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その後の慶喜

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著者:家近良樹、出版社:講談社選書メチエ
 徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が死んだのは大正2年(1913年)11月のことでした。明治天皇が死んで1年以上たってのことです。77歳の天寿を畳の上でまっとうしたのです。明治維新になってからは、ずっと勝海舟の監督の下におかれていたそうです。それでも、大正までも生き延びていたことに驚きました。もちろん、政治的な活動は一切許されていません。ですから、ずっと趣味の世界に生きていました。
 徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いに負けると、たちまち部下を捨てて敵前逃亡し、江戸へ逃げ帰りました。ですから、幕府の心ある将兵は、みな将軍慶喜のことを、賢明かもしれないが、果断とは無縁の、ただ自分自身と徳川家の保身をのみ図る臆病者と見限っていました。
 慶喜には「豚一」というあだ名があったそうです。これは、将軍になる前から洋食を好んで食する一橋という意味です。つまり、新しいもの好きで、タブーをもあまり恐れない人間であったということでもあります。慶喜は思いたったら、すぐに行動しないと気がすまない性格でもありました。
 慶喜の子は10男11女います。末子は明治21年に生まれた10男です。この子たちは、植木屋、米屋、石工など、普通の庶民に里子に出しました。庶民の子に子どもを預けた方がたくましく育つだろうという見込みのもとです。といっても、やはり、慶喜が身分格差を重視していなかったことの反映でもあります。
 慶喜の好奇心は並はずれたものがありました。人力車、自転車、電話、蓄音機、自動車などを、いち早くとりいれてつかっているのです。そして、政治的にも社会的にも活躍できなかったこともあって、多彩な趣味の世界にいりびたりました。銃猟、鷹狩、囲碁、投網、鵜飼い、謡い、能、小鼓、洋画、刺しゅう、将棋・・・などです。身体を動かすのを好み、読書(学習)は性にあわなかったそうです。
 慶喜を30年間も静岡に押し込めていた張本人は、勝海舟でした。ひゃあー、勝海舟って、将軍様よりも実権を握っていたのかと不思議な気持ちになりました。
 東京帝大法科を卒業した息子から社会主義についてのレクチャーを受けることもあったようです。大逆事件を報道する新聞を隅から隅まで読み、貴族階級の没落を予想したといいます。将軍の座を追われた慶喜が、平凡ではあるけれど、意外にも充実した人生を過ごしていたことがよく分かる本でした。

夏の椿

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著者:北 重人、出版社:文芸春秋
 江戸時代を舞台とした時代小説。神田川に舟が浮かび、川岸にはしだれ柳が風を受けて揺れている。そんな情景をふつふつと思い描くことができます。
 江戸時代にも地面師がいました。今でいう地上げ屋のことです。貧乏長屋の住人が邪魔なので、浪人をつかってなんとか追い出しを図ります。
 幕府経済を動かしていたのはお米。その米問屋の不審の筋が見えてきます。高利貸しまがいのことをしては、狙った地面を取りあげて利を図るというのです。
 江戸の町人と長屋に住む人々の生活を背景に、殺人事件の謎を周乃助が足を運んで解きほぐしていきます。そこに襲いかかる剣の達人。その素性は何か・・・。
 時代劇に大型新人登場とオビに書かれています。人情物というより、探偵の謎解きという感もありますが、なかなか読ませます。

インチキ科学の解読法

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著者:マーティン・ガードナー、出版社:光文社
 尿療法というのがあります。知っていますか? 朝、起きがけに自分のオシッコをコップ一杯飲むというものです。ええっ、と思いますが、私の知っている弁護士も一時期、その信奉者であり、実践していました(今も、かもしれません)。
 しかし、この本によると、治療に尿素がつかわれているからといって、ヒトの尿を飲んだり注射してもいいなんていう拡大解釈はもってのほか、だそうです。
 フロイト、あの精神分析で有名なフロイトは、重度のコカイン中毒患者だったそうです。そして、その夢理論は実証的な根拠を欠く主観的な推測でしかなかった。睡眠中にテープを聞くのに学習効果があるというのはまったくの嘘。レム睡眠の目的は、シナプスの偶発的な接続を減らすことによって、不要な記憶を消すことにある。そのランダムな処理過程が、必然的に奇怪でナンセンスな光景を捏造するだけなのだ。
 「エホバの証人」は、1914年にハルマゲドンが始まり、あらゆる国々が破壊されたあとに神の王国が建てられると唱えていた。その年が何事もなく過ぎると、その予言の日が1915年へ、さらに1918年に延ばされた。そして、その予言が失敗すると、1975年を再臨の年に選んだ。今では、「その日」を予言することはしていない。
 インチキ科学は日本でも依然として大流行しています。信じる者は救われるといいますが、その流す害毒の方は小さくありません。目を覚ますきっかけになりうる本だと思います。

