甲三同盟を結ぶ同盟国だった。元亀3年、武田信玄は突如として、徳川家康の領地に侵攻した。わずか1ヶ月半で、家康は三河と遠江の領国の3分の2を失うという大打撃を受けた。そして、信玄軍の本隊は徳川氏の浜松城に迫った。
武田信玄は元亀4(1573)年4月に53歳の若さで死亡した。
徳川氏は、織田の支援なくして、武田勝頼と戦うことはできなくなっていた。徳川氏の有力は部将である岡崎衆のメンバーは武田氏の調略により、着々と切り崩されていった。家康の子・信康、そして家康の正室の築山殿も武田氏と結んで、家康打倒を謀った。それほど武田氏のほうが家康より強いと思っていたということだ。
長篠合戦のころは徳川家康対武田勝頼の合戦だった。
家康は勝頼をその死ぬまで「大敵」とみなしていた。勝頼は信玄の「バカ息子」ではなかったのです。勝頼は武田家中での権威の確立に腐心しており、信長と家康が顔をそろえた合戦で勝利したら、武田家の御屋形としての地位は不動のものとなると考えたようだ。
 長篠合戦については、織田・徳川連合軍が施いた三重の馬防柵の前に、武田軍の猛将が馬に乗って近づいたところを三段式構えた3千挺の鉄砲によって、武田軍の主要な勇将たちは次々に倒れ、残りは逃げ去ったということになっている(と思います)。ところが、この本によると、徳川軍前面の馬防柵を武田軍は次々に突破していったというのです。まあ、それでも、ついてくる兵力が不足したことから、徳川軍の将兵に取り囲まれて討ちとられていった。そんなドラマがあったのですね…。
 武田氏は、信玄も勝頼(かつより)も、ともに鉄炮(砲)の装備を重視し、その動員強化に躍起になっていた。ただし、このころ、武田氏にとっては、鉄炮そのものというより、玉薬(銃弾と火薬)を手に入れるのがきわめて困難だった。武田軍は、鉛不足に苦しみ、銅銭を鋳(い)つぶしてまで、武田軍は鉄炮玉を確保しようとしていた。
 長篠合戦とは、物量(兵力)と鉄炮が明暗を分けた戦いであった。とはいえ、それは新戦法(織田・家康)と旧戦法ではなかった。そうではなく、物量豊富な西(織田・徳川)と、内陸部にいて、物資の入手が困難な東(武田方)への激突とみるべきもの。
長篠合戦のあと、勝頼の武田家には、主だった武将が亡くなっていて、統計上もごく少ない。長篠合戦後の勝頼の重臣層は、かなり様変わりした。それでも勝頼は、武田軍の再編成につとめ、総兵力1万3千余の軍勢を何とかまとめ上げた。
 ただ、勝頼の新しい軍勢は、実戦経験に乏しく、年齢も12、3歳の若年層が目立つなど、質的低下は明らかだった。 
結局のところ、勝よりは織田信長軍に圧倒されてしまうわけですが、家康が、最後まで勝頼を知恵も勇気もある武将だと高く評価していたことは忘れてはいけないと思います。そして、勝頼亡きあと、武田氏の遺臣の多くは家康の家臣となって、生きのびていったのでした。
 いつものことながら、大変勉強になりました。
(2023年5月刊。980円+税)

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