義経の登場

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著者:保立道久、出版社:NHKブックス
 私と同世代の著者は、頼朝中心史観から脱却すべきだと強調しています。
 たとえば、義経の父は源義朝ですが、母の常磐(ときわ)は身分の低い雑仕女(ぞうしめ)だったとされている常識は間違いだというのです。たしかに常磐は「雑仕」ではあった。しかし、同時に「美女」でもあった。そして、近衛天皇の中宮・九条院呈子(しめこ)に13歳のときから仕えていた。
 保元の乱は後白河天皇と崇徳院との対立であり、平治の乱は後白河の近臣内部の殺しあいだった。義経は常磐にとっては3人目の子ども、22歳。義朝によって最後の男子であった。平治の乱のとき、常磐は九条院と院に属する女房などにとって最大の話題であり、心配の種であった。そこで、平治の乱のあと、平清盛の前に引き出されて常磐は老母の助命と子どもたちの解放を願い、清盛がそれを受けいれ、常磐をいっとき自分の女とした。そのあと、常磐は一条長成と再婚している。
 清盛が頼朝の命を奪わなかったのは、平治の乱のあとの政治状況をふまえて慎重に判断をしてのことであった。そのころ、後白河は清盛の妻・時子の妹の滋子(建春門院)を寵愛していた。そのような状況で、清盛はできる限り穏便に事態を収拾しようとしたのだ。
 ところで、清盛は、後白河上皇と二条天皇の双方に両天秤をかけてもいた。しかし、この後白河上皇と滋子との関係が10年も続いたことによって、清盛と後白河との連携も強まり、平氏政権は絶頂の時期を迎えた。ところが、それは、逆に平氏政権の基礎を掘り崩していく時期でもあった。そして、突然、滋子が35歳で死んだことにより、16歳の高倉天皇に世継ぎの男子がいないことが問題となった。後白河上皇と高倉天皇との父子間対立は、結局、平氏によるクーデターとなった。
 以上、この本を十分に理解できたとは言えませんが、義経を単に判官びいきの視点からではなく、当時の貴族と武家をとりまく社会構造をふまえて多面的に見直すための一つの視座を与えてくれる本ではありました。

馬賊で見る「満州」

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著者:渋谷由里、出版社:講談社選書メチエ
 張作霖の実像を追跡した本です。私が大学2年生のときに生まれた完全な戦後派の著者は、これまでの歴史観から離れて、独自の張作霖像を描き出すことに努めました。その努力はかなり報いられているように思います。ただ、張作霖爆殺事件を引き起こした関東軍内部の動向について、もっと掘り下げてほしいという不満は残りましたが・・・。
 2001年10月に、張作霖の長男の張学良が満100歳でなくなりました。1936年12月の蒋介石を監禁した西安事件の首謀者として有名な張学良は、蒋介石に台湾まで連行され、1990年まで軟禁生活を過ごしていたのです。心身ともにタフだったのですね・・・。
 張作霖は馬賊出身として有名ですが、その馬賊の実態が解明されています。張作霖は身内の援助で「保険隊」を組織した。この「保険隊」は、「保険料」と称するお金を地方の資産家からもらって、その家屋や資産を外敵の襲来から守る自衛組織である。馬賊を社会からの完全脱落者としてのアウトロー集団と位置づけるのは難しい。むしろ、地域社会の底辺層にある人々が社会に食いこみつつ、上昇の機会をうかがうための有効な装置として機能していたものである。張作霖は、内政については王永江にほとんどまかせていて、この王永江が見事に内政を取りしきった。
 張作霖は日本の傀儡(かいらい)政権であったか否か、著者は否定的に見ています。張作霖の軍事顧問として日本軍から送りこまれた日本人(町野武馬や松井七夫)は、日本側の利益より中国の利益第一で意見を述べていました。ですから、日本軍の上層部は、これらの軍事顧問を嫌ったほどです。
 河本大作ら一部の関東軍将校が張作霖を1928年6月4日に爆殺しました。これは鉄道権益を中心に物事を考えたことによるもので、周到かつ極秘裏に暗殺計画はすすめられました。しかし、河本大作らは張作霖本人を殺したかどうかすぐには分からず、ウロウロしているあいだに息子の張学良への政権移譲が完成してしまったのです。
 要するに、張作霖は単なる馬賊ではなかったということです。なるほどですね。そんなに単純な人物でないことがよく分かりました。

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